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三段目
戀歌の場〈弐〉
しおりを挟む兵馬は御役目のある身である。流石にこうも続けば、舞ひつるの明石稲荷参りの「供」ができぬ朝も出てきた。
されども、さような折には必ず前の日に小堂で、
『悪りぃが、明日は此処にゃあ来られねえ』
と、知らせてくれる。
そして、怖いくらい真剣な面差しで、
『絶対に、おめぇ一人で来るんじゃねえぞ』
と、釘を刺された。
「……舞ひつる」
羽衣に、静かな声音で促される。
舞ひつるは、はっ、と我に返った。あわてて漆喰紙に目を落とし、筆を取る。
羽おりがものする前までは、羽衣がものした『風をだに……』の鏡王女の妹とされる額田王が詠んだ、
【君待つと 我が戀ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く】
〈あなたを恋しく思いながら待っていると、我が家の簾が揺れたので、あなたが来てくれたのかと思ったら、秋風が揺らしただけであった〉
を舞ひつるは書こうかと思っていたのだが……
万葉の昔の天子様も大勢の妻を持っていたと云うが、天智帝は鏡王女を手放したのち、すでに弟の天武帝との間に一女をもうけていた額田王を我が妻に迎えたそうだ。
そして、この歌で額田王が待ち侘びている相手は、その天智帝だと云われている。
そもそも、この歌が先にあって、返し歌の方が【風をだに……】であった。
ゆえに、この歌を撰ぶのは舞ひつるにとって在り来りで、おもしろみに欠けるような気がした。
また、羽おりに「郎女」も織り込まれてしまったため、場の「流れ」にそぐわなくなってしまった感が否めない。
しばしの思案のあと、舞ひつるは硯から適量の墨を筆に含ませて、滑らせた。
【吾が背子は 待てど来まさず 天の原 振りさけ見れば ぬばたまの 夜も更けにけり】
〈私の恋しい人は、どんなに待っていても来てはくれない。大空を見上げると、漆黒の夜が刻々と更けていく〉
【風をだに……】の鏡王女のものとする説もあるが、【來むと云ふも……】の大伴坂上郎女の甥である大伴家持と短いひととき情を交わした、笠郎女が詠んだのではないかともされる長歌の、冒頭の一節である。
別れたあとも笠郎女は、いくつもの未練の歌を書き贈ったと云われる。
対する家持からの返り歌は、実に素っ気ないものであった。
されども、家持が編纂に携わったとされる万葉集には、なんと二十数首もの笠郎女の歌が収められている。
それだけ笠郎女の詠んだ歌が他に類なくすばらしかった、と云うことであろうが……
数多の女人と浮き名を流していたと云われる家持である。
舞ひつるには、家持が如何におのれから離れられぬ女がいたのかを、後世の者たちにこれ見よがしにひけらかすためであるように思えてならなかった。
「鯔のつまり……」
おもむろに、羽衣が口を開いた。
「『來じ』とお云いなんしたお方を、我が身は『待たじ』と云いなんしつつ……」
昼日中の今、化粧を一切せぬ顔にもかかわらず、まるで羽二重のごとく肌理細やかでしっとりと艶やかな肌は、抜けるように白い。そのくちびるだけが、まるで紅を差しているかのごとくうっすら朱がかっていた。
「たとえ我が身がいつしか『山のしづく』になりなんしても……とうとう日が入り果てて『ぬばたまの夜』になりなんしても……」
そっと目を伏せたそのとき、今はしどけなく結い上げただけの黒髪が、はらりと一筋、頬の上に落ちた。
「さりとて来ぬお方を、ひたすら廓で待ち続けなんしが……」
えも云われぬ羽衣の色香が、辺りに漂う。
「……『女ごゝろ』でありんす」
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