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彼
浮気された彼の行く末-7-
しおりを挟む女が気の毒そうにこちらを一瞥した後、彰はこの世の終わりかのように泣きながら僕に謝ってきた。そんなにひどい光景だっただろうか。あの男に僕を殺す意思なんてなかった。寧ろ、あの男中谷を殴った時の方が絶対に恐ろしいだろうに。あの男は死んでも構わないのに、僕が傷付くのは許せないんだ。可愛いな。
「大丈夫。大丈夫だから」
「ごめん。本当にごめん」
廊下の奥で何かがひっくり返されガラスが割れたような音がする。またびくりと身体を震わせた彰を玄関から連れ出し、抱き締める。彰の体は硬く強張っていて、触れているのに何かに遮断されているようだ。僕は彰の背中をポンポンとゆっくり一定のリズムで叩いた。心拍数より少し遅い速度を示すことで緊張を解す効果があったはずだ。
「大丈夫。大丈夫。彰は悪くないよ。彰も大変だったね」
暫くすると、彰の身体が弛緩し嗚咽が小さくなってきた。彰が僕に密着し、恐る恐る僕の身体に手を回す。じわりと薄い膜が溶けていくように、僕の体温が彰の身体に移っていく。
「お父さん、いつもあんな感じなの?」
「……うん。俺が言うことを聞けないといつも……怖くて逆らえなくて。晴久にこんなこと……本当に、本当にごめん」
「ふふ。彰だって辛いのに謝ってばっか。別に僕は彰の家に来たことに後悔はないし、こんなことで初めて出来た好きな人を嫌いになるなんてあり得ないよ」
「晴久……」
「これ以上ここにいたら父さんの怒りを買いそうだから帰るね。また連絡するから」
名残り惜しそうにする彰に別れを告げ、隠していたボイスレコーダーを切る。民事裁判では録音データも役に立つし、この怪我なら被害届も書けるはずだ。父と懇意にしている医師に頼んで被害を大きめに書いてもらおう。
それにしても素晴らしい収穫だった。
彰の家庭状況も分かったし、弱みも握れた。彰を囲い込む方法も大方目処はついたし、これならすぐにかたがつく。彰の親が馬鹿な奴らで良かった。
それに何より、一連のことを彰は自分のためだと誤解している。自分のために傷ついて、自分を慰めて理解してくれた。そんな風に思ってる。彰のためじゃない。100パーセント僕のためにやったことなのに。別に嘘はついていない。僕は彰に先に言った。これは僕の為にやるんだよ、と。
彰はこれから僕のせいで機嫌が最高潮に悪い男に八つ当たりをされるのだろう。僕が来なければここまで怒る事もなかったのに。もう少し慰めても良かった。何があっても好きだよ、なんて甘い言葉を吐いたら彰はもっと落ち着けたはずだ。だけど、僕はそれをしない。彰は不安定に傾いて、恐怖と安心、自信と不安に溺れればいい。
そうすれば。
彰が僕なしじゃ生きられなくなるまでそう遠くない。
顔が勝手に笑っていたようで、唇の端が痛んだ。指で触ると、血が滲んでいる。
僕はその鉄くさい赤をペロリと舐めて、彰の歪んだ泣き顔を思い出した。
「ああ、これが愛しい気持ち」
それから僕は毎日彰を家に誘った。
「実は人を家に入れるのは、親以外で初めてなんだ」
彰が特別だと笑えば、無感情を装って喜びを滲ませる。受験勉強という名目だから彰の苦手分野を教えたが、その後は蜜を与えるように愛を囁きながら彰を抱く。彰は僕に黙って大学の志望校を変えていた。明確に止めはしない。ただ、彰の選択だから仕方ないね、寂しそうな顔をして見せたら少し考えて彰は志望校をもとに戻した。彰から欲しがって貰わなきゃ。毎日、好きだよとキスをしてからどうでもいい相手に連絡を返す。背中に彰の寂しげな不安げな視線を感じるとゾクゾクした。
彰が家に帰るのはいつも門限ギリギリになった。当然、彰と父親の関係はみるみる悪くなっていくし、僕は彰に気づかれないように彰の自由になりたいという無意識の願望を煽り続けた。彰の身体に僕以外がつけた青あざが増えていく。彰は日に日に痩せていき、肌ざわりも悪くなった。
「無理なら来なくていいよ」
あくまで彰に選ばせた。僕はあくまで請うことはなく、なんて事ないように選択権を渡す。その相手を気遣うような優しさは相手にとって自分の価値の低さを意識させるはず。彰は僕が選択肢を渡すと、少し間を置いてから硬い声で僕を選んだ。
「そういえば、彰はなんで僕を好きになったの?」
前より角ばった彰の肩を右腕で抱きながら、ありきたりなピロートークをしてみる。たっぷり愛した後、わざとそっけなくしているのだがその日はちょっと甘やかしてもいい気分だった。寝れていないのだろう、目の下にくまを携えた彰は眠そうにぽすんと僕の胸に頭を預けて、うつらうつら話し出した。
「晴久は覚えてないだろうけど、俺、中学に入って暫く浮いてたんだ……」
そうだっただろうか。僕が彰を認識した時、彰はなんの変哲もない群衆の一人だった。健康的で、年の割に大人びていて、同級生の女の子にちょっと人気などこにでもいるその他一人。浮いていた印象なんて全くない。
「……俺、中学入学と同時にこっちに引っ越してきたんだけど、ちょっと人見知りしちゃってさ。目つきも悪いし、浮けば浮くほど緊張で顔も怖くなっちゃうし……」
眠くて舌ったらずに話す彰は小さな子供のようだ。ああ言う家庭で育つ子供は大概、良い子ちゃんになる。常に顔色を窺い機嫌をとって、自分以外の者の感情を軸に動くから我儘も言わない。大人びて見えるはずだ。実際は歪な子供のまま成長出来なかっただけなのに。だが、精神的な成長を奪われたからこそ、彰は女里穂と違って僕の求めるものを持ち続けているのだろうか。
「……それで」
「うん……」
左手で彰の後頭部を撫でる。
なんだか僕に頭を擦り付ける彰が可愛くて可愛くて仕方ない。下りがかっていた僕の体温がじんわり上がって行くのを感じた。普段は遠慮してばっかで甘えてこないのに。なんだこれは。今の彰に僕の望んでいる屈折した何かはない。寧ろ、すごくまっすぐで単純で、ありきたりな何か。それなのに僕は彰が可愛くて胸がソワソワした。
まるで俯瞰的に存在していた僕の視点が、僕の身体に引き込まれていくみたいな。
「……一人だった俺に、晴久が……」
初めて味わう妙な感覚に動揺していると、彰は話しながら寝てしまっていた。一番大切なところを聞けていない。小さく寝息を立てて寝る彰を今一度抱き締める。
「今日は送って行くか……」
門限ギリギリまで寝ていてもよかったが、そうすると彰はあの男に折檻されるだろう。それが今は可哀想に思え、寝ている彰の身体を清め、服を着せてからタクシーで送った。
満たされているかは分からない。ただ、心が浮つく。まるで夢の中にいるような不思議な感覚は暫く僕の心に留まり、定着するかと思ったが、二間も経たずあっさり霧散した。
「ねえ、なんか言う事ない?」
彰が僕を避け始めた。学校では友だちのように振る舞って欲しいと言われてたから今までもそうしてきた。友人の中でも特に仲が良いよね、と言われるくらいの接触で恋人としての接触は禁止。
「晴久がホモだって思われちゃうから……」
青い顔で下手な苦笑いを浮かべながら言う彰に、過去の僕は特に反論しなかった。僕と接触する時はいつだって人の目を気にして、普通のスキンシップだって彰の中の許容範囲を超えると怯えるように拒否された。僕のことをなんだって赦す彰でもそこだけは頑なで、強行したら逃げられそうで従っていたがこうとなると話しは別だ。
「ないよ」
僕を前にすると優柔不断に震える声が、その時はやけにきっぱりとしていた。僕より少し背の低い彰は、視線を下げたまま「それじゃ、行くね」と逃げていく。まだ、不思議な感覚に陥っていた僕は不機嫌になりつつも、彰の意思を尊重しようとした。流石に追い詰めすぎて疲れているのかもしれない。少し自由にせてあげよう。そんな馬鹿なことを考えて。
だから、彰が初めて家に来ることを拒んでも甘んじて受け入れた。次の日はちゃんと僕の家にやって来たし、抱けば彰は溺れるように感じ入っている。計画は少し狂ったが、それもまたしょうがない。彰はもう僕のだから。大丈夫。根拠の無い自信でなぜか安心している。それは分かっていても、今はそれでいいとたかを括って。
「おー、吾妻。これ三組の齋藤、あ、彰の方な。渡しといてくれ」
理系の教師にしては珍しくコミニュケーションに長けた教師はそう言って茶色い封筒を僕に渡して来た。良識を持つお前なら大丈夫。勝手にその封筒の中身を見ないだろ。そんな信頼が人好きのする顔に浮かんでいた。別にこの教師だけではない。僕は成績も良いし、模範的な行動をする生徒として殆どの教師からの信頼を得ていた。
……その教師は彰の授業を持っていないが、進路指導を担当している。
嫌な予感がした。
封筒を受け取り、わざと人通りの少ない廊下を進む。
……何かが僕の中から抜けていく気がする。
僕は躊躇いなく、その封筒を開けた。
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