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三段目
玉ノ緒の場〈肆〉
しおりを挟む「なにをお云いでなんしかえ。淡路屋さんの若旦那は、玉ノ緒をお撰びになりなんし」
舞ひつるは驚いて云った。
「それに、わっちは若旦那に会うたことなぞ、一度もあらでなんし」
吉原には、名の通った上客がいったん「馴染みの娼方」を定めると、その遊女が廓内での「妻女」と見做され、同じ見世はもちろんほかの見世ですら妓を買えなくなるという不文律がある。
もし露見すれば、廓じゅうから「半可通」の烙印を押されて忌み嫌われる。この先、その者が大門をくぐることさえ難儀となる「恥」である。
そもそも、淡路屋の主人は今でも身請けしたお内儀一筋らしい。
ゆえに、玉ノ緒の姉女郎・玉菊を「娼方」にすることもなく、ただ商いで付き合う相手の店へのもてなしのためだけに、かつてお内儀が世話になった久喜萬字屋を贔屓にし登楼していた。
さようであらば、玉菊に果たす「義理」など端からないのだが、それでも淡路屋は父子ともども、羽衣の座敷を訪れたことはただの一度もなかった。
文句のつけ処のない、綺麗な遊び方である。
「されども……」
玉ノ緒は目を伏せて云い淀む。
「何を案じていなんし。もしかして……吉原を出て、町家の商家で暮らしんすことかえ」
舞ひつるは、玉ノ緒の目を覗き込むようにして尋ねる。
——確か、玉ノ緒の故郷は秩父でなんしたか。
生まれた百姓家と育った廓そして嫁ぎ先の商家とでは、暮らし向きがずいぶんと異なるに違いないと慮った。
「案ずる心持ちはわかりんすが……久喜萬字屋のお内儀さんが、『お内儀のおさよも通ってきた道だし、淡路屋さんも客商売だ。悪い評判は立てたかねぇだろうから、玉ノ緒を無碍にゃしやしないよ』って云うとりんした。それに、見世のだれもが、淡路屋さんへ嫁ぐ玉ノ緒は運がよろしゅうなんし、きっと幸せになりんす、と云うていなんし」
噛んで含めるように、玉ノ緒に説く。
「巷では苦界と云われなんしこの吉原に身を沈めたにもかかわらず、玉ノ緒は生娘のまま娑婆に出て嫁入りしんす」
それでもまだ俯いたままの玉ノ緒に、なおも語りかける。
「わっちらがこの見世に来なんしてこの方、落籍かれた遊女や女郎は幾人かいなんしたが……此度のような振袖新造の身請を、一度でも目にし耳にしたことがありんしたかえ。きっと、身を粉にして精進し続けた玉ノ緒を、お天道さんが見てておくんなんした証でありんす」
いくら振新を嫁にほしがる商家が多いとは云え、やはり大金叩いてまで思い切る店は稀有だ。
ようやく面を上げた玉ノ緒は、舞ひつるに向かって一つ肯いた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
その日の前日、舞ひつるは兵馬から、
『悪りぃ、ちょいと野暮用ができて明日はおめえさんの「供」ができねえ』
と、云われた。
御役目のある兵馬を我がことで毎朝駆り出させているのに、日々後ろめたき心持ちをしていた舞ひつるは、あっさりと受け入れた。
そして、翌日のお参りはせぬ、と兵馬に約束した。
だが、しかし——見世に帰ってから、舞ひつるははたと気づいた。
間の悪いことに、翌日は亡くなった母親の月命日であった。行かぬのは流石に気が咎められた。
翌朝、仕方なく舞ひつるは一人で明石稲荷へと向かった。
——なに、いつものように、ちょいとお参りしてすぐに帰ってきなんし。
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