39 / 129
四段目
逢引の場〈肆〉
しおりを挟む舞ひつるは、あまりのことに声を忘れた。
確かに、身請けされることは聞いていた。
されども、まさか——今日のこの日だとは、思いもよらなかった。
——なにかの間違いではなんしかえ……
「あたしもさ、急な話でおまえさんには申し訳ないとは思ってんだよ。だけどさ……宵闇に紛れて吉原を出るにゃ、今夜が一番都合が良いんだよ」
廓内は流石に寝静まっているが、夜空に花火が打ち上げられ、川岸に料理茶屋から出された納涼船がずらりと浮かぶ「川開き」の初日は、老いも若きも、お武家も町家も百姓も、身を変装してそぞろ歩く「お祭り」だ。
そのため、いつもは刻がくれば情け容赦なく閉めてしまう木戸番も、本日は「無礼講」とばかり思うままに出入りさせていた。
よって、夜更けであろうとまるで昼間のごとく江戸じゅうを縦横無尽に動けるのだ。
「お内儀さん、後生でなんし。せめて、あと半刻……いえ、四半刻でも……」
ようやく声を取り戻した舞ひつるは、身を投げ出すように畳に額を擦りつけ、伏して嘆願した。
「そりゃあ……おまえさんが今までに世話になった者たちに、最後に一言挨拶したい心持ちは判るけどね……」
舞ひつるのさような姿に、気丈なお内儀もつい本来のおつたの顔が出てしまい、困り果てた末の苦り切った顔になる。
「先達ても云ったっけどさ。あちらさんとの取り決めで、あたしらはなにもかも口止めされてんだよ……」
舞ひつるは、子ども屋から引き取って以来、我が子と同じように育ててきたおなごだ。久喜萬字屋の呼出だった、母親の胡蝶も知っている。
おつたとて、こないに早う舞ひつるを手放す日が来るなど思わなかった。
「舞ひつる……どうか堪忍しとくれ」
おつたは、舞ひつるに手を合わせた。
しばし、さようなおつたの姿を見つめたあと、舞ひつるは重い息を吐き出した。
そして、きちっと三つ指をついて、
「お内儀さん、今までお世話になりなんして、誠にありがたきことでありんした」
ゆっくりと頭を下げた。
「此れぞ、久喜萬字屋の振袖新造」と云う嫋やかなお辞儀であった。
ここまで、衣食住に心配することなく、歌舞音曲の芸事はもちろん、和漢籍の学問まで身につけさせてくれたのは、おつたである。
せめて、大恩あるこの人に御礼を述べて最後の挨拶ができるだけでも、ありがたいと思わねばならぬかもしれない。
世の中には、どうにもならないことがある、というのは——かようなことなのかもしれぬ。
舞ひつるは、すっ、と立ち上がった。そして、黄八丈の上前を整えると、背筋を伸ばして襖に隔たれた出口へと歩んだ。
「あぁ……舞ひつる、お待ち」
なぜか、おつたが引き止めた。
不思議に思って舞ひつるが振り向くと、
「おまえさんとは、これで今生の別れになるとは思うがね」
舞ひつるを説得して安堵したはずのおつたの顔が、今までに見たことがないほど強張っていた。
「あたしらは……たとえ会えなくなっても、一蓮托生だっつうことを決して忘れるんじゃないよ」
——わっちが此処を出なんしてもかえ。
流石に訝しげな面持ちになった舞ひつるに、
「いいかい、此処を出たら金輪際、廓言葉を遣うのは御法度だからね」
おつたは、きっぱりと告げた。
「向こうでは、おまえさんが廓の妓だったっつうことを……絶対に知られないようにしとくれよ」
さようなことは、吉原を出るからには至極当然のことであった。娑婆ではやはり「苦界」と呼ばれる地で咲いた徒花を、快く思わぬ者がいるからだ。
またそれは、同じおなごに多いと聞く。
とは云え、産湯を使ったときから吉原にいる舞ひつるにとっては、至難の技であろうが。
舞ひつるは「承知しなんした」と云いかけ……それが廓言葉であったと思い直し……
結局は、大きく首を縦に肯くだけになった。前途はなかなか厳しそうだ。
そして、今度こそ襖を開けて部屋の外に出た。
0
お気に入りに追加
77
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
大江戸ロミオ&ジュリエット
佐倉 蘭
歴史・時代
★第2回ベリーズカフェ恋愛ファンタジー小説大賞 最終選考作品★
公方(将軍)様のお膝元、江戸の町を守るのは犬猿の仲の「北町奉行所」と「南町奉行所」。
関係改善のため北町奉行所の「北町小町」志鶴と南町奉行所の「浮世絵与力」松波 多聞の縁組が御奉行様より命じられる。
だが、志鶴は父から「三年、辛抱せよ」と言われ、出戻れば胸に秘めた身分違いの恋しい人と夫婦になれると思い、意に添わぬ祝言を挙げる決意をしたのだった……
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
紀伊国屋文左衛門の白い玉
家紋武範
歴史・時代
紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。
そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。
しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。
金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。
下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。
超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる