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Chapter 4
元彼 ③
しおりを挟む「……話はそれだけかな?野田さん」
稍はもう「康平」とは呼ばなかった。一応「課長代理」という役職だから「さん」付けにしてみた。
一瞬、野田が呆けた顔をした。
「いや……もう一度、これを受け取ってほしいんだ」
素早く気持ちを立て直して、野田がポケットから空色のジュエリーボックスを取り出す。
彼も証券会社の営業マンの端くれだ。結構、打たれ強かった。
「わっ、ティフ◯ニーっ!」
沙知のテンションが、マイナスのベクトルから突然プラスに変わった。
野田がパカッと開けて、すーっと稍の前に押し出す。
「うわーっ、ティフ◯ニー・セッティングだっ‼︎」
エンゲージリングの大定番だ。アームのど真ん中にたった一つだけあるダイヤモンドが、店内のオレンジ色の照明の光を浴びて、キラキラと輝いている。
あれだけ激怒りだったのに、沙知のたった今プラスに転じたベクトルが、いきなりマックスに振り切れた。先刻までの鬼の形相が、今や天使のように愛くるしい笑顔だ。
恐るべし、ティフ◯ニー。これぞ、まさしくティフ◯ニー・マジック。
「申し訳ないけど……こちらは、お返ししたはずです」
稍は頭を下げた。美しい三〇度のお辞儀だ。
「……じゃあ、沙知がほしがってるようだから」
そう言って、山田が手を伸ばした。
すかさず、沙知がぺしっ、とその手を叩く。秒速で鬼の形相に戻っていた。
「山田、さっちゃんにはちゃんと『新品』を買ってあげないと、あたしが承知しないからね。だけど、自分勝手に選んじゃダメだよ?あんた、センスなさそうだからさ。さっちゃんと一緒に行くんだよ?……わかったね?」
稍はドスを効かせた声で告げた。本当は故郷の関西弁の巻き舌で、まくし立てたいくらいだ。
山田は沙知から叩かれた手の甲をさすりながら、怯えた仔犬の目で何度も肯いた。
「野田さん……このリングは『サイズ直しでもして、由奈にあげて』って言ったよね?」
稍は野田の方を見据えて言った。
「やや……もしかして、このリング、気に入らなかったのか?おれが自分勝手に買ってきて、プロポーズのときに渡したから……それを怒ってるのか?」
稍は「はぁ?」と、間の抜けた顔になる。
「実はもっと、ほしいデザインの指輪があったんじゃないのか?……あっ、結婚指輪のカタログだって、カーブのついたヤツ見てたもんな」
稍は「男の人って、なんでこんなに自分の都合よく考えられるのかなー?」と、呆れるのを通り越して感心した。笑いだしそうにすらなる。
「おれ、ややが戻ってきてくれるんだったらさ。今度はややが気に入る婚約指輪を買うし、どんなオカマみたいな恥ずかしい結婚指輪だって、毎日つけるよ」
稍は、ふーっと、息を吐いた。人差し指を曲げて第二関節のところで顳顬をぐりぐりする。
——なんで、一度軌道を外れたら、こんなに噛み合わなくなるのかな?それとも、今まで気づかなかっただけなのか?
ビールをしこたま呑んでふわふわしていた酔いは、今やこっぱみじんこになり、すっかりラララ星の彼方だ。
「由奈だったら、この『中古』のリングでも、あたしからあなたを奪った『戦利品』だと思える子だよ。つまり……そのくらいあなたのことが好きなのよ」
「でも、おれは、おまえでないと……」
野田が言おうとする言葉を、稍は制した。
「婚約しても、あたしがあなたのことを好きだとは思えなかったんでしょ?たとえ、結婚したって同じだわ。そんな思いを抱えて一生暮らしていけるとでも?……必ず、また、浮気したくなるよ」
そう言うと、稍はサッチェルバッグとショップバッグを手にして、椅子から立ち上がった。
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