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──鯨は、孤独であった。彼のその高く通る声は、生まれついての身体の奇形がもとであった。遍いて類を成す仲間達からは、奇異をまず先として接せられた。時に好意的に笑って接する者、対して気味悪がり寄り付かぬ者・・・。その両者以外に、彼への姿勢を別つ者は、彼を取り巻く広大な海にはいなかった。好意を持つ者といっても、形は様々なものである。中には、
「奴をただ傍から見てれば、話題にゃ困るこたない。あれから見て、良いやつと思われてりゃ、いつか奴を好いている奴らが、嫌ってる側の奴らに勝る日が来たって、難癖つけられない。逆の場合があったって、嘲っていただけ、と弁明できて、後にゃオイシイ思いが出来るさ」
そんなことを胸に秘めては、道化の如く振る舞うのも多かった。だから、彼から見える海とは、私達が普段に疲れて、吸い込まれるように眺める広い海と、同じくらいに「寛く」感じられただろう。
しかし、一つ違うことは、彼を孤独から遠ざけてくれる浅く暖かい海は、彼を見つけては近くでコソコソと物言う仲間のいる深さの海とは、余りに距離的に近過ぎたことだった。我々の海は、生活から離れているので我々を包み込むように優しい。広く、時間的にも長く感じられる。一方、彼の海は自由を感じるには余りに狭過ぎた・・・。
その、仲間のいる海は、鯨にとって、何でもない水圧であったし、少しだけ暗いというだけのところであったが、彼にとっては、他の鯨が泳ぐのに疲れて眠る迄の間、下の更に暗い方を俯いては、遠くに行ったり、近くに行ったりして待つ、「試練」を課せられる場所となった。
しかし、彼は、俯いた先の暗さの中にも、自分を見失わずに、更に暗い海でなお輝く小さな光を見ていた。(我々にとっては)マッチのような火が、彼の奥底の、今にも湿気ってしまいそうな細い薪を燃やして、「明日」を抱かせた。眠りから目覚め、又早くに輝く水面に向かって昇った先に、自分を認めてくれるような者との「出会い」を抱いて。
翌朝、誰よりも早く起きた彼は、昨日よりもっと水面に近く、あてどなく、しかしてふとすれば餌を求めて泳いでくる仲間とでくわしてしまうかもと思いつつ、水に浮いたビニール袋のように、プカプカと浮かんでいた。
──空は、広かった。
流れゆく雲の中、雄大ささえ感じるような大きな雲を、そこからちぎれた小さな雲が、親を追うように、それでも届かず、流れていった。それは、まだようやく大きくなったかという頃に、親とはぐれて今の群れに辿り着いた自分の境遇と重なり、とても悲痛だった。
なんだか海風も強くなり、時化も強くなってきたところで、深く沈むこととした。彼の「海」は、深い暗がりへと引きずりこまれることとなった。
仲間のいる海では、話し合いが行われていた。何でも最近、仲間の一人が餌を求めてあちこちと泳いでいたときに、ついぞ聴いたこともないような、いやに高く、体の芯まで振るわすような音を聴いたとのことであった。彼はその話し合いを聴いて、自分より更に高い声の者がいるのか、と驚くと同時に、何かそんな者がいるなら会ってみたい、そんな期待が、湧いて来ていた。
──しかし、鯨というのも、我々と同じく、群れという社会を形成している。その中での常識とされることはしばしば、どのような理不尽であれ、皆の総意として扱われると同時に、それに従わねば群れから追い出され、差別がされる。集団というものの中で多様性を保つというのは、そのような苦難を乗り越える必要があるのが常なのであるが、それにはやはり、久しき年月が真実を証明するか、もしくは全てが塗り替えられるに値する行動が求められた。
その騒動があってからというもの、群れでは不安の声が日に増した。噂では、かの「音」を聴いたが最後、その群れは皆姿を消してしまうのだと。際立って声の高かった孤独な「彼」は、群れからもまたいわれのない謗りもあって、更に距離を置かれた。
──「奴が例の音を引き寄せているんじゃないか?」
──「奴は俺たちが常にぞんざいに扱ってきたことについぞ恨まなかったことなんてない筈だ。」
かくして彼の群れの中での生活は藻屑となった。不安が大きくなるにつれ、かつては彼に同情して良い餌場を教えてくれたりした友の鯨もいたが、今となってはそれもまるでうわべのものになり、話かけてもぎこちない返事ばかりだった。しまいには、群れから出ていけ、と言わんばかりの目線や、わざと自分とスレスレの危ないところを泳いで邪魔する者もいた。
最初、彼もそれに抗い、弁明が聞き届けられる日を待った。自分の声の高いことは群れに入ったときから今まで変えようのないことじゃないか。しかも今回のようなことは何度もあったことじゃない、偶然を結びつけるなど真実に反している!
同時に、彼はそれから、「音とやらのヌシを見つけ出してやる!」そう言って、群れを飛び出した。しかしあまりに遠く離れ過ぎても、群れに戻れなくなっては意味がないので、何度も小刻みに群れの場所を確認しつつ、探しに出た。
何度も徒労に終わったのち、彼は早くに群れから出ては、遅くに戻る。そんな習慣へと変わってしまった。体の大きな鯨であっても、一頭では危険が何かと多い。しかしそれでも帰っては又折れずに探しに出る彼に、真に同情し、供する者が一頭、又一頭と現れていった。
増えていった仲間、いや同志たちは、群れの過半数を越すようになった。次第に群れの中でのかの「音」に対する認識というのも、共通の大きな敵に対する危機感と、彼とを結びつけたものでなくなり、彼もまた、それに後押しされるかたちで、同志達の筆頭となっていった。
そして、あるとき、同志の一頭が、かの「音」らしきものを聴いたと報せた。その場所を聞き出し、皆でそこへの路を一心に辿り、遂に辿り着いた。
そこは、魚達なども麗しく泳ぐ、楽園の如き様相を醸していた。全てに決着が着いて、これからを群れで生きるのなら、こんな場所も悪くない、そう思っていたその時であった。遠くから、自分でも聴いたことのないような、耳をつん裂くような、「音」が彼らの海域を襲った。逃げることすら頭からかき消されそうになりながら、彼らは混乱して散り散りになりつつ、まとまって逃げた。
それからというもの、彼らは「音」の後遺症に悩まされることになった。皆ストレスからか、何度も浅いところへ昇っては、沈む。昇っては、そして沈んだ。
いつしか彼らの身体は減圧症によるものか、ゴム風船のように膨れ上がった。意識を失うものも増えていき、「彼」も、同じであった。
──目を覚ますと、そこは今まで何よりも遠かった、陸であった。「彼」は薄れたままの意識で辺りを見ると、いままでみたこともなかった生物が、大量に打ち上がった同志達の身体を見て、騒いでいる。
「例の軍のソナーのせいじゃないか?あれのおかげで鯨の座礁が多くなったらしいぞ。」
「彼」の薄れゆく景色は、人々の頭上の空を映していた。そして──終わりを迎えた。
遠くの海で、一匹の鯨が潮を吹いた。虹を作って散ったその空では、小さな雲が大きな雲と重なって、そして、風が吹いた。
「奴をただ傍から見てれば、話題にゃ困るこたない。あれから見て、良いやつと思われてりゃ、いつか奴を好いている奴らが、嫌ってる側の奴らに勝る日が来たって、難癖つけられない。逆の場合があったって、嘲っていただけ、と弁明できて、後にゃオイシイ思いが出来るさ」
そんなことを胸に秘めては、道化の如く振る舞うのも多かった。だから、彼から見える海とは、私達が普段に疲れて、吸い込まれるように眺める広い海と、同じくらいに「寛く」感じられただろう。
しかし、一つ違うことは、彼を孤独から遠ざけてくれる浅く暖かい海は、彼を見つけては近くでコソコソと物言う仲間のいる深さの海とは、余りに距離的に近過ぎたことだった。我々の海は、生活から離れているので我々を包み込むように優しい。広く、時間的にも長く感じられる。一方、彼の海は自由を感じるには余りに狭過ぎた・・・。
その、仲間のいる海は、鯨にとって、何でもない水圧であったし、少しだけ暗いというだけのところであったが、彼にとっては、他の鯨が泳ぐのに疲れて眠る迄の間、下の更に暗い方を俯いては、遠くに行ったり、近くに行ったりして待つ、「試練」を課せられる場所となった。
しかし、彼は、俯いた先の暗さの中にも、自分を見失わずに、更に暗い海でなお輝く小さな光を見ていた。(我々にとっては)マッチのような火が、彼の奥底の、今にも湿気ってしまいそうな細い薪を燃やして、「明日」を抱かせた。眠りから目覚め、又早くに輝く水面に向かって昇った先に、自分を認めてくれるような者との「出会い」を抱いて。
翌朝、誰よりも早く起きた彼は、昨日よりもっと水面に近く、あてどなく、しかしてふとすれば餌を求めて泳いでくる仲間とでくわしてしまうかもと思いつつ、水に浮いたビニール袋のように、プカプカと浮かんでいた。
──空は、広かった。
流れゆく雲の中、雄大ささえ感じるような大きな雲を、そこからちぎれた小さな雲が、親を追うように、それでも届かず、流れていった。それは、まだようやく大きくなったかという頃に、親とはぐれて今の群れに辿り着いた自分の境遇と重なり、とても悲痛だった。
なんだか海風も強くなり、時化も強くなってきたところで、深く沈むこととした。彼の「海」は、深い暗がりへと引きずりこまれることとなった。
仲間のいる海では、話し合いが行われていた。何でも最近、仲間の一人が餌を求めてあちこちと泳いでいたときに、ついぞ聴いたこともないような、いやに高く、体の芯まで振るわすような音を聴いたとのことであった。彼はその話し合いを聴いて、自分より更に高い声の者がいるのか、と驚くと同時に、何かそんな者がいるなら会ってみたい、そんな期待が、湧いて来ていた。
──しかし、鯨というのも、我々と同じく、群れという社会を形成している。その中での常識とされることはしばしば、どのような理不尽であれ、皆の総意として扱われると同時に、それに従わねば群れから追い出され、差別がされる。集団というものの中で多様性を保つというのは、そのような苦難を乗り越える必要があるのが常なのであるが、それにはやはり、久しき年月が真実を証明するか、もしくは全てが塗り替えられるに値する行動が求められた。
その騒動があってからというもの、群れでは不安の声が日に増した。噂では、かの「音」を聴いたが最後、その群れは皆姿を消してしまうのだと。際立って声の高かった孤独な「彼」は、群れからもまたいわれのない謗りもあって、更に距離を置かれた。
──「奴が例の音を引き寄せているんじゃないか?」
──「奴は俺たちが常にぞんざいに扱ってきたことについぞ恨まなかったことなんてない筈だ。」
かくして彼の群れの中での生活は藻屑となった。不安が大きくなるにつれ、かつては彼に同情して良い餌場を教えてくれたりした友の鯨もいたが、今となってはそれもまるでうわべのものになり、話かけてもぎこちない返事ばかりだった。しまいには、群れから出ていけ、と言わんばかりの目線や、わざと自分とスレスレの危ないところを泳いで邪魔する者もいた。
最初、彼もそれに抗い、弁明が聞き届けられる日を待った。自分の声の高いことは群れに入ったときから今まで変えようのないことじゃないか。しかも今回のようなことは何度もあったことじゃない、偶然を結びつけるなど真実に反している!
同時に、彼はそれから、「音とやらのヌシを見つけ出してやる!」そう言って、群れを飛び出した。しかしあまりに遠く離れ過ぎても、群れに戻れなくなっては意味がないので、何度も小刻みに群れの場所を確認しつつ、探しに出た。
何度も徒労に終わったのち、彼は早くに群れから出ては、遅くに戻る。そんな習慣へと変わってしまった。体の大きな鯨であっても、一頭では危険が何かと多い。しかしそれでも帰っては又折れずに探しに出る彼に、真に同情し、供する者が一頭、又一頭と現れていった。
増えていった仲間、いや同志たちは、群れの過半数を越すようになった。次第に群れの中でのかの「音」に対する認識というのも、共通の大きな敵に対する危機感と、彼とを結びつけたものでなくなり、彼もまた、それに後押しされるかたちで、同志達の筆頭となっていった。
そして、あるとき、同志の一頭が、かの「音」らしきものを聴いたと報せた。その場所を聞き出し、皆でそこへの路を一心に辿り、遂に辿り着いた。
そこは、魚達なども麗しく泳ぐ、楽園の如き様相を醸していた。全てに決着が着いて、これからを群れで生きるのなら、こんな場所も悪くない、そう思っていたその時であった。遠くから、自分でも聴いたことのないような、耳をつん裂くような、「音」が彼らの海域を襲った。逃げることすら頭からかき消されそうになりながら、彼らは混乱して散り散りになりつつ、まとまって逃げた。
それからというもの、彼らは「音」の後遺症に悩まされることになった。皆ストレスからか、何度も浅いところへ昇っては、沈む。昇っては、そして沈んだ。
いつしか彼らの身体は減圧症によるものか、ゴム風船のように膨れ上がった。意識を失うものも増えていき、「彼」も、同じであった。
──目を覚ますと、そこは今まで何よりも遠かった、陸であった。「彼」は薄れたままの意識で辺りを見ると、いままでみたこともなかった生物が、大量に打ち上がった同志達の身体を見て、騒いでいる。
「例の軍のソナーのせいじゃないか?あれのおかげで鯨の座礁が多くなったらしいぞ。」
「彼」の薄れゆく景色は、人々の頭上の空を映していた。そして──終わりを迎えた。
遠くの海で、一匹の鯨が潮を吹いた。虹を作って散ったその空では、小さな雲が大きな雲と重なって、そして、風が吹いた。
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『音』の正体が、まさか、あれだとはね!騙されましたよ。
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