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邂逅 3
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「あら、猫ちゃん。見かけない顔ね。どこから来たの?」
私に気がついた彼女が膝を折って、手を差し伸べる。骨ばってかさついた、彼女のみじめな人生が目に浮かぶような手だった。
年の頃は、雪為の妻となる女とそう変わらないように見える。
本当に、人間の世とは残酷なものねぇ。
彼女たちの境遇の差に、心を痛める……なんてことは、もちろんしない。
私の知ったことではないし、なにより今日この日よりふたりの立場は逆転するだろうから。
静かになった異形たちに、雪為が気づかぬはずはない。
「誰だっ」
予想どおり、障子を開け放った彼が、私たちのいる庭に鋭い声を投げてきた。
この場にいるのは、私とゴボウのような少女だけ。
「まさか……本当に……」
雪為はおおいに困惑していた。
命姫の登場になのか、それともやっと現れた運命の女の貧相さにか、それは私にはわからない。
「申し訳ありません。騒がしかったでしょうか」
意外なほど凜とした声で、少女は言った。身分のない娘にしては、物怖じすることもなく堂々としている。
ふむふむ、あっちの媚び売り女よりは上等じゃない。
彼もそう感じたのだろう。
雪為はしばしの沈黙のあとで後ろを振り返り、きっぱりと告げた。
「たった今交わした結納は、悪いが破棄させてくれ」
座敷に座る数名に衝撃とざわめきが走る。紫道家の主人らしき男が立ちあがり、オロオロとすがるような声を出す。
「そ、それはいったい……我が娘、清子になにかご不満でも?」
「その娘はよくも悪くもないが、さきごろ、正式な妻はひとりのみと法で決まったからな」
雪為は白い足袋のまま庭におりてきて、私の隣でかがみ込んでいる少女に手を伸ばした。
「あの……?」
少女は目をパチクリさせて雪為を見つめた。ひるむ様子はない、見所のある娘だ。
雪為は少女ではなく、主人たちに向かって宣言する。
「我が妻はここにいる娘に決めた。早急に縁談を整えてくれ」
「い、いや。その娘は――」
父親の言葉をさえぎって、清子が前に歩み出る。美しい笑みを浮かべて、彼女は言う。
「まぁ、雪為さまったらご冗談を! その娘は出自の卑しい下働きですわ。雪為さまの視界に入れることすら恥ずかしい存在です」
清子は庭の少女にあざけるような笑みを向け、しっしっと手で払うような仕草をした。
「これ、初音。さっさと姿を消しなさい。雪為さまのお目汚しだわ。それに……なんだか嫌な匂いがする、鼻が曲がりそうよ」
この嫌みったらしい物言いはともかく……初音と呼ばれた少女から妙な匂いがするのは事実だった。さきほどから、私もそれを感じてはいた。
クスクスと底意地の悪い笑い声をあげる清子に、雪為はぞっとするほど残酷な声を発する。
「おい、女。東見の奥方になる人間にそんな口をきくとは、どういう了見だ」
「東見の奥方って……まさか、本気でおっしゃって?」
動揺と混乱に清子の声は震えている。
「本気だ。理由を説明する必要はないだろう。東見の当主がこの娘を妻にと、望んでいる。それ以上になにが必要だ?」
後半は清子ではなく、彼女の両親に告げていた。
「あ、あの~」
私の隣で、初音が間の抜けた声をあげる。
「なんだかお取込み中のようですが……私は厠掃除の途中ですので、これで失礼させていただきます」
なるほど、匂いの原因はそれか。差し出された手をうっかり舐めたりせずによかったと、私は細い首をすくめる。
「おいっ、待てー―」
「猫ちゃん。また遊びにきてね」
雪為の制止も聞かずに、初音はスタスタと去っていく。
彼女が消えた途端に、彼女の繭に閉じ込められていた異形たちがいっせいに解き放たれた。
やいのやいのと騒ぎ出す彼らの声と呆気に取られたような雪為の顔。
私はゴロゴロと喉を鳴らす。
これはいい退屈しのぎになりそう、そんな楽しげな予感がした。
私に気がついた彼女が膝を折って、手を差し伸べる。骨ばってかさついた、彼女のみじめな人生が目に浮かぶような手だった。
年の頃は、雪為の妻となる女とそう変わらないように見える。
本当に、人間の世とは残酷なものねぇ。
彼女たちの境遇の差に、心を痛める……なんてことは、もちろんしない。
私の知ったことではないし、なにより今日この日よりふたりの立場は逆転するだろうから。
静かになった異形たちに、雪為が気づかぬはずはない。
「誰だっ」
予想どおり、障子を開け放った彼が、私たちのいる庭に鋭い声を投げてきた。
この場にいるのは、私とゴボウのような少女だけ。
「まさか……本当に……」
雪為はおおいに困惑していた。
命姫の登場になのか、それともやっと現れた運命の女の貧相さにか、それは私にはわからない。
「申し訳ありません。騒がしかったでしょうか」
意外なほど凜とした声で、少女は言った。身分のない娘にしては、物怖じすることもなく堂々としている。
ふむふむ、あっちの媚び売り女よりは上等じゃない。
彼もそう感じたのだろう。
雪為はしばしの沈黙のあとで後ろを振り返り、きっぱりと告げた。
「たった今交わした結納は、悪いが破棄させてくれ」
座敷に座る数名に衝撃とざわめきが走る。紫道家の主人らしき男が立ちあがり、オロオロとすがるような声を出す。
「そ、それはいったい……我が娘、清子になにかご不満でも?」
「その娘はよくも悪くもないが、さきごろ、正式な妻はひとりのみと法で決まったからな」
雪為は白い足袋のまま庭におりてきて、私の隣でかがみ込んでいる少女に手を伸ばした。
「あの……?」
少女は目をパチクリさせて雪為を見つめた。ひるむ様子はない、見所のある娘だ。
雪為は少女ではなく、主人たちに向かって宣言する。
「我が妻はここにいる娘に決めた。早急に縁談を整えてくれ」
「い、いや。その娘は――」
父親の言葉をさえぎって、清子が前に歩み出る。美しい笑みを浮かべて、彼女は言う。
「まぁ、雪為さまったらご冗談を! その娘は出自の卑しい下働きですわ。雪為さまの視界に入れることすら恥ずかしい存在です」
清子は庭の少女にあざけるような笑みを向け、しっしっと手で払うような仕草をした。
「これ、初音。さっさと姿を消しなさい。雪為さまのお目汚しだわ。それに……なんだか嫌な匂いがする、鼻が曲がりそうよ」
この嫌みったらしい物言いはともかく……初音と呼ばれた少女から妙な匂いがするのは事実だった。さきほどから、私もそれを感じてはいた。
クスクスと底意地の悪い笑い声をあげる清子に、雪為はぞっとするほど残酷な声を発する。
「おい、女。東見の奥方になる人間にそんな口をきくとは、どういう了見だ」
「東見の奥方って……まさか、本気でおっしゃって?」
動揺と混乱に清子の声は震えている。
「本気だ。理由を説明する必要はないだろう。東見の当主がこの娘を妻にと、望んでいる。それ以上になにが必要だ?」
後半は清子ではなく、彼女の両親に告げていた。
「あ、あの~」
私の隣で、初音が間の抜けた声をあげる。
「なんだかお取込み中のようですが……私は厠掃除の途中ですので、これで失礼させていただきます」
なるほど、匂いの原因はそれか。差し出された手をうっかり舐めたりせずによかったと、私は細い首をすくめる。
「おいっ、待てー―」
「猫ちゃん。また遊びにきてね」
雪為の制止も聞かずに、初音はスタスタと去っていく。
彼女が消えた途端に、彼女の繭に閉じ込められていた異形たちがいっせいに解き放たれた。
やいのやいのと騒ぎ出す彼らの声と呆気に取られたような雪為の顔。
私はゴロゴロと喉を鳴らす。
これはいい退屈しのぎになりそう、そんな楽しげな予感がした。
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