Actress〜偽りから始まるプラハの恋〜

美並ナナ

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#6. 婚約者役のオファー

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ーー僕の婚約者を演じてくれませんか?

確かに彼は今そう言ったはずだ。

私の聞き間違いではない。

信じられない言葉に驚愕してしまうが、当の本人である桜庭さんは平然としていて涼しい顔だ。

桜がひらひらと舞う中、2人の間に静寂が訪れる。

私は確認するように、その沈黙を破ってゆっくりと言葉を発した。

「‥‥どういう意味ですか?」

「言葉通りです。しばらくの間、僕の婚約者のふりをして欲しいんです。人助けだと思ってお願いできませんか?」

「‥‥」

「もちろん、タダでとは言いません。あなたにもメリットがあるようにしますよ」

桜庭さんはさらに笑顔を深める。


一体どういう意図があってこんな話をされているのだろうか。 

彼は何が目的なのか。

そして、これは私が女優だった過去を知っての申し出なのだろうか。


私の中で疑問が膨れ上がってくる。

それを察したように桜庭さんは話を続けた。

「何か確認されたいことはありますか?」

「‥‥正直突拍子もないお願いなので驚いています。まずですね、なんで婚約者のふりなんてする必要があるんですか?」

「それには理由があるんですよ。第一に、僕には今特定の相手がいないこと。第二に、外交官はこういったパーティーも多く、欧州ではパートナーがいないと困る場面があること。第三に、女避けが欲しいこと。主にこの3つですね」

まるで会議のように理路整然と説明されて、なんだか正しいことのように錯覚し、思わず納得しそうになった。

(あ、危ないところだった‥‥!まだ確認しなきゃいけないことはたくさんあるんだから)

「桜庭さんに理由がおありなのは理解しました。でもなんで婚約者なんですか?恋人ではなく?」

「本当は妻がいいんですけど、さすがに籍を入れるのは困るでしょう?なので婚約者です。パーティーにパートナーとして同伴してもらうことを考えると、恋人より婚約者の方が耳触りもいいし、しっかりとした立場に感じますからね」

さも当然といった感じでツラツラと回答される。

さすが外交官、普段から国を代表して要人と交渉をしているだけあって、淀みない話しぶりだった。

「なぜ婚約者なのかも分かりました。‥‥あとは、その婚約者役をやるのが、なぜ私なんですか?別に私じゃなくても桜庭さんなら応じてくださる女性がいっぱいいらっしゃると思いますけど‥‥?」

私は一番気になっていたことを口にした。

私が女優だったという過去を知ってのことであればまだ理解できるが、そうでないのならなぜ私を指名するのかが分からないのだ。

「おっしゃる通り、正直なところを申し上げると、お願いすれば応じてくれる女性は他にもいると思います。でも僕はあなたにお願いしたいんです」

「‥‥なぜですか?」

「これにもいくつか理由があります。まず、環菜さんは容姿端麗で英語もできる。パーティーに同伴してもらう上で助かります。それに短期滞在ではなく、しばらくこちらに住まれる予定ですしね。次に、環菜さんはおそらく演じることが上手いからです。過去に演劇でもされてました?」

「‥‥どうしてそう思うんですか?」

彼に演じることが上手いと言われたのは意外だった。

恐る恐る私はそう思った理由を聞いてみた。

「先日街で偶然会ったじゃないですか。あの時の印象と今日が全然違うからです。最初は同一人物かどうか目を疑いましたよ。それに今日も様子を見てたら、話す相手に合わせて微妙に口調や態度を変えているように思ったんですよ。だから過去に演じるようなことを経験されたのかなと思って。当たってます?」

「‥‥よく見てらっしゃいますね。当たってます」

どうやら彼は私の過去を知っているというわけではないようだ。

こんな細かなところまで観察されていたのかと思うと恥ずかしいが、同時に演技を褒められて悪い気はしなかった。

「そして最後に、これが環菜さんにお願いしたい一番大きな理由なんですが‥‥」

「大きな理由?」

「ええ。あなた、僕に全く興味ないですよね。むしろ警戒されてる感じかな。婚約者役をお願いしても、それで勘違いされることはないだろうし、好意を持たれることもないかなと思いまして」

「な、なるほど‥‥!」

モテる男性ならではの理由だと思ったし、なんとも説得力のあるものだった。

(それにしても、警戒していることまで勘付かれているとは、さすが外交官だけあって鋭いなぁ)

これまでの彼の淀みない回答と観察眼に感心してしまった。

「どうです?納得してくれました?」

「えぇ、そうですね」

「では引き受けてくれますか?」

きれいな目に見つめられ、確認するように問いかけられる。

本当はあまり日本人には関わりたくないし、この人は見た目通りの優しいだけの人ではなさそうだから怖い気持ちもある。

だけどそれと同時に、行き場を失った「演じたい!」という演技への欲求が心の底から湧き上がってくる。

(私、また演じる機会を得られたんだ‥‥!たとえそれがドラマや映画じゃなくても、演じたい!)

考え込んでいた私が顔を上げると、桜庭さんは再び手を私に差し出した。

「‥‥わかりました」

私は彼の手を取り、その申し出を受け入れる。

今度はエスコートではなく、婚約者役を演じる契約への合意となる握手だった。

「では契約成立ということで」

「はい‥‥」

「それでは続いて契約内容と条件について詳細を詰めましょうか」

私が合意するやいなや、桜庭さんはテキパキと次へ話を進行させていく。

なんというかとても手際が良く、普段の仕事ぶりが伺えるようだ。

「僕が求めることを述べるので、それに対して意見をいただけますか?それで調整しましょう」

「分かりました」

彼はスマートフォンを取り出し、音声入力に切り替えると、話しながらメモを取り始める。

彼が挙げた項目はこうだった。

・私は婚約者役として普段から振る舞うこと
・私はパートナー同伴のものに協力すること
・それに伴う必要なものはすべて桜庭さんが準備すること

スマートフォンにメモした内容を見せてもらいながら、私はあれこれ細かく質問する。

「この普段から振る舞うっていうのは、具体的にどうすればいいですか?」

「例えば僕の同僚や周囲の人の前で、恋人として僕に接してもらえばいいですよ」

「恋人としてですね。あの、それはどの程度の‥‥?」

「あぁスキンシップとかですか?人前で疑われない程度ですかね。そこらへんは臨機応変にいきましょう」

桜庭さんにとっては重要なことではないようで、サラリと流されてしまった。

(疑われない程度、一体どれくらいだろう?スキンシップをしなくても恋人に見えれば問題ないのであれば、そのあたりは演技力でカバーするしかないなぁ)

「期間はどうしますか?」

「環菜さんはいつまでプラハにいる予定ですか?できればいる間はお願いしたいですね」

「具体的には決めてませんが、1年は滞在しようかなと思ってます」

「それなら充分だと思います。僕もその頃には日本に呼び戻されるかもしれませんし」

桜庭さんはプラハにもう丸3年住んでいるそうで、来年あたりに異動になってもおかしくないらしい。

そういうことなら、私がいる間だけでも役に立てるのかもしれない。

「あ!あと、どういう設定にしますか?いきなり婚約者だとおかしいですよね。特にさっきアンドレイの前では初対面に近い態度で接してしまいましたし」

「確かにそうですね。どうするかな」

桜庭さんはそこで一度言葉を切って考え込むように腕を組んだ。

笑顔が消えて真剣に考えるその顔も彫刻のように整っている。

私もいつも演技プランを考える時のように、どうやって演じるのがいいかを思い描く。

過去に演じた恋愛モノの役を思い浮かべながら、何かいいアイディアがないか検討してみた。

そこである考えが思いつく。

「あの、失礼ですけど、桜庭さんっておいくつですか?」

「年齢ですか?31歳ですけど、それがどうかしました?」

何の脈絡もなく、突然私が年齢を訪ねたことに少し驚いているようだった。

(つまり私の5歳年上かぁ。まぁちょうど良い年齢差かな?)

「あの、こういうのはどうでしょう?私は実は小さい頃に近所に住むお兄さんだった桜庭さんに憧れていて、大人になって再会して、私がプラハに追いかけてきて結ばれたっていう設定です。昔馴染みだから付き合う=結婚前提になったんです」

「なるほど」

「アンドレイには、まだあの時、うまくいくか分からなかったから秘密にしたくて初対面を装ったという感じにしてはどうでしょうか?苦しいですかね?」

私は思い付いた設定をツラツラと語ってみる。

桜庭さんはその内容を吟味するように、話を聞きながら検討しているようだった。

「いえ、他に良いアイディアも思い付かないですし、それでいきましょう」

「良かったです!」

「その設定なら、出身地や子供の頃の話も口裏を合わせる必要がありますね。あと昔から知ってるようにも振る舞わないとですね」

「そうですね」

私たちは口裏合わせのために、さらに設定を細かく詰めた。

どんどん私の役の人間性や背景が決まっていき、ドラマや映画で演じる時の台本読みのようなワクワク感が増してくる。

早く演じてみたいと私の気持ちは高まってきた。

「設定はこんなところですかね。あぁ、それと昔馴染みだから、敬語はやめて、名前の呼び方も変えましょうか。環菜、それでいい?」

ふいに名前を呼び捨てにされ、親しげに話し掛けられて心臓が飛び跳ねる。

「あ、うん。それでいいです‥‥」

「敬語になってる。早く慣れてね。あと僕の名前、ちゃんと言える?」

ちょっと動揺してしまっていると、桜庭さんがニッコリとあの笑顔で私の顔を覗き込む。

その笑顔になんだか圧を感じるは気のせいだろうか。

(えっと、桜庭さんの名前は智行だっけ。昔馴染みの近所のお兄さんなんだとしたら、この役の子ならなんて呼ぶかな?う~ん)

私は頭をフル回転して想像を巡らせる。

そしてある呼び方を思い付いて、私より背が20cmくらい高い桜庭さんを見上げながらつぶやいてみた。

ともくん‥‥?」

「‥‥!」

(うん、近所のお兄ちゃん感のある呼び方だよね。口に出してみるとしっくりくるかも!)

私が自分の役作りに満足していると、桜庭さんはややたじろぎながら、ぎこちない笑顔になっていた。

こんな顔もするのかと意外に思ってしまう。

ただそれはほんの一瞬のことで、すぐ元通に戻ると、隙のない笑顔で再び私に話しかけてきた。

「そうそう、アンドレイといえば、環菜は今アンドレイの恋人の家に住んでるって言ってたね。そこにはいつまで?」

「一時的な居候だから、これから住むところを探すつもり、です。特に期限は決まってないからゆっくりでいいよとは言われてますけど」

演技をしていない今、タメ口に慣れず、若干おかしな言い回しになってしまった。

婚約者役をやるのだから早いうちに慣れてしまわないとなと内省していると、桜庭さんはまたまたとんでもないことを言い出した。

「それならうちに住めば?婚約者なんだし、その方が自然でしょ」

「ええっ!?」

再び驚かされて、目を大きく見開く。

(この人は本当にとんでもないことを、何ともないことのようにサラッと言うんだから!毎回驚かされてしまうな‥‥)

「そんなに驚くこと?役作りの一貫だと思えばいいじゃない。それに家賃はもちろんいらないし、環菜が婚約者役を引き受けてくれることへのメリットにもなると思うんだけど、どうかな?」

なんとも私の心をくすぐる提案だった。

役作りと言われてしまえば、やると決めたからには徹底的にやりたい私の女優魂に火がついてしまう。

それにまだ貯金はあるものの、収入がなくなった現状においては、家賃がかからないのはありがたかった。

(なんだか桜庭さんの思い通りに踊らされてる感は否めないし、ちょっと悔しいけど。でも‥‥)

「‥‥よろしくお願いします」

私は結局その申し出をまたしても素直に受けることにしたのだった。


こうして、彼と私のプラハでの偽装婚約者生活と同居生活が幕を開けたーー。
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