金木犀の馨る頃

白湯すい

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本編

はじめてのコーヒー

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「あれ、今日は粉で買っていくのかい?」
 俺に渡されたおつかいメモを見たおじさんが、そう聞いてきた。
「はい。ミルが壊れちゃったって」
「ああ、それでか。わかったよ。じゃあ挽いて詰めてあげるから、ちょっと待ってね。そこ座ってな」
「いいの?」
 おじさんは俺に、座って待っていろと奥の席を指差した。そこは俺の憧れの席で、まだ子供なのに一人でそこに座れるなんてドキドキした。
「ああ、今はほかにお客さんも居ないしね」
「一人でおつかいに来れたご褒美に、お菓子でも食べていったらいいよ。クッキー、好き?」
「そ、そんな、お菓子は……」
「子供が遠慮なんてするもんじゃないよ。いつもチョコチップのを買っていくだろ」
「そうなんだ。じゃあ一緒に食べよ?お兄さんもちょうど食べたかったから、つまみ食いに付き合ってほしいなあ」
 あれよあれよと言う間に俺は奥の窓際の席に座らされて、洒落たお皿に好物のクッキーを並べられる。

「夕陽くん、コーヒーは飲めるの?」
「……コーヒーは、まだ、にがくて」
 素直にそう答えると、千蔭さんはそうだよね、と微笑んでくれた。
「ミルクたっぷりの、甘いのだったらどうかな?」
「…! 飲んでみたい」
「よしきた」
 にっこりと笑った千蔭さんは、腕まくりをしてカフェオレの準備をしてくれた。
 コーヒー屋さんで飲むコーヒーに憧れてはいたけれど、小学生の俺はまだコーヒーの苦味を美味しく感じるような味覚は持ち合わせていなかった。母の飲むコーヒーをこっそりとほんの少し、舐めるくらいにしか飲んだことがなかったけれど、苦くて渋くて酸っぱくて無理だった。

 でも、千蔭さんが淹れてくれるコーヒーは、飲んでみたいと思ってしまった。
 初めての一杯を好きな人の手で、なんてことに頭が回っていたわけではないけれど、素直にそう思ったのだ。

 ケトルから、しゅ、しゅ、と微かな音を立てながら湯気がのぼる。その横ではミルクもあたためられていて、コーヒーの香りの中にほんわりと甘い香りも混ざっていく。
 じっくりと温度を見ながら丁寧にハンドドリップをする千蔭さんの瞳は真剣そのもので。けれどどこか柔らかで穏やかな雰囲気はそのままだ。
 その姿を見ただけでも、千蔭さんはコーヒーがとても好きなんだろうということが子供ながらに理解できた。まっすぐな、そして愛おしそうな視線。それを少し離れた席から眺めて、その視線が心の底から、欲しくなった。

 もちろんそんな気持ち、そのときは自分自身で理解なんてできていなかったけれど。
 その目で俺を見てくれたらいいのに、なんて、そんなことがふと頭の中を過った。


「どうぞ」
 千蔭さんがそう言いながらふわりと笑って、目の前に置いてくれたカフェオレ。それが俺にとって、はじめての喫茶店で飲むコーヒー。
 今にして思えば、それはコーヒーというよりもホットミルクにほんの少しコーヒーを足したようなものだった。
「…っ、おいしい」
「ほんと? 良かった」
 けれどその僅かなほろ苦さを甘くミルクでやわらかく包んだようなやさしい味が、すごく美味しかったんだ。

 俺は今でもその味と、おいしいと言う俺を見て嬉しそうに笑うその笑顔を、ずっと覚えている。
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