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#10. 事前リハーサル
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智くんと暮らし始めて早くも1ヶ月が経つ。
6月を目前に控え、日中は半袖で過ごせるくらいの季節に移り変わりつつあった。
意外なことに、同居生活は普通にうまくいっている。
それぞれの生活を尊重して暮らしているし、そもそも智くんは仕事で忙しいから日中は顔を合わせることもない。
夜は時間が合えば一緒に夕食を食べることもあるし、合わなくても作った料理を冷蔵庫に入れておくと食べてくれているようだ。
夕食は、同居当初に手料理をお裾分けして以来、食費をもらって私が作っている。
というのも、海外の食材は量が多いから一人分を作る方が逆に手間で、いつも作り過ぎて余ってしまうのだ。
私にとっては食費が浮くし作るのも楽、彼にとっては日本食が手軽に食べられるし外食に行く時間を削れるというwin-winの状態である。
婚約者のふりについては、今のところパーティーに同伴する機会はまだ訪れておらず、たまに外に出掛けた時にそれっぽく振る舞うだけで済んでいる。
一度街で智くんの同僚だという渡瀬さんに遭遇した時は緊張したが、全く怪しまれることがなかったので婚約者役も板についてきたのだと自信になった。
こんなふうに婚約者役も同居生活も順調ではあるのだが、ただ一つ困っていることがある。
それは、家の中でも彼のスキンシップが多いことだ。
誰かに見せる必要もないのに、恋人っぽい言動をしてこられると動揺するし、いちいち心臓に悪い。
そんなここ1ヶ月の出来事を思い出しながらキッチンで夕食を作っていると、玄関の方から物音がした。
時計を見ると19時だった。
どうやら今日は仕事が早く終わって智くんがもう帰ってきたようだった。
キッチンの方へ向かってくる足音がする。
背後に人の気配を感じたかと思うと、次の瞬間、いきなり後ろから抱きしめられた。
「ただいま」
後ろから耳元でそう囁かれてビクッと身体が跳ねる。
そう、これなのだ。
こんな感じでいつも唐突に触れてきて、毎回毎回驚かされるのだ。
「おかえり。ていうか、ちょっと‥‥!料理中で危ないから離れて!」
「じゃあ料理のあとでね」
クスクスと笑う声が聞こえて、身体が離れていくと、彼はリビングの方へ行ってしまった。
(まったく‥‥!この心臓のドキドキをどうしてくれるのよ。海外暮らしが長いからなのか、本当に毎回困る!)
智くんに直接抗議したこともあるのだが、いつもニッコリと笑ってケムに撒かれてしまうのだ。
私は気を紛らわせるように意識を料理の方へ向け、調理の続きに取り掛かる。
今日のメニューは、カレーライスだ。
もういいだろうと思い、火を止めて、私はお皿に盛り付け始める。
私がこうやって料理ができるのは祖母のおかげだった。
幼少期に両親を亡くし、祖父母に育てられた私は、料理を祖母に仕込まれたのだ。
自分たちが先に他界してしまうと私が1人になってしまうから、その時に困らないようにとの思いでのことだと言っていた。
おかげで自活力が身に付いたのは助かっている。
お皿に盛り付けたカレーライスを2皿持ってリビングに向かい、テーブルに乗せる。
「今日はカレーなんだ。美味しそうだね」
「お口に合えばいいけど」
「環菜が作るものはいつも何でも美味しいよ」
お世辞で言ってる風でもなく、純粋に褒められているようだ。
これまで人に料理を振る舞う機会はそんなになかったから、褒められるとなんだかくすぐったい。
食事を始めると、智くんはチェコ語で私に話しかけてきた。
「co jsi dnes dělal?(今日は何してたの?)」
「Dnes jsem byl v muzeu umění. Bylo to tak hezké.(今日は美術館に行ってきたよ。すごく素敵だった)」
最近は私のチェコ語の勉強のために、こうしてチェコ語での会話に付き合ってくれる。
アニメを見ながらブツブツつぶやいて真似した甲斐があって、簡単な会話ならできるようになってきていた。
「だいぶ話せるようになったね。環菜は覚えるのが早くて驚くよ」
「仕事してなくて時間があるから。アニメをひたすら見てるし」
「そうだとしても、発音もきれいだし、すごいと思うよ」
また褒められて気分が良くなる。
実は演技をする時に台本のセリフを覚える要領でチェコ語を勉強していたのだ。
ひたすら真似して、ぶつぶつ口に出して馴染ませるのが私のやり方だ。
こういう過去の経験が語学習得にも役立ったのだろう。
それにしてもこんなに立て続けに褒められるのは何か狙いがあるように感じる。
王子様スマイルを浮かべる智くんを私はジロリと睨んだ。
「もしかして何かお願いごとがあったりする?」
「さすが環菜。やっぱり鋭いね」
やっぱりなと思った。
智くんは優しげで甘い笑顔の裏で何かしら企んでいることが多いのだ。
「お願いってなに?」
「来週プラハの有力議員の邸宅でホームパーティーがあって招待されているんだ。それに婚約者役として一緒に同行して欲しい」
いよいよ婚約者役の本番だ。
不安もあるけど、役を披露する舞台がやってきたことに少しワクワクする。
「もちろん。だってそれはもともとそういう話だったしね!それにこの前渡瀬さんに会った時にもバレなかったし、私の婚約者役も上達してると思うの!」
私は快諾して笑顔で応じる。
お願いと言うから身構えたけど、なんだこんなことかとホッとした。
「ドレスは必要経費として僕の方で用意しておくから安心して。他に必要なものある?ヘアメイクとか誰かにお願いする?」
「ううん、自分でできるから大丈夫」
「そう、分かった。じゃああとは本番に向けた直前リハーサルだけかな」
「えっ?直前リハーサル‥‥?」
不穏な空気を感じて口ごもる。
こういう流れは危険な感じがするのだ。
カレーを食べ終えた智くんは、スプーンをテーブルに置くと私を見据えてニッコリ微笑む。
「さっき抱きしめただけで身構えてたでしょ。あれは婚約者としてありえないよね。前に言ったよね、綻びが見えたら荒治療するって」
そう言われ、同居を始めた当初にプラハ城で言われたことを思い出す。
同時にその時にしたキスのことまで思い出してしまい、身体が熱くなるのを感じた。
「で、でもさ、渡瀬さんには全然バレなかったよ?だからきっと大丈夫だよ!」
「渡瀬はニブイところあるから。でも今度のパーティーは目の肥えた要人ばかりだし、失敗するわけにはいかないからね」
そう言われるとそうなのかもしれない。
智くんの立場としても、同伴するパートナーに大事な仕事の場で下手なことをされたくないのだろう。
「‥‥直前リハーサルって何するの?」
「そうだなぁ。とりあえず、まずはここにおいで」
少し考えるように天を仰いだ智くんは、何かを閃くと、自身の腕を軽く広げて笑顔で私を見て、こう言ったのだ。
(え?おいでってなに?この胸の中に自分から飛び込めってこと‥‥!?)
なかなかハードルの高いことを言われて、私はピシッと固まってしまった。
「そんなの無理。今は本番じゃないんだからいいでしょ。本番はちゃんとやるから。ね?」
「環菜は昔お芝居をかじってたって言ってたけど、その時も事前にリハーサルとかはしなかったの?ぶっつけ本番だった?」
「‥‥」
拒否すると、そんなふうに諭されて、思わず言葉に詰まる。
ドラマや映画の撮影は、事前リハーサルがとても大切だった。
役者同士の動きやカメラワークの確認などを事前にきちんとしておくことで本番の出来が違うのだ。
痛いところを突かれて何も言えなくなってしまった私は、口には出せない抗議の気持ちを瞳に込めて智くんを睨んだ。
それもニコニコ笑ったまま平然と受け流されてしまった。
「はい、もう反論はないよね。じゃあ、おいで」
再び腕を広げて差し出され、もう後には引けない私は仕方なく、恐る恐ると彼の胸に飛び込んだ。
その直後に背中に腕を回されてギュッと抱きしめられ、頬を彼の胸に押し付ける形になる。
意外とたくましい身体つきを服越しに感じるし、なんだかシトラス系のいい香りもするし、なにより今までにない密着具合にソワソワしてしまい、心臓がドクドクと脈打つ。
抱き合うシーンはドラマや映画で幾度となく経験してきたのに、こんなに胸が高鳴るのはなんでなんだろう。
「も、もういい?十分だよね!」
むず痒くなって身体を離そうとしたら、制止するようにさらに力を込められて身動きが取れなくなってしまった。
「‥‥ちょっと!」
「これはただのハグだよ。海外だと普通。これじゃあ荒治療の直前練習にはならないと思うんだよね」
「えっ」
「だから今度はこれね」
そう言うと、智くんは少し腕を緩めて私に顔を上げさせると、そのまま顔を近づけてきた。
頭の後ろに手を添えられていて、逃げることもできず、私は彼の唇を受け止める。
唇が触れ、キスされたと分かり動揺すると同時に、今度は唇の間を割いて柔らかいものが口の中に侵入してくる。
「‥‥!!」
驚いて彼の胸を押して離れようとするも、頭を押さえられて逃げることができない。
そうしてるうちに丁寧に歯列をなぞられ、舌が絡まり、どんどんと口づけは深くなっていく。
清純派として活動していた私は、ドラマや映画の撮影でこんな深いキスの経験はなく、慣れないキスに翻弄される。
「んんっ‥‥」
思わず声が小さく漏れてしまい、恥ずかしさで身体が火照った。
ようやく唇が離れると、智くんの唇は唾液でわずかに光っていて、それがなんとも艶かしい。
直視できずに思わず目を逸らした。
「婚約者ならこれくらいはするよね。本番に向けた荒治療ぎみの練習になった?」
「‥‥さすがにやりすぎだよ!人前でこんなキスはしないよ、きっと」
「するかもしれないでしょ?可能性のあることはリハーサルしとかないと」
またニコリと笑顔を向けられ、まだ何かあるのかと身構える。
「そんなに身構えなくて大丈夫だよ。そんな目で見られたらさすがにもう事前リハーサルとしては十分かなと思うし」
どうやら私は涙目になっていたようだ。
宥めるように頭をポンポンとなでられる。
「じゃあその調子で本番もよろしくね。レセプションパーティーは来週の土曜日だから」
「‥‥分かった」
思わぬ出来事に魂を抜かれたようになってしまった私は、返事だけするとそのまま立ち上がり、逃げるようにリビングから自分の部屋へ戻った。
ドキドキドキドキ‥‥
まだ心臓が大きく脈打っていて全然鳴り止まない。
無意識に手で自分の唇に触れる。
怖かったとか、嫌だったとかいうわけではない。
ただ、突然のことにひたすら驚いたし、それにあのキスに翻弄されつつも少し気持ちいいと感じてしまっていた自分にも驚いた。
キスの前のあのハグもそうだ。
ソワソワして居心地が悪かった一方で、人の体温に包まれて安心するような気持ちにもなってしまっていたのだ。
(あの人はあくまで婚約者のふりの練習としてやってるだけなんだから意識しちゃダメ‥‥!それに自分に興味を持たない相手だからこそ、私がこの役に選ばれているわけだし。絶対に惹かれちゃダメなんだから!)
実際は、この1ヶ月一緒に暮らしていて、智くんに惹かれつつあったのだ。
女優だった頃の私を知らないから過ごしやすいし、外見と違うと言われる私の負けず嫌いなところも認めてくれるし、チェコ語の勉強にも付き合ってくれる。
彼自身も、笑顔のうらに腹黒な部分を隠してはいるけど、努力家で仕事熱心な人だった。
そうじゃなきゃ、いくら海外暮らしが長いからって8ヵ国もできるはずがないだろう。
そういう部分は素直に尊敬できると思う。
はぁと私は深いため息を吐く。
(きっとこの数年、仕事以外で男性と関わる機会がほとんどなくてきっと動揺しているだけだよね。だから惹かれる部分があるなんて思っちゃってるんだよね‥‥!)
誤魔化すように自分の気持ちに蓋をする。
だって私はあくまで婚約者役なのだからーー。
6月を目前に控え、日中は半袖で過ごせるくらいの季節に移り変わりつつあった。
意外なことに、同居生活は普通にうまくいっている。
それぞれの生活を尊重して暮らしているし、そもそも智くんは仕事で忙しいから日中は顔を合わせることもない。
夜は時間が合えば一緒に夕食を食べることもあるし、合わなくても作った料理を冷蔵庫に入れておくと食べてくれているようだ。
夕食は、同居当初に手料理をお裾分けして以来、食費をもらって私が作っている。
というのも、海外の食材は量が多いから一人分を作る方が逆に手間で、いつも作り過ぎて余ってしまうのだ。
私にとっては食費が浮くし作るのも楽、彼にとっては日本食が手軽に食べられるし外食に行く時間を削れるというwin-winの状態である。
婚約者のふりについては、今のところパーティーに同伴する機会はまだ訪れておらず、たまに外に出掛けた時にそれっぽく振る舞うだけで済んでいる。
一度街で智くんの同僚だという渡瀬さんに遭遇した時は緊張したが、全く怪しまれることがなかったので婚約者役も板についてきたのだと自信になった。
こんなふうに婚約者役も同居生活も順調ではあるのだが、ただ一つ困っていることがある。
それは、家の中でも彼のスキンシップが多いことだ。
誰かに見せる必要もないのに、恋人っぽい言動をしてこられると動揺するし、いちいち心臓に悪い。
そんなここ1ヶ月の出来事を思い出しながらキッチンで夕食を作っていると、玄関の方から物音がした。
時計を見ると19時だった。
どうやら今日は仕事が早く終わって智くんがもう帰ってきたようだった。
キッチンの方へ向かってくる足音がする。
背後に人の気配を感じたかと思うと、次の瞬間、いきなり後ろから抱きしめられた。
「ただいま」
後ろから耳元でそう囁かれてビクッと身体が跳ねる。
そう、これなのだ。
こんな感じでいつも唐突に触れてきて、毎回毎回驚かされるのだ。
「おかえり。ていうか、ちょっと‥‥!料理中で危ないから離れて!」
「じゃあ料理のあとでね」
クスクスと笑う声が聞こえて、身体が離れていくと、彼はリビングの方へ行ってしまった。
(まったく‥‥!この心臓のドキドキをどうしてくれるのよ。海外暮らしが長いからなのか、本当に毎回困る!)
智くんに直接抗議したこともあるのだが、いつもニッコリと笑ってケムに撒かれてしまうのだ。
私は気を紛らわせるように意識を料理の方へ向け、調理の続きに取り掛かる。
今日のメニューは、カレーライスだ。
もういいだろうと思い、火を止めて、私はお皿に盛り付け始める。
私がこうやって料理ができるのは祖母のおかげだった。
幼少期に両親を亡くし、祖父母に育てられた私は、料理を祖母に仕込まれたのだ。
自分たちが先に他界してしまうと私が1人になってしまうから、その時に困らないようにとの思いでのことだと言っていた。
おかげで自活力が身に付いたのは助かっている。
お皿に盛り付けたカレーライスを2皿持ってリビングに向かい、テーブルに乗せる。
「今日はカレーなんだ。美味しそうだね」
「お口に合えばいいけど」
「環菜が作るものはいつも何でも美味しいよ」
お世辞で言ってる風でもなく、純粋に褒められているようだ。
これまで人に料理を振る舞う機会はそんなになかったから、褒められるとなんだかくすぐったい。
食事を始めると、智くんはチェコ語で私に話しかけてきた。
「co jsi dnes dělal?(今日は何してたの?)」
「Dnes jsem byl v muzeu umění. Bylo to tak hezké.(今日は美術館に行ってきたよ。すごく素敵だった)」
最近は私のチェコ語の勉強のために、こうしてチェコ語での会話に付き合ってくれる。
アニメを見ながらブツブツつぶやいて真似した甲斐があって、簡単な会話ならできるようになってきていた。
「だいぶ話せるようになったね。環菜は覚えるのが早くて驚くよ」
「仕事してなくて時間があるから。アニメをひたすら見てるし」
「そうだとしても、発音もきれいだし、すごいと思うよ」
また褒められて気分が良くなる。
実は演技をする時に台本のセリフを覚える要領でチェコ語を勉強していたのだ。
ひたすら真似して、ぶつぶつ口に出して馴染ませるのが私のやり方だ。
こういう過去の経験が語学習得にも役立ったのだろう。
それにしてもこんなに立て続けに褒められるのは何か狙いがあるように感じる。
王子様スマイルを浮かべる智くんを私はジロリと睨んだ。
「もしかして何かお願いごとがあったりする?」
「さすが環菜。やっぱり鋭いね」
やっぱりなと思った。
智くんは優しげで甘い笑顔の裏で何かしら企んでいることが多いのだ。
「お願いってなに?」
「来週プラハの有力議員の邸宅でホームパーティーがあって招待されているんだ。それに婚約者役として一緒に同行して欲しい」
いよいよ婚約者役の本番だ。
不安もあるけど、役を披露する舞台がやってきたことに少しワクワクする。
「もちろん。だってそれはもともとそういう話だったしね!それにこの前渡瀬さんに会った時にもバレなかったし、私の婚約者役も上達してると思うの!」
私は快諾して笑顔で応じる。
お願いと言うから身構えたけど、なんだこんなことかとホッとした。
「ドレスは必要経費として僕の方で用意しておくから安心して。他に必要なものある?ヘアメイクとか誰かにお願いする?」
「ううん、自分でできるから大丈夫」
「そう、分かった。じゃああとは本番に向けた直前リハーサルだけかな」
「えっ?直前リハーサル‥‥?」
不穏な空気を感じて口ごもる。
こういう流れは危険な感じがするのだ。
カレーを食べ終えた智くんは、スプーンをテーブルに置くと私を見据えてニッコリ微笑む。
「さっき抱きしめただけで身構えてたでしょ。あれは婚約者としてありえないよね。前に言ったよね、綻びが見えたら荒治療するって」
そう言われ、同居を始めた当初にプラハ城で言われたことを思い出す。
同時にその時にしたキスのことまで思い出してしまい、身体が熱くなるのを感じた。
「で、でもさ、渡瀬さんには全然バレなかったよ?だからきっと大丈夫だよ!」
「渡瀬はニブイところあるから。でも今度のパーティーは目の肥えた要人ばかりだし、失敗するわけにはいかないからね」
そう言われるとそうなのかもしれない。
智くんの立場としても、同伴するパートナーに大事な仕事の場で下手なことをされたくないのだろう。
「‥‥直前リハーサルって何するの?」
「そうだなぁ。とりあえず、まずはここにおいで」
少し考えるように天を仰いだ智くんは、何かを閃くと、自身の腕を軽く広げて笑顔で私を見て、こう言ったのだ。
(え?おいでってなに?この胸の中に自分から飛び込めってこと‥‥!?)
なかなかハードルの高いことを言われて、私はピシッと固まってしまった。
「そんなの無理。今は本番じゃないんだからいいでしょ。本番はちゃんとやるから。ね?」
「環菜は昔お芝居をかじってたって言ってたけど、その時も事前にリハーサルとかはしなかったの?ぶっつけ本番だった?」
「‥‥」
拒否すると、そんなふうに諭されて、思わず言葉に詰まる。
ドラマや映画の撮影は、事前リハーサルがとても大切だった。
役者同士の動きやカメラワークの確認などを事前にきちんとしておくことで本番の出来が違うのだ。
痛いところを突かれて何も言えなくなってしまった私は、口には出せない抗議の気持ちを瞳に込めて智くんを睨んだ。
それもニコニコ笑ったまま平然と受け流されてしまった。
「はい、もう反論はないよね。じゃあ、おいで」
再び腕を広げて差し出され、もう後には引けない私は仕方なく、恐る恐ると彼の胸に飛び込んだ。
その直後に背中に腕を回されてギュッと抱きしめられ、頬を彼の胸に押し付ける形になる。
意外とたくましい身体つきを服越しに感じるし、なんだかシトラス系のいい香りもするし、なにより今までにない密着具合にソワソワしてしまい、心臓がドクドクと脈打つ。
抱き合うシーンはドラマや映画で幾度となく経験してきたのに、こんなに胸が高鳴るのはなんでなんだろう。
「も、もういい?十分だよね!」
むず痒くなって身体を離そうとしたら、制止するようにさらに力を込められて身動きが取れなくなってしまった。
「‥‥ちょっと!」
「これはただのハグだよ。海外だと普通。これじゃあ荒治療の直前練習にはならないと思うんだよね」
「えっ」
「だから今度はこれね」
そう言うと、智くんは少し腕を緩めて私に顔を上げさせると、そのまま顔を近づけてきた。
頭の後ろに手を添えられていて、逃げることもできず、私は彼の唇を受け止める。
唇が触れ、キスされたと分かり動揺すると同時に、今度は唇の間を割いて柔らかいものが口の中に侵入してくる。
「‥‥!!」
驚いて彼の胸を押して離れようとするも、頭を押さえられて逃げることができない。
そうしてるうちに丁寧に歯列をなぞられ、舌が絡まり、どんどんと口づけは深くなっていく。
清純派として活動していた私は、ドラマや映画の撮影でこんな深いキスの経験はなく、慣れないキスに翻弄される。
「んんっ‥‥」
思わず声が小さく漏れてしまい、恥ずかしさで身体が火照った。
ようやく唇が離れると、智くんの唇は唾液でわずかに光っていて、それがなんとも艶かしい。
直視できずに思わず目を逸らした。
「婚約者ならこれくらいはするよね。本番に向けた荒治療ぎみの練習になった?」
「‥‥さすがにやりすぎだよ!人前でこんなキスはしないよ、きっと」
「するかもしれないでしょ?可能性のあることはリハーサルしとかないと」
またニコリと笑顔を向けられ、まだ何かあるのかと身構える。
「そんなに身構えなくて大丈夫だよ。そんな目で見られたらさすがにもう事前リハーサルとしては十分かなと思うし」
どうやら私は涙目になっていたようだ。
宥めるように頭をポンポンとなでられる。
「じゃあその調子で本番もよろしくね。レセプションパーティーは来週の土曜日だから」
「‥‥分かった」
思わぬ出来事に魂を抜かれたようになってしまった私は、返事だけするとそのまま立ち上がり、逃げるようにリビングから自分の部屋へ戻った。
ドキドキドキドキ‥‥
まだ心臓が大きく脈打っていて全然鳴り止まない。
無意識に手で自分の唇に触れる。
怖かったとか、嫌だったとかいうわけではない。
ただ、突然のことにひたすら驚いたし、それにあのキスに翻弄されつつも少し気持ちいいと感じてしまっていた自分にも驚いた。
キスの前のあのハグもそうだ。
ソワソワして居心地が悪かった一方で、人の体温に包まれて安心するような気持ちにもなってしまっていたのだ。
(あの人はあくまで婚約者のふりの練習としてやってるだけなんだから意識しちゃダメ‥‥!それに自分に興味を持たない相手だからこそ、私がこの役に選ばれているわけだし。絶対に惹かれちゃダメなんだから!)
実際は、この1ヶ月一緒に暮らしていて、智くんに惹かれつつあったのだ。
女優だった頃の私を知らないから過ごしやすいし、外見と違うと言われる私の負けず嫌いなところも認めてくれるし、チェコ語の勉強にも付き合ってくれる。
彼自身も、笑顔のうらに腹黒な部分を隠してはいるけど、努力家で仕事熱心な人だった。
そうじゃなきゃ、いくら海外暮らしが長いからって8ヵ国もできるはずがないだろう。
そういう部分は素直に尊敬できると思う。
はぁと私は深いため息を吐く。
(きっとこの数年、仕事以外で男性と関わる機会がほとんどなくてきっと動揺しているだけだよね。だから惹かれる部分があるなんて思っちゃってるんだよね‥‥!)
誤魔化すように自分の気持ちに蓋をする。
だって私はあくまで婚約者役なのだからーー。
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