Actress〜偽りから始まるプラハの恋〜

美並ナナ

文字の大きさ
上 下
21 / 32

#20. 心の距離

しおりを挟む
翌朝、目を覚ますと私は智くんの腕の中にいた。

お互いに裸の状態で素肌が触れ合い、温かい体温に包まれている。

目に入ってきたこの光景で、寝起きのぼんやりした頭は急激にフル稼働して昨夜のことを思い出し始めた。

(私、昨夜智くんと最後までしちゃったんだ‥‥。婚約者役として‥‥)

昨夜の行為が頭をよぎると、急激に恥ずかしくなってくる。

男性とこういう行為をしたのは大学生の頃以来で、女優になってからは初めてだ。

経験が少ない私にとって、数年ぶりのそれはかなりインパクトのある出来事だった。

恋人ではない人とそういう関係になるのも初めてで、今後どういう態度をとればいいのか少し悩む。

気持ちを落ち着かせようと思い、そっと智くんの腕から抜け出すと、私はバスルームに向かった。

昨夜はあのまま眠ってしまったので、とりあえずシャワーを浴びて汗を洗い流す。

新しい服に着替えて、メイクを施すなどの朝の身支度をしていると、毎朝している日常の行為によってだんだんと落ち着いてきた。

(どう振る舞うもなにも、今まで通りなのは変わりない。【婚約者役】と【婚約者役を頼まれた彼に興味のない私役】を演じるだけだ。あくまで昨夜は婚約者役としての出来事なんだから‥‥!)

頭の整理がついたところで、バスルームを出て部屋に戻ると、智くんももう起きていてソファーでコーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

「おはよう!」

いつも通りのニッコリとした笑顔を向けられ、私もいつも通りに微笑み返す。

お互いに特に昨夜のことには触れず、何事もなかったかのように会話をし、準備を整えると、ホテルをチェックアウトした。

ホテルを出ると私たちは夕方の電車の時間まで、またカルロヴィバリの街を歩きながらゆっくり過ごす。

今日はショッピングストリートで色んなお店を見て回ることになった。



昨夜のことには全く触れないから最初はあれは夢か幻だったんじゃないかと思ったりしたのだが、次第に私は変化を感じ始めた。

それは私たちの距離感が昨日より近くなってることだ。

同じ手を繋ぐという行為でも、なんとなくより親密な空気が漂うのだ。

一つ一つの仕草や態度が前よりも甘くて親密で、肌を重ねた相手に対する距離感なのだ。

ただの婚約者役だと頭で理解はしているけれど、やっぱりどこか心の距離が近くなった気がしているのも事実だった。

手を繋いで歩きながらお店を見ていると、私はふとある事に気づいた。

それはすれ違う女性たちが、みんなチラッと必ず智くんを見ていることだった。

なかには私が隣にいても目に入っていないのか熱い視線を送っている女性もいる。

カルロヴィバリでは日本人はほぼ見かけないから、相手は西洋人の女性なのだが、それでも智くんは目を引く存在らしい。

やっぱりモテるんだなと改めて驚く気持ちと同時に、なんだかモヤっとする感覚を覚えた。

(たぶん昨日歩いていた時も同じ状況だったんだろうけど全然気付かなかった。今日はやけに気になっちゃうな)

なんとなく繋いだ手をギュッと力を込めて握りしめてしまうと、智くんが不思議そうに私を見た。

「どうかした?」

「ううん、別になんでもないよ。それより、ねぇ、あのお店ちょっと見てもいい?」

「もちろん。入ろうか」

誤魔化しながらちょうど目に入ったボヘミアングラスのお店を指差す。

チェコのこのあたりの土地はボヘミアングラスが有名らしく、カルロヴィバリはその工場もあるそうだ。

店内には、透明に輝く美しいグラスがたくさん並んでいる。

「せっかくだし自宅用に買って帰ろうか。ワイングラスはどう?」

「素敵だね。いいと思う!」

智くんはいくつかのワイングラスを手に取って比べ、購入するものを決めたようだった。

「じゃあ買ってくるね。環菜は店内見て回っていていいよ」

「分かった」

そう言ってグラスを持ちレジへ向かう智くんだけど、手に持つグラスは当たり前のように2つだ。

(あれはどちらも自分用だよね?特に深い意味はないよね‥‥?)

私が家にいるのが当たり前のように感じてくれている気がして少し嬉しく思うが、それは偽りの状態であり、そう長くないことだと思うと寂しくなる。

私のビザは3月には切れるから、長くてもあと約5ヶ月くらいなのだ。

寂しさを紛らわすようにグラスに集中して、店内を見て回っていると、レジの方から女性の甲高い声が聞こえてつられてそちらに視線を向ける。

するとアジア人の若い女性に智くんが声をかけられているところだった。

日本人ではないから、おそらく中国人か韓国人だろう。

長い黒髪をなびかせた妖艶な雰囲気のあるその女性は、智くんの腕に触れながら英語で何か話しかけている。

ここからじゃ会話の内容は聞こえなかったが、言い寄っているのだろうということは簡単に想像できた。

智くんはというと、いつも通りの王子様スマイルを浮かべて、言葉少なに相槌をうっている。

その様子を視界に入れていると、だんだんモヤモヤする気持ちが大きくなってくる。

きっとこんな感じで今までもモテてきて、恋人がずっといたんだろうなぁと思った。

三上さんのこともあってちょうど女避けが欲しいタイミングだったからこそ、自分のことを好きにならない婚約者役が必要だったのだ。

本来はこの智くんの隣という場所は、私以外の誰かの場所なのである。

(それに昨夜分かっちゃった。経験が少ない私でも分かるくらい、智くんはうまかったと思う。つまり今までいろんな女性とそういうことしてきて、慣れてるんだろうなぁ‥‥)

なんだか居た堪れない気持ちになって、これ以上視界に入れたくなく、私は一人でそっとお店から出た。


しばらくすると、購入したグラスの入った手提げ袋とともに智くんが外に出てきた。

チラリと智くんの背後を見るが誰もおらず、一人のようだ。

「良かった、ここにいた。店内にいなくて探したよ。外は寒いのに何で中にいなかったの?」

「別に。ちょっと外に出たくなっただけだよ」

「本当に?」

「だって女性と話してたし、私がいると気を使わせて邪魔かなと思って」

思わずポロリと本音がこぼれ出た。

内心「しまった!」と思ったが、言ってしまったことは取り返しがつかない。

智くんは何を言われているのか分からないというように一瞬キョトンとした顔になったが、しばらくして意味が分かったのか目を細めて笑顔になる。

「もしかしてレジで話しかけられてたことを言ってる?」

「‥‥」

「あれならハッキリ断ったよ。婚約者と来てるからって。環菜が邪魔なわけないでしょ」

なんてことないというふうに言われ。

一度ポロリと漏れてしまったことにより、燻っていた私の気持ちは火がついたようで、私はさらに言い募る。

「今さらだけど、智くんは旅行先はここで良かったの?前に来たことあったんでしょ?」

「あるけどここで良かったよ。環菜と来てみたかったし。突然どうしたの?」

「前も女性と来たんでしょ?思い出もあっただろうし、良かったのかなって思って」

そう言うと、なぜか智くんはますます目を細める。

なにが面白いのかちょっとクスクス笑ってさえいる。

「なにが面白いの?」

「いや、だってさ、環菜が嫉妬するなんて珍しいから可愛くて」

「‥‥嫉妬!?そ、そんなつもりは‥‥!」

指摘されて私も気付く。

智くんが女性に見られたり声をかけられたりしていることに完全にただヤキモチを焼いていたのだ。

しかも過去にまで嫉妬する始末である。

私はヤキモチを焼ける立場じゃないのにと思うと急激に恥ずかしくなってきた。

赤くなって俯いていると、智くんは私の頭をポンポンと軽く撫でながら口を開いた。

「まぁ前に来た時は確かに女性と来たよ。でも女性と言っても、母親だけどね」

「‥‥え?お母さん?」

「そう。チェコに赴任することになった時に遊びに来たから案内しただけ。僕もチェコ国内のプラハ以外の都市の様子を勉強したかったっていう目的もあったけどね」

勝手に恋人と来たと思っていて、それに嫉妬するなんて本当に何やってるんだろうか。

そもそも何度も自覚しているとおり、ただの婚約者役である私には嫉妬する権利なんてないのだ。

(あぁ、ヤバイなぁ。きっと昨夜の出来事もあって距離が近くなりすぎてる。智くんの心まで干渉しようとしちゃってる‥‥)


そんなふうに自分を戒めていると、智くんはふいに私の唇にチュッと軽く触れるだけのキスをしてきた。

「環菜は本当に可愛いね」

「今は可愛いとか言われたくないかも。何かバカにされてる気分‥‥」

「そんなことないのに。本心だよ?」

「はいはい。そういうことにしておきます」


面白がっている笑顔で言われても説得力がないのだ。

ちょっとムスッとしながら不貞腐れていると、片手で両頬を掴むようにムニっと挟まれる。

タコのように唇を突き出した状態にされると、智くんはまた言うのだ。

「僕の婚約者は本当に可愛いな」

そしてまたチュッとさっきより長めに、突き出た私の唇にキスをしてきたのだった。

まるで恋人にする甘いじゃれ合いのようで、心がザワザワする。

思わず心の中で何度も何度も「私はただの婚約者役。勘違いするな」と繰り返し念仏のように唱えた。



この旅行でずっと恋人のように振る舞っていたこと、そして一線を越えてしまったことで、確実に私たちの距離感は近くなった。

そんな権利なんかないのに嫉妬までしてしまうくらい心が欲しいと思い始めている。

でも、今日家に帰ったらこの夢のような甘い時間は終わるのだ。

また人目のある時以外は、【婚約者役を頼まれた智くんに興味のない私役】を演じなければいけない。

その役をちゃんと演じ切れるのか、今までどんな役を演じる時にも感じたことのない自信のなさを感じ、私は不安で不安で仕方なかったーー。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛しくて悲しい僕ら

寺音
ライト文芸
第6回ライト文芸大賞 奨励賞をいただきました。ありがとうございます。 それは、どこかで聞いたことのある歌だった。 まだひと気のない商店街のアーケード。大学一年生中山三月はそこで歌を歌う一人の青年、神崎優太と出会う。 彼女は彼が紡ぐそのメロディを、つい先程まで聴いていた事に気づく。 それは、今朝彼女が見た「夢」の中での事。 その夢は事故に遭い亡くなった愛猫が出てくる不思議な、それでいて優しく彼女の悲しみを癒してくれた不思議な夢だった。 後日、大学で再会した二人。柔らかな雰囲気を持つ優太に三月は次第に惹かれていく。 しかし、彼の知り合いだと言う宮本真志に「アイツには近づかない方が良い」と警告される。 やがて三月は優太の持つ不思議な「力」について知ることとなる。 ※第一話から主人公の猫が事故で亡くなっております。描写はぼかしてありますがご注意下さい。 ※時代設定は平成後期、まだスマートフォンが主流でなかった時代です。その為、主人公の持ち物が現在と異なります。

初恋は溺愛で。〈一夜だけのはずが、遊び人を卒業して平凡な私と恋をするそうです〉

濘-NEI-
恋愛
友人の授かり婚により、ルームシェアを続けられなくなった香澄は、独りぼっちの寂しさを誤魔化すように一人で食事に行った店で、イケオジと出会って甘い一夜を過ごす。 一晩限りのオトナの夜が忘れならない中、従姉妹のツテで決まった引越し先に、再会するはずもない彼が居て、奇妙な同居が始まる予感! ◆Rシーンには※印 ヒーロー視点には⭐︎印をつけておきます ◎この作品はエブリスタさん、pixivさんでも公開しています

Princess story 〜御曹司とは付き合いません〜

鳴宮鶉子
恋愛
Princess story 〜御曹司とは付き合いません〜

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!

めーぷる
恋愛
 見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。  秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。  呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――  地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。  ちょっとだけ三角関係もあるかも? ・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。 ・毎日11時に投稿予定です。 ・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。 ・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜

白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳 yayoi × 月城尊 29歳 takeru 母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司 彼は、母が持っていた指輪を探しているという。 指輪を巡る秘密を探し、 私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

苺の誘惑 ~御曹司副社長の甘い計略~

泉南佳那
恋愛
来栖エリカ26歳✖️芹澤宗太27歳 売れないタレントのエリカのもとに 破格のギャラの依頼が…… ちょっと怪しげな黒の高級国産車に乗せられて ついた先は、巷で話題のニュースポット サニーヒルズビレッジ! そこでエリカを待ちうけていたのは 極上イケメン御曹司の副社長。 彼からの依頼はなんと『偽装恋人』! そして、これから2カ月あまり サニーヒルズレジデンスの彼の家で ルームシェアをしてほしいというものだった! 一緒に暮らすうちに、エリカは本気で彼に恋をしてしまい とうとう苦しい胸の内を告げることに…… *** ラグジュアリーな再開発都市を舞台に繰り広げられる 御曹司と売れないタレントの恋 はたして、その結末は⁉︎

処理中です...