大江戸シンデレラ

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
4 / 129
二段目

明石稲荷の場〈壱〉

しおりを挟む

   け六つ、お天道おてんとさまがおもてを見せるときになった。

   吉原のくるわ中に浅草寺からの鐘の音が響きわたり、夜深ぴたりと閉じられていた「外」へのたった一つの扉、大門が開く。

   昨夜のうたげのあと、馴染なじみのおんなとしっぽり一つ布団で眠りについたおのこたちにとって、おのおの名残惜しい心持ちを押し殺し、しばしのいとまを告げねばならぬ「後朝きぬぎぬの別れ」がきた。
   今度逢えるのは、また仲ノ町の引手茶屋を通して手筈てはずを整えたときだ。

   妓の方とて「わっちにはぬしさんだけでありんす。日を待たずして逢いになんし」と寄り添いながら、泣く泣く男どもを送り出す。

   されども……

   いずれの妓も、振り返ればたちまちのうちに、ふわあぁと欠伸あくびを噛み殺しつつ布団に戻り、さっさと二度寝を決め込むのだ。
   そうじて、廓のおなごは朝に弱い。巳の刻(午前十時)の朝餉あさげまで起きてこない。

   吉原は久喜萬字屋くきまんじやの「朝」が始まった。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜


   舞ひまいつるは、いつものように朝餉あさげの前にお参りするために、小さな御堂へと向かった。

   ほぼ真四角に造られた吉原の敷地内には、各四方のすみに「榎本稲荷」「明石稲荷」「開運稲荷」「九郎助稲荷社」の祠がある。

   そのすべてが狐を「神の使い」とするお稲荷さんであるのは、ちまたで豪商たちが「商売の神様」と崇めていて、それを吉原のくるわあるじたちもあやかったためだと云われている。
   もしくは、見世にやってくる客人たちが「女狐」のごとき遊女や女郎たちに化かされて、いつの間にか根こそぎ有り金を落としていた、ということを夢見て願掛けしているのもしれない。

   舞ひつるにとっての「氏神様」は、久喜萬字屋のある江戸町二丁目の筋から大門側に一本入った伏見町のかどっこに祀られた明石稲荷だ。

   祠の前に立った舞ひつるは、まずは垂れ下がった鈴をじゃらんと鳴らしてから二度拝礼したあと、ぱんぱんっと手を二度打ち鳴らした。

——今日もお天道様を拝めて、ありがたいことでありんす。唄も舞も精進して、わっちもいつか死んだ祖母ばばさまやおっさんのように、吉原で一番いっち綺麗で芸のある「呼出」になりなんし……

   かようなことを胸の中で唱えたのち、一番いっち深く拝礼した。


   前世でどんな行いをした因果であろうか、祖母の代から「遊女」になる定めのもとに、舞ひつるは生まれついた。

   祖母が何処どこで生まれて何処から吉原に売られてきたのかは、今となってはようとして知れないが、母はくるわで生を受けた。

   てて親は祖母の馴染みの客であろう、お武家の男だったと聞く。
   そして、長じた母が舞ひつるという娘をもうけた相手もまた、お武家の男だった。

   そればかりか、産後の肥立ちしく、瞬く間に産み落としたばかりの娘を遺してさっさと身罷みまかってしまったのも、同じだ。

   二人とも、類稀たぐいまれなる器量と芸を併せ持ち、この吉原で何十年に一度咲くかどうかの大輪の徒花あだばなだった。


   遊女や女郎が見世に出るときの名を「源氏名」というが、平安の昔にものされた「源氏物語」の全五十四帖からなる巻名にあやかって名付けられたのが元である。

   だが、数千ものおんなたちがいると云われる吉原でたった五十四しかないその名は、いつの間にかおいそれとは名付けられなくなり、見世ごとに遊女や女郎の名が案内あないされている「吉原細見」をあたってみても、今では見世の上位の遊女にしかゆるされていない。

   祖母も母も「胡蝶」と名乗った。もちろん、源氏物語の五十四帖の中の一つである。
   久喜萬字屋では、見世の最上位である「呼出」にならなければ名乗ることは赦されない名だ。

   いつの日か、面影を刻みつける間もなくあの世へと旅立った祖母ばばさまやおっさんの、その「胡蝶」の名で見世に出るのが、舞ひつるの幼き頃よりの「夢」であった。

しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

一ト切り 奈落太夫と堅物与力

相沢泉見@8月時代小説刊行
歴史・時代
一ト切り【いっときり】……線香が燃え尽きるまでの、僅かなあいだ。 奈落大夫の異名を持つ花魁が華麗に謎を解く! 絵師崩れの若者・佐彦は、幕臣一の堅物・見習与力の青木市之進の下男を務めている。 ある日、頭の堅さが仇となって取り調べに行き詰まってしまった市之進は、筆頭与力の父親に「もっと頭を柔らかくしてこい」と言われ、佐彦とともにしぶしぶ吉原へ足を踏み入れた。 そこで出会ったのは、地獄のような恐ろしい柄の着物を纏った目を瞠るほどの美しい花魁・桐花。またの名を、かつての名花魁・地獄太夫にあやかって『奈落太夫』という。 御免色里に来ているにもかかわらず仏頂面を崩さない市之進に向かって、桐花は「困り事があるなら言ってみろ」と持ちかけてきて……。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

鵺の哭く城

崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

直違の紋に誓って

篠川翠
歴史・時代
かつて、二本松には藩のために戦った少年たちがいた。 故郷を守らんと十四で戦いに臨み、生き延びた少年は、長じて何を学んだのか。 二本松少年隊最後の生き残りである武谷剛介。彼が子孫に残された話を元に、二本松少年隊の実像に迫ります。

くじら斗りゅう

陸 理明
歴史・時代
捕鯨によって空前の繁栄を謳歌する太地村を領内に有する紀伊新宮藩は、藩の財政を活性化させようと新しく藩直営の鯨方を立ち上げた。はぐれ者、あぶれ者、行き場のない若者をかき集めて作られた鵜殿の村には、もと武士でありながら捕鯨への情熱に満ちた権藤伊左馬という巨漢もいた。このままいけば新たな捕鯨の中心地となったであろう鵜殿であったが、ある嵐の日に突然現れた〈竜〉の如き巨大な生き物を獲ってしまったことから滅びへの運命を歩み始める…… これは、愛憎と欲望に翻弄される若き鯨猟夫たちの青春譚である。

鄧禹

橘誠治
歴史・時代
再掲になります。 約二千年前、古代中国初の長期統一王朝・前漢を簒奪して誕生した新帝国。 だが新も短命に終わると、群雄割拠の乱世に突入。 挫折と成功を繰り返しながら後漢帝国を建国する光武帝・劉秀の若き軍師・鄧禹の物語。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

処理中です...