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第一章
逃れた者たち
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馬の蹄が地面を蹴る音が続くほどに、胸がとくとくと鼓動をはやめていく。この背に流れる汗を、この手綱を握る指の強張りを、らしくないと叱咤したらよいのか、それとも自分らしいと自嘲したらよいのか、シュナには判断がつかなかった。おそらくは、どちらも正解なのだろう。
いつだって冷静でいられるように努めているし、表向きはそう思われていることだろうと考える。しかし、こうして武器を携え出陣するとなると、こうも緊張で体が言うことを聞かなくなる。情けないことだ、と、シュナはひとつ小さく溜め息をついた。
「軍師殿、どうかされましたか?」
「オチ将軍。いえ、なんでもないのです」
浮かない顔をしたシュナに声をかけてきたのは、今回の作戦で先鋒を任せているオチという男だった。その場を執り仕切るシュナの隣に並び馬を走らせるオチは人懐っこい男で、将軍という位に就いているものの、兵たちや民たちからもよく慕われ、人気のある武将だった。腕は立つし、その気取らない優しさで、誰からも嫌われることがない。シュナは密かに、彼を見習いたいと思っていた。
「シュナ殿は落ち着いてるのですね、すごいなあ。私は久々の出陣で少しそわそわしてしまっているようです」
「それは、私もですよ。少し……緊張しているというか」
「おや、では私と同じですね!」
そう言いながらもニカリと大きく笑うオチは、とても緊張しているようには見えない。きっと素直に話せるようにと気を使ってくれたのだろうとシュナはわかっている。オチという男はまるで道化のように振る舞うが、よく人を見て、そして本当に優しくできるから、慕われるのだろう。
「見えてきましたね」
琰城から出てしばらく南へと馬を走らせた。見据える先には、件の賊が拠点としている村がある。
既に廃村であり、その原因は賊であるが、それは彼らではない。彼らが村へ来るより以前にひどく荒らされ、住んでいた者たちは散り散りになった。琰国と倫国の国境に近しい場所に位置するその村は度々戦火に見舞われ、今はもうすっかりと寂れてしまっている。家々もすでにかたちをなくしているものも多くあり、残っている建物もかろうじて建っているという表現が合っているように思う。
その様子に、誰もが眉を顰めた。このあたりの国境は現在とても曖昧ながら、琰国に属している。賑やかな琰城や下町の様子からは考えられないほどの様相であるが、この場所にいる誰もが、このような荒れた村はここだけではなく多く存在していることを知っている。
琰において最前線で働く者たちのほとんどが、貴族や名家の出ではなく、こういった農村の出身であった。故郷によく似た村がこうしてとても人の住む場所ではなくなっているのを見れば、どうしようもない憤りを感じてしまうし、いま国を率いる者としての至らなさを痛いほどに感じる。言葉は、誰もが何事も発することはできなかった。
村へは遣いを出し、既に賊の有力者と接触をしている。こちらに戦意はないこと、しかし略奪行為を続けるのであれば無視はできないこと、何か事情があるのであれば話し合おうといった旨を記した書状を渡してあり、またそれを届けた遣いの者も無事帰還し、争いなどには発展していないとの報告を受けている。
「楽に話せたらいいんですけどね」
先頭に立つオチはそう言って笑って見せた。笑いかけられたシュナは、静かに頷く。
こちらが知らせた刻限より前に、賊の一団は交渉の場である村の北側へと姿を見せる。当然ながら、武装していた。その殆どは歩兵であったが、騎兵もいくつか確認できる。
賊の隊列と動きを注視するシュナの瞳の鋭さと冷徹さは、彼の穏やかな立ち振舞いしか見たことのない人間であれば、きっと恐ろしくさえあるだろう。少し離れたところから彼を見ていたコハクは、その姿にやはりシュナという男は戦場に生きる者なのだと再感する。
「待っていたよ、書状は読んでくれたかい」
ともすると、間の抜けたようにも聞こえるオチの声が響く。オチの声は、さほど大きな声を出しているようにも感じないのに、驚くほど遠くまでよく通る。
「確かに受け取った。戦う意思はないとのこと、であれば何故そのように剣を構えているのか」
仮の棟梁のような立場だろうか、先頭に立つ男が声をあげる。声は理性的かつ厳粛な響きを持っている。交渉の場にまるで丸腰で挑むはずはないと勿論理解しながら、しかしこちらを推し量るような言葉だ。
「……ジン殿」
シュナが様子を見て、オチが言葉を探していた僅かな間に、コハクがポツリと呟いた。そして何か考えるような仕草の後、シュナの目を見る。
コハクは無言だったが、何か策があるような目をしていた。シュナはそれを見つめ、静かに頷いた。見守ることにしたのだ。シュナとコハクの付き合いは短いが、まるで信頼しきっているかのような呼吸である。
「それは、貴方がいると知っていたからです。ジン殿」
コハクは先頭に立つ男にそう呼びかける。その声は堂々としているようでいて、ほんの少し不安そうに震えているのを、すぐ傍で聞いていたシュナは気付いていた。
ジンと呼ばれた男は、しかしコハクの言葉を聞き、厳しく細められていた目を大きく見開いた。同時に、ほんの少し警戒が解けたように見える。
「コハク殿ではないか! いったい、何故ここに」
「北を追放されてから、今は琰にて世話になっているのです。琰王のクムラとは古い付き合いで……信頼に足る男ですから」
ジンという男は熱心にコハクの言葉を聞いていて、疑いを抱いているような様子はない。どうやら、コハクが沁国で客将をしていた頃の知り合いのようであった。
「クムラというのは、コハク殿ほどの男が信ずるに足ると評価する男なのか」
「ああ、ジン殿もやはり、エルハに……その……」
コハクは言葉に迷う。自らのことであれば、裏切られただとか、切り捨てられただとか、いくらでも言いようはあるのだが、それをかつての仲間に向けるのは憚られた。ジンたちは、沁王であるエルハの名を聞いた途端に嫌悪感をむき出しにする。
「あの男のことは、もう信用できぬ」
「そうだ、琰王と比べられるような器ではない」
口々に罵り始める男たちに、黙って聞いていたシュナもオチも驚く。
「あの、もしよければ事情を聞かせてもらえないか? 見たところ、あなたがたは元来、略奪を行うような、そんな御仁ではないでしょう。おれたちは知りたいんです、北で何が起きているのか」
寄り添うようにオチは話す。賊の男たちにオチを疑うような様子は見られない。それはオチが心から彼らを心配しているからだ。こういう心根のまっすぐさが、本当に人の心を掴む人なのだとシュナは思う。
「エルハ……あの男は、ついに狂ってしまったのかもしれん」
聞けば、沁王エルハは突然、誰のことも信じなくなったのだという。たった一人の軍師の言葉以外は、みな聞き入れなくなったのだと。
古参であるほどに重用される傾向にある沁において、中堅と呼べる程度のひとりの軍師の言葉だけを聞き入れるようになったが、きっかけは誰もわからない。エルハという男は、元より人の意見に流されやすく、やや判断力に欠けるところがあったものの、これは極端な変化だったと言える。
そんなエルハはその一人の軍師の言葉の通りに行動し、それに従わない者や反対する者、気に入らない者たちを次々に罰し、追放していった。
「コハク殿を切り捨てるようなことも、家臣たちは皆反対だった。けれど、誰も止められなかったのだ。思えば、コハク殿の一件が始まりだったように思う」
「……そうだったのか」
コハクは寂しいような、けれどほっとしているような、どちらともつかぬ声色で呟く。多くの者らが自分と同じ目にあっていることに対しては心苦しく思うが、自分の力不足で切り捨てられたわけではないのかもしれないということを考えれば、少しは気が楽になるからだ。
ひと通り話を終えた賊……北を逃れた者たちは、項垂れるように肩を落とし、怒気さえも消えた。その様子に、コハクはショックを受け、それ以上は何も言えなくなってしまった。
重い沈黙を破り、一歩踏み出してコハクに並び話し始めたのは、それまで口を閉ざしていたシュナだった。
「琰国は、コハク殿が哀れでその身を引き取ったわけではございません。彼の力……戦う意志、すべては乱世の終息のために尽力すると、その志を知り協力していくことを決めました」
シュナの話し始めたことは、唐突のようでいて、項垂れる男たちのための必要な言葉たちだった。誰もがシュナの姿から目を逸らさずに、その繊細な唇が紡ぐ言葉を、凛とした迷いのない言葉を、ただ聞いている。
「我が主、クムラはあなたがたが平穏を願い続ける限り、不当な扱いをしたりはしません。あなたがたがコハク殿と志を同じくしている者たちならば、クムラはその力を欲しています……私は政務官であり、軍師の任を仰せつかっておりますシュナと申します。どうか、あなたがたの力を私たちにお貸し願えませんでしょうか」
シュナはどこまでも丁寧な姿勢を崩さず、けれど立場のある者としての威厳もなくすことなく話す。そして静かに頭を下げるその美しい姿を、男たちはじっと見つめ、少し狼狽しているように見えた。それから戸惑うように、コハクのほうを見る。
コハクはシュナの誠意を無為にはしないよう、慎重に言葉を続ける。
「この通り、クムラやシュナ殿は……ただしい、人たちです。こんな私に将軍の位をも与えてくださった、とても人を大事にする国です。それは、私からも約束する」
コハクの言葉は、口下手で迷いのある口調ながらも、嘘偽りがない。同じ境遇にある男たちには、余計にまっすぐに響いた。
「信用しても……よいのだな」
「二言はありません」
その肯定には、一切の迷いはなかった。ジンをはじめとした一同は、ふう、といとつ息を吐く。
「あなたがたの誠意と願いは、この短い時間でもじゅうぶんに伝わってきた。だが、完全に身を任せると決められた訳ではない。まずはクムラ殿にお会いし、話をしたい」
それは、この場ではお互いに剣を抜くことなく、概ね協力に同意するという意味だ。これには琰軍だけではなく、ジンの後ろに控えていた者たちも、ほっと胸を撫で下ろすような雰囲気であった。
「もちろんです。話し合われている間の宿もご用意いたします。ついて来ていただけますか」
「ご案内、お頼み申す」
ジンたちはそこで初めて、ふと笑みを見せ、シュナの言葉に頷いた。
そうして見事、今回の任務では剣を交えることなく、琰城へと交渉の場を移すこととなったのだった。
誰一人欠けることなく、全員が琰城へと帰還し、そのままシュナは連れ帰った者たちとクムラとの交渉の場を整えるべく準備を始めている。従軍していた将兵らは各々休ませることとなり、コハクは帰ったばかりだというのに忙しくあれこれと部下たちに指示を出したり動き回るシュナを遠くから眺めていた。まったく、軍師というものは戦いを本質とする者ではないにせよ、相当タフでなければ務まらないものなのだなと、コハクはしみじみと思う。
手早く段取りが決まり、シュナがひと心地ついたところで、コハクはシュナに声をかける。少し離れたところで見られていたことに気付いていなかったらしいシュナは、少し驚いた顔をしていた。
「今日は助け舟を出していただき、感謝します」
「はて、何のことでしょう」
シュナは何のことかわからないというようでいて、けれど薄っすらと微笑んでいた。このどうにも表情の乏しい彼の、よく見なければわからないような変化にも、コハクは少しずつ慣れてきていた。
「私では、彼らを説得はできなかった。あなたのおかげです」
「私は何もしておりませんよ。すべてはコハク様の人望あってのことです。私はそこに、ひと言ふた言添えただけに過ぎません」
ひと言ふた言という程度のものではなかっただろうにとコハクは思ったが、言わなかった。
「……まあ、コハク様があのような話術をお持ちだったことには、少々驚きましたが」
「あ、あれは……自分でも、驚きました」
シュナが言っているのは、コハクが賊にジンという旧知の男がいることを、さも最初から知っていたかのように言ったことについてだ。
もちろん、コハクは賊の面々がどういった人物かなど、事前に知ってはいなかった。けれど、旧知の友を助けに来たのだということにしたなら、相手の警戒をうまく解き交渉が進みやすくなるのではないかとその場ですぐに考えたのだ。そしてそれは見事うまくいった。
「お見事でしたよ」
「からかわないでください、本当にどうなることかと……やはり、慣れないことはするものじゃない」
「ふふふ」
いつも悠然と構え堂々としているように見えるコハクが、事が済んでから妙な汗をかいている様が意外に見え、そしてなんとも愛らしく見えたシュナは、思わず吐息を漏らすように笑う。自分よりもずっと逞しい、男らしいひとがこんなにかわいらしく見えるなんてと、シュナは不思議に思った。
「お忙しいでしょうに、引き止めてしまい申し訳ありません」
「いいえ、では私はもうひと働き、してまいります」
「うまくいくよう、祈っております」
ありがとう、と小さく頭を下げ、シュナはコハクと別れ、クムラのもとへと向かった。
「シュナさま、卓の準備はこれで大丈夫ですか?」
クムラがいつも客人をもてなす部屋で、準備を進めていた側仕えのアンミがぱたぱたと忙しなく働いていた。部屋へと入ってきたシュナを見るなり、その人懐っこい笑顔で側に駆け寄ってきたが、シュナの顔を見るとすぐに驚いた顔をした。
「シュナさま、何かいいことがありましたか?」
「どうしてです」
「なんだか嬉しそうに見えました! ちがいますか?」
「……どうでしょうね」
アンミはいつも目敏いというか、細かいことによく気がつく子ではあるが、自分はそんなに顔に出ていたのかと、シュナは少し恥ずかしくなる。思わず、アンミの問いかけには曖昧な返事をしてしまった。
「さて、準備を終わらせてしまいますよ」
えー、教えてくれないんですか、と残念そうに言うアンミを嗜めて、仕事に戻るシュナ。働きながらも時折その細い指先は、緩んでいるような気がする口元をそっと揉み解すように添えられていた。
いつだって冷静でいられるように努めているし、表向きはそう思われていることだろうと考える。しかし、こうして武器を携え出陣するとなると、こうも緊張で体が言うことを聞かなくなる。情けないことだ、と、シュナはひとつ小さく溜め息をついた。
「軍師殿、どうかされましたか?」
「オチ将軍。いえ、なんでもないのです」
浮かない顔をしたシュナに声をかけてきたのは、今回の作戦で先鋒を任せているオチという男だった。その場を執り仕切るシュナの隣に並び馬を走らせるオチは人懐っこい男で、将軍という位に就いているものの、兵たちや民たちからもよく慕われ、人気のある武将だった。腕は立つし、その気取らない優しさで、誰からも嫌われることがない。シュナは密かに、彼を見習いたいと思っていた。
「シュナ殿は落ち着いてるのですね、すごいなあ。私は久々の出陣で少しそわそわしてしまっているようです」
「それは、私もですよ。少し……緊張しているというか」
「おや、では私と同じですね!」
そう言いながらもニカリと大きく笑うオチは、とても緊張しているようには見えない。きっと素直に話せるようにと気を使ってくれたのだろうとシュナはわかっている。オチという男はまるで道化のように振る舞うが、よく人を見て、そして本当に優しくできるから、慕われるのだろう。
「見えてきましたね」
琰城から出てしばらく南へと馬を走らせた。見据える先には、件の賊が拠点としている村がある。
既に廃村であり、その原因は賊であるが、それは彼らではない。彼らが村へ来るより以前にひどく荒らされ、住んでいた者たちは散り散りになった。琰国と倫国の国境に近しい場所に位置するその村は度々戦火に見舞われ、今はもうすっかりと寂れてしまっている。家々もすでにかたちをなくしているものも多くあり、残っている建物もかろうじて建っているという表現が合っているように思う。
その様子に、誰もが眉を顰めた。このあたりの国境は現在とても曖昧ながら、琰国に属している。賑やかな琰城や下町の様子からは考えられないほどの様相であるが、この場所にいる誰もが、このような荒れた村はここだけではなく多く存在していることを知っている。
琰において最前線で働く者たちのほとんどが、貴族や名家の出ではなく、こういった農村の出身であった。故郷によく似た村がこうしてとても人の住む場所ではなくなっているのを見れば、どうしようもない憤りを感じてしまうし、いま国を率いる者としての至らなさを痛いほどに感じる。言葉は、誰もが何事も発することはできなかった。
村へは遣いを出し、既に賊の有力者と接触をしている。こちらに戦意はないこと、しかし略奪行為を続けるのであれば無視はできないこと、何か事情があるのであれば話し合おうといった旨を記した書状を渡してあり、またそれを届けた遣いの者も無事帰還し、争いなどには発展していないとの報告を受けている。
「楽に話せたらいいんですけどね」
先頭に立つオチはそう言って笑って見せた。笑いかけられたシュナは、静かに頷く。
こちらが知らせた刻限より前に、賊の一団は交渉の場である村の北側へと姿を見せる。当然ながら、武装していた。その殆どは歩兵であったが、騎兵もいくつか確認できる。
賊の隊列と動きを注視するシュナの瞳の鋭さと冷徹さは、彼の穏やかな立ち振舞いしか見たことのない人間であれば、きっと恐ろしくさえあるだろう。少し離れたところから彼を見ていたコハクは、その姿にやはりシュナという男は戦場に生きる者なのだと再感する。
「待っていたよ、書状は読んでくれたかい」
ともすると、間の抜けたようにも聞こえるオチの声が響く。オチの声は、さほど大きな声を出しているようにも感じないのに、驚くほど遠くまでよく通る。
「確かに受け取った。戦う意思はないとのこと、であれば何故そのように剣を構えているのか」
仮の棟梁のような立場だろうか、先頭に立つ男が声をあげる。声は理性的かつ厳粛な響きを持っている。交渉の場にまるで丸腰で挑むはずはないと勿論理解しながら、しかしこちらを推し量るような言葉だ。
「……ジン殿」
シュナが様子を見て、オチが言葉を探していた僅かな間に、コハクがポツリと呟いた。そして何か考えるような仕草の後、シュナの目を見る。
コハクは無言だったが、何か策があるような目をしていた。シュナはそれを見つめ、静かに頷いた。見守ることにしたのだ。シュナとコハクの付き合いは短いが、まるで信頼しきっているかのような呼吸である。
「それは、貴方がいると知っていたからです。ジン殿」
コハクは先頭に立つ男にそう呼びかける。その声は堂々としているようでいて、ほんの少し不安そうに震えているのを、すぐ傍で聞いていたシュナは気付いていた。
ジンと呼ばれた男は、しかしコハクの言葉を聞き、厳しく細められていた目を大きく見開いた。同時に、ほんの少し警戒が解けたように見える。
「コハク殿ではないか! いったい、何故ここに」
「北を追放されてから、今は琰にて世話になっているのです。琰王のクムラとは古い付き合いで……信頼に足る男ですから」
ジンという男は熱心にコハクの言葉を聞いていて、疑いを抱いているような様子はない。どうやら、コハクが沁国で客将をしていた頃の知り合いのようであった。
「クムラというのは、コハク殿ほどの男が信ずるに足ると評価する男なのか」
「ああ、ジン殿もやはり、エルハに……その……」
コハクは言葉に迷う。自らのことであれば、裏切られただとか、切り捨てられただとか、いくらでも言いようはあるのだが、それをかつての仲間に向けるのは憚られた。ジンたちは、沁王であるエルハの名を聞いた途端に嫌悪感をむき出しにする。
「あの男のことは、もう信用できぬ」
「そうだ、琰王と比べられるような器ではない」
口々に罵り始める男たちに、黙って聞いていたシュナもオチも驚く。
「あの、もしよければ事情を聞かせてもらえないか? 見たところ、あなたがたは元来、略奪を行うような、そんな御仁ではないでしょう。おれたちは知りたいんです、北で何が起きているのか」
寄り添うようにオチは話す。賊の男たちにオチを疑うような様子は見られない。それはオチが心から彼らを心配しているからだ。こういう心根のまっすぐさが、本当に人の心を掴む人なのだとシュナは思う。
「エルハ……あの男は、ついに狂ってしまったのかもしれん」
聞けば、沁王エルハは突然、誰のことも信じなくなったのだという。たった一人の軍師の言葉以外は、みな聞き入れなくなったのだと。
古参であるほどに重用される傾向にある沁において、中堅と呼べる程度のひとりの軍師の言葉だけを聞き入れるようになったが、きっかけは誰もわからない。エルハという男は、元より人の意見に流されやすく、やや判断力に欠けるところがあったものの、これは極端な変化だったと言える。
そんなエルハはその一人の軍師の言葉の通りに行動し、それに従わない者や反対する者、気に入らない者たちを次々に罰し、追放していった。
「コハク殿を切り捨てるようなことも、家臣たちは皆反対だった。けれど、誰も止められなかったのだ。思えば、コハク殿の一件が始まりだったように思う」
「……そうだったのか」
コハクは寂しいような、けれどほっとしているような、どちらともつかぬ声色で呟く。多くの者らが自分と同じ目にあっていることに対しては心苦しく思うが、自分の力不足で切り捨てられたわけではないのかもしれないということを考えれば、少しは気が楽になるからだ。
ひと通り話を終えた賊……北を逃れた者たちは、項垂れるように肩を落とし、怒気さえも消えた。その様子に、コハクはショックを受け、それ以上は何も言えなくなってしまった。
重い沈黙を破り、一歩踏み出してコハクに並び話し始めたのは、それまで口を閉ざしていたシュナだった。
「琰国は、コハク殿が哀れでその身を引き取ったわけではございません。彼の力……戦う意志、すべては乱世の終息のために尽力すると、その志を知り協力していくことを決めました」
シュナの話し始めたことは、唐突のようでいて、項垂れる男たちのための必要な言葉たちだった。誰もがシュナの姿から目を逸らさずに、その繊細な唇が紡ぐ言葉を、凛とした迷いのない言葉を、ただ聞いている。
「我が主、クムラはあなたがたが平穏を願い続ける限り、不当な扱いをしたりはしません。あなたがたがコハク殿と志を同じくしている者たちならば、クムラはその力を欲しています……私は政務官であり、軍師の任を仰せつかっておりますシュナと申します。どうか、あなたがたの力を私たちにお貸し願えませんでしょうか」
シュナはどこまでも丁寧な姿勢を崩さず、けれど立場のある者としての威厳もなくすことなく話す。そして静かに頭を下げるその美しい姿を、男たちはじっと見つめ、少し狼狽しているように見えた。それから戸惑うように、コハクのほうを見る。
コハクはシュナの誠意を無為にはしないよう、慎重に言葉を続ける。
「この通り、クムラやシュナ殿は……ただしい、人たちです。こんな私に将軍の位をも与えてくださった、とても人を大事にする国です。それは、私からも約束する」
コハクの言葉は、口下手で迷いのある口調ながらも、嘘偽りがない。同じ境遇にある男たちには、余計にまっすぐに響いた。
「信用しても……よいのだな」
「二言はありません」
その肯定には、一切の迷いはなかった。ジンをはじめとした一同は、ふう、といとつ息を吐く。
「あなたがたの誠意と願いは、この短い時間でもじゅうぶんに伝わってきた。だが、完全に身を任せると決められた訳ではない。まずはクムラ殿にお会いし、話をしたい」
それは、この場ではお互いに剣を抜くことなく、概ね協力に同意するという意味だ。これには琰軍だけではなく、ジンの後ろに控えていた者たちも、ほっと胸を撫で下ろすような雰囲気であった。
「もちろんです。話し合われている間の宿もご用意いたします。ついて来ていただけますか」
「ご案内、お頼み申す」
ジンたちはそこで初めて、ふと笑みを見せ、シュナの言葉に頷いた。
そうして見事、今回の任務では剣を交えることなく、琰城へと交渉の場を移すこととなったのだった。
誰一人欠けることなく、全員が琰城へと帰還し、そのままシュナは連れ帰った者たちとクムラとの交渉の場を整えるべく準備を始めている。従軍していた将兵らは各々休ませることとなり、コハクは帰ったばかりだというのに忙しくあれこれと部下たちに指示を出したり動き回るシュナを遠くから眺めていた。まったく、軍師というものは戦いを本質とする者ではないにせよ、相当タフでなければ務まらないものなのだなと、コハクはしみじみと思う。
手早く段取りが決まり、シュナがひと心地ついたところで、コハクはシュナに声をかける。少し離れたところで見られていたことに気付いていなかったらしいシュナは、少し驚いた顔をしていた。
「今日は助け舟を出していただき、感謝します」
「はて、何のことでしょう」
シュナは何のことかわからないというようでいて、けれど薄っすらと微笑んでいた。このどうにも表情の乏しい彼の、よく見なければわからないような変化にも、コハクは少しずつ慣れてきていた。
「私では、彼らを説得はできなかった。あなたのおかげです」
「私は何もしておりませんよ。すべてはコハク様の人望あってのことです。私はそこに、ひと言ふた言添えただけに過ぎません」
ひと言ふた言という程度のものではなかっただろうにとコハクは思ったが、言わなかった。
「……まあ、コハク様があのような話術をお持ちだったことには、少々驚きましたが」
「あ、あれは……自分でも、驚きました」
シュナが言っているのは、コハクが賊にジンという旧知の男がいることを、さも最初から知っていたかのように言ったことについてだ。
もちろん、コハクは賊の面々がどういった人物かなど、事前に知ってはいなかった。けれど、旧知の友を助けに来たのだということにしたなら、相手の警戒をうまく解き交渉が進みやすくなるのではないかとその場ですぐに考えたのだ。そしてそれは見事うまくいった。
「お見事でしたよ」
「からかわないでください、本当にどうなることかと……やはり、慣れないことはするものじゃない」
「ふふふ」
いつも悠然と構え堂々としているように見えるコハクが、事が済んでから妙な汗をかいている様が意外に見え、そしてなんとも愛らしく見えたシュナは、思わず吐息を漏らすように笑う。自分よりもずっと逞しい、男らしいひとがこんなにかわいらしく見えるなんてと、シュナは不思議に思った。
「お忙しいでしょうに、引き止めてしまい申し訳ありません」
「いいえ、では私はもうひと働き、してまいります」
「うまくいくよう、祈っております」
ありがとう、と小さく頭を下げ、シュナはコハクと別れ、クムラのもとへと向かった。
「シュナさま、卓の準備はこれで大丈夫ですか?」
クムラがいつも客人をもてなす部屋で、準備を進めていた側仕えのアンミがぱたぱたと忙しなく働いていた。部屋へと入ってきたシュナを見るなり、その人懐っこい笑顔で側に駆け寄ってきたが、シュナの顔を見るとすぐに驚いた顔をした。
「シュナさま、何かいいことがありましたか?」
「どうしてです」
「なんだか嬉しそうに見えました! ちがいますか?」
「……どうでしょうね」
アンミはいつも目敏いというか、細かいことによく気がつく子ではあるが、自分はそんなに顔に出ていたのかと、シュナは少し恥ずかしくなる。思わず、アンミの問いかけには曖昧な返事をしてしまった。
「さて、準備を終わらせてしまいますよ」
えー、教えてくれないんですか、と残念そうに言うアンミを嗜めて、仕事に戻るシュナ。働きながらも時折その細い指先は、緩んでいるような気がする口元をそっと揉み解すように添えられていた。
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