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二段目
明石稲荷の場〈壱〉
しおりを挟む明け六つ、お天道さまが面を見せる刻になった。
吉原の廓中に浅草寺からの鐘の音が響きわたり、夜深ぴたりと閉じられていた「外」へのたった一つの扉、大門が開く。
昨夜の宴のあと、馴染みの妓としっぽり一つ布団で眠りについた男たちにとって、おのおの名残惜しい心持ちを押し殺し、しばしの暇を告げねばならぬ「後朝の別れ」がきた。
今度逢えるのは、また仲ノ町の引手茶屋を通して手筈を整えたときだ。
妓の方とて「わっちには主さんだけでありんす。日を待たずして逢いに来なんし」と寄り添いながら、泣く泣く男どもを送り出す。
されども……
いずれの妓も、振り返ればたちまちのうちに、ふわあぁと欠伸を噛み殺しつつ布団に戻り、さっさと二度寝を決め込むのだ。
そうじて、廓のおなごは朝に弱い。巳の刻(午前十時)の朝餉まで起きてこない。
吉原は久喜萬字屋の「朝」が始まった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
舞ひつるは、いつものように朝餉の前にお参りするために、小さな御堂へと向かった。
ほぼ真四角に造られた吉原の敷地内には、各四方の隅に「榎本稲荷」「明石稲荷」「開運稲荷」「九郎助稲荷社」の祠がある。
そのすべてが狐を「神の使い」とするお稲荷さんであるのは、巷で豪商たちが「商売の神様」と崇めていて、それを吉原の廓の主たちもあやかったためだと云われている。
もしくは、見世にやってくる客人たちが「女狐」のごとき遊女や女郎たちに化かされて、いつの間にか根こそぎ有り金を落としていた、ということを夢見て願掛けしているのもしれない。
舞ひつるにとっての「氏神様」は、久喜萬字屋のある江戸町二丁目の筋から大門側に一本入った伏見町の角っこに祀られた明石稲荷だ。
祠の前に立った舞ひつるは、まずは垂れ下がった鈴をじゃらんと鳴らしてから二度拝礼したあと、ぱんぱんっと手を二度打ち鳴らした。
——今日もお天道様を拝めて、ありがたいことでありんす。唄も舞も精進して、わっちもいつか死んだ祖母さまやおっ母さんのように、吉原で一番綺麗で芸のある「呼出」になりなんし……
かようなことを胸の中で唱えたのち、一番深く拝礼した。
前世でどんな行いをした因果であろうか、祖母の代から「遊女」になる定めの下に、舞ひつるは生まれついた。
祖母が何処で生まれて何処から吉原に売られてきたのかは、今となっては杳として知れないが、母は廓で生を受けた。
父親は祖母の馴染みの客であろう、お武家の男だったと聞く。
そして、長じた母が舞ひつるという娘をもうけた相手もまた、お武家の男だった。
そればかりか、産後の肥立ち悪しく、瞬く間に産み落としたばかりの娘を遺してさっさと身罷ってしまったのも、同じだ。
二人とも、類稀なる器量と芸を併せ持ち、この吉原で何十年に一度咲くかどうかの大輪の徒花だった。
遊女や女郎が見世に出るときの名を「源氏名」というが、平安の昔にものされた「源氏物語」の全五十四帖からなる巻名にあやかって名付けられたのが元である。
だが、数千もの妓たちがいると云われる吉原でたった五十四しかないその名は、いつの間にかおいそれとは名付けられなくなり、見世ごとに遊女や女郎の名が案内されている「吉原細見」をあたってみても、今では見世の上位の遊女にしか赦されていない。
祖母も母も「胡蝶」と名乗った。もちろん、源氏物語の五十四帖の中の一つである。
久喜萬字屋では、見世の最上位である「呼出」にならなければ名乗ることは赦されない名だ。
いつの日か、面影を刻みつける間もなくあの世へと旅立った祖母さまやおっ母さんの、その「胡蝶」の名で見世に出るのが、舞ひつるの幼き頃よりの「夢」であった。
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歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。
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上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。
ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。
そんな風に思いながら書いています。
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