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消えない願い

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「せんせ、水飲む?」
「うん、ありがと」
 ベッドの上でくったりとしている先生は眠ってはいなかったようで、俺がそう尋ねるとはっきりとした返事が返ってきた。
 まだほんのりと頬の赤みが残る先生はいつもよりも幼く見えて、ほんの少し距離が縮まったような、そんな気分にさせる。

 一線を越えたなら、もっと何かが変わるかと思っていた。たしかに前よりももっと強く先生のことが愛おしく感じるけれど、特別何かが変化するようなことはなかった。

「体、平気?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れただけ。今日はちゃんと家帰るでしょ?」
「うん。流石にね」
 卒業したとは言えまだ親元にいる身だ。母さんも卒業祝いを準備して待ってくれているだろう。

「……ほんとは帰りたくないけど」
 それでもやっぱりようやく繋がれた恋人と離れがたくて、先生をぎゅっと抱き締めながらそう言った。
「……僕も、そうだよ」
 多分先生は「そんなこと言ってないでちゃんと帰らないとな」とか大人としての台詞を言うのだろうと思っていたのに、ふいにそんな風に甘いことを言って俺の背中に腕を回してくれるものだから驚いた。
 驚いたけれど、すごく嬉しくて愛おしくて、俺は抱き締める腕の力をつい強くしてしまう。

「……ずっとこうしてたいなんて、この時間が永遠に続いてほしいな、なんて……そんなことを思っちゃうんだ」
「…………大丈夫。僕も、おんなじだから」
「なんか先生、今日は甘やかしてくれるね」
「ほんとはずっと、そうしたかったんだよ」
 先生はそう言って俺の肩にすりすりと頬を擦りつけて、俺が力を込めてぎゅうと抱き締めたことにも何も言わずに受け入れてくれる。ずっとこうして俺が触れることを許したかったんだと思うと、胸が締めつけられるような気分だった。
 俺はできることならこの締めつけられた痛みのようなものが、ずっとこの胸にあり続けてくれたらいいと思う。

 永遠なんて、ずっとなんてないって俺たちはよく知っている。けれど、願ってしまうんだ。こんなあたたかな気持ちの日がずぅっと続いてほしいだなんて、幼くてくだらない、けれど尊い願いを。
 それを自分も同じだと言ってくれる。今はそれだけで、ずっと寂しかった胸の中がじんわりと満たされていくような感じがした。


 それからは、俺たちはなんでもない二人になった。もう、先生と生徒でもない。大人と子どもでもない。ただ、普通のカップル……というわけにも、やっぱりいかないけれど。でも、ただちょっと歳が離れているだけの、恋人同士になった。
 大学生活は充実していて授業に課題に慌ただしく、週に何度かバイトもするようになって。でも休みの日や夜一緒に過ごせる日は二人で過ごした。驚くほど喧嘩なんかはしなかった。言いたいことは言って、でも言わなくても分かり合えるような不思議な感覚もあって、そんな風にいつも穏やかでいられる関係が愛おしくて、それを守り合うみたいに触れ合った。

 そんな風に日々を過ごして、俺はほとんど先生の家で半同棲状態になっていた。母さんをひとりにはできなくて完全に一緒に暮らすことにはなっていなかったけど、いよいよ俺が就職が決まってようやく、母さんに先生を俺の恋人として紹介して正式に一緒に暮らそうと覚悟が決まったのだった。

「せんせー、準備できた? もう母さん来てもいいよって」
「ちょっと待って……ああもう、でも待たせてもよくないよなぁ……」
 先生は親御さんに挨拶するんだからといって、少し髪を切っていた。ずっと心を閉ざして顔を隠すようにして伸ばしていた髪も、今は切るきっかけをなくしていただけでそのままだったのだ。ずいぶん久しぶりにさっぱりと顔の見える髪型になったのが見慣れなくて恥ずかしくて、鏡の前でうだうだと言っていた。
「まだ気にしてるの? 全然大丈夫、ふつーにかっこいいよ」
 俺は先生のためにというよりも、本心としてそう言った。事実、髪を切った先生は見違えるほど素敵になった。切ったと言っても長さ自体はあまり変わってないけど、その長い髪をすっきりまとめられるおしゃれな雰囲気になっていて、俺はつい失礼だと思いつつもまるで先生じゃないみたいだと思った。
「はあぁ、こんなときばかりは褒められても素直に喜べないな」
「別に母さんも見た目なんか気にしないよ。いい加減覚悟決めな?」
「うう……わかったよ」
 かつて、昔の恋人のことを親に打ち明けたことで家族と縁が切れてしまった経験がある人だから、親への挨拶で緊張するのも無理はないとわかる。けれど、こんなにも顔を青くすることはないのになと思う。俺も少しは緊張しているけれど、先生があまりにも緊張どころではない様子だから、俺は逆に落ち着いてきていたのだった。

 母さんには事前に恋人がいることも、それが男だということも伝えてあった。結構年上だということも、一応言ってある。少し驚いた顔をしていたけれど、何か言われることはなかった。
 ただ、それがあの日病院で会った高校教師だということは伝えられていない。そこは俺も先生も、どんな反応をされるだろうかと不安に思っているところだ。


 それでも胸を張れるのは、やっぱり後ろめたいことはしないという約束を守ったことと、これまで支え合ってこれた日々が自分を成長させてくれたという自信があるからだ。
 いまだ胃の痛そうな顔をして隣を歩く頼りないこの人が、俺を導いて前を向かせてくれた。

「はあ~~、胃だけじゃなくてなんか頭も痛くなってきた……」
「大丈夫、大丈夫」
「花崎の『大丈夫』は、なんか信用できないんだよな……」
「あははっ! そこは信じてよ」

 はやく俺の大切な家族に、こんなかわいくて素敵な人が俺の恋人なんだって教えたい。これまでの眩しかった日々の話を、聞いてほしいって思うんだ。
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