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五段目
敵の陣屋の場〈壱〉
しおりを挟むしばらくして、駕籠舁きの脚が止まった。
垂れていた筵が捲られ、舞ひつるの目に宵闇の漆黒が入ってくる。
年嵩の方の駕籠舁きから「姐さん、降りてくんな」と促され、駕籠から出た。
ゆっくりと立ち上がったが、身体はまだ揺れているままの感覚らしく、くらりと目眩がする。すかさず、若い方の駕籠舁きが支えてくれた。
目の前で、柳の木の枝が緩い夜風に乗ってゆらゆらと揺れているのが見える。吉原の客が妓を名残惜しげに振り返る「見返り柳」だった。
その名のとおり振り返ると、吉原の廓の周囲を流れるお歯黒どぶの跳ね橋が、ゆっくりと上がっていく処であった。唯一の出入り口だ。
どうやら、手を回したのであろう。舞ひつるの乗った駕籠が通り過ぎるまで、跳ね橋を閉じずにいたらしい。久喜萬字屋のお内儀がやけに急いでいた理由はそこにもあったようだ。
舞ひつるはいつの間にか、朱色に彩られた二本の柱に黒い屋根を乗せた鏑木門の大門からも、すでに出ていた。
——もう二度と……あの門を潜って「向こう側」へ行くことはない。
その刹那、舞ひつるは、ぶるり、と震えた。今になって足元からぞわぞわと「怖気」が出てきたのだ。
ほかの者がなんと云おうとも、吉原は舞ひつるにとって「故郷」であった。
たとえ四方を汚水の流れるどぶに囲まれた「苦界」であろうとも、舞ひつるは生まれてこの方、その地しか知らない。
——わっちは……本当に……吉原を出て行っても、やっていけなんしかえ……
「姐さん、おいらたちゃ此処までだ。こっから先ゃ……あすこの舟に乗ってくんな」
年嵩の方の駕籠舁きが顎をしゃくって差し示した先には、船頭が一人乗った小舟が浮かんでいた。猪牙舟だ。
舟の舳先が猪の牙に似ていることからさように呼ばれている猪牙舟は、小回りが利く上に足が速いため、堀を進むにはもってこいの小舟である。これからこの猪牙舟で山谷堀を出たあと、大川(隅田川)に入ると云う寸法であろう。
舞ひつるは此処まで世話になった駕籠舁きたちに頭を下げると、袂の中をまさぐって巾着を出した。心付けを渡そうと思ったからだ。
ところが……
「お代はお内儀さんにもらってっから、そいつぁ懐にしめぇな」
年嵩の駕籠舁きはさように云うと、
「お内儀から、おめぇさんに渡してくれって頼まれたのよ」
逆に、ずしりと重い大きめの巾着を手渡された。
紐を解いて中を検めると、さらに三つの袋に小分けされていて、一つを開くと二分金を頭に一分金・二分銀・一分銀が見えた。
さらに、二つめの袋には二朱金・一朱金・二朱銀・一朱銀、そして最後の袋には日々の暮らしの中で使い勝手の良い一文銭・四文銭などの銭がびっしりと詰められていた。
お内儀からの、せめてもの餞であった。今まで見世のために精進してくれた、舞ひつるへの「礼」でもある。
これから向かう先がどんな処かはわからないが、銭を持っていて困るということはないだろう。
舞ひつるはありがたく受け取った。
「おいらたちゃ、確かにおめぇさんに渡したっからな。お内儀を怒らせて廓に睨まれちゃ、これから先おまんまの喰い上げになっちまうからよ」
かような大金をお内儀から持たされて舞ひつるの「夜逃げ」に加担するだけあって、この駕籠舁きたちはちゃんと心得ていた。
舞ひつるは再び、されども先刻よりもずっと深く頭を下げる。
そして、ずしりと重い巾着を胸に抱いて、船頭の待つ猪牙舟へと向かった。
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