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まどろむ夢の中
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帰宅して、自分以外の人が過ごした形跡があることに違和感を覚える。まさか担任を持っているわけでもない自分が生徒を家にあげるどころか一晩泊めるだなんてことがあるとは思っていなかったし、自分以外の気配がこの家に残っていることなんて何年ぶりか。
自分の過去のことを花崎に打ち明けてしまったことは、後悔している。ふたりで過ごした後の片付けをしながら僕はもやもやと考えていた。考え事をするときは、決まって書斎に足を運んでしまう。
本棚の下段の扉つきの奥に綺麗にしまってある数冊のアルバムを取り出して、それを抱えながらソファに深く体を沈めて、どうして話してしまったのかなんてことを考える。
花崎はいつもクラスの中心にいて、誰にでも優しくてかっこよくて、それでいて心のどこかに傷があってそれを笑うことで誤魔化しているような子だ。
僕には、そんな人によく覚えがある。
取り出してきたアルバムをぱらぱらとめくる。
そこには、僕の行ったことがない世界各国の風景や人々の暮らしを撮った写真がぎっしりと入っている。どこをめくっても知った顔は出てこないが、その写真を見ているとはっきりと思い浮かんでくる顔がある。
「あさひ」
名前を呼んだところでその声を届ける先の人物はもう居ない。僕の知らないところへ居なくなってしまった。
ひょっとして本当は今も世界のどこかを旅して写真を撮って、名前の通りの太陽みたいな笑顔でまわりの人たちを照らしながら暮らしているんじゃないかと考えることがある。
でもきっとそれは空想、妄想、幻だ。
大切な人が死ぬっていうのは、どうしてこうも現実味がないのだろう。今見てもその写真たちからは朝日のぬくもりを感じるし、彼の声も言葉も、僕に与えてくれた愛だってこんなにも鮮明に思い出せるのに。何年経っても、死んだという事実だけが夢みたいに思える。
起こってしまった現実に心が追いついていないのは僕自身で、花崎にはあんな風に言ったけれど、本当はその言葉は花崎を励ますつもりでもなく、僕が僕自身を否定も肯定もしないために、ただ今のままであれるようにと吐き出した言葉だ。
だってこんな現実を、受け入れてしまいたくなんかない。心が追いついて、朝日が死んだことを全部理解して受け入れてしまったら、この寂しくて息苦しくて居心地の良い、曖昧な世界から抜け出さなきゃならないじゃないか。
彼と過ごしたこの部屋で、あのときそうしていたみたいに目を閉じれば、今も僕に呼び掛ける声が聞こえてきそうなのに。
『先生』
ああ、どうして花崎の声が聞こえるんだろう。ゆっくりと目を開いても、もちろんこの部屋どころか家の中には僕しか居ない。
朝日のことを思い出していたはずなのに、どうして花崎のことを考えてしまうんだろう。どうしてあの狭い教科準備室で、ふいに頬に触れられた指の温度を思い出すんだろう。
「冗談はよしてくれよ、いくら妄想だって言ったって」
僕がもう一度誰かを好きになれることなんてない。ましてや今頭に思い浮かぶのは子どもで、自分の生徒で。ほんの少しばかり昔の恋人に境遇が似ているというだけで、まったく似てなんかいない。いや、似ていたとしたって好きになることはないし、そうなるべきではない。
『志水先生ならいいかなって思ったんだよな』
『先生とのことだったら、どう思われたっていいやって思っちゃった』
『……先生?』
「孝文、お前もっとちゃんと自分の欲しいもの言わなきゃだめだぞ」
その声にハッとして目を見開くと、ジワジワとうるさく蝉が鳴く夏の庭に立つ朝日が居た。
「? どうしたんだよ、ぼーっとして」
「……僕がぼーっとしてるのはいつもだろ」
「ははっ、まあ確かにな」
日に焼けた肌に白い歯がまぶしい。ひょろひょろの僕なんかと違ってスポーツで鍛えられた朝日の細身ながらも筋肉質な体が羨ましかった。
「で、これは何?」
「それは木瓜だよ。前に来た時に花が咲いてるの綺麗だって言ってただろ」
「ああ、あのときのやつか。俺がお前の分もイチゴ食べてキレられたときの」
「そうだよ。あの時はまだこんなに暑くなかったのにな」
「お前はほんとに暑いのダメだな、シンガポールはもっと暑いぞ」
「げえ、僕は東京行ったときでさえしんどかったのに」
「東京の暑さとはまた別ジャンルだな」
朝日とこの家で過ごした夏はたったの二回だった。長いようで短い時間。ふたりで逃げるように移り住んだ家で、すごく穏やかな日々を過ごした。朝日はしょっちゅう長期で海外に行っていたから、ほとんどは僕が朝日の帰りを待つ場所だった。
それでよかった。朝日が帰ってくる場所に、僕が居られる。それだけでじゅうぶん幸せだった。
「孝文は行きたいところとかないの?」
「ないよ。国内にはあちこち行ってるだろ」
「まあ国内もいいんだけどな。世界はもっと広いし、知らないものがたくさんあるぞ」
「そうだな、行くなら暑くないところがいい。教師になったら長い休みなんてなかなか取れないけど」
「学校の先生ってのは大変なんだなあ」
「まあまだ経験浅いし、色々大変だよ」
「人のために頑張るのもいいけどね、孝文はもっと自分のやりたいことやりたいって言ってかないとだめだぞ。そのうちって思ってるうちに、すぐじーさんになっちまうんだから」
「まあ、お前はじーさんになる前に死んじゃったけどな」
僕がそう返すと、朝日は一瞬申し訳なさそうに笑って、それからまたいつものようにけらけらと笑っていた。
いつも決まって、朝日と過ごしていた日の夢を見る。このまま夢を見たままでいられたらいいのにと思うけれど、それができないことを知っている。生きている限り、眠ればまた目が覚めてしまう。だから僕はこうしてわざと夢から現実に戻すような台詞を吐いて、夢の中にいる朝日のことも、僕のことも傷つける。
これは僕の心の中にある傷をえぐって治らないようにするための作業だ。もうこれ以上僕の中に朝日への新しい感情は芽生えない。だったらこの悲しさを、寂しさを、朝日が居ない息苦しさを、鮮やかに保ち続けるしかない。
わざと綺麗な思い出に傷をつけて忘れられないようにする。そうすれば、このどうしようもない夢をずっと見ていられる気がした。
『先生』
うたた寝から目を覚ますと、アルバムを抱いてソファに寝転がったままの書斎に僕が居る。季節は過ぎて、夏はもう終わろうとしているし、今は朝日が生きていた数年前のあの日ではない。いつまでも夢に縋ろうとする僕を今に引き戻すみたいにして、花崎が呼ぶ声がした。
自分の過去のことを花崎に打ち明けてしまったことは、後悔している。ふたりで過ごした後の片付けをしながら僕はもやもやと考えていた。考え事をするときは、決まって書斎に足を運んでしまう。
本棚の下段の扉つきの奥に綺麗にしまってある数冊のアルバムを取り出して、それを抱えながらソファに深く体を沈めて、どうして話してしまったのかなんてことを考える。
花崎はいつもクラスの中心にいて、誰にでも優しくてかっこよくて、それでいて心のどこかに傷があってそれを笑うことで誤魔化しているような子だ。
僕には、そんな人によく覚えがある。
取り出してきたアルバムをぱらぱらとめくる。
そこには、僕の行ったことがない世界各国の風景や人々の暮らしを撮った写真がぎっしりと入っている。どこをめくっても知った顔は出てこないが、その写真を見ているとはっきりと思い浮かんでくる顔がある。
「あさひ」
名前を呼んだところでその声を届ける先の人物はもう居ない。僕の知らないところへ居なくなってしまった。
ひょっとして本当は今も世界のどこかを旅して写真を撮って、名前の通りの太陽みたいな笑顔でまわりの人たちを照らしながら暮らしているんじゃないかと考えることがある。
でもきっとそれは空想、妄想、幻だ。
大切な人が死ぬっていうのは、どうしてこうも現実味がないのだろう。今見てもその写真たちからは朝日のぬくもりを感じるし、彼の声も言葉も、僕に与えてくれた愛だってこんなにも鮮明に思い出せるのに。何年経っても、死んだという事実だけが夢みたいに思える。
起こってしまった現実に心が追いついていないのは僕自身で、花崎にはあんな風に言ったけれど、本当はその言葉は花崎を励ますつもりでもなく、僕が僕自身を否定も肯定もしないために、ただ今のままであれるようにと吐き出した言葉だ。
だってこんな現実を、受け入れてしまいたくなんかない。心が追いついて、朝日が死んだことを全部理解して受け入れてしまったら、この寂しくて息苦しくて居心地の良い、曖昧な世界から抜け出さなきゃならないじゃないか。
彼と過ごしたこの部屋で、あのときそうしていたみたいに目を閉じれば、今も僕に呼び掛ける声が聞こえてきそうなのに。
『先生』
ああ、どうして花崎の声が聞こえるんだろう。ゆっくりと目を開いても、もちろんこの部屋どころか家の中には僕しか居ない。
朝日のことを思い出していたはずなのに、どうして花崎のことを考えてしまうんだろう。どうしてあの狭い教科準備室で、ふいに頬に触れられた指の温度を思い出すんだろう。
「冗談はよしてくれよ、いくら妄想だって言ったって」
僕がもう一度誰かを好きになれることなんてない。ましてや今頭に思い浮かぶのは子どもで、自分の生徒で。ほんの少しばかり昔の恋人に境遇が似ているというだけで、まったく似てなんかいない。いや、似ていたとしたって好きになることはないし、そうなるべきではない。
『志水先生ならいいかなって思ったんだよな』
『先生とのことだったら、どう思われたっていいやって思っちゃった』
『……先生?』
「孝文、お前もっとちゃんと自分の欲しいもの言わなきゃだめだぞ」
その声にハッとして目を見開くと、ジワジワとうるさく蝉が鳴く夏の庭に立つ朝日が居た。
「? どうしたんだよ、ぼーっとして」
「……僕がぼーっとしてるのはいつもだろ」
「ははっ、まあ確かにな」
日に焼けた肌に白い歯がまぶしい。ひょろひょろの僕なんかと違ってスポーツで鍛えられた朝日の細身ながらも筋肉質な体が羨ましかった。
「で、これは何?」
「それは木瓜だよ。前に来た時に花が咲いてるの綺麗だって言ってただろ」
「ああ、あのときのやつか。俺がお前の分もイチゴ食べてキレられたときの」
「そうだよ。あの時はまだこんなに暑くなかったのにな」
「お前はほんとに暑いのダメだな、シンガポールはもっと暑いぞ」
「げえ、僕は東京行ったときでさえしんどかったのに」
「東京の暑さとはまた別ジャンルだな」
朝日とこの家で過ごした夏はたったの二回だった。長いようで短い時間。ふたりで逃げるように移り住んだ家で、すごく穏やかな日々を過ごした。朝日はしょっちゅう長期で海外に行っていたから、ほとんどは僕が朝日の帰りを待つ場所だった。
それでよかった。朝日が帰ってくる場所に、僕が居られる。それだけでじゅうぶん幸せだった。
「孝文は行きたいところとかないの?」
「ないよ。国内にはあちこち行ってるだろ」
「まあ国内もいいんだけどな。世界はもっと広いし、知らないものがたくさんあるぞ」
「そうだな、行くなら暑くないところがいい。教師になったら長い休みなんてなかなか取れないけど」
「学校の先生ってのは大変なんだなあ」
「まあまだ経験浅いし、色々大変だよ」
「人のために頑張るのもいいけどね、孝文はもっと自分のやりたいことやりたいって言ってかないとだめだぞ。そのうちって思ってるうちに、すぐじーさんになっちまうんだから」
「まあ、お前はじーさんになる前に死んじゃったけどな」
僕がそう返すと、朝日は一瞬申し訳なさそうに笑って、それからまたいつものようにけらけらと笑っていた。
いつも決まって、朝日と過ごしていた日の夢を見る。このまま夢を見たままでいられたらいいのにと思うけれど、それができないことを知っている。生きている限り、眠ればまた目が覚めてしまう。だから僕はこうしてわざと夢から現実に戻すような台詞を吐いて、夢の中にいる朝日のことも、僕のことも傷つける。
これは僕の心の中にある傷をえぐって治らないようにするための作業だ。もうこれ以上僕の中に朝日への新しい感情は芽生えない。だったらこの悲しさを、寂しさを、朝日が居ない息苦しさを、鮮やかに保ち続けるしかない。
わざと綺麗な思い出に傷をつけて忘れられないようにする。そうすれば、このどうしようもない夢をずっと見ていられる気がした。
『先生』
うたた寝から目を覚ますと、アルバムを抱いてソファに寝転がったままの書斎に僕が居る。季節は過ぎて、夏はもう終わろうとしているし、今は朝日が生きていた数年前のあの日ではない。いつまでも夢に縋ろうとする僕を今に引き戻すみたいにして、花崎が呼ぶ声がした。
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