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 その夜、俺は行きつけのダイニングバー『アンバー』のカウンターに座り、すっかり気の抜けてしまった生ぬるいビールのグラスを煽っていた。
 隣りには、ちびちびとカクテルグラスに口をつける夏樹の姿があった。
 平日ともあり店内の客は少ない。だが俺は、テーブル席から不躾に注がれる視線を感じて眉を顰めた。
「――隙あらばって感じ。ホント、人気者だよね」
 ボソッと呟いた夏樹はちらっと俺の方を見ると、大袈裟にため息をつく。
 俺に向けられている視線に気づいたのか、それとも自身に向けられている嫉妬にも似た負の感情に嫌気がさしたのか、夏樹の声は気怠げだった。
「この店だからいいようなものの、他の所だったら私……杉尾の知らないところでボコボコにされてるかもしれないね。みんなの目当ては美人の女王様クイーン。今夜の相手はこいつか? って思われて嫉妬されるのも迷惑だわ」
 大ぶりなセルフレームのメガネの奥の大きな瞳を細めて、カウンターの中のマスターに声をかける。
「――ね、マスターも同情してくれる?」
 アラフォーだというマスターの立石たていしは、男前であるが気取ったところがなく、気さくで優しい雰囲気を持った人だ。
 噂によれば、以前ホストをしていたようなのだが、知り合いから訳あってこの店を頼まれたらしい。
 その時の名残? なのか、この店の常連には『訳アリ』な客が多い。
 俺が立石と知り合ったのはこの店がオープンしてすぐの事だったが、その時この店はいわゆるゲイの社交場として使われていた。
 今はそれほど濃厚な雰囲気ではないが、当時は一夜のパートナーを求めて足を運ぶ、同じセクシャリティを持った者たちの憩いの場。そこでも俺は目立った存在だった。
 父親や兄に反抗しながら、自分の居場所を探していた。その心の隙間を埋めるのは、毎夜違ったパートナーと過ごす時間しかなかったからだ。
 男でも女でも構わない。心の中に大きく開いた穴を塞いで欲しかった。
「――夏樹ちゃん。それ、ここに来るたびに言ってるよね? 酔い、回ってる?」
 優しく微笑みながら問う立石に、夏樹がぶぅっと頬を膨らます。
「まだ一杯飲み終わってないし!」
「そうだったね。それにしても……今日の女王様クイーンはやけに大人しいな? 何かあった?」
「さぁ……。いきなり『飲みに行こう』って誘われて来たんだけど、何も話さない。何かあったんじゃない?」
 俺のことで勝手に盛り上がっている二人を横目でちらっと睨んで、カウンターに顔を伏せた。
(まったく他人事だよな……)
 そうは思うが、知らなくて当然だと言い聞かせると自然に諦めもつく。
 俺の考えていることがすべて分かるとしたら、それはもう特殊能力としか言えない。
「――で、一体何があったわけ?」
 やっとこちらに話を振った夏樹が、メガネ越しに俺を覗き込む。
 ド近眼だという彼女は、社内とプライベートでメガネを使い分けているようだ。一日中パソコンと向き合い、積算ソフトと図面を睨む彼女の眼精疲労は半端ではないだろう。
「自信家の玖音がここまで凹むって……相当だよね」
 立石もいつになく心配そうな顔で見つめる。
 二人の視線を感じてゆっくりと顔をあげると、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
 そして煙草を咥えて火をつけた。ふぅっと吐き出した煙の行く先を見るともなく見つめ、今日の出来事を思い出す。
 コンビを組み、常に行動を共にしている俺と華城。でも、俺の知らないところで彼は動いていた。
 クレーム対応――いや、早川とのやり取りにも驚いたが、何より新規案件の話が出ていることも知らなかった。
 新規の大口となれば、部長の松島が知らないわけがない。
 そのことを一言も俺に告げることなく華城と打ち合わせていたと思うと、悔しいというよりも虚しさを感じる。
 確かに――。俺は営業部の中ではお荷物的な存在であると自覚はしている。
 有名な設計事務所の所長の息子であるがゆえ、腫れモノに触るかのように接される時もある。
 俺の父親からの仕事もいくつか受注しているが、それは俺がパイプ役となっているからにすぎない。
 杉尾設計士の息子をとりあえず置いておけば、仕事がなくなることはないという大人の事情だ。
 そんなことは最初から分かっていたはずなのに……。なぜか虚無感に襲われる。
 無茶なことは数多くやってきた。それに伴って怒られたことは数知れず……。
 それでも……と、俺は自分の信念とプライドを貫いてきた。それが華城騎士という中途入社の男に振り回され、今までコツコツと築いてきたものが呆気なく崩れてしまいそうな気がしてならない。
 このままでいいのか……? と思う。
 先輩面している俺を陰で嘲笑っている彼を想像しるだけで怒りがこみ上げてくる。
 しかし、それが『恋心』を抱いている相手だけに怒りの矛先をどこに向ければいいか分からないのだ。
「失恋――ってことは、ないよね?」
 立石が何気に口にした一言が今は冗談に聞こえない。
 だが、この俺様が好きになった相手を諦めるなんて……あり得ない。
 下心丸出しで言い寄ってくる奴らを一体何のために冷酷な態度で振り払ってきたか。やっと巡り合い、本気になり始めた奴のことを早々に諦めるなんて事、出来るわけがない。
 もう二度と巡ってくることのない出逢いだと、俺は思っている。
 だから、華城との関係は俺なりにかなり気を遣って、間を縮めてきたつもりだ。
 この苦労も水の泡となり、俺は仕事への意欲を失い、片想いの相手までも失うのか……。
 それでは、ただの『道楽息子』の烙印を押されてしまう。
 父親や兄にも「ほら見たことかっ」とバカにされかねない。
「――絶対に嫌だ」
「え?」
 思わず呟いた言葉に、夏樹も立石も俺を見る。
「俺が俺じゃなくなる……? バカじゃないのか? あり得ない……」
 自分に言い聞かせるように口から発せられるのは呪文のような言葉。
「俺は俺だ……。他の誰でもない……」
 テーブルの一点を見つめ、指に挟んだ煙草の灰が散らかるのも気づかなかった。
「ちょ……と、杉尾? 大丈夫?」
 急に独り言を言い始めた俺を心配してか、そっと肩を揺らす夏樹の手でハッと我に返る。
 息を呑んで瞬きを繰り返すと、隣りにはポカンと口を半開きにしたままの夏樹がいた。
「――どうしたんだ、折原? そんな間抜けな顔して……」
 そう夏樹に問いかけた俺に、立石は黙って冷たい水が入ったグラスを差し出した。
 大きめに割られた氷がカチリと音を立てる。
「玖音、酔ってる?」
 不安げに眉を寄せた立石の問いかけに首を横に振る。
 わずかな時間。完全に自分の世界に浸っていたと気付くまでに少々時間がかかった。
 ここが行きつけのバーで、隣りには夏樹、そして立石もいるという事をすっかり忘れて、いろいろと考えを巡らせていた自分が恥ずかしい。
 夏樹をここに誘った事を思い出し、自嘲気味に微笑む。
 その瞬間、俺に注いでいた周囲の視線が熱を帯びる。
 スツールに腰掛けたまま、肩越しにテーブル席の方に視線を向け、そっと指先で唇をなぞってみせた。
 自他共に認める自由奔放な女王クイーンが顔を覗かせる。
「夏樹――。この俺に惚れられる男は超ラッキーだと思わないか?」
 グラスに口をつけていた夏樹がぶっと吹き出して、思い切り咳き込んだ。
 おしぼりで口元を拭いながら、涙目のままカウンターに肘をついて額を押さえる。
「ホントにあなたって人は……。どこまで面白いわけ?」
 呆れるでもなく、怒るでもなく、彼女は肩を揺らして笑った。
 きっと『何様のつもりだ?』と思っているに違いないが、彼女はそんな顔を表に出すことをしない。
 だから、付き合いやすいのだと思う。
 もしも自分の周りで、俺みたいな奴がいたら絶対に引くと分かっていながらも、自身を奮い立たせるように傲岸な態度を貫く。
 俺という存在を失わないために……。
「惚れられた男は大変だな……。女王様クイーンに一生飼い殺される」
 苦笑いを浮かべながら新しいカクテルを作る立石に、俺は誘うように目を細めてみせた。
「試してみる? マスター」
 ふっと視線をあげた彼だったが、興味がないというように「相手が違うんじゃない?」と軽く受け流すと、夏樹にカクテルを差し出した。
 俺の性癖を知っている立石は、たとえ常連客の枠を超えた繋がりがあったとしても必要以上に深入りすることはせず、あくまでも傍観者を貫く。立石が客に対して感情的にならないのは、常にフラットな状態を保っているからだ。
 だから夏樹と同様に何でも話せる相談役になっている。それに加えて口も堅い……。
「杉尾、あなたに誘われたから飲みに来たけど、なんだか趣旨変わってない? ナンパに付き合わされるなんて聞いてないからね」
「何となく一人じゃ嫌な時ってあるだろ? それ、だから……」
「うわ~。超ジコチュー。私の予定なんて聞く耳持たないクセに、自分の都合だけで生きてる……。ま、そこが杉尾らしいんだけどね。ってか、あんまり遊びすぎると彼に愛想尽かされるわよ!」
「それって噂の人? いつ、店に連れてくるかと楽しみにしてるんだけど」
「じゃあ、私が連れてこようか?」
 立石も華城のことは知っている。だが、この店にはまだ連れて来たことはない。
 飲みに誘っても何かと理由をつけて断る彼に、一時期は彼女がいるのでは? と勘ぐったこともあったが女性の気配どころか友人・知人の存在すらないように思える。。
 本人曰く、あまり飲みに出歩くことが好きではないらしく、仕事を終えると真っ直ぐに自宅マンションに帰るという毎日だ。
 スト―キングというレベルではないが、一度だけ彼を尾行したことを思い出す。
「なんで、お前が?」
 その場のノリで華城に電話でもしそうな夏樹の様子に、冷たい視線を向ける。
 夏樹はそんな俺の牽制を無視するかのようにスマートフォンを取り出して、いつ撮影したものか分からない盗撮まがいなアングルで華城を撮影した写真を立石に見せた。
「これ! 杉尾の標的ターゲット。それなりにイケメンでしょ?」
 興味津々という顔で身を乗り出して画面を覗き込んだ立石がニヤリと笑う。
「モテるんじゃない?」
「寡黙で真面目。落ち着いた大人の男って感じでしょ? 意外と狙ってる女子社員多いんだよね。それに気づいていないのは杉尾だけ」
「それ、マジかっ?」
 聞き捨てならない夏樹の発言に、俺の機嫌は急激に悪化する。
 凹んだ自分を立ち直らせ、華城への想いを新たにしたというのに。
「ほらね?」
 俺の反応をさも面白そうに笑いながら、立石に小首を傾げてみせた夏樹の肩を掴む。
「出会いの少ない業界だからね。手っ取り早く相手を見つけるなら社内。そこにイケメンがいれば誰も放ってはおかないでしょう? ま、私のタイプではないから、その点は安心して」
「お前のタイプって一体どんなだよ? 俺も無理、アイツも無理って……。もしかしてゲス専?」
「失礼ねっ。ストライクゾーンが狭いって言ってよ」
「そう言っていられるのも今のうちだぞ。あっと今にアラサ―、アラフォーだ」
「ムカつく……。マスター、おかわり下さいっ」
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「え? 杉尾、知らなかったの? これって社運掛かってるって営業の松島部長が息まいてたけど――。あ……ヤバい! この件に関しては口止めされてたんだった」
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「どういうことだ?」
 俺が問いかけるが、両手で口を覆ったまま『これ以上は言えないと』必死に目で訴えながら首を左右に振る。
「――ってか。そこまで言ったら、もう遅いだろ?」
「う――っ。何かあったら杉尾に拷問されて言わざるを得なかったって言おう……」
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 夏樹は自分のミスで口を滑らせてしまった事を後悔しながらも、渋々重い口を開いた。
「一つは早川専務のこと。あの人には黒い繋がりがあるみたいで、自分の融通のきく業者に仕事をやらせて、ピンはねしたお金を懐に入れているらしい。それを警戒した今居社長とF不動産の一部の人たちだけの間で、早川専務を排除する動きがあって、今回のプランに介入させないようにしてた。そこに入るテナントにF不動産が新規で立ちあげる事業があるみたいだから、早川の手が及ばないように画策しているんじゃないかって」
 昼間、華城が持ち出した新規の案件について、早川が何も知らなかったのはこういうことだったのかと納得がいく。
 しかし、華城がそれを早川に明かしてしまっていたが、良かったのだろうか……と心配になる。
 もしも俺を擁護するためにその話を持ち出したとすれば、華城が上層部から怒られるのは目に見えている。
「あとは……。地元の業者に依頼したいという今居社長の意向で、県外業者の参入を防ぐため……かな。民間案件だから今居社長の指名による見積入札になる予定だけど、今って仕事ないから、どんな手を使っても入ってくる可能性はあるでしょ?」
 バブル期に急成長した建設業界だが、今は確実に衰退の一途をたどっている。
 公官庁も予算に振り回され、民間も不景気の煽りを受けて、そうそう大きな建物を造るという余裕はなくなっている。どの案件も赤字覚悟で取り組まなければならないものばかりで、その積み重ねにより倒産する企業も今は少なくない。
 そのため、大手以外の企業は自分たちが生き残るために、ありとあらゆる手段を使ってもがく。
 地元業者が請け負ったとしても、実際に施工するのは県外の小さな会社が数社寄り集まって……というようなこともあり得るのだ。
 受注した元請けから一括で下請けに出すことは法律上禁止されているが、業種ごとに下請けに出せばクリア出来る。
「あと……」
「まだあるのか?」
「ん―。やっぱりやめておこうかな……」
「そこまで言ったら言えよ。気になるだろっ」
 夏樹は本当に困ったように眉をハの字にして悩んでいる。こんな事は滅多にないだけに、俺の方も絶対に聞き出さずにはいられない。
 足を止め、夏樹の二の腕をぐっと掴んで彼女の足も止めさせる。
 夏樹は「う―」と低く唸ったままだ。
「早く言え。終電逃すぞ」
 背の低い彼女がちらっと上目づかいに俺を見る。このままでは本当に拷問してしまいそうだ。
俺の無言の圧力に耐えられなくなったのか、夏樹はボソボソと手で口を押さえたまま呟いた。
「――杉尾建築設計事務所、だから」
「は?」
「だからぁ! あなたのパパの設計なのっ」
 多分、俺に誰も話そうとしなかったのはこの事が一番のネックになっていたからだと、腑に落ちる。
 設計士の息子がいる建設会社に依頼するということは、指名入札をすると公表している一方で癒着の可能性があると思われかねない。
 事実、父の設計だと分かっていて取った案件が、後々コネがあったんじゃないかと噂されたこともあったからだ。
 無名な設計事務所ならばどうってことはないが、メディアにも出てしまっている以上知らないとは言えない。
 それ故に、松島はこの件から俺を外そうと考えていたに違いない。
 だから相棒である華城にだけ話を通した……と考えていいだろう。
「そういうことか……」
 夏樹は俺の上着の袖を力任せに掴んで必死に訴えた。
「絶対に私から聞いたって言わないでよ! まだクビにはなりたくないからっ」
 もし、それがバレたとしても多少のお小言で済むだろう。彼女なしでは今の積算部は成り立たないのだから。
「言わねーよ」
「それに……今はまだ見積の段階で、大体の金額を算出するために関わっているだけで、うちがその指名に入るかどうかなんて分からないの」
 数社に依頼して図面を渡し、大体の金額を算出してもらったうえで、発注者が妥当だと思える予定金額を決めることはよくある。
 発注者の予算とあまりにもかけ離れた金額であれば、見送ることも視野にいれて協議される。
 今はまだ、その段階だと夏樹は言う。
「じゃあ、入札の公告なんてかなり先の話じゃないか?」
「そうよ! まだ、プランの段階だもん。だからあんまり公にしたくないってのが本音じゃないの? 場合によっては中止になることだってあり得るんだし」
 自分の不注意で俺にバレてしまったことに焦りつつ、まだ何の予定も立っていないことを強調する。
 俺はそんな夏樹の手を握ると、足早に歩き出した。
「え? えぇ? なにっ?」
 彼女を半ば引き摺るようにして駅にたどり着くと、夏樹は息を切らしてぐったりしていた。
 俺と彼女のコンパスの違いは明確だ。それに加えて、通り過ぎる人たちの嫉妬と興味が混じった視線をモロに受ければ、さすがの夏樹も体力的にも精神的にも疲れるのは当然だ。
「手ぇ、離してよぉ~。もう……」
 力なく振りほどく彼女の手をさらに強く握り、俺はその場で夏樹を抱き寄せた。
 ふわりと香る甘い匂いが、夏樹がまだ女性を捨てていない事を物語っていた。
「いやぁぁ~っ!」
 悲鳴にも似た彼女の声が駅のコンコースに響く。何事かと俺たちに視線を向けた人たちは、皆それぞれに納得したような顔で通り過ぎていく。
 公共の場で男に抱かれて叫び声をあげれば、誰もが『痴漢か?』と思うだろう。しかし、民衆の目は『泥酔した女に絡まれる美人サラリーマン』に見えているようだ。
 俺もそれを意識して少し困ったような表情で、夏樹を抱き寄せる。
「離せ~っ」
 彼女を苛めるのは非常に面白い。決して期待を裏切らないからだ。
「どんだけ俺が嫌いなんだよ……」
「全部よ、全部! 私が誰かに刺されたら、あなたのせいだからね! だから杉尾と歩くの嫌なんだよ~」
 心底嫌がっている彼女を解放し、俺は腕時計に視線を落とす。
「その時は線香の一本でもあげてやる。早くしろ! 電車くるぞっ」
 その場に夏樹を置き去りにし、俺は素早く自動改札を抜けた。
 ポカンと立ち尽くしている彼女を視界の端に捉えたまま、足早に階段を下り、滑り込んで来た電車に飛び乗った。その瞬間、ドアが閉まった。
 まんまと俺の罠に嵌まった夏樹が、最終電車をコンコースで見送ることになったのは言うまでもなかった。
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