上 下
3 / 79
本編

3.お隣さん

しおりを挟む
 引っ越し作業はすぐに終わった。さほど広い家でもないし、東はもともと荷物がかなり少ない方だった。生活に関わるものよりも、キッチン周りのものを片付けるのが一番かかる。

 ご近所へのあいさつなんて、昨今あまりしたこともされたこともない。だから、するつもりはあまりなかった。
 しかし、ちょうど冷蔵庫や洗濯機などの大きな家電を運び入れているときに、ちょうどお隣さんと思しき人が隣の部屋のドア前に来て、鍵を取り出していた。
「こんにちは。すみません、荷解きとか、ちょっと騒がしくするかと思いますが……」
「あ、いえ、お気になさらず……」

 せっかく挨拶するのならにこやかに、さわやかに……メディアに出ているときの癖でついそんな風に気取ろうとしていたのに、どうにも歯切れが悪くなってしまったのは、そのお隣さんの顔を見てどうにも見覚えがあったからだ。お隣さんも、ふと顔を上げてこちらを見た途端、ぴたりと動きを止めた。
「あ、うちのお客さん、ですよね」
「……パティシエさん?」
「そうです、【ジュジュ】の。やっぱりそうだった」
 彼は、先日和山と話していた例の毎週土曜日のお客さんだった。家が近いと、こういう偶然もあるものかと東は思った。

「お隣に越して……ああ、ここ近いですもんね」
「そうなんです! 僕今までちょっと遠いところから通ってて」
 彼はお店に来ているときと変わらず、神経質そうな強面で、東の顔を見た瞬間はわずかに驚いていたようだったが、それからは表情をぴくりとも変えず、不愛想な印象を受けた。それでもなんとなく会話を続けてくれるし、愛想がないからと言って、話しかけられるのが嫌というわけでもなさそうだった。
「仕事柄、朝早くて物音するかもですけど、すみません」
「いえ、私は逆に夜遅いことも多いので……それにこのマンション、防音はかなりしっかりしてるので、あまり気にされなくても大丈夫かと思います」
「そうなんですね、良かった」
「それでは、荷解き頑張ってください。困ったことがあればいつでも」
「あ、ありがとうございます」
 そう言い残して彼は軽く会釈をして部屋に消えていき、ばたんと扉は閉じた。
 話し終わるまでの間、彼は一度も笑わなかったし、声色も低く一定で感情がまるでわからなかった。和山は「楽しくおしゃべりなんてするような人に見えるか?」と言っていたが、事実ちょっとしたおしゃべりはしてくれたと言っていいだろう。あまり楽しそうという風には見えなかったけれど。

 ちっとも笑ってくれない男でも、東にとっては不思議と怖くは感じなかった。彼の選ぶ言葉のひとつひとつがとても丁寧で、優しかったからだろうか。
「東さん、設置完了しましたので、サインいただけますか?」
「はぁい」
 そう、このニコニコと笑顔で対応してくれている引っ越し業者の人と同じくらい、彼を好ましく思った。こんなにもにこやかな人と、口角の一ミリも上がらなかった彼が。

「……不思議な人だな」
 そのことを東は面白いと思ったけれど、それからさらに交流が生まれるとは思えなかった。彼は土曜日にだけ来るお客さんで、自分はその時間にだってほとんど厨房に居る。生活時間帯が合わないようだったし、きっと交わらない。そもそも、一人のお客さんに入り込むのは良くない。
 それでも東は、自分のことをパティシエさんと認識していてくれたことが、なんとなく嬉しかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結・BL】DT騎士団員は、騎士団長様に告白したい!【騎士団員×騎士団長】

彩華
BL
とある平和な国。「ある日」を境に、この国を守る騎士団へ入団することを夢見ていたトーマは、無事にその夢を叶えた。それもこれも、あの日の初恋。騎士団長・アランに一目惚れしたため。年若いトーマの恋心は、日々募っていくばかり。自身の気持ちを、アランに伝えるべきか? そんな悶々とする騎士団員の話。 「好きだって言えるなら、言いたい。いや、でもやっぱ、言わなくても良いな……。ああ゛―!でも、アラン様が好きだって言いてぇよー!!」

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

おいしいじかん

ストロングベリー
BL
愛重めの外国人バーテンダーと、IT系サラリーマンが織りなす甘くて優しい恋物語です。美味しい料理もいくつか登場します。しっとりしたBLが読みたい方に刺されば幸いです。

貧乏大学生がエリート商社マンに叶わぬ恋をしていたら、玉砕どころか溺愛された話

タタミ
BL
貧乏苦学生の巡は、同じシェアハウスに住むエリート商社マンの千明に片想いをしている。 叶わぬ恋だと思っていたが、千明にデートに誘われたことで、関係性が一変して……? エリート商社マンに溺愛される初心な大学生の物語。

となりの露峰薫さん

なずとず
BL
恋をしたことがないセックス依存の男が、隣人に恋をするほのぼの話 ロングヘアのぽんわり年上受と寂しがりのヘタレな攻がひっつくまでと、ひっついた後の話になる予定です。 テーマは楽しんで書く、なのでゆっくりまったり進行、更新します。 掲載開始段階で書き終わっていないので、執筆に合わせて公開部分の加筆修正が行われる可能性が有ります。 攻 七鳥和真(ななとり かずま) 25歳 受 露峰薫(つゆみね かおる) 32歳 また書いていて注意事項が増えたら、こちらに追記致します。

僕を愛して

冰彗
BL
 一児の母親として、オメガとして小説家を生業に暮らしている五月七日心広。我が子である斐都には父親がいない。いわゆるシングルマザーだ。  ある日の折角の休日、生憎の雨に見舞われ住んでいるマンションの下の階にある共有コインランドリーに行くと三日月悠音というアルファの青年に突然「お願いです、僕と番になって下さい」と言われる。しかしアルファが苦手な心広は「無理です」と即答してしまう。 その後も何度か悠音と会う機会があったがその度に「番になりましょう」「番になって下さい」と言ってきた。

林檎を並べても、

ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。 二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。 ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。 彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。

生意気オメガは年上アルファに監禁される

神谷レイン
BL
芸能事務所に所属するオメガの彰(あきら)は、一カ月前からアルファの蘇芳(すおう)に監禁されていた。 でも快適な部屋に、発情期の時も蘇芳が相手をしてくれて。 俺ってペットか何かか? と思い始めていた頃、ある事件が起きてしまう! それがきっかけに蘇芳が彰を監禁していた理由が明らかになり、二人は……。 甘々オメガバース。全七話のお話です。 ※少しだけオメガバース独自設定が入っています。

処理中です...