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四段目
逢引の場〈肆〉
しおりを挟む舞ひつるは、あまりのことに声を忘れた。
確かに、身請けされることは聞いていた。
されども、まさか——今日のこの日だとは、思いもよらなかった。
——なにかの間違いではなんしかえ……
「あたしもさ、急な話でおまえさんには申し訳ないとは思ってんだよ。だけどさ……宵闇に紛れて吉原を出るにゃ、今夜が一番都合が良いんだよ」
廓内は流石に寝静まっているが、夜空に花火が打ち上げられ、川岸に料理茶屋から出された納涼船がずらりと浮かぶ「川開き」の初日は、老いも若きも、お武家も町家も百姓も、身を変装してそぞろ歩く「お祭り」だ。
そのため、いつもは刻がくれば情け容赦なく閉めてしまう木戸番も、本日は「無礼講」とばかり思うままに出入りさせていた。
よって、夜更けであろうとまるで昼間のごとく江戸じゅうを縦横無尽に動けるのだ。
「お内儀さん、後生でなんし。せめて、あと半刻……いえ、四半刻でも……」
ようやく声を取り戻した舞ひつるは、身を投げ出すように畳に額を擦りつけ、伏して嘆願した。
「そりゃあ……おまえさんが今までに世話になった者たちに、最後に一言挨拶したい心持ちは判るけどね……」
舞ひつるのさような姿に、気丈なお内儀もつい本来のおつたの顔が出てしまい、困り果てた末の苦り切った顔になる。
「先達ても云ったっけどさ。あちらさんとの取り決めで、あたしらはなにもかも口止めされてんだよ……」
舞ひつるは、子ども屋から引き取って以来、我が子と同じように育ててきたおなごだ。久喜萬字屋の呼出だった、母親の胡蝶も知っている。
おつたとて、こないに早う舞ひつるを手放す日が来るなど思わなかった。
「舞ひつる……どうか堪忍しとくれ」
おつたは、舞ひつるに手を合わせた。
しばし、さようなおつたの姿を見つめたあと、舞ひつるは重い息を吐き出した。
そして、きちっと三つ指をついて、
「お内儀さん、今までお世話になりなんして、誠にありがたきことでありんした」
ゆっくりと頭を下げた。
「此れぞ、久喜萬字屋の振袖新造」と云う嫋やかなお辞儀であった。
ここまで、衣食住に心配することなく、歌舞音曲の芸事はもちろん、和漢籍の学問まで身につけさせてくれたのは、おつたである。
せめて、大恩あるこの人に御礼を述べて最後の挨拶ができるだけでも、ありがたいと思わねばならぬかもしれない。
世の中には、どうにもならないことがある、というのは——かようなことなのかもしれぬ。
舞ひつるは、すっ、と立ち上がった。そして、黄八丈の上前を整えると、背筋を伸ばして襖に隔たれた出口へと歩んだ。
「あぁ……舞ひつる、お待ち」
なぜか、おつたが引き止めた。
不思議に思って舞ひつるが振り向くと、
「おまえさんとは、これで今生の別れになるとは思うがね」
舞ひつるを説得して安堵したはずのおつたの顔が、今までに見たことがないほど強張っていた。
「あたしらは……たとえ会えなくなっても、一蓮托生だっつうことを決して忘れるんじゃないよ」
——わっちが此処を出なんしてもかえ。
流石に訝しげな面持ちになった舞ひつるに、
「いいかい、此処を出たら金輪際、廓言葉を遣うのは御法度だからね」
おつたは、きっぱりと告げた。
「向こうでは、おまえさんが廓の妓だったっつうことを……絶対に知られないようにしとくれよ」
さようなことは、吉原を出るからには至極当然のことであった。娑婆ではやはり「苦界」と呼ばれる地で咲いた徒花を、快く思わぬ者がいるからだ。
またそれは、同じおなごに多いと聞く。
とは云え、産湯を使ったときから吉原にいる舞ひつるにとっては、至難の技であろうが。
舞ひつるは「承知しなんした」と云いかけ……それが廓言葉であったと思い直し……
結局は、大きく首を縦に肯くだけになった。前途はなかなか厳しそうだ。
そして、今度こそ襖を開けて部屋の外に出た。
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