上 下
105 / 150
Chapter 9

対峙 ⑤

しおりを挟む

「……栞を産んだのは……『確信犯』や。どうしても……この人の子どもが産みたかったから」

   そう言って、みどりは洋史を見た。愛する人の子をのこしたいという「雌の目」をしていた。

「そのときに、お互い離婚しようとは思わへんかったんかな?」

   智史が訊いた。リムレスのレンズが光って、彼の目の表情はわからない。

「……おれは、登茂子に離婚を切り出す、って言うた。なにもかも捨てて、生まれてくる子どもと三人でイチからやり直そう、って」

   洋史がしぼり出すような声でつぶやいた。

「あたしが……止めたんよ。稍を置いて、出て行くわけにはいかへんから。あたしが、稍を失いとうなかった」

   みどりが唇をきつく噛んだ。

「栞が生まれても、表面上はうまく行ってたんよ。せやったら、このままでもええか、って思ってた矢先に……」

   稍はその言葉に肯いた。まったく、気づかなかった。しあわせだった。

「……震災が起こった」

   そして、みどりはたった一人の弟を、二一歳の若さで失った。期待の息子を失って、実家の母親は一気に老け込んだ。父親はすでに他界していた。

「最初はバチがあたったんかと思うた。家族を裏切って、勝手なことをしたから、こんな目にうたんかと思うた。……でも」

   みどりは、稍をまっすぐに見た。

「人生は短い。明日……いや、今、こうしてる次の瞬間にも、いきなり消えてなくなってしまうかもしれへん」

   稍も、みどりを見つめ返す。

「だから、悔いのない人生を、この世を去るときに、反省はしたとしても、後悔だけはしない人生を、送ろうと思った」

   そして、みどりは洋史を見た。

「この人を、どうしても……登茂子に渡したくなかってん」

   洋史はみどりを包み込むような目で見つめ返した。


「……それで、巧さんと登茂子に、栞のこととか、離婚したいこととか、洗いざらい話した」

   ちょうどそのとき、洋史の会社が船をチャーターして、社員をポートアイランドまで迎えにくることになった。

「そして、迎えの船に乗りたい、って言うた。栞だけやなく、智史くんも稍も、一緒に連れて行きたい、連れて行かせてほしい、って。……土下座までして頼んだ」

   みどりの目から、みるみるうちに涙があふれて、頰を伝っていった。

「でも、あかんかった……それだけはあかん、って言われた。登茂子からは『お腹痛めて産んだ智史を、手放せるわけないやろ?なに考えてんのよ』って言われて、巧さんからは『稍と栞を離れ離れにさせるわけにはいかへんから、栞は渡されへん。二人とも自分が育てる』って言われて……」

   稍も智史も、思いがけないことに息をのんだ。

   あのとき、自分たちは「捨てられた」ものだとばかり思っていた。

   智史などは「置き去りにされた」と思って生きてきた。

   稍や智史たち「子ども」にとっては、あれは「突然」の出来事であった。
   だが、それぞれの親たち「大人」にとっては、あれは「突然」ではなかったのだ。

   ちゃんと——「話」が決着ついていたのだ。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

涙の行方

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:12

社内恋愛はじめました。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:1,080

オフィスラブなんか大嫌い

恋愛 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:19

束の間を超えて ~片想いする同僚兼友人に、片想いをした~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:23

記憶喪失になった私を訳あり後輩くんが離さない

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:539pt お気に入り:177

カラダから、はじまる。

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:53

出会ってはいけなかった恋

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:20,356pt お気に入り:947

彼がスーツを脱いだなら

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:48

処理中です...