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Chapter 9
対峙 ⑤
しおりを挟む「……栞を産んだのは……『確信犯』や。どうしても……この人の子どもが産みたかったから」
そう言って、みどりは洋史を見た。愛する人の子を遺したいという「雌の目」をしていた。
「そのときに、お互い離婚しようとは思わへんかったんかな?」
智史が訊いた。リムレスのレンズが光って、彼の目の表情はわからない。
「……おれは、登茂子に離婚を切り出す、って言うた。なにもかも捨てて、生まれてくる子どもと三人でイチからやり直そう、って」
洋史が搾り出すような声でつぶやいた。
「あたしが……止めたんよ。稍を置いて、出て行くわけにはいかへんから。あたしが、稍を失いとうなかった」
みどりが唇をきつく噛んだ。
「栞が生まれても、表面上はうまく行ってたんよ。せやったら、このままでもええか、って思ってた矢先に……」
稍はその言葉に肯いた。まったく、気づかなかった。しあわせだった。
「……震災が起こった」
そして、みどりはたった一人の弟を、二一歳の若さで失った。期待の息子を失って、実家の母親は一気に老け込んだ。父親はすでに他界していた。
「最初はバチがあたったんかと思うた。家族を裏切って、勝手なことをしたから、こんな目に遭うたんかと思うた。……でも」
みどりは、稍をまっすぐに見た。
「人生は短い。明日……いや、今、こうしてる次の瞬間にも、いきなり消えてなくなってしまうかもしれへん」
稍も、みどりを見つめ返す。
「だから、悔いのない人生を、この世を去るときに、反省はしたとしても、後悔だけはしない人生を、送ろうと思った」
そして、みどりは洋史を見た。
「この人を、どうしても……登茂子に渡したくなかってん」
洋史はみどりを包み込むような目で見つめ返した。
「……それで、巧さんと登茂子に、栞のこととか、離婚したいこととか、洗いざらい話した」
ちょうどそのとき、洋史の会社が船をチャーターして、社員をポートアイランドまで迎えにくることになった。
「そして、迎えの船に乗りたい、って言うた。栞だけやなく、智史くんも稍も、一緒に連れて行きたい、連れて行かせてほしい、って。……土下座までして頼んだ」
みどりの目から、みるみるうちに涙があふれて、頰を伝っていった。
「でも、あかんかった……それだけはあかん、って言われた。登茂子からは『お腹痛めて産んだ智史を、手放せるわけないやろ?なに考えてんのよ』って言われて、巧さんからは『稍と栞を離れ離れにさせるわけにはいかへんから、栞は渡されへん。二人とも自分が育てる』って言われて……」
稍も智史も、思いがけないことに息をのんだ。
あのとき、自分たちは「捨てられた」ものだとばかり思っていた。
智史などは「置き去りにされた」と思って生きてきた。
稍や智史たち「子ども」にとっては、あれは「突然」の出来事であった。
だが、それぞれの親たち「大人」にとっては、あれは「突然」ではなかったのだ。
ちゃんと——「話」が決着ていたのだ。
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