涙溢れて、恋開く。

美並ナナ

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12. 彼女の事情(Side千尋)

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レセプションの日、ドレスアップした彼女は目が離せないくらいキレイだった。

いつもは鎖骨くらいの長さの髪を下ろしているけど、今日はアップにまとめている。

白くて細い首筋が色っぽい。

相変わらず柔らかそうで思わず抱きしめたくなる体つきの彼女は、レセプションに出席している男の視線を集めていた。

挨拶に回っている時は控えめに俺の横にいるのだが、どうも話してる相手と目が合わないなと思うことが度々あった。

そういう人はもれなく俺の隣の彼女に目を奪われている。

俺と話しながら彼女が気になって仕方ない様子だった。

こういう場でも男の注目を集める彼女。

やっぱりなんでこれまで彼氏がいないのか謎でしょうがない。

まぁおそらくその事実を知っているのは、初めてを奪ってしまった俺だけだろう。

言われなければ誰もそうとは思わない。

健一郎ですら彼女には過去に彼氏がいたと当たり前のように思っているのだから。



レセプションも終盤に近づいた頃、俺はちょっと息抜きがてら会場を出てお手洗いに向かった。

仕事とはいえ、各企業のお偉い方と会話をするのはなかなかに疲れる。

大塚フードウェイのレセプションに参加するような企業はだいたい大手だったり、老舗だったりだ。

うちの会社なんてまだまだ駆け出し。

彼らにとっては成り上がりそのものだろう。

それに俺自身も31歳と社長としてはまだ若い。

つまり目上の人ばかりだ。

幸いにも俺はコミュニケーション能力に優れた方で、それなりに上手く対応できる。

とはいえ、なかなかに肩が凝るのだ。


会場から少し離れたお手洗いで一息つき、気合を入れ直してさぁ戻ろうかと歩き出す。

お手洗いの近くにはホテル内のレストランがあり、なんとも美味しそうな食欲をそそる匂いがほんのり鼻をかすめた。

匂いに釣られて自然とそちらに視線が向かう。

すると、レストランの前あたりに俺のよく知る一人の女性の姿があった。

向かうもこちらに気付き、目が合う。


「あら、ちぃちゃん!」


その瞬間、その女性からは甘えるようないつも通りの声が発せられた。

「……母さん。なんでこんなとこに?」

「ちぃちゃんこそ~!素敵なスーツ、すっごく似合ってるじゃなぁい!さすが私のちぃちゃんだわ!」


彼女に見繕ってもらい仕立てたスーツを褒められる。

それ自体は嬉しい。

だが、母は思いっきり親しげに俺の体にペタペタ触ってくる。

いい歳してこういうのは勘弁してほしい。


「ふふっ、私はね、この前話したカレと食事に来てるのぉ。ここで待ち合わせ!」

「どっちのカレ?」

「もぉ~イジワル言わないでよぉ!美味しいディナーをご馳走してくれたカレの方よ。あの後、付き合うことになったのぉ」


どうやら母は当時の彼氏から浮気を疑われた男と結局付き合っているらしい。

そんな気ないと言ってはいたが、変わり身の早いことだ。


「最近は電話ばっかりだったから、ちぃちゃんに会うのは久しぶりね~。いっつも忙しいって言うんだからぁ」

「あー、ごめんね?実際忙しいし。今日も今仕事でここにいて、ちょっとお手洗いに寄っただけ」

「えぇ?仕事なのぉ?せっかく会えたんだから、カレにも紹介しよぉかと思ったのに~」

「またの機会にでもね」


 ……まぁそんな機会はこないだろうけど。


どうせそのうちまた違う男に変わってるはずだ。

紹介されたところで困るだけだ。

それにしても久しぶりに会う母は、相変わらず化粧が濃くて香水くさい。

胸元のざっくりあいた、いかにもな服装だ。

50歳を超えた歳だが、見た目だけならまだ40代でも通じる若さはある。

だが、俺にとってはこの母の”現役感”はなにより苦手で嫌悪するものだった。


 ……母を見てると心が荒むな。早く詩織ちゃんを見て癒されたい。


奔放すぎる母とは真逆の彼女を思い浮かべると心が浄化されるように感じる。

女は母みたいなのばかりじゃないと思えた。


「じゃ、そろそろ俺戻るから」

「え~ちぃちゃん、本当最近冷たいんだからぁ!」

「そう?ごめんね。じゃあね」

「ちょっと~!」


このまま話してて、母の彼氏とうっかり出くわしたら面倒だ。

俺はそそくさとその場を離れることにした。

会場に戻り、多くの人で溢れる中から彼女を探す。

不思議なことに、こんなに人がいる中で彼女のことはすぐに見つけることができた。

彼女を視界に入れただけで、さっきまで母に会ってどんよりしていた気持ちが晴れていく。

彼女の方に近づいていくと、どうやら他の出席者と話をしているようだ。

すぐそばに女性がいて、彼女に笑顔で話し掛けている様子が伺えた。

彼女に声をかけたのが男じゃなく、女性で一安心だ。

そんなふうに思ったのも束の間だった。

よく見れば、なんだか彼女の表情がおかしい。

頑なに何かに耐え忍ぶような顔をしている。


 ……まるであのパリでの泣き顔みたいだ。


とっさにそう思った。

いや、もちろん今の彼女は涙を流して泣いているわけではない。

なのになぜだろうか。

微笑んでいるのに、泣いているように見えるのだ。


 ……あの話してる相手は誰なんだ?


見覚えのない女性だ。

たぶん俺とは面識がない。

よくよく見れば首からストラップをかけているので、おそらく大塚フードウェイのスタッフ側の人間だろう。


疑問に思いながら話している2人に近づき声を掛ける。


「小日向さん?」

「あ、瀬戸社長……」

「えっ、Actionの瀬戸社長ですか!」


俺の声に反応した彼女は一瞬少しホッとしたような顔をする。

この話し相手と2人の状況を脱したことに安堵しているような印象だ。

もちろんそんなあからさまな態度ではないのだが、俺にはそう感じられた。

一方の話し相手の女性は、単純に突然俺が現れたことに驚いたような顔をしている。

明るく元気なハツラツとした雰囲気の女性だ。

なんとなくうちの会社で働く美帆と似た印象を受ける。


2人の関係性がよく分からず、どうしようかなと思っていたら、その女性の方からそれを察して状況を説明してくれた。


「お世話になっています。私、大塚フードウェイの総務部に所属する西野響子と申します」


やはり大塚フードウェイの関係者、しかも社員だったようだ。

美帆に似てるなと思ったら、彼女も総務部の社員だという。

総務部の人間というのは、こういうタイプの人が多いのかもしれない。


「Actionの瀬戸です。はじめまして。うちの小日向とはどういったご関係で?」


西野さんという女性に名乗られたので、俺も挨拶をする。

主催者側の社員だ、丁重に対応すべきだろう。

その上で俺は彼女との関係を尋ねた。

「詩織さんのお兄さんと婚約してるんです。詩織さんともつい2ヶ月前に初めてお会いしました。まさかこの場で遭遇するとは思ってなくて、今お互いに驚いていたところなんです」

「お兄さんのご婚約者ですか」


西野さんは、健一郎の幼なじみで、彼女の兄という例の人物の婚約者だという。

俺は会ったことがないが、ここ最近2人経由で話には聞く人物だ。

兄妹仲が良く、シスコンぎみの兄。

彼女が兄を語る時は表情を緩めて柔らかで幸せそうな顔をしていたのは記憶に新しい。

 ……それこそ兄のことを語ってるのに、他の男のことを思う彼女の口を塞ぎたくなったくらいに面白くなかったしな。


あの時のことを思い出していた俺だったが、その時ふと何かが引っ掛かるような感じがした。

なにに引っ掛かったのか。

ほんの些細なことだった気がする。

 ……ん?西野さん、2ヶ月前に初めて会ったって今言ってなかったか?


2ヶ月前。

それはちょうど俺が彼女とパリで初めて会った頃だ。

なぜかあの時出会ったばかりの男でファーストキスと処女を捨てた彼女。

しかもさっき見た耐え忍ぶような表情で涙を流しながら。

そして兄を語る時の表情と、兄の婚約者と面した時の表情。

一つ一つだとなんとも思わなかった。

だか、それらを総合すると見えてくるものがある。

それらが物語ることは……


 ……もしかして、詩織ちゃんは実兄のことを好きなんじゃ?密かにずっと想ってる?


そう考えれば色々と合点がいくことが多い。

西野さんが彼女に初めて会ったという2ヶ月前、彼女はそのことで心を痛めてパリに来たのではないだろうか。

確か仕事を辞めた理由も、仕事以外のことで色々あったと言っていた。

そして兄を忘れるために、パリで俺相手にあんな強硬手段に出たのではないか。

ずっと一途に秘めた想いを抱いていたから、今まで彼氏もおらず、あの時までキスさえもしたことがなかったのだ。


あくまでこれは俺の想像であり推測だ。

 ……でもたぶん正解だ。


今まで謎だと思っていた彼女が紐解かれていく感覚がした。


そうだと分かれば、この状況はさぞや彼女にとって居心地の悪いものに違いない。

自分の想い人の婚約者と対面しているわけだ。

西野さんだってまさか彼女が自分の婚約者を想っているなんて想像もしていないことだろう。

さっきから黙りこくっている彼女をチラリと見やれば、やはり耐え忍ぶような顔をしている。

その表情の意味が分かってしまえば、もう居ても立ってもいられなくなった。

「小日向さん、ちょっと顔色が悪いね。もしかして人酔いしたんじゃない?」

「えっ……」

「少し会場の外で休憩したら?ほら、行こうか」

「あの……?」

「ということで、西野さん、小日向はちょっと外に連れて行きますね。これで失礼します」


俺は彼女をこの場から、正確には西野さんの前から離れさせることにした。

ちょっと無理やりぎみに、彼女の手を取り、会場の外へ連れ出す。

触れた彼女の手は小さく震えていた。

大人しく手を引かれてついてくる彼女を少し盗み見れば、明らかに顔に安堵の色が浮かんでいる。

よほどあの場が辛かったのだろう。


 ……それほどお兄さんのこと想ってるってことか。それも何年も、変わらず一途に。


こんな女性がほんとにいるんだなと驚く。

一人の人を一途に好きだなんて、物語の中だけの話かと思っていた。


人気ひとけのないガーデンテラスを見つけ、そこで俺は足を止めた。

彼女に声を掛けられ、俺は振り向く。

向かい合うような形になり、なぜここに来たのか不思議そうにしている彼女を見て、何を言うべきか迷う。

俺がさっき気付いたことを本人に聞いてみてもいいものだろうか。

もしくは知らないふりをしておくべきか。


しばし思案した俺だったが、結局ストレートに聞いてみることにした。


「あのさ……」

「はい?」

「………もしかして詩織ちゃんってお兄さんのことが好きなの?」


そう言った瞬間、彼女の顔色は真っ青になり、この世の終わりみたいな絶望した表情になった。

今まで誰かに勘付かれたことがなかったのだろう。

それもそうだ。

まさか彼女に恋愛経験がないなんて誰も思わない。

偶然にも彼女の初めての相手だった俺だからこそその可能性に思い至ったのだ。


「あの、えっと、な、なんのことですか……?」

「お兄さんのことが好きなんでしょ?ずっと密かに想ってたんじゃないの?」

「そ、そんなことあるはずないじゃないですか。じ、実の兄ですよ……?」

「でも好きなんでしょ?だからパリの時まで全然恋愛経験なかったんじゃないの?」

「あっ……」


しどろもどろになりながら否定していた彼女だったが、俺には色々バレていることを思い出したらしい。

他の人には誤魔化せても俺には無理だと思ったのかもしれない。

急に沈黙した彼女は、しばらくしてポツリと消えそうな小さな声でつぶやいた。


「………………誰にも言わないで」


その震える声が今までの彼女の苦悩を物語っているように感じる。

俺に向けられた懇願するような瞳は真剣そのものだ。


「今まで辛かったんだね」


そう声をかけた瞬間、彼女の瞳からは一筋の涙がこぼれ落ちた。

頬を伝うその涙を見て、今まで見たどんなジュエリーよりもキレイだなと俺は思った。
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