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番外編
その後6
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このところどうにも憂鬱で、日中何をするでもなくソファーに寝転がって天井を見上げることが増えた。考えるのはどうすれば良かったのかということばかり。
コニーの授業はきちんと受けている。
今日も文字を書く練習がてら手紙を書いて刺繍を習った。時候の挨拶ならなんの問題も無く書けるようになったし、辞書を引きながらこの国の言葉を書くこともできるようになった。最初は見たままを書いているつもりなのに日本語になってしまうことも多かったのでかなりの進歩だ。刺繍だって、コニーのように裏側も綺麗なんてふうにはいかないがそれなりに見れるようにはなってきた。少なくとも針を指に刺すことはもう無いと自信を持って言える。
ああ、それから組み合わせによっても意味が変わる難解な花言葉だって少しは覚えてきたし、よくコニーとお茶をするからアフタヌーンティーの食べる順番だってばっちりだ。でもこれがいったいなんの役に立つと言うの? そんな苛立ちと焦りが常にあった。そこに不安が加わってしまったものだからまた焦りだけが大きく育っていく。一般常識の範疇なのかもしれないが私は習ったことをいったい何に生かせばいいのだ。それすらも分からないほど私にはこの世界の常識が無いのに。
今だってこうして考えごとをしながら美しい所作で紅茶を飲んでいるだけ。向かいに座るコニーもサーブするナンシーも何も言わない。カップの持ち方上げ方下げ方、そもそもの座る姿勢からダメだしされていたことを思えばかなりの進歩である。
私はいったい何をしているんだろう? 零れそうな溜息を押し殺した。そんな状態では当然私の表情は暗く、悩みがあるのかと聞かれてしまった。正直、言えることの方が少ないけど少しだけ不安を吐露する。
「まあまあ、旦那様は大層お嬢様を愛しておられますよ」
「そうですよ、お嬢様。旦那様はお嬢様に骨抜きなのですから不安になることなんてありませんわ」
ナンシーは微笑ましいものでも見るように言って、コニーは自信満々にそう言ったが、私の不安は払拭されない。
客観的に今の状況を見れば大事にされていることは分かる。けれど不安になるのだ。熱を出したあの日以来、関係を持っていない。せいぜい額やつむじへと送られるキスだけ。これでどうして不安になるなと言えるのだろう。そう思ったけれど、彼女達には言えなかった。
+++++
髪に触れる感触で目が覚めて、自分がいつの間にか寝ていたことに気付いた。もはや私の定位置と化したソファーに寝転がって天井を見る私の視界にその人は映らないが、こんなふうに私の髪に触れるのは一人しか居ない。
「お帰りなさい」
「ただいま」
細められた目に宿る感情はもう分からない。それが自分への情だという自信を失くしてしまったから。それでも疎ましく思う女の髪を梳く男の存在を少なくとも私は見聞きしたことがないから、きっと大丈夫だと手を伸ばしてキスをねだった。
唇が触れたのは額と頬。……もうだめなのかもしれない。それでも一縷の望みに縋って離れようとする顔を捕まえて唇を奪った。そのまま舌を絡めて欲に溺れてしまいたいのに唇を舐めても食んでも口を真一文字に結んだまま応えてくれない。応えてくれないのに拒否もしないのだから、私は余計に分からなくなる。
「ビリー、シよ?」
上手い誘い文句なんて出てこなかった。他の男の人だって知らないし、それに何より手を伸ばせば、唇を寄せれば、この男はいつだって応えたのだから。だから左手を捕まえて胸へと導いた。
視線が絡むことも言葉を交わすこともないあの浴室だったら、間違いなく私の身体をまさぐっていた男がそっと手を引いた。正直、信じられなかった。
「……どうして」
思わず、微かに空気を震わせる声量でそう零していた。疑問を口にする気なんて無かったが零さずにはいられなかった。ともすれば責めているようなこの言葉が目の前の人に届いていませんように、そう願ったけれど悲しげにこちらを見つめる顔を見れば聞こえてしまったのは一目瞭然だった。
「いまさらだと思うかもしれないが俺はミチルを大事にしたいんだ」
「……なにそれ。意味わかんない」
「大人として手を出すことはできない。ミチルがもう少し大人になるまではしない」
「はっ、言うにこと欠いて子供扱い? 私もう二十五よ? 二十五歳が子供だと言うの?」
本気で何を言っているのか理解できなくて鼻で笑ってしまった。
「はっ? ミチル、もう一回年齢を教えてくれ。上手く聞き取れなかったみたいなんだ」
鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔でビリーはこちらを見ている。腹は立っているがちょっと気が抜けた。
「二十五歳」
そう言えば呆然としたまま繰り返すのだ。
「……にじゅうごさい?」
「そう」
「俺と四つしか違わないじゃないか! 冗談だろう!?」
「え! 嘘、二十代!?」
いやいや、ちょっと待って? 冗談でしょ? え、冗談じゃない? ……ごめん、ビリー私あなたのこと若くても三十半ばだと思ってました。
二人の間に奇妙な沈黙が流れて、私の怒りも完全に冷めた。
「あー、その、すまない。きちんと聞くべきだった」
「いや、こちらこそすみません」
そうなのだ、東洋人は他の人種から若く見られるって聞いたことは何度もある。ここが異世界だとしてもそりゃあ実年齢より若く見られるだろう。そのことが頭からすっぽりと抜け落ちていたのは私の落ち度だ。
「……話し合うべきだったんだろうな」
ビリーの唐獅子似の迫力満点の顔はこうして眉尻が下がると途端に情けなくなる。けれど私はこの表情が好きだったりする。なぜだか仕方ないなって全部許したくなるのだ。実際もう許したし年上に言うことじゃないかもしれないが甘やかしてやりたくなる。惚れた弱味というやつだろうが、人に説明するなら土産物のシーサーの愛嬌が一番近いだろうか。
「話し合おうよ、ビリー。今からでもさ。……私、ずっと、何を話したらいいのか分からなかった。でもこうして当たり前のように一緒に居られることがただ嬉しくて、いつもまた今度でいいやってそう思ってた。明日もその次の日も、あなたと居られるんだからそのうち、って 」
「目が合うといつも笑うだろう。それだけで幸せだったから充分だと思ってしまったんだ。だがそうじゃなかったんだな……。今後はどんな些細なことでもいいんだ、なんだって俺に聞かせてくれないか」
「あなたもね」
もしかしたら、私達は今初めてお互いと向き合ったのかもしれない。
コニーの授業はきちんと受けている。
今日も文字を書く練習がてら手紙を書いて刺繍を習った。時候の挨拶ならなんの問題も無く書けるようになったし、辞書を引きながらこの国の言葉を書くこともできるようになった。最初は見たままを書いているつもりなのに日本語になってしまうことも多かったのでかなりの進歩だ。刺繍だって、コニーのように裏側も綺麗なんてふうにはいかないがそれなりに見れるようにはなってきた。少なくとも針を指に刺すことはもう無いと自信を持って言える。
ああ、それから組み合わせによっても意味が変わる難解な花言葉だって少しは覚えてきたし、よくコニーとお茶をするからアフタヌーンティーの食べる順番だってばっちりだ。でもこれがいったいなんの役に立つと言うの? そんな苛立ちと焦りが常にあった。そこに不安が加わってしまったものだからまた焦りだけが大きく育っていく。一般常識の範疇なのかもしれないが私は習ったことをいったい何に生かせばいいのだ。それすらも分からないほど私にはこの世界の常識が無いのに。
今だってこうして考えごとをしながら美しい所作で紅茶を飲んでいるだけ。向かいに座るコニーもサーブするナンシーも何も言わない。カップの持ち方上げ方下げ方、そもそもの座る姿勢からダメだしされていたことを思えばかなりの進歩である。
私はいったい何をしているんだろう? 零れそうな溜息を押し殺した。そんな状態では当然私の表情は暗く、悩みがあるのかと聞かれてしまった。正直、言えることの方が少ないけど少しだけ不安を吐露する。
「まあまあ、旦那様は大層お嬢様を愛しておられますよ」
「そうですよ、お嬢様。旦那様はお嬢様に骨抜きなのですから不安になることなんてありませんわ」
ナンシーは微笑ましいものでも見るように言って、コニーは自信満々にそう言ったが、私の不安は払拭されない。
客観的に今の状況を見れば大事にされていることは分かる。けれど不安になるのだ。熱を出したあの日以来、関係を持っていない。せいぜい額やつむじへと送られるキスだけ。これでどうして不安になるなと言えるのだろう。そう思ったけれど、彼女達には言えなかった。
+++++
髪に触れる感触で目が覚めて、自分がいつの間にか寝ていたことに気付いた。もはや私の定位置と化したソファーに寝転がって天井を見る私の視界にその人は映らないが、こんなふうに私の髪に触れるのは一人しか居ない。
「お帰りなさい」
「ただいま」
細められた目に宿る感情はもう分からない。それが自分への情だという自信を失くしてしまったから。それでも疎ましく思う女の髪を梳く男の存在を少なくとも私は見聞きしたことがないから、きっと大丈夫だと手を伸ばしてキスをねだった。
唇が触れたのは額と頬。……もうだめなのかもしれない。それでも一縷の望みに縋って離れようとする顔を捕まえて唇を奪った。そのまま舌を絡めて欲に溺れてしまいたいのに唇を舐めても食んでも口を真一文字に結んだまま応えてくれない。応えてくれないのに拒否もしないのだから、私は余計に分からなくなる。
「ビリー、シよ?」
上手い誘い文句なんて出てこなかった。他の男の人だって知らないし、それに何より手を伸ばせば、唇を寄せれば、この男はいつだって応えたのだから。だから左手を捕まえて胸へと導いた。
視線が絡むことも言葉を交わすこともないあの浴室だったら、間違いなく私の身体をまさぐっていた男がそっと手を引いた。正直、信じられなかった。
「……どうして」
思わず、微かに空気を震わせる声量でそう零していた。疑問を口にする気なんて無かったが零さずにはいられなかった。ともすれば責めているようなこの言葉が目の前の人に届いていませんように、そう願ったけれど悲しげにこちらを見つめる顔を見れば聞こえてしまったのは一目瞭然だった。
「いまさらだと思うかもしれないが俺はミチルを大事にしたいんだ」
「……なにそれ。意味わかんない」
「大人として手を出すことはできない。ミチルがもう少し大人になるまではしない」
「はっ、言うにこと欠いて子供扱い? 私もう二十五よ? 二十五歳が子供だと言うの?」
本気で何を言っているのか理解できなくて鼻で笑ってしまった。
「はっ? ミチル、もう一回年齢を教えてくれ。上手く聞き取れなかったみたいなんだ」
鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔でビリーはこちらを見ている。腹は立っているがちょっと気が抜けた。
「二十五歳」
そう言えば呆然としたまま繰り返すのだ。
「……にじゅうごさい?」
「そう」
「俺と四つしか違わないじゃないか! 冗談だろう!?」
「え! 嘘、二十代!?」
いやいや、ちょっと待って? 冗談でしょ? え、冗談じゃない? ……ごめん、ビリー私あなたのこと若くても三十半ばだと思ってました。
二人の間に奇妙な沈黙が流れて、私の怒りも完全に冷めた。
「あー、その、すまない。きちんと聞くべきだった」
「いや、こちらこそすみません」
そうなのだ、東洋人は他の人種から若く見られるって聞いたことは何度もある。ここが異世界だとしてもそりゃあ実年齢より若く見られるだろう。そのことが頭からすっぽりと抜け落ちていたのは私の落ち度だ。
「……話し合うべきだったんだろうな」
ビリーの唐獅子似の迫力満点の顔はこうして眉尻が下がると途端に情けなくなる。けれど私はこの表情が好きだったりする。なぜだか仕方ないなって全部許したくなるのだ。実際もう許したし年上に言うことじゃないかもしれないが甘やかしてやりたくなる。惚れた弱味というやつだろうが、人に説明するなら土産物のシーサーの愛嬌が一番近いだろうか。
「話し合おうよ、ビリー。今からでもさ。……私、ずっと、何を話したらいいのか分からなかった。でもこうして当たり前のように一緒に居られることがただ嬉しくて、いつもまた今度でいいやってそう思ってた。明日もその次の日も、あなたと居られるんだからそのうち、って 」
「目が合うといつも笑うだろう。それだけで幸せだったから充分だと思ってしまったんだ。だがそうじゃなかったんだな……。今後はどんな些細なことでもいいんだ、なんだって俺に聞かせてくれないか」
「あなたもね」
もしかしたら、私達は今初めてお互いと向き合ったのかもしれない。
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