この秘密を花の名前で呼んだなら

白湯すい

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事件

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 危なかった。さっきのは、本当に危なかった。
 とっさに顔に何かついてるなんて言って誤魔化してしまったけれど、本当はチョークの粉なんてついていなかった。いや、先生はたまにつけたままにしてしまっているときがあるけれど、今日の先生はつけていなかった。

 どうしてか、触れたくなってしまった。これまで無難に過ごしてきた自分がどうして先生とのことはどう思われてもいいと思うのか、それを考えたら、勝手に体が動いた……というより、自分の中に生まれた衝動に身を任せてしまいたくなったんだ。

 どうして自分がそうなってしまったのかに気づけないはずはなかった、悲しい思春期の自分だ。俺は先生のことがかわいくて、憧れで、好きなんだと気づいてしまった。


 思い当たるきっかけなんて、たくさんあった。わざわざ説明するのも馬鹿らしいくらいに。
 先生と出会って話すようになってから、夜までの時間が豊かになった。先生と話すことも、先生に教えてもらった本を読んで過ごすことも、とても心地よかった。先生は俺の悩みをこぼしても「そんなこともあるよね」と肯定して、秘密を知ってもそれを秘密のままにしてくれて、詮索もせずかといって無視するわけでもなく、何気ない普通の会話として接してくれる。
 気まずそうにしないでくれるどころか、俺と父さんの話をして笑ってくれた顔が……すごくかわいいと思ったんだ。

 ……いや、本当はきっと、あの海で出会ったときからだ。誰かもわかってない俺に、怖いくせにわざわざ危ないだろって心配してくれた。冷たくなった手にカイロを持たせてくれた。

 それだけで、きっとじゅうぶんだったんだ。



 そしてある日、事件が起きる。暑かった夏も終わりかけ、少し涼しくなり始めた日の午後だった。

『二年一組、花崎薫くん。至急職員室まで来るように』

 無機質だが少し慌てているかのようなその呼び出しの放送に、なんだか胸騒ぎがした。何かやらかした覚えはないし、いったいなんだろうかと思いながら職員室へ行った。

「失礼します」
 職員室に行くと、俺の顔を見るなり担任の木本先生が少し慌てた様子で声をかけてきた。

「ああ、花崎。今学校に病院から連絡があって、お母さんが事故にあって病院にいるらしいんだ」
「は、はい……?」

 どくり、と心臓がつよく脈打った。……まただ。俺は反射的にそう思った。
 父さんのときも、いちばん始めはこんな風に先生から呼び出しがかかったんだ。

「荷物まとめて、行ってあげなさい。花崎のところは母親ひとりだろ?」
「……は、わかりました……え、母さんは、無事なんですよね?」
「ひとまず命に関わるようなことはないだろうと聞いた。どこを打ったかにもよるが、詳しい検査結果はまだだと」
「…………っ」


 ばく、ばく、心臓の音がうるさくて、苦しい。どうしよう。……どうしよう。


「はなさき」

 俺が頭が真っ白になって動けずにいると、志水先生の声がした。振り返って目が合うと、先生がぱしっと背中を叩いてくれた。

「大丈夫か? 深呼吸して」
「は、はい」
「木本先生、僕が病院まで送ってあげてもいいですか? バスで行くより早いでしょうし、動転している生徒を一人歩かせるのも心配です。僕は今日もう授業ないですし」
「志水先生、頼めますか。ありがとうございます」
 志水先生がいつになく毅然とした態度でサッと話をつけて、病院まで連れて行ってもらえることになった。志水先生は小さく「ほら行こう」とわざと明るく言ってくれた。


 病院への道のりは余裕がなくて一言も喋れなかった。志水先生、車運転できたんだな、なんてどうでもいいことが頭に浮かんでは消えた。嫌なことを思い出してしまいそうなとき、こうして関係のないことが思考に浮かんでくる。今はなんだかそれが鬱陶しい。口を開けばもっと急いで、なんて言ってしまいそうだった。


「あら、薫。来てくれたの」
「母さん……!」

 結局母さんの怪我は大したことはなかったみたいだった。先生が話していたように精密検査の結果はまだだけど、簡単な検査では問題がなかったし、意識もはっきりしていて受け答えもしっかりしているようだった。

「ごめんね、心配かけて。びっくりしたでしょう。ただちょっとバイクにひっかけられちゃって、突然だったからうまく転べなかったの。骨にヒビが入っちゃったんですって」
「……っ、そ…っか……」
「嫌ね、歳とるとすぐに反応して動けなくって……」

 病院のベッドの上で、あちこちに擦り傷を作って足を吊られながらも、いつも通りおっとりと話す母さんを見て、一気に力が抜けた。変な汗がようやく止まって、やっと息ができるような気分だった。

 そんな状態だったから、つい気が抜けてしまったんだ。

「……よかった……」
「薫……薫、ごめんね。大丈夫だから。泣かないで……」

 ベッドの横で膝をついて、うまく立ち上がれないまま涙が止まらなかった。泣き顔を見られたくなくて、そのままベッドに突っ伏して泣いた。また大切な人が自分の元からいなくなってしまうのかと思って怖かった。俺はまだ母さんとうまく関係を戻せずにいるのに、そのままお別れなんて絶対に嫌だとすごく後悔した。

「……大丈夫。大丈夫よ。お母さん、ちゃんと元気だからね」

 そう言って頭を撫でてくれる母さんの手は昔みたいに優しくて、でも昔よりもずいぶんと細くて力が弱かった。
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