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#17. ストーカー

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翌日はアルバイトの日だった。

対策を立てたとおり、眼鏡をかけて家を出る。

8月下旬となった今も、まだまだ街中は観光客で溢れていた。


『この前は早退させてもらって申し訳ありませんでした!でもすごく助かりました。本当にありがとうございました』

出勤するなり、私はマネージャーに先日のことを詫びた。

彼女は全く気にした様子はなく、むしろ心配そうに私の顔を覗き込む。

『顔色が良くなっているようだし良かったわ。あの時は本当に顔面蒼白だったもの。幽霊でも見たような顔で驚いたわ。誰でも体調が悪くなることはあるんだから気にしないで!』

『もう大丈夫なので、これからもよろしくお願いします!』

『もちろんよ。ところで今日は眼鏡なのね。眼鏡もチャーミングね』

マネージャーは私にウインクを送ると、バックヤードへ戻っていった。

他の同僚にもお詫びをしたが、みんな『元気になって良かった!』と笑顔で励ましてくれた。

(本当に職場に恵まれてるな、私。素敵な同僚に囲まれて幸せだ。誰も神奈月亜希を知らない世界で、こうやって新しく人との繋がりが生まれて嬉しい‥‥!)

スキャンダルが起きた時は、もうどこにも行き場所がないと思った。

もう私の人生は終わりだとさえ思っていた。

どこに行ってもみんな神奈月亜希を知っていて、隠れて、隠れて、隠れて‥‥。

でも世界は日本だけではない。

日本を一歩出れば、誰も私を知らないし、秋月環菜を迎え入れてくれた。

人生は終わりではなく、また動き出したのだ。

私は本当の意味で世界の広さを痛感していた。



「あれ?今日は環菜さん眼鏡かけてるんですね。何か新鮮です」

午後には智くんの同僚である渡瀬さんがお店にやってきた。

渡瀬さんはもともとここの常連さんらしく、ここで働き始めてからよくお店で会う。

私と同い年なのだが、智くんの婚約者ということで敬語を使ってくれているらしい。

最初は日本人なので警戒していたが、彼は日本のドラマや映画は観ないそうで、もっぱら海外のものばかりなのだそうだ。

当然日本の芸能界には疎く、それを聞いて安心したのだ。

話してみると気さくでとても良い人だった。

「この前、桜庭さん寝不足で出勤してましたよ。夜も盛り上がってるようで、本当におふたりは仲が良いですね。ラブラブで羨ましい限りですよ。僕も彼女欲しいなぁ~」

そう言われ、一瞬何のことかと思ったが、彼が言わんとすることが分かり顔が赤くなる。

大人同士の婚約者だったらまぁ当然のことだから、婚約者役としては否定することもできない。

智くんが寝不足だったのは、本でも読んで夜更かししたとかの理由だろうと思う。

女性に対してデリカシーのない発言だと思うのだが、渡瀬さんも海外経験が長いから、こうも明け透けなのだろう。

海外の人は夜の事情もオープンに話す人は結構多い。

「うわ!顔赤くしちゃって可愛いですね。桜庭さんはこんな婚約者がいるなんて本当にズルイです」

「いえ、そんなことは‥‥!」

「今日の眼鏡姿も似合ってますよ。そういえば、最近お店に変な人が来たりします?何か変わったことはないですか?」

一瞬、あの2人組ことが頭をよぎるが、あの人達は一般的には別に変な人でもなんでもない。

「いえ、特にはないと思いますけど。何か懸念があるんですか?」

「いえいえ、なければいいんですよ!観光シーズンで人も多いですから、知らない人には気をつけてくださいね!」

「分かりました。ご忠告ありがとうございます」

大使館職員としてのアドバイスだろう。

そういえば初めて智くんに会った時にも、こんなふうに注意を受けたなと思い出す。

大使館の人たちの習性なのかもしれないなと思った。



その数日後には、智くんがお店にやってきた。

初めて会ったのもここだったし、クロワッサンがお気に入りで以前はたまに来ていたらしい。

私がアルバイトをするようになってパンを買って帰ることが多くなったから、最近は智くんがお店に来ることはなかった。

だからなんだかお店で会うのは珍しく感じる。

「珍しいね!クロワッサン買いに来たの?」

「環菜の眼鏡姿を見に来たんだよ」

「え?」

どうやら先日来た渡瀬さんから聞いたらしい。

家で眼鏡をかけているところを見たことがなかったから興味があって来てみたそうだ。

「なんで仕事中だけ眼鏡かけてるの?家ではかけてないよね」

「あ~うん、何か気分かな?仕事とプライベートを切り替えるみたいな!」

「前は仕事中もしてなかったのに?」

変装してますとは言えず、苦し紛れにそれっぽい理由をでっちあげてみる。

なのに、そんなのお見通しと言わんばかりに、王子様スマイルを浮かべて鋭く言い返された。

「最近になって思いついたの!ほら、智くんも仕事中はスーツ着てるけど、家では脱ぐでしょ?その姿を見て私もマネしてみようかな~って」

「制服があるのに?」

「うん。私には制服だけじゃうまく切り替えられなかったみたいだから、プラスしたの!あ、それより注文は何にする?」


探るように食い下がられたが、微笑みながらしどろもどろに取り繕いつつ、最後は話を強引に逸らした。

智くんは諦めたように小さくため息をつくと、テイクアウトでクロワッサンを購入する。

準備している間、なぜが何かを探すように店内をぐるりと見渡しているようだった。

その様子を不思議に思いながら、袋に入れたクロワッサンを手渡す。

「今日は遅くなると思うから。環菜も夜シフトなんだっけ?」

「うん、といっても智くんよりは早いと思うけどね」

「帰り道気をつけてね」

「ありがとう」

そう言うと、忙しいのか智くんは足早に帰って行った。



その日の仕事終わりのことだ。

夜の営業を終え後片付けを済ませ、私は同僚に挨拶をし21時頃にお店を出た。

お腹空いたなと足早に帰宅しようとすると、いきなり人影が現れて私の目の前に立ち塞がる。

驚いて一瞬ビクッとしながらそちらを見ると、アジア人の男女が目の前にいた。

女性の方は20代前半くらいの日本人、男性の方は同じ年頃の中国人だろう。

日本人の女性ということに、違う意味で私の身体は強張った。

「‥‥あの?」

「あなたが智行さんの婚約者っていう身の程知らずな方よね?」

「え‥‥?」

神奈月亜希の名前ではなく、ここで智くんの名前が出てきたことに驚いた。

大学生くらいに見えるけど、この女性は智くんの知り合いなんだろうか。

「智行さんから私の存在を聞いてないかしら?私たちは運命の相手なの。だからあなたには智行さんと別れて彼の目の前から消えていただきたいの」

その言葉にまた驚いて、思わず目を見開く。

どうやら彼女は智くんのことが好きなようだ。

婚約者役を引き受けた時に、智くんは特定の相手はいないと言っていたから恋人ではないのだろうが、当然の主張と言わんばかりに堂々と言われて戸惑ってしまう。

「私の父はね、日本で大企業の重役なの。経済界はもちろん、政治家にもツテがあるわ。だから智行さんのお仕事の助けにもなれるの。あなたは?ただの昔馴染みなんでしょう?彼の役に立てるようには思えないのだけど」

その言葉は心にグサっと刺さった。

彼女の言う通りだからだ。

私には彼の役に立つような家族はいないし、スキャンダルを起こした過去もある。

演技力のおかげで、「婚約者役」としては役に立っているかもしれないけど、ただの秋月環菜としては智くんにメリットがあるとは思えなかった。

(彼女の言うことは正しい‥‥。そういう意味でも私が智くんのそばにいるためには「婚約者役」でいる必要があるんだな‥‥)

皮肉なことに、彼女の言葉で改めて自分の立場を認識できた。

私が言い返さないことを肯定と捉えたのか、彼女は勝ち誇った顔だ。

「分かってくださるならいいのよ。私もそんなに薄情ではないから、あなたには彼を紹介してあげるわ。ハオランよ」

そう言うと、ここまで何も口を挟まず彼女の横で静かにしていた中国人の男性に声をかける。

「思っていた以上に上玉の女じゃないか。俺の好きにしていいんだよな?」

「ええ。お好きにどうぞ」

名前を呼ばれた中国人の男性は、流暢な日本語で彼女にそう聞くと、ニヤニヤといやらしい嫌な笑みを浮かべて私を舐めるような目で見てきた。

情欲に染まったその視線は私の身体に絡みつくように注がれ、嫌な予感に背筋が冷たくなる。

「話も済んだようだし、じゃあいいことしに行こうか。思う存分楽しませてやるよ」

男性は待ちきれないとばかりに、私の腕を掴み腰を引き寄せようと手を伸ばしてくる。

身の危険を感じて後退あとずさったその時だ。

背後から別の手が伸びてきて、嗅ぎ慣れたシトラス系の爽やかな香りと温かな体温に包まれた。

驚いて振り返ると、智くんに後ろから抱きしめられていて、彼の近くには渡瀬さんまでいる。

なぜここに?と思っていると智くんが女性に向かって口を開いた。

「三上さん、これはどういうことでしょうか?なぜ僕の婚約者と?」

「智行さんのためです。なかなか別れないから、きっと彼女が困らせているんだと思って、私がなんとかして差し上げようと思ったんです。優しい智行さんのことだから、彼女を一人にするのを気にするかと思って、私は代わりの相手まで準備したんですよ!そうすれば、心置きなく私の元に来られるでしょう?」

彼女は褒めてくれというふうに声高々と智くんに言って聞かせている。

「僕は何度も言いましたよね。三上さんにプライベートで関わるつもりはないと。それに彼女を愛しているので、あなたの元に行くことはないので諦めてくださいと」

こんな時なのに、智くんの「愛している」という言葉に思わずドキッとしてしまう。

私ではなく、あくまでも婚約者役に向けられた言葉だと頭では分かっているというのに。

「そんなの理解できないわ。だって私と智行さんは運命なんですもの!父もそう認めてくれているんです」

「そうですか。ではお父様はこれを聞いたら何とおっしゃるでしょうね?」

圧を感じるニッコリとした笑顔をした智くんは、スーツのポケットからスマホを取り出して何かの操作をしている。

するとスマホから日本語の音声が響き出した。

それは男女の会話のようだが、隠し取りされたのか雑音が少し混じっている。


ーー邪魔な女がいるから、どうにかして欲しいの。ハオランの好きなか弱そうな感じの日本人の女よ。
ーー処女?
ーー知らないけど違うと思うわ。でも間違いなくハオランのタイプよ。好きにすればいいわ。
ーーへぇ。面白そうだな。俺の好きに調教してしまえばいいか。
ーーええ、二度と私の運命の人に近づけないように薬漬けにでもしちゃってよ。
ーーあの薬使うと女は俺から離れられなくなるらしいしな。
ーーうふふっ。楽しみだわ。もちろん上手くやってくれれば報酬は弾むから。あと、ハオランのお父様の会社に事業提携するように父にも口利きしてあげるわね。
ーーそれは助かる。交渉成立だな。


この男女の声は、今目の前にいるこの2人だろう。

(なにこの会話‥‥!私、薬漬けにされそうになってたってこと‥‥!?)

無意識に身体が強張っていく。

そんな私の様子に気づいたのか、智くんは安心させるように私を抱きしめる腕に力を込めた。

「な、な、なんですか!これ!」

2人は信じられないというふうに、目を大きく見開いて、明らかに焦りの表情が浮かんでいる。

「お聞きの通り、これは立派な強姦計画ですよね。それに違法薬物の存在まで告白しています。これが世に出たら、あなたはどうなるでしょうね?お父様はなんておっしゃるでしょうね?」

話の物騒さとは真逆のにこやかな笑顔の智くんが言い募る。

さらに渡瀬さんも追撃するように言葉を重ねた。

「ちなみに音声データは今のだけじゃないですよ。具体的な計画を練ってる時のものもバッチリありますんで!」

「たとえ警察が相手にしなくても、弁護士に持ち込むなり、マスコミに持ち込むなりできますしね。大企業の重役の娘のネタなんて週刊誌は大喜びでしょう。ハオランさんは過去にも犯行があるみたいですし実刑でしょうね」

とどめを刺すような智くんの言葉に、2人は何も言えなくなってしまい、呆然としている。

「そんな嘘でしょう‥‥。智行さんはスリにあった私を助けてくれる優しい人だもの。そんなことしないですよね‥‥?」

三上さんという女性は、涙を浮かべながら懇願するように智くんを見つめる。

その瞳には好きな人を一身に想う恋する色が浮かんでいた。

「僕はもともとこういう人間ですよ。あなたを助けたのは仕事の一環です」

スパッと言い切る智くんに、三上さんは絶望した顔になった。

もうその瞳には恐怖の色しかなかった。

「こちらにはこのように音声データがあります。表沙汰にしたくなかったら、2度と僕たちに近づかないでください。もし守って頂けないようでしたら、こちらも遠慮なくいかせて頂きますので悪しからず」

釘を刺すように止めの一言を智くんが述べると、2人は逃げ出すようにその場から消えて行った。

その場に残された私は、智くんと渡瀬さんを振り返り交互に視線を送る。

「助けてくれてありがとうございました。あの、2人はどうしてここへ‥‥?」

タイミングよく現れただけでなく、あんな音声データまで持っていたとなると、2人はあの人たちをマークしていたのだろうか。

「環菜が無事で良かったよ」

智くんは背後から抱きしめていた私の首筋に顔を埋めるようにして、安堵の息を吐き出した。

「本当に良かったです!‥‥でも桜庭さん、僕がいるの忘れてません?桜庭さんが女性にそんな首ったけの状態なのは初めて見ましたよ。ラブラブなのはいいですけど、ぜひ家でお願いします」

少し呆れるように渡瀬さんは私たちを見ている。

「ちょうど身の危険を感じたタイミングで2人が現れてくれたんで私は大丈夫です。ありがとうございます。それで、これは一体どういう状況なんですか‥‥?」

「あれ?環菜さんは桜庭さんから何も聞いてないんですか?三上さんは桜庭さんに一度助けられて以来、ストーカーのようにつきまとっていたんですよ。最近は環菜さんにまで目を付けていたようなので警戒してたんです」

智くんの代わりに渡瀬さんは事情を軽やかに説明してくれる。

どうやらここ最近智くんや渡瀬さんがお店に来てくれていたのも、三上さんの動向をチェックする目的もあったようだ。

(何も知らなかった‥‥。だから変な人に気をつけてって忠告されてたのか。それに婚約者役の女避けって、もしかして三上さん避けって意味もあったのかも)

なんだか色々繋がってくるような気がした。

「まぁ、もうあの2人はこれで環菜さんに近づいてくることはないでしょうし安心ですね。では、僕はこのへんで!あとは桜庭さんから聞いてくださいね!」

「渡瀬さん、ありがとうございました‥‥!」

渡瀬さんは私のお礼に応えるように片手を挙げると、軽やかに去って行った。

残されたのは智くんと私だけだ。


後ろから抱きしめられた状態だった私は、一度身体を離して振り返ると、改めて正面から智くんに抱きついた。

彼の背中に手を回してギュッとしがみつく。

(今は外にいて人目があるから婚約者役だもんね。だから婚約者らしく、ただ彼を好きな女の子として振る舞っていいよね‥‥?)

私は婚約者役を利用して、彼が婚約者役に向ける優しさを受け止める。

「智くん、助けに来てくれてありがとう」

「事前に話しておけば良かったね。環菜を怖がらせたくなかったし、煩わせたくなかったんだ。でも結局ギリギリになって‥‥。怖かったよね?」

「何もなかったし私は大丈夫」

「本当に?」
 
「うん」

智くんの顔を見上げ、安心させるように笑顔で微笑む。

目が合うと、智くんも優しく微笑み、私のおでこに、まぶたに、頬にと順番に唇を落としてきた。

まるで愛しいものに触れるようなそのキスに、婚約者役に向けられたものだと分かっていても胸がトキメク。

同時に胸が締め付けられるような切なさも感じた。

最後に唇にその柔らかさが降り注ぎ、私は目を閉じる。

口の中に入ってくる彼の舌に自分のものを絡ませて、その優しい愛撫に応え、深く深く口づけを交わした。

婚約者役としてでいいから、少しでも彼を感じたくて。

家に帰れば、【彼に興味のない私役】をまた演じるから今だけは‥‥と心の中で思いながらーー。

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