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四段目
身請の場〈漆〉
しおりを挟む「その日は御役目が立て込むゆえ、何刻になるかわからぬが……必ずや明石稲荷に参る」
陰暦皐月の末の、江戸に夏を告げる大川(隅田川)の川開きの初日には、夜空に花火が打ち上げられ、川岸に料理茶屋から出された納涼船がずらりと浮かぶ。
御公儀から、広小路にも大川端にも屋台を出店することを赦されるため、老いも若きも、お武家も町家も百姓も、身を変装してそぞろ歩く。身分を忘れた無礼講の夜だ。
処々で喧嘩だの小競り合いだのがあるから、町奉行所の役人たちは、南北問わず各処に駆り出されるのだ。
兵馬が怖いくらいの真剣な目で、舞ひつるに問う。
「さすれば、そなたも見世を終えたら……此処で待っていてはくれまいか」
舞ひつるにとっても、この日の廓は猫の手も借りたいくらいの大賑わいで、きっと今年も朝からてんてこ舞いになるであろう。
ゆえに、ようやく廓の客が妓の布団の中で寝静まる頃、どうにかこっそりと見世を抜け出すことができれば御の字だ。
舞ひつるが、伏し目がちになって返事を云い淀んでいると、
「たとえ一晩中であろうと、御堂の中で待っておるゆえ……来てはもらえぬか」
兵馬は舞ひつるの両肩を掴んで、なおも云う。
「そしてその折に、そなたに一つ頼みがある」
——若さまが、わっちに『頼み』かえ。
舞ひつるは伏していた目を上げる。たちまち、兵馬の鋭い目に捕らえられる。
「如何であろうと、そなたを見世が名付けた源氏名では呼びとうないのだ。しからば、そなたの親が名付けた真の名を……某に教えてはもらえぬだろうか」
——わっちの……『真の名』を……
そういえば、兵馬は『おめぇ』や『おめぇさん』とは呼んでいたが、一度も「舞ひつる」と呼んだことがなかった。
すると兵馬が急に、にやり、と笑った。怖いもの知らずで、文字どおり「向かう処、敵なし」の不敵な笑顔だ。
「もちろん、そなたの真名だけを名乗らせるわけにはいくまい」
先日、舞ひつるが、
『さすれば……若さまも、我が身の真名を、わっちにお名乗りなんしかえ』
と申したことを踏まえているのだ。
「その折には、某の諱も名乗りを挙げようぞ」
武家言葉になった兵馬は、聞く者に有無を云わせぬ堂々とした物云いだった。
——あぁ、やはり若さまは「お武家」の……それも「与力の御曹司様」でありんす。
紛れもなく氏も育ちも違うことが、舞ひつるの心根に沁み入んできた。
——なのに、かようなお人が「諱」を名乗るなど、あるまじきことでなんし。そもそも、わっちとは……生きていく処が異なるお人でありんす。
舞ひつるの目が、遠くを彷徨いだす。
——若さまのようなお人が、わっちのような者に真名を名乗るなど……
だが、さように揺れる舞ひつるの目は、すぐに兵馬の眼力によって引き戻された。
そしてまた、その鋭い目にがっちりと捕らえられる。
「……諱を教える代わりに、そなたの真名も教えてくれるでござるな」
もう一度、兵馬が問うた。
舞ひつるは、心では重々判っているはずなのに……どうしても抗いきれなかった。
とうとう——首を縦に下ろしてしまった。
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