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#19. 小旅行

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夏に比べてぐっと気温も下がってきた9月のある日。

家でいつものように智くんと一緒に夕食を食べていると、彼がある提案を私にしてきた。

「環菜が迷惑かけたお詫びに、婚約者役として何かやろうかって前に言ってくれたの覚えてる?」

それは情緒不安定になった私を落ち着かせるために智くんに色々負担をかけてしまったことをお詫びするために私が言ったことだった。

彼が私に求めているであろう婚約者役として何かお返しできればと思ったのだ。

確かあの時は「考えとく」と言われそのままになっていた。

「うん、覚えてるよ。考えておくって言ってたよね?何かリクエストがあるの?」

「それで考えたんだけど、婚約者役として一緒に旅行に行ってくれない?」

「え?旅行?」

てっきりレセプションパーティーに出席とかそういう話になるだろうと思っていた。

旅行って婚約者役として何をすればいいんだろう。

「普通、恋人関係だと一緒に旅行に出掛けたりするよね。特にヨーロッパは隣国が近いし観光場所も多いし。だけど僕たちは婚約してから一度も旅行に行ってないでしょ。職場の人たちが怪しんでる気がするから、一度は行っておきたくてさ。どう?」

「‥‥そういうことなら!」

「旅行中も誰に遭遇するか分からないから、環菜には気を抜かず婚約者役を頑張ってもらいたいと思うんだけどできる?」

「旅行に行くだけでなく、旅行中も婚約者のフリをするってこと?」

「そういうことだね」

できる?と聞かれたら、なんだか試されているようで女優魂に火が灯る。

私は挑むように「分かった」と返事をした。

智くんは満足そうに目を細めてニコリと笑う。

(というか、今となってはこの婚約者役って智くんのことを好きな本来の自分を素直に出せばいいだけだから、実は演技するまでもないんだけどね‥‥)

そう考えると、婚約者役をやればやるほど、彼も自分のことが好きと勘違いしそうでなかなか精神的にハードな旅になりそうな予感がした。


「ところで念のため確認だけど、その後どう?三上さんとあの男は環菜の方に接触してきてない?」

この件については、あの後ことの経緯をすべて教えてもらった。

三上さんとは本当に何でもない関係だったそうで、一度助けて以来、一方的に付きまとわれていたらしい。

智くんの方もあれ以来、三上さんの待ち伏せなどは一切なくなったそうだ。

勝手に抱いていた理想が壊れて冷めたのだろうと智くんは言っていた。

「こっちは大丈夫。問題ないから安心して」

「それなら良かった。改めてあの時は未遂だったとはいえ、僕のせいで怖い思いをさせてごめんね」

「ううん、ちゃんと守ってもらったって思ってるよ。ありがとう」

未遂だったのは来てくれた智くんと渡瀬さんのおかげだし感謝しているのだ。

知らない間に薬を飲まされてホテルに連れ込まれてるなんていう、前の出来事みたいなことにならなくて本当に良かった。

「でもあの時の環菜は結構冷静だったね。取り乱してもおかしくなかったのに」

「まぁ、過去に似たようなことがあったし、それに比べれば全然マシだったから」

ポロッと口が滑ってしまい、言った直後に「しまった‥‥!」と思った。

案の定、智くんはピタッと動きを止め、眉をひそめて私の方を凝視している。

「‥‥それどういうこと?」

「‥‥え?‥‥何が?」

誤魔化せないかと思ってとぼけてみたが、さすがに今回はそれは通用しないようだった。

口元に僅かに笑みを残しながらも、智くんは睨むように鋭い視線を向けてくる。

「過去にも襲われたって意味?」

「えっと‥‥」

口ごもる私だが、それは許さないというような目で見られて、仕方なく口を開く。

「前にね、飲み会に参加してた時、知らない間に飲み物に睡眠薬を盛られて、そのままホテルに連れ込まれて写真撮られたことがあったの。私は全く記憶がなくて、気付いたら家だったんだけどね。あ、未遂だったんだよ、たぶん!」

女優だった過去と紐付かないように、ただの出来事として話した。

黙って聞いていた智くんの顔からはすっかり笑顔が消え、怒りに耐えるような表情だ。

「‥‥それ、誰にやられたの?」

「‥‥えっと、知り合いの女の子。私の存在が邪魔だったみたい。あの、もう前のことだし大丈夫だよ!私は本当に記憶がないから、言われるまで気付かなかったくらいだし!」

智くんの発する不穏な空気を感じ、慌てて取り繕うように明るくフォローする。

楽しい話題に変えようと思い、やや唐突ではあったが、私は話を戻して旅行について切り出す。

「あ、ねぇ、旅行のことだけどさ。いつにする?場所はどこがいいかな?」

「‥‥話を逸らそうとしてるでしょ」

「だって智くんが何か怖いから」

「そりゃ、あんな話を聞いたら環菜を襲った相手に腹が立つのは当たり前じゃない」

「もう昔のことだし、今は大丈夫だから、ね!せっかくの夕食の時間なんだから楽しい話をしよう?」

まだ納得がいかない様子ではあったが、私にこれ以上辛いことを話させるのは違うと思ったのか、智くんは渋々頷いた。

「時期は仕事の調整もあるから来月でどうかな。1泊2日くらいでさ」

「そうだね。場所は‥‥あ!前に智くんが近場でおすすめって言ってたチェコ国内にある温泉保養地として有名なカルロヴィバリはどう?せっかくだから国外じゃなくて、チェコのこともっと知りたいから」

「カルロヴィバリはリゾートらしい雰囲気もあるし休暇っぽくていいね。そうしよう」


智くんは以前に一度行ったことがあるらしい。

誰ととは言わなかったけど、なんとなく過去の恋人かなと思うと胸にチクリとした小さな痛みが走った。

(ただの婚約者役なんだから、私にはやきもちを焼く権利すらないんだけどね‥‥)

それから私たちは旅行について話を詰め、それぞれ仕事を調整してから具体的な日程を決めることにした。



そして迎えた10月下旬。

カルロヴィバリへの旅行へ行く日だ。

日本ならまだ少し肌寒いくらいで過ごしやすい気候の時期だが、プラハはもうすっかり寒くなっていた。

気温は日中でも10℃を下回り、セーターやコートが必要になっている。

旅行の準備で荷物を詰めていたら、智くんから朝晩は冷えるから手袋・マフラー・帽子などの防寒グッズも持参した方がいいとアドバイスを受けたくらいだ。

帽子を被れるのは変装になるので正直助かる。

「環菜、準備できた?そろそろ行こうか」

「うん、すぐ行く!」

私たちはそれぞれ1泊2日分の荷物を手に持ち、タクシーに乗り込んだ。

これから行くカルロヴィバリは、プラハから西へ約130km、電車で約3時間半の場所だ。

温泉リゾートとして知られていて、国内からだけでなく世界中から観光客が訪れるそうだ。

歴史は古く、数々の音楽家や文豪が何度も訪れ、つかの間の休息をとった場所といわれている。

「前に智くんに借りたチェコに関する本も読んだから余計に楽しみ!」

「あれ読んだんだ。観光ガイドブックとは違って歴史・経済・政治についてだから面白くなかったでしょ?」

「そんなことないよ。個人的には特に歴史は知れて良かったなって。カルロヴィバリは、神聖ローマ皇帝カレル4世が温泉を発見したことから、「カレルの温泉」という意味で名づけられたんだってね!」

私は少し自慢げに得た知識を披露した。

智くんは感心するように、目を細めて微笑んでくれた。


◇◇◇

プラハから電車に揺られること約3時間半。

私たちはカルロヴィバリへと降り立った。

これからの旅行期間中、私はずっと婚約者役でいることになっている。

カルロヴィバリへ着いて街を散策するために歩き出すと、智くんに手を差し出され、私はその手に指を絡めて握る。

婚約者らしく手を繋ぎながら、カルロヴィバリの街並みを楽しむ。

カルロヴィバリも、プラハとはまた違った雰囲気の可愛い街並みだった。

「街の中心を流れるテプラ川あたりが人気だから、まずは川沿いを散策しようか」

「うん!」

川の両側には、パステルカラーの建物が建ち並び、思わず写真に収めたくなるような美しさだ。

カラフルな建物を眺めているだけでも楽しい。

「あれ何かな?」

同じように川沿いを散策する人が食べているものが目に留まり気になった。

「あれは名産のスパワッフルだよ」

「スパワッフル?」

「温泉水が加わったワッフルにクリームが挟まってるお菓子なんだって」

智くんは知ってるけど、以前来た時には食べなかったそうだ。

せっかくだから食べてみようという話になり、私たちはお店で購入する。

近くで実物を見ると、お煎餅のような薄焼きのワッフルだ。

中に挟まったクリームのフレーバーがいくつかあり、私はイチゴ味を、智くんはバニラ味を頼んだ。

「ん!美味しい!バニラはどう?」

「こっちも美味しいよ。食べる?」

「うん!じゃあ智くんもイチゴ食べてみて。はい、あ~んして?」

自分の食べていたイチゴ味のワッフルを智くんの口元へと差し出した。

彼は一瞬だけ驚くと、素直に口を開けて食べてくれた。

私もバニラ味を食べさせてもらう。

このやりとりは、恋人同士の甘いものそのものだった。

(だって今は婚約者役だからね。役の子なら、ずっと憧れていた好きな人と旅行に来てるんだから、幸せそのもののはず!存分に甘い時間を楽しむはずだもんね。‥‥今だけはそれを利用しちゃってもいいよね?)


川沿いの散策をした後は、温泉水の飲み比べを楽しむことになった。

日本では温泉といえば湯船につかるものだが、ここでは温泉水を飲むという楽しみ方なのだそうだ。

町中に散らばった飲泉所に訪れながら、温度や味が異なる温泉水を飲み比べるのだという。

私たちは取っ手部分がストローになった専用のカップを購入し、飲泉所を巡り出す。

「全部で16ヶ所もあるんだね。制覇していくのって何か燃えるよね」

「環菜がそういうの好きなのは分かる気がする。やり始めたら徹底的にやりたいみたいな感じでしょ」

「うん。なんていうか負けたくない!みたいな」

「これは別に勝ち負けじゃないから」

ちょっと呆れる智くんに手を引かれ、私たちは一つ一つ飲泉所を巡っていく。

そのたびに味の違いについて感想を言い合ったりするのがとても楽しくて、幸せな時間だった。

十分に街歩きを堪能した後、そろそろホテルに行こうという話になった。

ホテルは智くんが予約しておいてくれたと聞いている。

フロントに着くと、チェックインをしたのだが、そこで智くんとフロントスタッフのチェコ語の会話を聞いていて「あれ?」と思った。

私はこそっと日本語で彼に尋ねる。

「あの、部屋のタイプはツインで予約したって言ってなかったっけ?今、ダブルって聞こえた気がするんだけど‥‥」

「ああ、何か予約ミスがあったみたいでダブルになったんだって。でも婚約者なんだし問題ないでしょ?」

「え?あ、うん‥‥」

スタッフとのチェコ語の会話は、私が聞き取れた限りだと特に予約ミスがあったような雰囲気はなかったのだけど。

でも私よりチェコ語が堪能な智くんにそう言われてしまうとそうなのだろうと思った。

(それにしてもダブルか‥‥。ツインだと部屋は同じでもベッドは別々だから精神的に大丈夫だろうと思ってたのにな)

同じベッドで眠ることにやや躊躇してしまうが、旅行中は婚約者のフリをずっと続けるということになっているから夜も例外じゃないのだろう。

わずかでも動揺してることが悟られないように私は無理やりニコッと微笑んだ。



部屋に入ると、歩き疲れた私たちは夕食のために外に出かけることが面倒になり、ホテルのルームサービスを頼むことにした。

ラグジュアリーホテルではないが、そこそこのグレードのホテルだったので、しっかりとした美味しい食事が提供され大満足だ。

ホテルでルームサービスということ自体が非日常だから、私はそれだけでも旅行気分を味わえた。

「環菜、先にシャワー使う?」

「ううん、お腹いっぱいで動けないから、智くん先に使っていいよ」

「そう?じゃあ先に使うね」

そう言って智くんがバスルームに消えて行くと、私は急にソワソワしてくる。

このシチュエーションでドキドキするなと言う方が無理だった。

好きな人とホテルの部屋で2人きりで、しかも今は婚約者役を継続しているから、恋人らしい振る舞いが許される状況なのだ。

(ま、まさかね‥‥?さすがに一緒に寝るだけだよね。智くんもきっとそれ以上はしてこないはず。でももし万が一、億が一、求められたら‥‥?)

好きな人から求められたら、嬉しくて、拒否できる自信がなかった。

それがたとえ婚約者のフリの一環だと分かっていても、きっと私は身を委ねてしまうだろう。

(でもまさかね‥‥?智くんはモテるから女性に困ってるわけじゃないし、わざわざ婚約者のフリを頼んでる相手を抱いたりしないよね、きっと)

悶々と一人で考えていたら、智くんがバスルームから出てきた。

白いバスローブを身に纏ったその姿は男の色気がダダ漏れている。

普段はスーツで気付かないが、意外と胸板が広くて男らしい。

ドライヤーをしたのだろうけどまだ少し髪が濡れていて、そんなところも可愛いかった。

(あぁ、ヤバイよ~。心臓がバクバクしちゃう。こんな姿を見たら好きが溢れちゃいそうで怖い‥‥!あ、でも今は溢れてもいいんだった‥‥!)

私の頭の中は混乱状態に陥っている。

落ち着かせるため、そしてこれ以上あの色気に当てられてしまわないよう、私も交代で足早にバスルームに向かった。

ゆっくりとシャワーを浴び、この後どうしようかと思考を整理しようとする。

でも考えても考えても結局答えはないのだ。

(その場の流れ次第だよね‥‥!うん、もう考えすぎるのはよそう)

思考を放棄して、頭をすっからかんにすることにした私は、同じく白いバスローブを着て、髪を乾かし、スキンケアをする。

ひと通り身支度が整ったところでバスルームから出て、智くんのいるベッドルームに戻った。

智くんはベッドの近くにある椅子に腰をかけて、お酒を飲んでいるようだった。

「なに飲んでるの?」

「カルロヴィバリの水を使って作られたべべロフカっていうハーブリキュールのカクテルだよ」

「そんなリキュールがあるんだ。一口だけ味見させてもらってもいい?」

「どうぞ」

そう言われてグラスを受け取り、口に含んでみる。

ハーブリキュールだからか、薬草っぽい味わいがする爽やかな感じのカクテルだった。

過去の経験から、人から飲み物を受け取るのを警戒している私だが、この時は全く気にならなかった。

つまりはそれだけ智くんを信頼する人として認識しているからなのだろう。

(同居を始めた当初はコーヒーを淹れてもらうのも避けていたのに。この7ヶ月でずいぶん変わったんだな)

それだけ智くんの存在が私の中で大きくなっている証拠だった。

「まだお酒飲むよね?私、先にベッドに入らせてもらうね。ゆっくり楽しんで!」

まだグラスにお酒が残っている智くんをその場に残し、私はゴソゴソとベッドに潜り込む。

先に入ってしまえばなんとなく気が楽だ。

クイーンサイズのベッドだから2人で寝るには充分な広さがある。

距離を離せばそんなに意識せずに寝ることができるだろうと思った。

ベッドに入り少しウトウトしていると、ベッドの軋む音が聞こえて、智くんが静かに隣に入ってきたことに気付く。

その瞬間、微睡まどろんでいたのなんて吹っ飛んで、全身が隣にいる智くんを意識し出してしまった。

「環菜、もう寝たの?」

智くんに背中を向けた状態の私に、伺うような声のボリュームを抑えた声が聞こえた。

「‥‥まだ起きてるよ」

むしろ目が冴えてきてしまいましたと心の中で呟きながら答える。

すると智くんの腕が伸びてきて、ベッドの中で後ろから抱きしめられた。

背中に温かさを感じる。

「良かった。僕の婚約者は旅行に来てるのに僕をほったらかして先に寝てしまったのかと寂しくなったよ」

寂しいなんて言われると、まるで私ともっと一緒にいたかったと言われているようで、ドキッとしてしまう。

あくまで婚約者役の私への言葉なのは分かっているけど勘違いしそうだ。

「また環菜に印付けてもいい?僕の婚約者だっていう印」

「えっ?」

その言葉の意味を聞き返そうと、その体勢のまま頭だけ背後を振り返ると智くんと目が合った。

色っぽい目に見据えられ、頭の中が真っ白になった私は、近づいてきた唇を素直に受け入れる。

チュッと触れるだけだったキスは、次第に熱を帯びていき、気付けば後ろにいたはずの智くんは私の上に覆い被さっていて、首筋に顔を埋めていた。

予告通り、首筋に吸い付いて印を付けると、智くんの唇はさらに下へと肌を這っていく。

胸元まで降りてきたところで一瞬動きを止めて、智くんは確認するかのように私を見上げた。

「‥‥いい?」

その短い問いかけが何を意味しているのか私は理解している。

それはきっとただ単に印をつけていいかという問いではない。

(やっぱり思ってたとおりだ‥‥。こんなふうに好きな人に求められたら、これ以外の選択肢なんてないもんね‥‥)

私は声には出さず小さく頷いた。

これが婚約者役の一環だとしても拒否できないことなんて最初から分かっていたことだ。

私が頷くのを確認すると、智くんはバスローブの下に手を差し込み、私の肌に直接触れる。

唇も普段は服で隠れている部分へと降りていき、優しく舌で愛撫された。

甘い刺激に息が乱れ、声が漏れ出し、どんどん思考がとろけていく。

そこからはもう智くんが奏でる甘い行為にただただ身を委ねるだけだった。

演技でもなんでもない、彼を好きな私が溢れ出ているだけの時間だった。

幸せだと感じながら、一方で頭の片隅ではこれは【婚約者役】としての営みで、【婚約者役を頼まれた私役】に向けられたものではないと冷静に受け止める自分がいた。

その行為の快楽によって自然と浮かぶ生理的な涙を流しながら、智くんの腕の中で私は心の涙も一緒に流したのだったーー。
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