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#20. 心の距離

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翌朝、目を覚ますと私は智くんの腕の中にいた。

お互いに裸の状態で素肌が触れ合い、温かい体温に包まれている。

目に入ってきたこの光景で、寝起きのぼんやりした頭は急激にフル稼働して昨夜のことを思い出し始めた。

(私、昨夜智くんと最後までしちゃったんだ‥‥。婚約者役として‥‥)

昨夜の行為が頭をよぎると、急激に恥ずかしくなってくる。

男性とこういう行為をしたのは大学生の頃以来で、女優になってからは初めてだ。

経験が少ない私にとって、数年ぶりのそれはかなりインパクトのある出来事だった。

恋人ではない人とそういう関係になるのも初めてで、今後どういう態度をとればいいのか少し悩む。

気持ちを落ち着かせようと思い、そっと智くんの腕から抜け出すと、私はバスルームに向かった。

昨夜はあのまま眠ってしまったので、とりあえずシャワーを浴びて汗を洗い流す。

新しい服に着替えて、メイクを施すなどの朝の身支度をしていると、毎朝している日常の行為によってだんだんと落ち着いてきた。

(どう振る舞うもなにも、今まで通りなのは変わりない。【婚約者役】と【婚約者役を頼まれた彼に興味のない私役】を演じるだけだ。あくまで昨夜は婚約者役としての出来事なんだから‥‥!)

頭の整理がついたところで、バスルームを出て部屋に戻ると、智くんももう起きていてソファーでコーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

「おはよう!」

いつも通りのニッコリとした笑顔を向けられ、私もいつも通りに微笑み返す。

お互いに特に昨夜のことには触れず、何事もなかったかのように会話をし、準備を整えると、ホテルをチェックアウトした。

ホテルを出ると私たちは夕方の電車の時間まで、またカルロヴィバリの街を歩きながらゆっくり過ごす。

今日はショッピングストリートで色んなお店を見て回ることになった。



昨夜のことには全く触れないから最初はあれは夢か幻だったんじゃないかと思ったりしたのだが、次第に私は変化を感じ始めた。

それは私たちの距離感が昨日より近くなってることだ。

同じ手を繋ぐという行為でも、なんとなくより親密な空気が漂うのだ。

一つ一つの仕草や態度が前よりも甘くて親密で、肌を重ねた相手に対する距離感なのだ。

ただの婚約者役だと頭で理解はしているけれど、やっぱりどこか心の距離が近くなった気がしているのも事実だった。

手を繋いで歩きながらお店を見ていると、私はふとある事に気づいた。

それはすれ違う女性たちが、みんなチラッと必ず智くんを見ていることだった。

なかには私が隣にいても目に入っていないのか熱い視線を送っている女性もいる。

カルロヴィバリでは日本人はほぼ見かけないから、相手は西洋人の女性なのだが、それでも智くんは目を引く存在らしい。

やっぱりモテるんだなと改めて驚く気持ちと同時に、なんだかモヤっとする感覚を覚えた。

(たぶん昨日歩いていた時も同じ状況だったんだろうけど全然気付かなかった。今日はやけに気になっちゃうな)

なんとなく繋いだ手をギュッと力を込めて握りしめてしまうと、智くんが不思議そうに私を見た。

「どうかした?」

「ううん、別になんでもないよ。それより、ねぇ、あのお店ちょっと見てもいい?」

「もちろん。入ろうか」

誤魔化しながらちょうど目に入ったボヘミアングラスのお店を指差す。

チェコのこのあたりの土地はボヘミアングラスが有名らしく、カルロヴィバリはその工場もあるそうだ。

店内には、透明に輝く美しいグラスがたくさん並んでいる。

「せっかくだし自宅用に買って帰ろうか。ワイングラスはどう?」

「素敵だね。いいと思う!」

智くんはいくつかのワイングラスを手に取って比べ、購入するものを決めたようだった。

「じゃあ買ってくるね。環菜は店内見て回っていていいよ」

「分かった」

そう言ってグラスを持ちレジへ向かう智くんだけど、手に持つグラスは当たり前のように2つだ。

(あれはどちらも自分用だよね?特に深い意味はないよね‥‥?)

私が家にいるのが当たり前のように感じてくれている気がして少し嬉しく思うが、それは偽りの状態であり、そう長くないことだと思うと寂しくなる。

私のビザは3月には切れるから、長くてもあと約5ヶ月くらいなのだ。

寂しさを紛らわすようにグラスに集中して、店内を見て回っていると、レジの方から女性の甲高い声が聞こえてつられてそちらに視線を向ける。

するとアジア人の若い女性に智くんが声をかけられているところだった。

日本人ではないから、おそらく中国人か韓国人だろう。

長い黒髪をなびかせた妖艶な雰囲気のあるその女性は、智くんの腕に触れながら英語で何か話しかけている。

ここからじゃ会話の内容は聞こえなかったが、言い寄っているのだろうということは簡単に想像できた。

智くんはというと、いつも通りの王子様スマイルを浮かべて、言葉少なに相槌をうっている。

その様子を視界に入れていると、だんだんモヤモヤする気持ちが大きくなってくる。

きっとこんな感じで今までもモテてきて、恋人がずっといたんだろうなぁと思った。

三上さんのこともあってちょうど女避けが欲しいタイミングだったからこそ、自分のことを好きにならない婚約者役が必要だったのだ。

本来はこの智くんの隣という場所は、私以外の誰かの場所なのである。

(それに昨夜分かっちゃった。経験が少ない私でも分かるくらい、智くんはうまかったと思う。つまり今までいろんな女性とそういうことしてきて、慣れてるんだろうなぁ‥‥)

なんだか居た堪れない気持ちになって、これ以上視界に入れたくなく、私は一人でそっとお店から出た。


しばらくすると、購入したグラスの入った手提げ袋とともに智くんが外に出てきた。

チラリと智くんの背後を見るが誰もおらず、一人のようだ。

「良かった、ここにいた。店内にいなくて探したよ。外は寒いのに何で中にいなかったの?」

「別に。ちょっと外に出たくなっただけだよ」

「本当に?」

「だって女性と話してたし、私がいると気を使わせて邪魔かなと思って」

思わずポロリと本音がこぼれ出た。

内心「しまった!」と思ったが、言ってしまったことは取り返しがつかない。

智くんは何を言われているのか分からないというように一瞬キョトンとした顔になったが、しばらくして意味が分かったのか目を細めて笑顔になる。

「もしかしてレジで話しかけられてたことを言ってる?」

「‥‥」

「あれならハッキリ断ったよ。婚約者と来てるからって。環菜が邪魔なわけないでしょ」

なんてことないというふうに言われ。

一度ポロリと漏れてしまったことにより、燻っていた私の気持ちは火がついたようで、私はさらに言い募る。

「今さらだけど、智くんは旅行先はここで良かったの?前に来たことあったんでしょ?」

「あるけどここで良かったよ。環菜と来てみたかったし。突然どうしたの?」

「前も女性と来たんでしょ?思い出もあっただろうし、良かったのかなって思って」

そう言うと、なぜか智くんはますます目を細める。

なにが面白いのかちょっとクスクス笑ってさえいる。

「なにが面白いの?」

「いや、だってさ、環菜が嫉妬するなんて珍しいから可愛くて」

「‥‥嫉妬!?そ、そんなつもりは‥‥!」

指摘されて私も気付く。

智くんが女性に見られたり声をかけられたりしていることに完全にただヤキモチを焼いていたのだ。

しかも過去にまで嫉妬する始末である。

私はヤキモチを焼ける立場じゃないのにと思うと急激に恥ずかしくなってきた。

赤くなって俯いていると、智くんは私の頭をポンポンと軽く撫でながら口を開いた。

「まぁ前に来た時は確かに女性と来たよ。でも女性と言っても、母親だけどね」

「‥‥え?お母さん?」

「そう。チェコに赴任することになった時に遊びに来たから案内しただけ。僕もチェコ国内のプラハ以外の都市の様子を勉強したかったっていう目的もあったけどね」

勝手に恋人と来たと思っていて、それに嫉妬するなんて本当に何やってるんだろうか。

そもそも何度も自覚しているとおり、ただの婚約者役である私には嫉妬する権利なんてないのだ。

(あぁ、ヤバイなぁ。きっと昨夜の出来事もあって距離が近くなりすぎてる。智くんの心まで干渉しようとしちゃってる‥‥)


そんなふうに自分を戒めていると、智くんはふいに私の唇にチュッと軽く触れるだけのキスをしてきた。

「環菜は本当に可愛いね」

「今は可愛いとか言われたくないかも。何かバカにされてる気分‥‥」

「そんなことないのに。本心だよ?」

「はいはい。そういうことにしておきます」


面白がっている笑顔で言われても説得力がないのだ。

ちょっとムスッとしながら不貞腐れていると、片手で両頬を掴むようにムニっと挟まれる。

タコのように唇を突き出した状態にされると、智くんはまた言うのだ。

「僕の婚約者は本当に可愛いな」

そしてまたチュッとさっきより長めに、突き出た私の唇にキスをしてきたのだった。

まるで恋人にする甘いじゃれ合いのようで、心がザワザワする。

思わず心の中で何度も何度も「私はただの婚約者役。勘違いするな」と繰り返し念仏のように唱えた。



この旅行でずっと恋人のように振る舞っていたこと、そして一線を越えてしまったことで、確実に私たちの距離感は近くなった。

そんな権利なんかないのに嫉妬までしてしまうくらい心が欲しいと思い始めている。

でも、今日家に帰ったらこの夢のような甘い時間は終わるのだ。

また人目のある時以外は、【婚約者役を頼まれた智くんに興味のない私役】を演じなければいけない。

その役をちゃんと演じ切れるのか、今までどんな役を演じる時にも感じたことのない自信のなさを感じ、私は不安で不安で仕方なかったーー。
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