大江戸シンデレラ

三段目

逢瀬の場〈伍〉

   改めて、舞ひつるは居住まいを正し、兵馬に向き直った。

「お武家さまにも、わっちらのごとき真まことの名がおありなんしと聞いとりんす」

   お侍さむらい様と廓くるわの妓おんなを同列に並べる無礼は、百も承知の二百も合点だ。

「あ、あぁ……さようだ」

   今度は兵馬の方が調子が狂ったのか、たじろいでいる。心なしか、口調も武家言葉に近ちこうなっていた。
   もしかすると、兵馬にとって町家の言葉は御用仕事向きのことで、本来は生まれ育ったお武家の言葉の方が話しやすいのかもしれない。


   名字帯刀を赦ゆるされた武家の者の本来の名乗りは、概おおむね「家名・官名あるいは通名・諱いみな」の順となる。

   松波 兵馬の場合、「松波」が代々引き継ぐ御家の名で「兵馬」が通り名だ。まだ与力見習いのため、官名はない。

   そして「諱」であるが、唐もろこしの国の文字漢字二字を堅い読みにして名付けられたそれは、成人の儀である元服の折に与えられた正式な名だ。よって、武家の男おのこにとっての「真名まな」となる。

   最も神力が籠こもった名とされ、無闇矢鱈むやみやたらに使うのが憚はばかられるため、「（口にするのを）忌いむ名」より転じたとされる諱は、お仕えする主君および親兄弟などにしか知らされない。

   たとえ、胎はらを痛めて産んでくれた母親であろうと、女子おなごには知らせぬのが常であった。
   兵馬の母・志鶴しづるとて、さようであった。


「さすれば……若さまも、我が身の真名を、わっちにお名乗りなんしかえ」

   兵馬は、虚を衝かれた面おも持ちになった。

   いずれは父てて親が担う御役目だけでなく「浮世絵与力」の名跡をも引き継ぐと、巷ちまたを騒がせている面つら構えには、とても思えぬ呆ほうけた顔を曝さらしている。

   廓くるわの妓おんなごときから、まさかかような物云いをされるとは、つゆほども考えていなかったであろう、と舞ひつるは慮おもんぱかった。

   お武家の兵馬が、おのれの真名の名乗りを挙げられぬことなぞ、それこそ百も承知の二百も合点だった。

——さすれば、わっちの方も名乗りなんし義理はあらでなんし。


   いつしか、小堂の外の雨の音が静かになり、ほとんど聞こえなくなっていた。

「……遅おそうなりなんしたら、もう見世から出してもらえのうなりなんしゆえ、わっちはこれでお暇いとまいたしんす」

   舞ひつるは、すっ、と立ち上がった。

   そして、真っ白な前掛けを整えると、背筋を伸ばして裏の戸口へと歩んだ。