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オナジ④

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 真っ暗闇の視界でぼんやりとする中、ジャックが感じたのは、サッパリとした、蜜柑のような香りだった。

「ん······んん······」
「おつかれさま」

 彼が目を開けると、目の前にあったのはミーナの顔だった。突然の至近距離に、彼の心臓がビクンと飛び跳ねる。
 彼女はちょうど、ジャックのおでこに置かれたタオルを取り替えている所だった。
 先の戦いの疲労で、彼は少し眠ってしまっていたのだった。

「はぁ······身体に悪いな」

 自分の胸の辺りを軽く押さえながら、ゆっくりと身体を起こし、ジャックはそう呟いた。
 悪気を持って言った言葉ではなかったが、それを耳にした彼女の手がピタリと止まる。

「あんた。世話してもらっといて、いきなりそれ?」

 彼女は不機嫌を露わにする。

「いや悪い、今のはそういう意味じゃなくて——」
「あっそ。後は自分でやって」

 ミーナは聞く耳を持たず、持っていたタオルをジャックに思いっきり投げると、扉を乱暴に開け、そのまま部屋を出て行った。

「おー、こわっ」

 反対側のベッドで横になっていたスライが、思わず心の声を漏らす。
 あまりにも急な出来事に、ジャックは呆然としていた。
 湿りを帯びたタオルが彼の手にずり落ちてくる。

「どうしたんだジャック? なんであんなこと言った?」

 その声でジャックは、ようやく向こう側にいるスライに気付く。

「い、いや······目開けたら、いきなり近くにあいつの顔があって、それで、その、まぁ······驚いただけだよ」
「······ふーん。あの子の早とちりか」
「そう」
「まぁ、後でちゃんと説明してこいよ」
「あぁ、そうする——」

 ——バンッ!

 その時、何者かによって、部屋の扉が勢いよく開かれた。

「ご飯食べに行きましょー!」

 フィリカの御飯の誘いだった。

「船のコックさんが、お礼にご馳走してくれるんですって! 早く行きましょう! ······ん? あれ、ミーナさんは?」
「あれ? すれ違わなかった?」
「はい。まったく」
「あー、じゃあデッキのほうだ」
「えー」

 食事がまた少し、先延ばしされる事に肩を落とすフィリカ。
 スライは身体を起こし、ベットから足を出して座る。

「まだ飯食ってなかったのか?」

 ジャックはフィリカに尋ねる。

「食べてないですよー」
「なんで? 先食べてりゃよかったのに」
「何言ってるんですか、怪我した人の手当てが終わってからミーナさん、ずっとジャックさんの側にいたんですよ?」
「えっ?」
 
 ジャックはその言葉に虚を突かれる。

「ジャックさんはともかく、ミーナさんを置いてご飯を先に頂くなんて、私には出来ませんよ」
「······そっか」
「ちなみに俺もまだ食べてないよ?」
「スライさんは寝てたじゃないですか」
「そうだっけ?」

 スライはとぼけてみせる。

「まぁいいです。ジャックさんも起きたみたいですし······それじゃあ私、ミーナさん呼んできますね——」
「あっ! 待って、フィリカちゃ······! いてててて······」
「スライさん大丈夫ですか!?」

 彼女は部屋を出るのをやめ、スライの側へとしゃがみ込む。彼は、自分の左腕をグリグリと押さえていた。
 しかしそれは、どこか不自然な動きである。

「フィリカちゃん、ごめん。俺、結構腕痛めたみたいでさ、包帯したいんだけど、ちょっと手伝ってくれないかな?」
「えっ? じゃあジャックさん、スライさんに包帯を——」
「あぁ、だめだめ。こいつ手当てすんの下っ手くそだから」
「なんだと」
「ミナっち呼びに行くのはこいつに任せりゃいいよ。それまでの間でいいから、ちょっと手伝ってくれないかな?」
「んー······もう、仕方ないですね。——じゃあジャックさん。ミーナさんお願いしますよ?」
「ん、あ、あぁ······」

 フィリカに見えないように、てへっ、とピースをするスライ。ジャックの感じていた違和感が確かなものになる。

「ったく······わかった。行ってくるよ」
「はやくしてくださいね。こっちはお腹ぺこぺこなんですから」
「あぁ、わかってるよ」

 そうしてジャックは、濡れたタオルを桶に掛け、部屋を後にした。




 再び彼が訪れたデッキは暗かった。しかし完全な闇でもなかった。
 それは、昼間とは打って変わり、太陽よりも幾らか大きい、白い満月が船上を照らしていたからだった。闇夜の海には少し歪曲した月だけが映し出されている。
 昼間鳴いてた鳥の声も全く聞こえなかった。船の軋む音と、夜風に吹かれた旗の音だけが彼の耳に届く。

 彼は彼女を探して歩き出す。
 船頭と船首に見張りのクルーが見える。
 彼がデッキを出て半周程した頃、月明かりに照らされる横顔の、縁に腕を置いた、彼女の姿が見つかる。
 彼はゆっくりと歩いて近付いていく。一歩歩くたびに、ギシ、ギシっと鳴る板。

 彼女のほうも静かな夜に響く、彼のその音に気付いたようだった。だが、彼のほうを一瞥しては、フンっ、と、また前を見る。
 彼は、二メートル程のとこで立ち止まる。

「······なによ」
「謝りにと······ちゃんと説明しに来たんだ。俺がワケを話す前に、お前出て行っちゃうんだからさ」

 ツンとしたままのミーナ。彼女はまだ、部屋を出て行く時と同じような顔をしていた。どっか行って、と言う声が聞こえてきそうな横顔だった。
 しかしジャックは歩を進めると、彼女の隣につき、彼女と同じほうを見る。

 気まずい沈黙が二人に流れる。
 そんな中、先に口火を切ったのはジャックだった。
 
「······ありがとな。船員の手当て終わってから、ずっとついてたって聞いた」
「······別に」

 彼女の短い言葉には、まだ彼のことを許さない何かを含んでいた。

「まだ怒ってんのか? さっきの事」

 彼女は何も言わない。

「そんな怒るなよ。目開けたら、まさかお前の顔が目の前にあるなんて思わないだろ?」

 同意を求めるよう彼女を見るが、彼女は目も合わそうとしない。

「だから、それでつい、ああ口走っちゃっただけだよ。勘違いさせたなら謝るって」

 縁へと寄りかかり、彼女の顔を覗き込むように見る。彼女は瞳だけを動かし、一瞬、彼に視線を合わせる。

「······なんで」

 ようやく口を開いた彼女の言葉はそれだった。

「なんで、ってなにが?」
「なんでそんな驚かれなきゃいけないのよ」
「そ、それは······」

 ジャックは彼女から少し身を引いて、自分が目覚めたばかりの事を思い出す。
 顔を寄せたら触れたであろう、あの距離を。

「別に······何でもいいだろ。理由なんか」

 彼は、ふいっと視線をそらす。

「ふーん······」

 彼のその反応に、彼女は何かを感じ取ったようだった。

 再び、二人の間に沈黙が流れる。
 だが、先程までの重たい空気はもう、海の中へと流されていた。

 そのまましばらく、二人は、あの白い月を眺めていた。

「······変わらないのも、悪くないわね」
「······あぁ、そうだな」

 凪いだ海と優しい静寂が二人をそっと包みこんでいく。




 ——このままずっと、ここに居てもいいような。






 そんな心地良さが。







 しかし、






 そんな幻想を、打ち砕く音が。









 ——きゅるるるるる······







「············」




 彼の腹の虫に、思わず笑うミーナ。

「······ふふっ、台無し」

 彼の顔を、笑って見るミーナ。
 妙な恥ずかしさが彼を襲う。

「······しょうがないだろ。あれから何にも食ってないんだから」

 視線を横にしながら、彼はそう言った。
 それを聞いて彼女も、ようやく自分のことも思い出し「そういえばそうだったわね」と、腕を伸ばし、身体を起こす。

「······じゃあ、そろそろ行きましょ。きっと、フィリカが待ってるんでしょう?」
「あぁ」

 先に船内に向け歩き出すミーナ。ジャックはその後をついて歩く。
 戻るまでの間、二人はたわいない事を話す。

「そういえば、お礼にって、コックの人がご馳走してくれるらしいぞ」
「あら、そうなの? なんか悪いわね」
「それでフィリカのやつ、部屋の扉思いっきり開けてお前呼びに来たんだぜ? ご飯食べましょー! って」
「ふふ。まったく、あの子らしいわね。けど、もう少し、あの食い意地どうにかならないのかしら」
「あれはもうどうにもならんだろ」
「それもそうね」

 その時、船内へと続く扉の前で、あることを思い出すジャックが、彼女に話しかける。

「そうだミーナ。俺、お前にまだちゃんと謝ってなかったけどさ——」
「いいわよ、もう」
「えっ」

 彼女は後ろに手をやったまま、くるりと振り返ると

「もう怒ってない」

 そう言って、船内へと入っていった。

 呆気に取られるジャックだったが、しかし、ぼんやりとする間はなかった。
 それは、またもあの空腹に促され、すぐ、彼女の後を追いかけることとなったからだった。
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