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Chapter 9
対峙 ⑥
しおりを挟むしばらくの沈黙のあと、みどりが言った。
「……ここに、あたしらの名前を書けばええんやね?」
目を落とした先にあるのは、婚姻届だ。
洋史がローテーブルの端にあったボールペンに手を伸ばし、証人の欄に「青山 洋史」と署名し、生年月日とこのマンションの住所と本籍地を記入した。
そのあと、みどりがその下の欄に「八木 みどり」と署名して生年月日とこのマンションの住所と本籍地を記入する。
二人とも本籍地は兵庫県神戸市だった。つまり、彼らのそれぞれと同じ籍に入っている稍と智史も同じだ。
二〇年以上も顔も見ず離れて暮らしているのに、と思うと不思議な気持ちになる。
智史が封筒の中に婚姻届を入れ、内ポケットに収めた。
「……稍、その指輪、綺麗やね。よう似合うてるわ」
みどりが稍の婚約指輪を目を細めて見た。目尻に幾本かのシワが浮かぶ。
「智史が奮発してくれてん。〇・八八カラットで『やや』やねん」
稍は、自身の左手薬指を見つめて、ふふっ、と笑った。智史が元婚約者の康平より「奮発」してくれたのは事実だ。
智史がやさしげな笑顔で、稍の頭をぽんぽん、とする。
「相変わらず智史は、稍ちゃんにだけは甘ったるい顔するなぁ」
表に見せる表情からは、感情の起伏がよくわからない智史は、共働きの親にとっては手のかからない「理想」の子どもであったが、もしかして知らず識らずのうちに我慢させているのではないか、と却って心配した時期があった。
だが、智史は稍と一緒にいるときだけは「普通の男の子」の表情をしていた。
稍といるときだけは、智史が今なにを考えているのかが見て取れた。
洋史は息子と同じ顔で、みどりに微笑んだ。目尻には、みどりよりずっと深いシワが刻まれる。
「……栞は元気にしてる?」
稍は肯いて、栞の近況を話した。卒業した大学院を言うと、みどりも洋史も目を丸くした。
智史が「おれも国内トップの国立工大の院卒やねんけどな」とぼそりとごちった。
「今は、小説家のアシスタントか。……そうか」
洋史が感慨深げにつぶやいた。彼は大学は理系の学部に進んだが、文学が好きで小説家を目指していた時期があった。
智史はそれを母の登茂子から聞いていた。
みどりは離れて暮らしている間、直接娘たちには会えなかったが、実はこっそりと運動会などを見に行っていた。
だから、娘たちがどんなふうに成長していったかくらいは知っているつもりだった。
けれど、今日実際に稍と会ってみて、やはり見ると会うとでは大違いだったと実感した。
栞にも会いたい、と強くつよく思った。
「京都のおじいちゃんやおばあちゃんは、突然行ってもやさしくしてくれた?」
結婚を反対された家に愛娘を送ったのだ。みどりは当初、心配で堪らなかった。
「おじいちゃんは確かに頑固で怖いときもあったけど、あたしのことはもちろん、栞のことも大事にしてくれはったえ」
栞が血の通った孫ではないということを、祖父と祖母が知っていたかどうかはわからない。彼らはすでに鬼籍に入っている。
「おばあちゃんは、あたしらのことを不憫に思うて『そもそも、うちらがあんたらのお父さんとお母さんの結婚を反対したさかいなぁ』って言うて『堪忍やで』ってあたしらに詫びてはった」
結局、大阪で仕事をしていた巧は引き取った子どもたちを京都の実家に任せざるを得なかった。
「巧さん——おとうさんがあのときなぁ、『震災で失うた家の住宅ローンを払うためにでも働けるんは、稍と栞がおるからや』って。『嫁が出て行ったうえに、子どもらまでおれへんようになったら、これから先何のために働いてええのかわからへんようになる。頼むから、稍と栞は連れて行かんといてくれ』ってことも言わはってんよ」
稍は目を見開いた。
——おとうさんにとって、栞は『実の子』やったんや。
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