15 / 129
三段目
逢瀬の場〈弐〉
しおりを挟む小堂に叩きつける雨足は、ますます強くなっていく。確かに軒下にいたままでは、今頃すっかりずぶ濡れ鼠だ。
板の間にどかりと座り込んだ兵馬は、踝までの丈の縞の平袴を屈託なく捌いて胡座をかいた。
木で設えられた高台にお祀りした御神体の御鏡を正視せぬよう目を逸らしつつ、舞ひつるは裏の戸に近い処に、黄八丈の着物の裾を崩すことなく、さらには真っ白な前掛けに一本たりとも皺を寄せることもなく、すっ、と腰を下ろした。
そうして、背筋をすらりと伸ばして正座する。
——さすれども……気詰まりでなんし……
兵馬に助けてもらって以来、毎日顔を合わせてはいたが、なにぶん人目を避けて離れて行動していたゆえ、ほとんど話したことはなかった。
さようでなくとも見世の客は年配者ばかりで、かようなおのれと似た歳格好の男とは、生まれてこの方とんと声すら交わした覚えがないのである。
ゆえに、如何ように声をかけていいのか皆目わからず、困った舞ひつるはそれとなく兵馬の容顔を窺うことくらいしかできなかった。
俗に「江戸の三男」と呼ばれる「与力・相撲取り・火消しの鳶」は江戸に住む女人たちの憧れの的であった。
中でも、きりりと精悍な面立ちで頭は粋な本多髷の、南町奉行所の筆頭与力・松波 多聞は、若かりし頃巷では勝手に浮世絵にされるほどの鯔背な男だった。
御用と書かれた提燈を背景に、右手に持った手綱で暴れ馬を難なく操りながら、左手に持った朱房の十手で部下の同心たちを操り、悪党に向かって不敵に微笑む多聞を模した、
「此れぞ、天晴れ大江戸の与力」
という惚れ惚れするほど勇ましい姿の絵が、江戸の女子たちを夢心地にさせ、飛ぶように売れていた。
御公儀から、武家に対して無礼千万と睨まれて、浮世絵師たちに手鎖などの御咎めがあってはならぬので、一応表向きは「歌舞伎役者の何某が演じた与力」という体になってはいたが。
だが、そんなことはするっとお見通しの世間は、多聞のことを「浮世絵与力」と呼んでいた。
一見ぞんざいに座しているかに見えて、決して下劣ではない兵馬の姿を、舞ひつるはさりげなく目の端で捉えた。
——やはり、かの浮世絵与力の父親に「生き写し」と、町家の者が噂をしなんしほどの御尊顔でありんす。
そして、兵馬の整った凛々しい面差しに、改めてしみじみと感じ入った。
吉原に生まれついて以来、日々さまざまな殿方を見てきた身であれども、かように思わざるを得ぬ美丈夫であった。
実は、兵馬はそれこそ母の胎から出たその日から、皐月の節句に向けて刷られた浮世絵の武者人形に模されていたのだ。
0
お気に入りに追加
77
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
大江戸ロミオ&ジュリエット
佐倉 蘭
歴史・時代
★第2回ベリーズカフェ恋愛ファンタジー小説大賞 最終選考作品★
公方(将軍)様のお膝元、江戸の町を守るのは犬猿の仲の「北町奉行所」と「南町奉行所」。
関係改善のため北町奉行所の「北町小町」志鶴と南町奉行所の「浮世絵与力」松波 多聞の縁組が御奉行様より命じられる。
だが、志鶴は父から「三年、辛抱せよ」と言われ、出戻れば胸に秘めた身分違いの恋しい人と夫婦になれると思い、意に添わぬ祝言を挙げる決意をしたのだった……
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
紀伊国屋文左衛門の白い玉
家紋武範
歴史・時代
紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。
そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。
しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。
金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。
下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。
超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる