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二章
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二章
アデリナが屋敷に来てもうひと月が過ぎたが、結局、ふたりが身体を重ねたのは最初の夜だけだった。顔を合わせれば普通に会話はするが、カイがアデリナの部屋を訪れることはなくなった。
アデリナは厨房でジャガイモを手に、考え込む。
(怒らせた、もしくはあきれられた?)
悪態をついたり、泣いて拒んでみたりと、良妻とは言いがたいアデリナの態度にうんざりしたのかもしれない。カイの本心が気になりつつも、アデリナははっきりと聞けないでいた。
聞いた結果、万が一にもまた彼と夜をともにすることになったらと思うと怖いのだ。行為そのものがではない。自分の心がどうなってしまうかわからないのが恐怖だった。彼を憎んでいるはずなのに……彼の腕に抱かれていると、なにも考えられなくなってしまう。アデリナはそれが怖かった。かといって、このままなにもなく日々が過ぎていくのも、自分の存在価値がわからず不安になる。
「はぁ」
「なにをしている?」
耳元にかかる吐息に驚き、アデリナはイモを落としてしまった。床に転がったそれをカイが拾う。
「カイ、戻っていたの?」
彼は出かけるときに着ていた訓練用の軍服からラフなシャツに着替えを済ませていた。シャワーを浴びてきたところなのか、清潔な香りがアデリナの鼻をふわりとくすぐる。
「あぁ。今日は予定より早く帰れた。で、お前はこんなところでなにをしてるんだ?」
カイに差し出されたイモを受け取りながらアデリナは答える。
「実家でよく食べていたジャガイモのパイを作ろうと思って」
この屋敷で出される料理はどれもこれも絶品なのだが、贅沢な味に慣れると不思議なほどに実家の素朴な味が恋しくなった。それにたまには料理をしないと腕が鈍る。
(ずっとここで優雅な暮らしを続けるわけじゃないんだから)
アデリナの答えを聞いたカイは途端に怪訝な顔になる。まぁ、彼がそう思うのは仕方がないことだ。貴族社会では料理は使用人の仕事だからだ。
「お前が作るのか?」
「そうよ。料理も掃除も自分でやってみると案外楽しいのよ」
アデリナは家事の素晴らしさを語ったが、カイはまったくピンとこないようだった。
だが、『ダメだ』とは言われなかったので、アデリナはカイを気にせずジャガイモの下ごしらえを始める。彼があまりに真剣な眼差しで見ているので、少し緊張する。
「そんなにジロジロ見ないでよ」
ナイフで皮をむきながらアデリナは口をとがらせた。
「器用だな。だが、材料はイモだけか? 貧乏くさい」
「これはイモだけで十分においしいの!」
カイはあれこれと口出しをしながら、結局完成するまでアデリナのそばにいた。
「よかったら、ひと口くらい食べてみる?」
オーブンから出したばかりの焼きたてのパイを切り分けて、アデリナはカイにもすすめた。
カイはダイニングルームに行儀よく座り、フォークを口に運ぶ。
「どう?」
我ながら上手に焼けたと、アデリナは自信を持っていた。食材もオーブンも実家よりずっと上等なので味も悪くないはずだ。だが、カイの反応は微妙なものだった。
「不思議な味だな」
アデリナは小さく息を吐いた。でもまぁ、考えてみれば高級食材に慣れ親しんだ彼の口に合わないのは当然のことかもしれない。アデリナ自身だって、エバンス家の令嬢のままだったら決して口にすることのなかった料理だろうから。
カイは黙々とフォークを口に運び続けている。
「えっと、無理しなくていいよ。私が食べたくて作っただけだし」
「あぁ」
そう言いながらも、パイを食べる彼のペースは少しも落ちない。アデリナは小首をかしげる。
「もしかして……おいしいの?」
カイは決まりの悪そうな顔でアデリナから目をそらす。アデリナはぷっと吹き出すように笑った。
「貧乏くさいって言ったくせに」
「食べてやってるのに文句を言うな」
「別に頼んでないですけど」
ちょうど夕食の準備の時間になったのか、数名の使用人たちがダイニングルームへと入ってきた。彼女たちはアデリナのパイに目を留めると、クスクスとさげすむような笑い声を響かせた。
アデリナは肩をすくめて聞こえないふりをしていたが、カイは音を立てて椅子から立ちあがると、彼女たちに冷ややかな視線を送る。
「教えてくれ。今の笑い声にはどんな意味があるんだ?」
カイににらまれた彼女たちは萎縮し、うつむくばかりで言葉はない。
「この屋敷で働き続けたければ、オーギュスト家の人間である俺の妻に敬意を払え」
「も、申し訳ありませんでした!」
バタバタと逃げるように厨房へと駆けこんでいく彼女たちの背中を見送ってから、カイはアデリナへ視線を移した。
「昔の威勢はどこへいったんだ?」
アデリナは苦笑して首を横に振る。
「ここで嫌われるのは仕方のないことだもの。彼女たちを責めないであげて」
アデリナはオーギュスト家にとっては仇だ。むしろ彼女たちの忠誠心は褒められるべきことだろう。
「堂々としていろ。誰がどう思っていようが、お前はカイ・オーギュストの妻だ」
アデリナは礼の代わりにカイにほほ笑んでみせた。
「そうだ。伝え忘れていたが、明後日の夜は空けておいてくれ」
カイはさらりと話題を変える。
「なにかあるの?」
アデリナにはなんの予定もないのだが、一応そう聞いてみた。
「総司令官の屋敷で夜会がある。それに招待されているんだ。結婚した以上、パートナーの同伴は必要だ」
総司令官はカイにとって唯一の上官に当たる人物だ。だが、カイの表情から察するに彼自身も特段楽しみにしているイベントではなさそうだった。
「や、夜会……」
アデリナの顔がひきつる。
「嫌いか?」
「好き嫌いじゃなく、もう何年も参加していないもの、作法も忘れたし、ワルツだって踊れない」
ミュラーに名を変えてからは、夜会に招待されることなど一度もなかった。この状態で参加しても恥をかくだけだろう。カイは「そんなことか」とほっとしたような顔を見せる。
「作法もワルツも不要だ。お前は俺の隣にいればそれでいい」
彼は頬を緩めてそう言ったが、アデリナは困り果てた。
アデリナが屋敷に来てもうひと月が過ぎたが、結局、ふたりが身体を重ねたのは最初の夜だけだった。顔を合わせれば普通に会話はするが、カイがアデリナの部屋を訪れることはなくなった。
アデリナは厨房でジャガイモを手に、考え込む。
(怒らせた、もしくはあきれられた?)
悪態をついたり、泣いて拒んでみたりと、良妻とは言いがたいアデリナの態度にうんざりしたのかもしれない。カイの本心が気になりつつも、アデリナははっきりと聞けないでいた。
聞いた結果、万が一にもまた彼と夜をともにすることになったらと思うと怖いのだ。行為そのものがではない。自分の心がどうなってしまうかわからないのが恐怖だった。彼を憎んでいるはずなのに……彼の腕に抱かれていると、なにも考えられなくなってしまう。アデリナはそれが怖かった。かといって、このままなにもなく日々が過ぎていくのも、自分の存在価値がわからず不安になる。
「はぁ」
「なにをしている?」
耳元にかかる吐息に驚き、アデリナはイモを落としてしまった。床に転がったそれをカイが拾う。
「カイ、戻っていたの?」
彼は出かけるときに着ていた訓練用の軍服からラフなシャツに着替えを済ませていた。シャワーを浴びてきたところなのか、清潔な香りがアデリナの鼻をふわりとくすぐる。
「あぁ。今日は予定より早く帰れた。で、お前はこんなところでなにをしてるんだ?」
カイに差し出されたイモを受け取りながらアデリナは答える。
「実家でよく食べていたジャガイモのパイを作ろうと思って」
この屋敷で出される料理はどれもこれも絶品なのだが、贅沢な味に慣れると不思議なほどに実家の素朴な味が恋しくなった。それにたまには料理をしないと腕が鈍る。
(ずっとここで優雅な暮らしを続けるわけじゃないんだから)
アデリナの答えを聞いたカイは途端に怪訝な顔になる。まぁ、彼がそう思うのは仕方がないことだ。貴族社会では料理は使用人の仕事だからだ。
「お前が作るのか?」
「そうよ。料理も掃除も自分でやってみると案外楽しいのよ」
アデリナは家事の素晴らしさを語ったが、カイはまったくピンとこないようだった。
だが、『ダメだ』とは言われなかったので、アデリナはカイを気にせずジャガイモの下ごしらえを始める。彼があまりに真剣な眼差しで見ているので、少し緊張する。
「そんなにジロジロ見ないでよ」
ナイフで皮をむきながらアデリナは口をとがらせた。
「器用だな。だが、材料はイモだけか? 貧乏くさい」
「これはイモだけで十分においしいの!」
カイはあれこれと口出しをしながら、結局完成するまでアデリナのそばにいた。
「よかったら、ひと口くらい食べてみる?」
オーブンから出したばかりの焼きたてのパイを切り分けて、アデリナはカイにもすすめた。
カイはダイニングルームに行儀よく座り、フォークを口に運ぶ。
「どう?」
我ながら上手に焼けたと、アデリナは自信を持っていた。食材もオーブンも実家よりずっと上等なので味も悪くないはずだ。だが、カイの反応は微妙なものだった。
「不思議な味だな」
アデリナは小さく息を吐いた。でもまぁ、考えてみれば高級食材に慣れ親しんだ彼の口に合わないのは当然のことかもしれない。アデリナ自身だって、エバンス家の令嬢のままだったら決して口にすることのなかった料理だろうから。
カイは黙々とフォークを口に運び続けている。
「えっと、無理しなくていいよ。私が食べたくて作っただけだし」
「あぁ」
そう言いながらも、パイを食べる彼のペースは少しも落ちない。アデリナは小首をかしげる。
「もしかして……おいしいの?」
カイは決まりの悪そうな顔でアデリナから目をそらす。アデリナはぷっと吹き出すように笑った。
「貧乏くさいって言ったくせに」
「食べてやってるのに文句を言うな」
「別に頼んでないですけど」
ちょうど夕食の準備の時間になったのか、数名の使用人たちがダイニングルームへと入ってきた。彼女たちはアデリナのパイに目を留めると、クスクスとさげすむような笑い声を響かせた。
アデリナは肩をすくめて聞こえないふりをしていたが、カイは音を立てて椅子から立ちあがると、彼女たちに冷ややかな視線を送る。
「教えてくれ。今の笑い声にはどんな意味があるんだ?」
カイににらまれた彼女たちは萎縮し、うつむくばかりで言葉はない。
「この屋敷で働き続けたければ、オーギュスト家の人間である俺の妻に敬意を払え」
「も、申し訳ありませんでした!」
バタバタと逃げるように厨房へと駆けこんでいく彼女たちの背中を見送ってから、カイはアデリナへ視線を移した。
「昔の威勢はどこへいったんだ?」
アデリナは苦笑して首を横に振る。
「ここで嫌われるのは仕方のないことだもの。彼女たちを責めないであげて」
アデリナはオーギュスト家にとっては仇だ。むしろ彼女たちの忠誠心は褒められるべきことだろう。
「堂々としていろ。誰がどう思っていようが、お前はカイ・オーギュストの妻だ」
アデリナは礼の代わりにカイにほほ笑んでみせた。
「そうだ。伝え忘れていたが、明後日の夜は空けておいてくれ」
カイはさらりと話題を変える。
「なにかあるの?」
アデリナにはなんの予定もないのだが、一応そう聞いてみた。
「総司令官の屋敷で夜会がある。それに招待されているんだ。結婚した以上、パートナーの同伴は必要だ」
総司令官はカイにとって唯一の上官に当たる人物だ。だが、カイの表情から察するに彼自身も特段楽しみにしているイベントではなさそうだった。
「や、夜会……」
アデリナの顔がひきつる。
「嫌いか?」
「好き嫌いじゃなく、もう何年も参加していないもの、作法も忘れたし、ワルツだって踊れない」
ミュラーに名を変えてからは、夜会に招待されることなど一度もなかった。この状態で参加しても恥をかくだけだろう。カイは「そんなことか」とほっとしたような顔を見せる。
「作法もワルツも不要だ。お前は俺の隣にいればそれでいい」
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