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#9. 婚約者(Side智行)
しおりを挟む「桜庭さん、昨日街で見かけましたよ!一緒にいたあのきれいな女性は一体どなたですか!?」
休み明けに出勤すると、真っ先に後輩の渡瀬潤が興味津々で近寄ってきた。
渡瀬は僕より5年後輩で、子犬のように人懐っこい男である。
キャンキャン吠える子犬のように騒ぎ立てる渡瀬の声を聞いて、周囲の職員も何事かとこちらに注目していた。
この状況は想定内で、むしろ狙った通りに事が運び、心の中でほくそ笑んだ。
昨日環菜と外に出かけた時、環菜には予行練習とだけ言ったが、さらに言うとあの状況を身近な人に目撃させようと思っていたのだ。
そうすれば自分から婚約者がいることを広めなくても、誰かが勝手に言いふらすに違いないと踏んでいた。
目撃したのが渡瀬だったというのは、こういうふうに騒ぎ立ててくれるという点でラッキーだったといえる。
僕はいつも通りにニコリと笑うと、さも驚いたかのように渡瀬に答える。
「あぁ、見られてたんだ。恥ずかしいな」
「で、どなたなんですか!?」
「婚約者だよ」
「「「婚約者‥‥!?」」」
僕の言葉に、渡瀬だけでなく聞き耳を立てていた周囲の職員までもが驚きに声を上げた。
見事なハモリだった。
「桜庭さんって彼女いたんですか?いきなり婚約者って!一体どういうことですか!?」
渡瀬の質問に、周囲の職員までもが同じ疑問を持ったのか深く頷いている。
僕はその質問に環菜とあらかじめ練っておいた設定をツラツラと述べてみせる。
だんだん本当の話なのだと信じてきたのだろう、近くにいた女性職員は驚きとショックで若干涙目になってきている者もいるようだ。
(さぁこれであとは勝手に話が広がって女避けになるだろう。仲が良さそうだったと伝われば付け入る隙がないと思われるだろうし。あれだけそれっぽく振る舞ったし、目撃されていればそれも伝わるだろうしね)
すべてが狙い通りに進み、爽快な気分だった。
そして僕はふと昨日のことを思い出す。
昨日は環菜にプラハの主要観光名所を案内しながら婚約者の予行練習をしたのだが、1日環菜と過ごしてみて色々と彼女について発見があった。
まず、環菜は思った以上に鋭く、僕の笑顔の裏を読み取るのだ。
プラハを案内すると親切心っぽく申し出たのに、それに何か別の意図があると正確に感じ取っていた。
次に、環菜が意外にも負けず嫌いだということだ。
正直、あの癒し系の庇護欲そそる外見の印象からは想像もつかなかったが、なにかと僕と張り合おうとしていたし、上手く演じられなくて悔しさを滲ませていた。
不貞腐れる態度が可愛くて、思わず素で笑ってしまったくらいだった。
それに、もっとも意外だったのは、環菜があまり異性に触れられることに慣れていないようだったことだ。
婚約者のふりをするにあたり、仲良く見せるため手を繋いだり、頬に触れたり、キスしたりとスキンシップを試みたところ、いちいちビクッと震えて身構えていた。
キスした時なんか信じられないと言わんばかりにあの大きな瞳をさらに大きく見開いていた。
あの容姿だし男慣れしているのだろうと勝手に思っていたのだが、どの反応も初々しいのには内心驚いた。
(まぁ、その反応が可愛くて、僕もだんだんエスカレートしてしまったのは否めないけど。最初はキスまでするつもりはなかったし)
もっともらしくキスした理由も作り上げて、彼女を丸め込んだが。
あのキスも触れるだけの軽いキスで留めたものの、もっと深く口づけしたい衝動に駆られたのを理性で止めたのだった。
(環菜を自分の都合の良いように利用している一方で、彼女に振り回されてる感じがするのは気のせいだろうか‥‥)
そういえば、他にも少し気になることもあった。
環菜はなんとなく人目を気にしている様子があるのだ。
特に日本人に対して警戒が強いように感じる。
近場の観光の話題の時には、日本人が少ないところがいいと言うし、街を歩いている時も日本人を見かけると身を強張らせているようだった。
あとカメラに映り込むことも避けている様子が見られる。
このあたりは感覚的になんとなく感じたものだったが、もしかしたら過去にストーカー被害にでもあって警戒しているのかなと思わせる態度だった。
(まぁこのへんはセンシティブなことだから、あまり触れない方がいいだろうな。本人も聞かれても困るだろうし)
僕自身もストーカー並みの執着でアプローチしてくる音大生にうんざりしている今、似たような状況を経験しているかもしれない彼女にこの手の話題を振るのは避けることにした。
その日のスケジュールをこなし、今日はレセプションなどの予定もないため18時過ぎには退勤した。
大使館の外に出ると、待ち伏せしていたのか近くのカフェからあの音大生・三上さんが出てきて小走りで近寄ってきた。
「智行さん!お仕事お疲れ様です!」
バイオリンの専攻らしく、バイオリンケースを片脇に抱えて三上さんはお嬢様らしい楚々とした笑顔を浮かべた。
「また待ち伏せしてたんですか?やめてくださいって前もお伝えしましたよね」
「だって智行さんが連絡先を教えてくれないから!待たれたくないんだったら教えてくれます?」
小首を傾げて上目遣いでおねだりされるが、全く響かない。
ニコリと笑顔を作りながら少し圧を込めて三上さんに向ける。
「あのですね、申し訳ないんですがプライベートなことはお教えできないんです。何かお困り事などあれば大使館の窓口にいらして手続きされてくださいね」
「でも智行さんは窓口業務とかはされてないですよね?会えないじゃないですか!もしかして私の年齢を気にしてます?私が智行さんより10歳も年下だから」
「それは全く関係ありませんよ」
「それなら!私はプライベートで智行さんと親しくしたいんです!」
一向に引く気配がなく、平行線を辿りそうだったので、いよいよあのことを伝えることにした。
「それは困ります。それに僕には婚約者がいるのでプライベートで他の女性とは親しくできません」
ピシャリと言い切ると、衝撃を受けたように三上さんはピタリと動作を止め、驚愕の表情を見せた。
「えっ?婚約者って言いました?‥‥冗談ですよね?」
「いえ、本当です」
「だって半年くらい前に恋人と別れられたばかりじゃないですか!それから相手なんていらっしゃらなかったですよね?」
こちらは正確に把握してるのだと言わんばかりに反論してくる。
そもそも仕事の延長で助けただけの相手に、こんなにプライベートを把握されているのも勘弁して欲しいものだ。
笑顔を深めながら三上さんにも職員に聞かせたあの設定を言って聞かせる。
最初は半信半疑だったようだが、詳細な話に真実味を感じ始めたのか、だんだんと興奮するようにフルフルと身体を震わせてきた。
「‥‥そんなの、そんなの、昔馴染みだとしても突然現れてズルイじゃないですか。私だって智行さんが好きなのに!」
「そう言われましても。僕は彼女を愛してるんで諦めてください」
「きっとそんなのすぐ冷めますよ!だから私、しょうがないから待ってあげます。智行さんが彼女に飽きるのを。どうせ数ヶ月とかでしょうし」
高飛車な態度は甘やかされて育ったお嬢様特有のものを感じる。
きっと欲しいと願って手に入らなかったものがないからこんなに僕に固執しているのだろう。
「好きにしてください。ただ僕が彼女を愛してる事実は変わりませんので。ではこれで失礼しますね」
あなたに振り向く可能性は1ミリもありませんよと言外に匂わせて言い放つと、僕は三上さんを振り返ることなくその場を去った。
それにしても、「愛してる」なんて言葉はフリとは言えど初めて口にした。
自分とは縁のない言葉だと思っていたのだが、まさか偽装するために言うことになるとは人生分からないものだ。
そんなことを思いながら、トラムに乗り込み、プライベート用の携帯電話を見ると1件メールが入っている。
相手は外務省の同期である新谷健志からだった。
新谷とは入省時期が同じで、年齢も同い年、何かと使える男で唯一親交のある同期だった。
今は日本の外務省にいるが、その前はアフリカのある国の在外公館に赴任していた。
新谷からメールなんて珍しいなと思い、読んでみると「仕事が終わったら電話しろ」とだけ書かれてあった。
腕時計で時間を確認すれば、今は18時半頃だ。
サマータイムで日本との時差は7時間だから、向こうは今深夜の1時半頃だろう。
(まぁ新谷ならまだ余裕で起きてる時間だろうな。トラムから降りたらかけてみるか)
そう思い、家の最寄りの停留所で降りると、そのまま無料通話アプリで電話をかけた。
最近はこういったアプリの普及で日本と連絡をとるのもずいぶん便利になったものだ。
「もしもし」
待ち構えていたかのように2コールくらいで電話が取られ、あまりの早さに少し驚く。
「新谷?メール見たけどどうしたの?」
「聞きたいことがあって。おい、お前に婚約者ができたって本当か!?」
どうやら婚約者情報が海を超えて日本まで渡っていたらしい。
まだ1日も経っていないのにすごいスピードで広がっているものだと感心する。
「もう聞いたの?早いね」
「ってことはマジってことか!そっちにいる渡瀬が俺に連絡してきたんだよ」
「ああ渡瀬から聞いたわけね」
どうやら渡瀬は目論見通り良いスピーカーぶりを発揮してくれているようだ。
「まさかお前にってこっちは驚いてんだよ!そんな様子なかったのに、どこでどう出会ったんだ?」
みんな聞いてくることは同じなんだなという感想を抱きながら、僕はまたあのすでに言い慣れた設定を話す。
「へぇ~。そんな子が身近にいたなんて知らなかったな。それにしてもお前に結婚するつもりがあったなんて驚きだわ。その子は日本と海外を数年ごとに行き来する外交官の仕事に理解があるのか?」
こういう質問も予想されたので、あらかじめ答えは決めてあった。
「問題ないみたいだよ。着いてきてくれるって」
「その子の仕事は大丈夫なのか?まぁもうすでにそっちいる時点で問題ないのか」
「そうみたいだね」
そう設定上の回答を答えつつ、実はそこに関しては実際の秋月環菜の謎な部分でもあった。
日本での仕事を尋ねても、色々やってたと誤魔化された感じだったのだ。
プラハに来た理由もよく分からない。
最初はそれこそ婚約破棄されたとか、大失恋したとか男絡みの理由かと勘繰ったが、あの男慣れしていない反応を考慮するとそれも違和感がある。
(ちゃんと婚約者のフリさえしてくれれば、プライベートなことは関知しないつもりだけど。なんか気にはなるんだよな‥‥)
「昔馴染みの婚約者なら大丈夫だと思うけど、くれぐれも女の見た目には騙されるなよ?お前は日本の芸能界なんて興味ないだろけど、最近俺が応援してた女優がスキャンダル起こしてさ。あんな清楚で透明感のある子が男食い放題だったなんてショックすぎる‥‥!」
「へぇ、そうなんだ」
日本の芸能人なんて全く興味のない話だったので適当に相槌をうつ。
そんな僕の様子に気がついたのか、新谷はひと通りその女優への想いを語ると満足して話題を切り替えた。
「そういえば今年も12月頭には日本で国際会議があるな。お前もその時は帰国するんだろ?」
「その予定だよ」
「久しぶりに会えるのを楽しみにしとくわ。もしその婚約者も一緒に帰国するなら会わせてくれよな!」
「‥‥ああ」
その可能性はないだろうなと心の中でつぶやきつつ、肯定の返事を返した。
あくまで一時的な婚約者のフリだから、環菜が一時帰国に付き合う義理はないのだ。
新谷に紹介する機会は訪れないだろう。
「じゃあそろそろ家に着くから。あんまり遅くまで仕事するなよ」
「おお、サンキュー!じゃあまたな」
通話を終えた頃にちょうど家に着き、玄関の扉を開ける。
すると、食欲をそそる食べ物のいい匂いが鼻をかすめた。
リビングまで進むと、そこにはソファーに座りテレビを見ながら食事をしている環菜がいた。
僕の帰宅に気付くと顔をこちらに向ける。
「おかえり」
長年の一人暮らしのせいで誰かに帰宅を迎えられることが久しくなかったから、そう声をかけられて一瞬驚いた。
「あ、あぁ、ただいま」
「意外と帰宅が早いんだね。もっと遅いのかと勝手に思ってたから、リビング占領しちゃってた」
「今日はレセプションもなかったし、緊急案件もなかったからね」
「そうなんだ」
「いい匂いがするけど、何か作ったの?」
そういえばまだ夕食を食べていなかったことに思い至り、いい匂いにつられてお腹がすいてきた。
「うん。日本食が恋しくなって、カタリーナに食材買えるところを聞いて、生姜焼きと白ご飯と味噌汁を作ってみたの。あ、夜ごはんってもう食べた?余りで良かったら食べる?実は作り過ぎちゃって」
思わぬ提案を受け、まだ食べていなかった僕は環菜の作った夕食をお裾分けしてもらうことになった。
「座ってていいよ。ちょっと待ってて」
環菜は僕をリビングに残したままキッチンへ行ってしまった。
コートとスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外しているタイミングで、夕食をプレートに乗せた環菜が戻ってきた。
「お口に合うか分かんないけど、こんなので良ければどうぞ」
そう差し出されたのは、思った以上にちゃんとした夕食だった。
環菜は僕が料理を食べて感想を言うのを待つでもなく、夕食を提供するとすぐにまた自分の食事を再開させてテレビに見入っていた。
(やっぱり僕に興味がないんだな環菜は。普通だったら手料理を食べてもらった反応を気にするだろうに。全くそんな素振りないもんな)
逆にここまで興味を持たれないと面白い。
ちょっと気を引きたくなって、僕はニッコリと笑いながら環菜にこう声をかけた。
「環菜が食べさせてよ」
「‥‥え?」
テレビから目を離し、聞き間違いかと疑うようにこちらを見た。
「婚約者のふりの練習ね。さぁどうぞ?」
「でもここ家の中だし、人に見せる必要もないよね?」
「だから練習だって。この前上手く演じられなくて悔しいって言ってでしょ」
「‥‥分かった!」
あの時の悔しさを思い出したのか、環菜はちょっと意地を張るように承諾の意を述べた。
やはり負けず嫌いなところがあるようだ。
お箸を手に取ると、生姜焼きを口に入るサイズに切って持ち上げ、僕の口元へと近づけてくる。
「はい、口開けて」
可愛らしさのかけらもない言い方であるが、照れて頬に赤みが差しているのが可愛かった。
素直に口を開けて生姜焼きを頬張ると、しっかりと味付けがされていて予想以上に美味しかった。
「も、もういいよね?あとは自分で食べてね!」
お箸を僕に押し付けると、プイッと横を向いてしまい、そんな仕草もなかなか可愛い。
(いちいち言動が新鮮なんだよなぁ環菜は。見た目からは想像もつかない意外性もあるし)
この料理の腕前も意外なことの一つだ。
「美味しいよ。環菜は料理もできるんだね。どこかで習ったの?」
「別に普通に生活の中で覚えたよ。必要だったからできるようになっただけ」
なんでもないことのように言われたが、それでも誰でもできることではないだろう。
そういえばさっきから環菜はテレビばっかり見ているなと思い、僕もそちらに視線を移す。
環菜が見ていたのは、現地で放送されている日本のアニメだった。
もちろん音声はチェコ語だ。
「アニメが好きなの?」
「チェコ語を覚えるのにちょうど良いかなと思って。アニメだから言葉が簡単だし、馴染みのあるアニメだからチェコ語が分からなくてもなんとなく話が分かるしね!」
「あぁ、なるほどね」
よく見ると、たまにアニメのセリフを環菜もぶつぶつと口に出して真似をしていた。
英語をあれだけ話せるなら、そんなにチェコでも生活に困らないだろうにチェコ語を勉強していることにも驚いた。
現地に馴染もうと努力している姿勢には好感が持てる。
「智くんはどうやってチェコ語を覚えたの?」
「僕も現地のテレビ見たり、現地人と話したりして覚えたかな」
「そうなんだ。ちなみに何ヵ国語話せるの?」
「8ヵ国語」
「は、8ヵ国!?すごいっ!具体的には何語?」
「日本語、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、チェコ語の8ヵ国語。僕の専門がヨーロッパだから、その周辺の言語ばっかりだけどね。中国語もできたら便利なんだけど」
「充分すぎると思うよ!さすが外交官だね!」
キラキラと目を輝かせて、初めて見るような尊敬の眼差しを向けられ、悪い気はしない。
僕に興味を持ってくれたようにも感じて、不思議と嬉しい気持ちになった。
「ねぇ、なんで8ヵ国語も話せるの?」
「なに?環菜は僕に興味持った?」
「えっ?そんなつもりじゃ‥‥!ただ、婚約者のフリするうえで知っておいた方がいいのかなって!」
焦ったように取り繕う姿に笑ってしまう。
また思わず素が出てしまった。
「僕の父も外交官で、子供の頃から海外で暮らしてたんだ。父もヨーロッパ方面の赴任が多かったからね。それこそ必要だったから覚えただけだよ」
環菜が生活のために料理を覚える必要があったと言っていたが、まさに僕はそれが外国語だったのだ。
「そうなんだ。それだったら、子供の頃に日本に住んでたのはそんなに長くないんだよね?私と知り合ったのって奇跡的じゃない?あ、私っていうのは婚約者の設定上のね!」
確かに子供の頃に近くに住んでいたという設定だったから、そう言っているのだろう。
「でもそれ、そもそも架空の設定でしょ」
「そうなんだけど!ちょっとロマンチックかなって思ったの!」
架空の話なのに真剣に考えている環菜が面白くて、僕はまたしてもクスクスと笑ってしまった。
こんなふうに誰かと会話をしながら、裏の読み合いをせずに食事を楽しむのは久しぶりだった。
思いの外、リラックスした時間を過ごした自分にあとになって驚いたけどーー。
休み明けに出勤すると、真っ先に後輩の渡瀬潤が興味津々で近寄ってきた。
渡瀬は僕より5年後輩で、子犬のように人懐っこい男である。
キャンキャン吠える子犬のように騒ぎ立てる渡瀬の声を聞いて、周囲の職員も何事かとこちらに注目していた。
この状況は想定内で、むしろ狙った通りに事が運び、心の中でほくそ笑んだ。
昨日環菜と外に出かけた時、環菜には予行練習とだけ言ったが、さらに言うとあの状況を身近な人に目撃させようと思っていたのだ。
そうすれば自分から婚約者がいることを広めなくても、誰かが勝手に言いふらすに違いないと踏んでいた。
目撃したのが渡瀬だったというのは、こういうふうに騒ぎ立ててくれるという点でラッキーだったといえる。
僕はいつも通りにニコリと笑うと、さも驚いたかのように渡瀬に答える。
「あぁ、見られてたんだ。恥ずかしいな」
「で、どなたなんですか!?」
「婚約者だよ」
「「「婚約者‥‥!?」」」
僕の言葉に、渡瀬だけでなく聞き耳を立てていた周囲の職員までもが驚きに声を上げた。
見事なハモリだった。
「桜庭さんって彼女いたんですか?いきなり婚約者って!一体どういうことですか!?」
渡瀬の質問に、周囲の職員までもが同じ疑問を持ったのか深く頷いている。
僕はその質問に環菜とあらかじめ練っておいた設定をツラツラと述べてみせる。
だんだん本当の話なのだと信じてきたのだろう、近くにいた女性職員は驚きとショックで若干涙目になってきている者もいるようだ。
(さぁこれであとは勝手に話が広がって女避けになるだろう。仲が良さそうだったと伝われば付け入る隙がないと思われるだろうし。あれだけそれっぽく振る舞ったし、目撃されていればそれも伝わるだろうしね)
すべてが狙い通りに進み、爽快な気分だった。
そして僕はふと昨日のことを思い出す。
昨日は環菜にプラハの主要観光名所を案内しながら婚約者の予行練習をしたのだが、1日環菜と過ごしてみて色々と彼女について発見があった。
まず、環菜は思った以上に鋭く、僕の笑顔の裏を読み取るのだ。
プラハを案内すると親切心っぽく申し出たのに、それに何か別の意図があると正確に感じ取っていた。
次に、環菜が意外にも負けず嫌いだということだ。
正直、あの癒し系の庇護欲そそる外見の印象からは想像もつかなかったが、なにかと僕と張り合おうとしていたし、上手く演じられなくて悔しさを滲ませていた。
不貞腐れる態度が可愛くて、思わず素で笑ってしまったくらいだった。
それに、もっとも意外だったのは、環菜があまり異性に触れられることに慣れていないようだったことだ。
婚約者のふりをするにあたり、仲良く見せるため手を繋いだり、頬に触れたり、キスしたりとスキンシップを試みたところ、いちいちビクッと震えて身構えていた。
キスした時なんか信じられないと言わんばかりにあの大きな瞳をさらに大きく見開いていた。
あの容姿だし男慣れしているのだろうと勝手に思っていたのだが、どの反応も初々しいのには内心驚いた。
(まぁ、その反応が可愛くて、僕もだんだんエスカレートしてしまったのは否めないけど。最初はキスまでするつもりはなかったし)
もっともらしくキスした理由も作り上げて、彼女を丸め込んだが。
あのキスも触れるだけの軽いキスで留めたものの、もっと深く口づけしたい衝動に駆られたのを理性で止めたのだった。
(環菜を自分の都合の良いように利用している一方で、彼女に振り回されてる感じがするのは気のせいだろうか‥‥)
そういえば、他にも少し気になることもあった。
環菜はなんとなく人目を気にしている様子があるのだ。
特に日本人に対して警戒が強いように感じる。
近場の観光の話題の時には、日本人が少ないところがいいと言うし、街を歩いている時も日本人を見かけると身を強張らせているようだった。
あとカメラに映り込むことも避けている様子が見られる。
このあたりは感覚的になんとなく感じたものだったが、もしかしたら過去にストーカー被害にでもあって警戒しているのかなと思わせる態度だった。
(まぁこのへんはセンシティブなことだから、あまり触れない方がいいだろうな。本人も聞かれても困るだろうし)
僕自身もストーカー並みの執着でアプローチしてくる音大生にうんざりしている今、似たような状況を経験しているかもしれない彼女にこの手の話題を振るのは避けることにした。
その日のスケジュールをこなし、今日はレセプションなどの予定もないため18時過ぎには退勤した。
大使館の外に出ると、待ち伏せしていたのか近くのカフェからあの音大生・三上さんが出てきて小走りで近寄ってきた。
「智行さん!お仕事お疲れ様です!」
バイオリンの専攻らしく、バイオリンケースを片脇に抱えて三上さんはお嬢様らしい楚々とした笑顔を浮かべた。
「また待ち伏せしてたんですか?やめてくださいって前もお伝えしましたよね」
「だって智行さんが連絡先を教えてくれないから!待たれたくないんだったら教えてくれます?」
小首を傾げて上目遣いでおねだりされるが、全く響かない。
ニコリと笑顔を作りながら少し圧を込めて三上さんに向ける。
「あのですね、申し訳ないんですがプライベートなことはお教えできないんです。何かお困り事などあれば大使館の窓口にいらして手続きされてくださいね」
「でも智行さんは窓口業務とかはされてないですよね?会えないじゃないですか!もしかして私の年齢を気にしてます?私が智行さんより10歳も年下だから」
「それは全く関係ありませんよ」
「それなら!私はプライベートで智行さんと親しくしたいんです!」
一向に引く気配がなく、平行線を辿りそうだったので、いよいよあのことを伝えることにした。
「それは困ります。それに僕には婚約者がいるのでプライベートで他の女性とは親しくできません」
ピシャリと言い切ると、衝撃を受けたように三上さんはピタリと動作を止め、驚愕の表情を見せた。
「えっ?婚約者って言いました?‥‥冗談ですよね?」
「いえ、本当です」
「だって半年くらい前に恋人と別れられたばかりじゃないですか!それから相手なんていらっしゃらなかったですよね?」
こちらは正確に把握してるのだと言わんばかりに反論してくる。
そもそも仕事の延長で助けただけの相手に、こんなにプライベートを把握されているのも勘弁して欲しいものだ。
笑顔を深めながら三上さんにも職員に聞かせたあの設定を言って聞かせる。
最初は半信半疑だったようだが、詳細な話に真実味を感じ始めたのか、だんだんと興奮するようにフルフルと身体を震わせてきた。
「‥‥そんなの、そんなの、昔馴染みだとしても突然現れてズルイじゃないですか。私だって智行さんが好きなのに!」
「そう言われましても。僕は彼女を愛してるんで諦めてください」
「きっとそんなのすぐ冷めますよ!だから私、しょうがないから待ってあげます。智行さんが彼女に飽きるのを。どうせ数ヶ月とかでしょうし」
高飛車な態度は甘やかされて育ったお嬢様特有のものを感じる。
きっと欲しいと願って手に入らなかったものがないからこんなに僕に固執しているのだろう。
「好きにしてください。ただ僕が彼女を愛してる事実は変わりませんので。ではこれで失礼しますね」
あなたに振り向く可能性は1ミリもありませんよと言外に匂わせて言い放つと、僕は三上さんを振り返ることなくその場を去った。
それにしても、「愛してる」なんて言葉はフリとは言えど初めて口にした。
自分とは縁のない言葉だと思っていたのだが、まさか偽装するために言うことになるとは人生分からないものだ。
そんなことを思いながら、トラムに乗り込み、プライベート用の携帯電話を見ると1件メールが入っている。
相手は外務省の同期である新谷健志からだった。
新谷とは入省時期が同じで、年齢も同い年、何かと使える男で唯一親交のある同期だった。
今は日本の外務省にいるが、その前はアフリカのある国の在外公館に赴任していた。
新谷からメールなんて珍しいなと思い、読んでみると「仕事が終わったら電話しろ」とだけ書かれてあった。
腕時計で時間を確認すれば、今は18時半頃だ。
サマータイムで日本との時差は7時間だから、向こうは今深夜の1時半頃だろう。
(まぁ新谷ならまだ余裕で起きてる時間だろうな。トラムから降りたらかけてみるか)
そう思い、家の最寄りの停留所で降りると、そのまま無料通話アプリで電話をかけた。
最近はこういったアプリの普及で日本と連絡をとるのもずいぶん便利になったものだ。
「もしもし」
待ち構えていたかのように2コールくらいで電話が取られ、あまりの早さに少し驚く。
「新谷?メール見たけどどうしたの?」
「聞きたいことがあって。おい、お前に婚約者ができたって本当か!?」
どうやら婚約者情報が海を超えて日本まで渡っていたらしい。
まだ1日も経っていないのにすごいスピードで広がっているものだと感心する。
「もう聞いたの?早いね」
「ってことはマジってことか!そっちにいる渡瀬が俺に連絡してきたんだよ」
「ああ渡瀬から聞いたわけね」
どうやら渡瀬は目論見通り良いスピーカーぶりを発揮してくれているようだ。
「まさかお前にってこっちは驚いてんだよ!そんな様子なかったのに、どこでどう出会ったんだ?」
みんな聞いてくることは同じなんだなという感想を抱きながら、僕はまたあのすでに言い慣れた設定を話す。
「へぇ~。そんな子が身近にいたなんて知らなかったな。それにしてもお前に結婚するつもりがあったなんて驚きだわ。その子は日本と海外を数年ごとに行き来する外交官の仕事に理解があるのか?」
こういう質問も予想されたので、あらかじめ答えは決めてあった。
「問題ないみたいだよ。着いてきてくれるって」
「その子の仕事は大丈夫なのか?まぁもうすでにそっちいる時点で問題ないのか」
「そうみたいだね」
そう設定上の回答を答えつつ、実はそこに関しては実際の秋月環菜の謎な部分でもあった。
日本での仕事を尋ねても、色々やってたと誤魔化された感じだったのだ。
プラハに来た理由もよく分からない。
最初はそれこそ婚約破棄されたとか、大失恋したとか男絡みの理由かと勘繰ったが、あの男慣れしていない反応を考慮するとそれも違和感がある。
(ちゃんと婚約者のフリさえしてくれれば、プライベートなことは関知しないつもりだけど。なんか気にはなるんだよな‥‥)
「昔馴染みの婚約者なら大丈夫だと思うけど、くれぐれも女の見た目には騙されるなよ?お前は日本の芸能界なんて興味ないだろけど、最近俺が応援してた女優がスキャンダル起こしてさ。あんな清楚で透明感のある子が男食い放題だったなんてショックすぎる‥‥!」
「へぇ、そうなんだ」
日本の芸能人なんて全く興味のない話だったので適当に相槌をうつ。
そんな僕の様子に気がついたのか、新谷はひと通りその女優への想いを語ると満足して話題を切り替えた。
「そういえば今年も12月頭には日本で国際会議があるな。お前もその時は帰国するんだろ?」
「その予定だよ」
「久しぶりに会えるのを楽しみにしとくわ。もしその婚約者も一緒に帰国するなら会わせてくれよな!」
「‥‥ああ」
その可能性はないだろうなと心の中でつぶやきつつ、肯定の返事を返した。
あくまで一時的な婚約者のフリだから、環菜が一時帰国に付き合う義理はないのだ。
新谷に紹介する機会は訪れないだろう。
「じゃあそろそろ家に着くから。あんまり遅くまで仕事するなよ」
「おお、サンキュー!じゃあまたな」
通話を終えた頃にちょうど家に着き、玄関の扉を開ける。
すると、食欲をそそる食べ物のいい匂いが鼻をかすめた。
リビングまで進むと、そこにはソファーに座りテレビを見ながら食事をしている環菜がいた。
僕の帰宅に気付くと顔をこちらに向ける。
「おかえり」
長年の一人暮らしのせいで誰かに帰宅を迎えられることが久しくなかったから、そう声をかけられて一瞬驚いた。
「あ、あぁ、ただいま」
「意外と帰宅が早いんだね。もっと遅いのかと勝手に思ってたから、リビング占領しちゃってた」
「今日はレセプションもなかったし、緊急案件もなかったからね」
「そうなんだ」
「いい匂いがするけど、何か作ったの?」
そういえばまだ夕食を食べていなかったことに思い至り、いい匂いにつられてお腹がすいてきた。
「うん。日本食が恋しくなって、カタリーナに食材買えるところを聞いて、生姜焼きと白ご飯と味噌汁を作ってみたの。あ、夜ごはんってもう食べた?余りで良かったら食べる?実は作り過ぎちゃって」
思わぬ提案を受け、まだ食べていなかった僕は環菜の作った夕食をお裾分けしてもらうことになった。
「座ってていいよ。ちょっと待ってて」
環菜は僕をリビングに残したままキッチンへ行ってしまった。
コートとスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外しているタイミングで、夕食をプレートに乗せた環菜が戻ってきた。
「お口に合うか分かんないけど、こんなので良ければどうぞ」
そう差し出されたのは、思った以上にちゃんとした夕食だった。
環菜は僕が料理を食べて感想を言うのを待つでもなく、夕食を提供するとすぐにまた自分の食事を再開させてテレビに見入っていた。
(やっぱり僕に興味がないんだな環菜は。普通だったら手料理を食べてもらった反応を気にするだろうに。全くそんな素振りないもんな)
逆にここまで興味を持たれないと面白い。
ちょっと気を引きたくなって、僕はニッコリと笑いながら環菜にこう声をかけた。
「環菜が食べさせてよ」
「‥‥え?」
テレビから目を離し、聞き間違いかと疑うようにこちらを見た。
「婚約者のふりの練習ね。さぁどうぞ?」
「でもここ家の中だし、人に見せる必要もないよね?」
「だから練習だって。この前上手く演じられなくて悔しいって言ってでしょ」
「‥‥分かった!」
あの時の悔しさを思い出したのか、環菜はちょっと意地を張るように承諾の意を述べた。
やはり負けず嫌いなところがあるようだ。
お箸を手に取ると、生姜焼きを口に入るサイズに切って持ち上げ、僕の口元へと近づけてくる。
「はい、口開けて」
可愛らしさのかけらもない言い方であるが、照れて頬に赤みが差しているのが可愛かった。
素直に口を開けて生姜焼きを頬張ると、しっかりと味付けがされていて予想以上に美味しかった。
「も、もういいよね?あとは自分で食べてね!」
お箸を僕に押し付けると、プイッと横を向いてしまい、そんな仕草もなかなか可愛い。
(いちいち言動が新鮮なんだよなぁ環菜は。見た目からは想像もつかない意外性もあるし)
この料理の腕前も意外なことの一つだ。
「美味しいよ。環菜は料理もできるんだね。どこかで習ったの?」
「別に普通に生活の中で覚えたよ。必要だったからできるようになっただけ」
なんでもないことのように言われたが、それでも誰でもできることではないだろう。
そういえばさっきから環菜はテレビばっかり見ているなと思い、僕もそちらに視線を移す。
環菜が見ていたのは、現地で放送されている日本のアニメだった。
もちろん音声はチェコ語だ。
「アニメが好きなの?」
「チェコ語を覚えるのにちょうど良いかなと思って。アニメだから言葉が簡単だし、馴染みのあるアニメだからチェコ語が分からなくてもなんとなく話が分かるしね!」
「あぁ、なるほどね」
よく見ると、たまにアニメのセリフを環菜もぶつぶつと口に出して真似をしていた。
英語をあれだけ話せるなら、そんなにチェコでも生活に困らないだろうにチェコ語を勉強していることにも驚いた。
現地に馴染もうと努力している姿勢には好感が持てる。
「智くんはどうやってチェコ語を覚えたの?」
「僕も現地のテレビ見たり、現地人と話したりして覚えたかな」
「そうなんだ。ちなみに何ヵ国語話せるの?」
「8ヵ国語」
「は、8ヵ国!?すごいっ!具体的には何語?」
「日本語、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、チェコ語の8ヵ国語。僕の専門がヨーロッパだから、その周辺の言語ばっかりだけどね。中国語もできたら便利なんだけど」
「充分すぎると思うよ!さすが外交官だね!」
キラキラと目を輝かせて、初めて見るような尊敬の眼差しを向けられ、悪い気はしない。
僕に興味を持ってくれたようにも感じて、不思議と嬉しい気持ちになった。
「ねぇ、なんで8ヵ国語も話せるの?」
「なに?環菜は僕に興味持った?」
「えっ?そんなつもりじゃ‥‥!ただ、婚約者のフリするうえで知っておいた方がいいのかなって!」
焦ったように取り繕う姿に笑ってしまう。
また思わず素が出てしまった。
「僕の父も外交官で、子供の頃から海外で暮らしてたんだ。父もヨーロッパ方面の赴任が多かったからね。それこそ必要だったから覚えただけだよ」
環菜が生活のために料理を覚える必要があったと言っていたが、まさに僕はそれが外国語だったのだ。
「そうなんだ。それだったら、子供の頃に日本に住んでたのはそんなに長くないんだよね?私と知り合ったのって奇跡的じゃない?あ、私っていうのは婚約者の設定上のね!」
確かに子供の頃に近くに住んでいたという設定だったから、そう言っているのだろう。
「でもそれ、そもそも架空の設定でしょ」
「そうなんだけど!ちょっとロマンチックかなって思ったの!」
架空の話なのに真剣に考えている環菜が面白くて、僕はまたしてもクスクスと笑ってしまった。
こんなふうに誰かと会話をしながら、裏の読み合いをせずに食事を楽しむのは久しぶりだった。
思いの外、リラックスした時間を過ごした自分にあとになって驚いたけどーー。
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