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03. 新たな苦難の始まり
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ギルバート様との婚約破棄の事実は、瞬く間に社交界および学園内に広まった。
なぜなら、あの日から数日後に卒業パーティーが開催され、その場にギルバート様のパートナーとして出席していたのがカトリーヌ様だったからだ。
卒業パーティーとは、三年間の学園生活の最後に開催される舞踏会だ。
卒業を祝うと同時に成人貴族のお披露目の場でもある。
学生だけでなく、卒業生の保護者を始め多くの貴族が出席するため、毎年盛大に催されている。
そしてこのパーティーで皆の注目が集まることといえば、一緒に出席するパートナーだ。
相手がいない場合は親族に頼むこともあるが、基本的にはパートナーは婚約者または結婚前提の恋人となる。
この場を婚約のお披露目に利用する人も少なくない。
そんな卒業パーティーにおいて、ギルバート様のお相手が私ではなかったことで、一気に婚約破棄が知れ渡ったというわけだ。
「シェイラ様は確かにお美しいけれど、性格に難があるそうよ」
「ギルバート様に愛想を尽かされたのだとか」
「婚約者を盗られるだなんてお可哀想だこと」
「下級貴族のくせに身の程を知らなかった方と違って、カトリーヌ様とギルバート様は身分的にもとてもお似合いよね」
「ええ、本当に。卒業パーティーでのカトリーヌ様は本当にお美しかったわ」
私はそのパーティーに出席していなかったのだが、翌日には学園内でこのような陰口が飛び交っていた。
子爵令嬢でありながら公爵子息の婚約者であった私を妬んでいた令嬢達が、あえて私に聞こえるくらいの声量でコソコソと話してくる。
その顔には「いい気味だわ」と言わんばかりの嘲笑が浮かんでいた。
王立学園三年になり新しいクラスになったばかりであったが、この調子で令嬢達からの冷たい視線に晒され、進級早々から非常に居心地が悪い。
同い年であるカトリーヌ様と同じクラスになってしまったこともその居心地の悪さに拍車をかけている。
そのため、私はその場から避難するように、授業の時以外はいつもの場所へ来ていた。
そう、あの庭だ。
校舎から遠く、人が寄り付かないため、一人で落ち着いて過ごせる私の憩いの場である。
……はぁ。本当にみんなこの手の話が好きよね。婚約破棄したからにはこうして噂になるのは覚悟していたけれど、しばらくは続きそうだわ。
卒業パーティーからしばらく経つというのに、一向に沈静化する気配はない。
その一因に心当たりはある。
おそらく私に婚約者がいなくなったことで、貴族令息達が言い寄ってくるようになったからだ。
もちろん私は傷心中という態なので、今はそれを全面に出してやんわり避け続けている。
だが、令嬢達にしてみれば、その状況そのものが面白くないのだろう。
……なんでみんなそれほど容姿を重視するのかしら? 歳を重ねれば衰えるだけなのに。容姿だけで見初められて、格上の家に嫁ぐなんてごめんだわ。
私が望むのは、母の教え通り、身の丈に合った平穏な暮らしだ。
結婚したいとは全然思わないが、貴族に生まれたからにはそれも義務の一つだろう。
結婚しなければならないのなら、同じくらいの身分の人がいい。
その意味では、令嬢達が口々に言う「身の程を知れ」という台詞は至極もっともであり、私も深く共感するところだった。
……さてと。せっかく一人になれたのだから、煩わしい噂のことは忘れていつも通りアレを始めようかしら。
私は手頃な切り株に腰をかけると、気持ちを切り替えながら、手に持っていた一冊の本のページを捲る。
一目で年季の入ったものだと分かる、使い込まれてクタクタになった本だ。
これはセイゲル語を学習するための参考書で、亡き母から譲り受けた遺品でもある。
商家の娘であった母は、同じく商家の跡取りである幼馴染の恋人と一緒に商業国家として知られるセイゲル共和国へ買い付けに行くことを夢見て、幼い頃から言語を独学で学んでいたそうだ。
私は母のように具体的な目的はないものの、15歳で母を亡くした後、なんとなくこの本を使って勉強をするようになった。
もしかしたら亡き母の面影を追い求めていたのかもしれない。
それに望まぬ婚約から現実逃避するのにちょうど良かったという側面もある。
二年以上が経った今では、セイゲル語を問題なく話せる程度まで習得しており、なかなかの成果を上げている。
『今日はとっても良い天気ね。やっぱり教室にいるよりここにいる方が落ち着くわ』
その学習方法といえば、このようにこの誰もいない庭でもっぱら独り言をつぶやくことだ。
『花壇が美しい他の庭と違ってここは特になにも見所がないけれど、それが逆にいいのよね。森の中にひっそりある庭だから静かだし、切り株しかない飾り気のない感じが安らぐわ』
いつも通り、今日も私は思ったことをつらつらとセイゲル語で口にする。
誰も聞いていないし、聞かれたとしても言葉を理解できない。
だから安心して話すことができる。
ギルバート様から愛想を尽かされるために、これまで口数の少ない無口な令嬢を演じてきたから、その反動で一人で過ごすこの場では口が滑らかになりがちだった。
『その意見には同感だね』
その時ふいに私の耳に自分のものではないセイゲル語が耳に飛び込んできた。
まるで私の言葉に返答するような内容だ。
誰もいないはずなのに、しかもセイゲル語だから誰も分からないはずなのにおかしいと、私は周囲をキョロキョロと見回す。
でもやはりこの場には私しかおらず、辺りに他の人の姿は見当たらない。
『……空耳よね? きっと木々のさざめきがたまたまそう聞こえただけだわ』
なんとなくホッとして息を吐く。
だが、その反応を待ち構えていたかのように、次の瞬間、目の前にいきなり人の姿が現れる。
「………!!」
びっくりして息が止まりそうになった。
なんと私が腰掛けていた切り株の近くの木の上から人が飛び降りてきたのだ。
「やあ、久しぶり。近いうちにと言っておきながら少し間があいてしまったね」
ありえない登場の仕方なのに、目の前の人物は何事もなかったような態度で、人当たりの良い笑顔を私に向けてくる。
この現れ方にも驚きだが、それと同じくらい私は予期せぬ人物が目の前にいることに驚いていた。
なぜなら……
「お、王太子殿下……!?」
そう、またしても王太子殿下とこの場で出会してしまったからだ。
「な、なんでこちらに……?」
「この前言ったよね? 次に来校した時には君を訪ねるって」
……うそ、本気だったの?
確かにあの時は「また今度」と言われて困惑したが、それからしばらく経つものの何事もなかったから冗談だと思い込んでいた。
あの日の出来事はすっかり意識の外に追いやっていたくらいだ。
「あの、でもなぜこの場所に私がいるのをご存知だったのですか……?」
「実はここ、王立学園に在学していた頃からの僕の息抜きの場所なんだよね。だから以前から君がいつもここで一人で過ごしているのは知っていたよ」
「えっ……」
「この前婚約破棄の場に居合わせたのも、王立学園に政務で来た合間に偶然ここに息抜きに立ち寄ったからだしね」
思わぬ事実を知り、私は目を見開く。
まさかここを利用している人が私の他にもいたとは。
しかもそれが王太子殿下だとは驚きだ。
在学時から来ていたということは、王太子殿下は私よりもずっと前からこの場を利用していたのだろう。
つまり王太子殿下の縄張りを後から来た私が荒らしてしまったのではないだろうか。
……なるほど。だからね。興味を持たれたというより、目を付けられてしまったということだったんだわ。
「王太子殿下の息抜きの場所だとは存じ上げず申し訳ありません。ご不快な思いをおかけしましたことをお詫び申し上げます」
不可解に思っていた先日の王太子殿下の言動の理由に思い至った私は、すかさず謝罪の言葉を述べる。
これで今後はこの場所を利用しないようにさえすれば、問題は解決するだろう。
王太子殿下ともこれ以上出くわすことはないはずだ。
そう思ったのに、ことはそう上手くは運ばなかった。
「全然構わないよ。不快な思いなんてしてないからね。ふふ、むしろ君にはいつも楽しませてもらっていたよ」
王太子殿下がクスクス笑いながら、聞き捨てならないことを口にしたからだ。
……楽しませてもらっていた、って……?
頭の中に疑問符が浮かぶ。
いくら考えても王太子殿下が意味することが分からず、私は様子を伺うようにそろりと王太子殿下へと視線を向けた。
すると、王太子殿下は次の瞬間、晴れやかな顔でしれっと爆弾発言を投下した。
『聞かせてもらっていたんだ、君の独り言をね』
セイゲル語で放たれたその一言。
意味が分かるからこそ、絶句してしまった。
……うそ、信じられない……! 誰にも聞かれていないと思っていたあの独り言を耳にしていた人がいたというの!?
王太子殿下がセイゲル語を流暢に話している以上、独り言の内容まで理解されているというのはもはや疑いようもない。
身近にセイゲル語が分かる人がいないのもあって完全に油断してしまっていた。
恥ずかしすぎて、穴があったら入りたいくらいだ。
羞恥の念で顔に火がついたように熱くなる。
「盗み聞きするつもりはなかったんだ、ごめんね。最初はふと耳に飛び込んできたセイゲル語に興味を持っただけなんだけど、そのうち君の独り言自体が面白くなって、つい」
「…………」
「ああ、もちろんすべてを聞いていたわけではないよ? 僕が学園に用があって来た時に少しだけだから」
「…………」
勝手に盗み聞きしていたことに多少のバツの悪さは感じているのか、黙りこくった私に王太子殿下は言い訳じみたことを口走る。
とはいえ、それは私にとって何の救いにもならない。
聞かれていた事実は変わらず、今更取り消すこともできないのだ。
「話は変わるけど、婚約破棄の件はその後大丈夫だった? バッケルン公爵家がどこかの家と揉めているという話は聞かないから問題なさそうだとは思ってたけど」
盗み聞きの件をうやむやに流そうとしてか、ここで王太子殿下は突然話題を切り替えた。
証人になって頂いたという恩があるので、この件については尋ねられた以上無言を貫くわけにはいかない。
実際あの時の王太子殿下の手助けは非常に有用だったのだ。
「その節は本当にありがとうございました。王太子殿下が機転を効かせて証人となってくださったことで揉め事にはなりませんでした。また、私の家族にも円滑に理解を得ることができました。改めて御礼申し上げます」
これは嘘偽りない心からの御礼だった。
公爵家と縁ができると婚約を喜んでいた祖母と父に婚約破棄を納得させるにあたり、証人である王太子殿下の署名入りのあの書面は大変に役に立ったのだ。
王族の署名が入っているゆえに、覆らない決定事項であったため、思うところはあったのだろうが二人とも口煩く何かを私に言ってくることはなかった。
「そう、それなら良かった。また何か困ったことがあったら言ってね。僕で良ければ力になるよ」
「過分なお心遣いありがたく存じます。ですがご心配には及びません」
王太子殿下は相変わらずにこにこと親しげな笑みを向けてくる。
だから私はあえて殊更丁寧な態度を貫き、距離を置く。
たとえ困ったことがあっても絶対に王太子殿下には頼らないし、頼りたくない。
こんな雲の上のような存在の人とは、できるだけ関わり合いたくないのだから。
その時、校舎の方から予鈴が鳴り響く。
それにより私と王太子殿下の会話には終止符が打たれ、私は教室に戻るため歩みを速めた。
別れ際にまたしても王太子殿下から「またね」と告げられたことにより、私は心の内である決断を下す。
……お気に入りの場所だから残念ではあるけれど、王太子殿下が現れる以上、もう絶対にここには二度と来ない。今日みたいに王太子殿下に出くわしたくないもの。
ここにさえ来なければ大丈夫なはずだ。
独り言を聞かれていたことで、あのニコニコと笑顔を浮かべた掴みどころのない王太子殿下に私はますます苦手意識を募らせるのだった。
なぜなら、あの日から数日後に卒業パーティーが開催され、その場にギルバート様のパートナーとして出席していたのがカトリーヌ様だったからだ。
卒業パーティーとは、三年間の学園生活の最後に開催される舞踏会だ。
卒業を祝うと同時に成人貴族のお披露目の場でもある。
学生だけでなく、卒業生の保護者を始め多くの貴族が出席するため、毎年盛大に催されている。
そしてこのパーティーで皆の注目が集まることといえば、一緒に出席するパートナーだ。
相手がいない場合は親族に頼むこともあるが、基本的にはパートナーは婚約者または結婚前提の恋人となる。
この場を婚約のお披露目に利用する人も少なくない。
そんな卒業パーティーにおいて、ギルバート様のお相手が私ではなかったことで、一気に婚約破棄が知れ渡ったというわけだ。
「シェイラ様は確かにお美しいけれど、性格に難があるそうよ」
「ギルバート様に愛想を尽かされたのだとか」
「婚約者を盗られるだなんてお可哀想だこと」
「下級貴族のくせに身の程を知らなかった方と違って、カトリーヌ様とギルバート様は身分的にもとてもお似合いよね」
「ええ、本当に。卒業パーティーでのカトリーヌ様は本当にお美しかったわ」
私はそのパーティーに出席していなかったのだが、翌日には学園内でこのような陰口が飛び交っていた。
子爵令嬢でありながら公爵子息の婚約者であった私を妬んでいた令嬢達が、あえて私に聞こえるくらいの声量でコソコソと話してくる。
その顔には「いい気味だわ」と言わんばかりの嘲笑が浮かんでいた。
王立学園三年になり新しいクラスになったばかりであったが、この調子で令嬢達からの冷たい視線に晒され、進級早々から非常に居心地が悪い。
同い年であるカトリーヌ様と同じクラスになってしまったこともその居心地の悪さに拍車をかけている。
そのため、私はその場から避難するように、授業の時以外はいつもの場所へ来ていた。
そう、あの庭だ。
校舎から遠く、人が寄り付かないため、一人で落ち着いて過ごせる私の憩いの場である。
……はぁ。本当にみんなこの手の話が好きよね。婚約破棄したからにはこうして噂になるのは覚悟していたけれど、しばらくは続きそうだわ。
卒業パーティーからしばらく経つというのに、一向に沈静化する気配はない。
その一因に心当たりはある。
おそらく私に婚約者がいなくなったことで、貴族令息達が言い寄ってくるようになったからだ。
もちろん私は傷心中という態なので、今はそれを全面に出してやんわり避け続けている。
だが、令嬢達にしてみれば、その状況そのものが面白くないのだろう。
……なんでみんなそれほど容姿を重視するのかしら? 歳を重ねれば衰えるだけなのに。容姿だけで見初められて、格上の家に嫁ぐなんてごめんだわ。
私が望むのは、母の教え通り、身の丈に合った平穏な暮らしだ。
結婚したいとは全然思わないが、貴族に生まれたからにはそれも義務の一つだろう。
結婚しなければならないのなら、同じくらいの身分の人がいい。
その意味では、令嬢達が口々に言う「身の程を知れ」という台詞は至極もっともであり、私も深く共感するところだった。
……さてと。せっかく一人になれたのだから、煩わしい噂のことは忘れていつも通りアレを始めようかしら。
私は手頃な切り株に腰をかけると、気持ちを切り替えながら、手に持っていた一冊の本のページを捲る。
一目で年季の入ったものだと分かる、使い込まれてクタクタになった本だ。
これはセイゲル語を学習するための参考書で、亡き母から譲り受けた遺品でもある。
商家の娘であった母は、同じく商家の跡取りである幼馴染の恋人と一緒に商業国家として知られるセイゲル共和国へ買い付けに行くことを夢見て、幼い頃から言語を独学で学んでいたそうだ。
私は母のように具体的な目的はないものの、15歳で母を亡くした後、なんとなくこの本を使って勉強をするようになった。
もしかしたら亡き母の面影を追い求めていたのかもしれない。
それに望まぬ婚約から現実逃避するのにちょうど良かったという側面もある。
二年以上が経った今では、セイゲル語を問題なく話せる程度まで習得しており、なかなかの成果を上げている。
『今日はとっても良い天気ね。やっぱり教室にいるよりここにいる方が落ち着くわ』
その学習方法といえば、このようにこの誰もいない庭でもっぱら独り言をつぶやくことだ。
『花壇が美しい他の庭と違ってここは特になにも見所がないけれど、それが逆にいいのよね。森の中にひっそりある庭だから静かだし、切り株しかない飾り気のない感じが安らぐわ』
いつも通り、今日も私は思ったことをつらつらとセイゲル語で口にする。
誰も聞いていないし、聞かれたとしても言葉を理解できない。
だから安心して話すことができる。
ギルバート様から愛想を尽かされるために、これまで口数の少ない無口な令嬢を演じてきたから、その反動で一人で過ごすこの場では口が滑らかになりがちだった。
『その意見には同感だね』
その時ふいに私の耳に自分のものではないセイゲル語が耳に飛び込んできた。
まるで私の言葉に返答するような内容だ。
誰もいないはずなのに、しかもセイゲル語だから誰も分からないはずなのにおかしいと、私は周囲をキョロキョロと見回す。
でもやはりこの場には私しかおらず、辺りに他の人の姿は見当たらない。
『……空耳よね? きっと木々のさざめきがたまたまそう聞こえただけだわ』
なんとなくホッとして息を吐く。
だが、その反応を待ち構えていたかのように、次の瞬間、目の前にいきなり人の姿が現れる。
「………!!」
びっくりして息が止まりそうになった。
なんと私が腰掛けていた切り株の近くの木の上から人が飛び降りてきたのだ。
「やあ、久しぶり。近いうちにと言っておきながら少し間があいてしまったね」
ありえない登場の仕方なのに、目の前の人物は何事もなかったような態度で、人当たりの良い笑顔を私に向けてくる。
この現れ方にも驚きだが、それと同じくらい私は予期せぬ人物が目の前にいることに驚いていた。
なぜなら……
「お、王太子殿下……!?」
そう、またしても王太子殿下とこの場で出会してしまったからだ。
「な、なんでこちらに……?」
「この前言ったよね? 次に来校した時には君を訪ねるって」
……うそ、本気だったの?
確かにあの時は「また今度」と言われて困惑したが、それからしばらく経つものの何事もなかったから冗談だと思い込んでいた。
あの日の出来事はすっかり意識の外に追いやっていたくらいだ。
「あの、でもなぜこの場所に私がいるのをご存知だったのですか……?」
「実はここ、王立学園に在学していた頃からの僕の息抜きの場所なんだよね。だから以前から君がいつもここで一人で過ごしているのは知っていたよ」
「えっ……」
「この前婚約破棄の場に居合わせたのも、王立学園に政務で来た合間に偶然ここに息抜きに立ち寄ったからだしね」
思わぬ事実を知り、私は目を見開く。
まさかここを利用している人が私の他にもいたとは。
しかもそれが王太子殿下だとは驚きだ。
在学時から来ていたということは、王太子殿下は私よりもずっと前からこの場を利用していたのだろう。
つまり王太子殿下の縄張りを後から来た私が荒らしてしまったのではないだろうか。
……なるほど。だからね。興味を持たれたというより、目を付けられてしまったということだったんだわ。
「王太子殿下の息抜きの場所だとは存じ上げず申し訳ありません。ご不快な思いをおかけしましたことをお詫び申し上げます」
不可解に思っていた先日の王太子殿下の言動の理由に思い至った私は、すかさず謝罪の言葉を述べる。
これで今後はこの場所を利用しないようにさえすれば、問題は解決するだろう。
王太子殿下ともこれ以上出くわすことはないはずだ。
そう思ったのに、ことはそう上手くは運ばなかった。
「全然構わないよ。不快な思いなんてしてないからね。ふふ、むしろ君にはいつも楽しませてもらっていたよ」
王太子殿下がクスクス笑いながら、聞き捨てならないことを口にしたからだ。
……楽しませてもらっていた、って……?
頭の中に疑問符が浮かぶ。
いくら考えても王太子殿下が意味することが分からず、私は様子を伺うようにそろりと王太子殿下へと視線を向けた。
すると、王太子殿下は次の瞬間、晴れやかな顔でしれっと爆弾発言を投下した。
『聞かせてもらっていたんだ、君の独り言をね』
セイゲル語で放たれたその一言。
意味が分かるからこそ、絶句してしまった。
……うそ、信じられない……! 誰にも聞かれていないと思っていたあの独り言を耳にしていた人がいたというの!?
王太子殿下がセイゲル語を流暢に話している以上、独り言の内容まで理解されているというのはもはや疑いようもない。
身近にセイゲル語が分かる人がいないのもあって完全に油断してしまっていた。
恥ずかしすぎて、穴があったら入りたいくらいだ。
羞恥の念で顔に火がついたように熱くなる。
「盗み聞きするつもりはなかったんだ、ごめんね。最初はふと耳に飛び込んできたセイゲル語に興味を持っただけなんだけど、そのうち君の独り言自体が面白くなって、つい」
「…………」
「ああ、もちろんすべてを聞いていたわけではないよ? 僕が学園に用があって来た時に少しだけだから」
「…………」
勝手に盗み聞きしていたことに多少のバツの悪さは感じているのか、黙りこくった私に王太子殿下は言い訳じみたことを口走る。
とはいえ、それは私にとって何の救いにもならない。
聞かれていた事実は変わらず、今更取り消すこともできないのだ。
「話は変わるけど、婚約破棄の件はその後大丈夫だった? バッケルン公爵家がどこかの家と揉めているという話は聞かないから問題なさそうだとは思ってたけど」
盗み聞きの件をうやむやに流そうとしてか、ここで王太子殿下は突然話題を切り替えた。
証人になって頂いたという恩があるので、この件については尋ねられた以上無言を貫くわけにはいかない。
実際あの時の王太子殿下の手助けは非常に有用だったのだ。
「その節は本当にありがとうございました。王太子殿下が機転を効かせて証人となってくださったことで揉め事にはなりませんでした。また、私の家族にも円滑に理解を得ることができました。改めて御礼申し上げます」
これは嘘偽りない心からの御礼だった。
公爵家と縁ができると婚約を喜んでいた祖母と父に婚約破棄を納得させるにあたり、証人である王太子殿下の署名入りのあの書面は大変に役に立ったのだ。
王族の署名が入っているゆえに、覆らない決定事項であったため、思うところはあったのだろうが二人とも口煩く何かを私に言ってくることはなかった。
「そう、それなら良かった。また何か困ったことがあったら言ってね。僕で良ければ力になるよ」
「過分なお心遣いありがたく存じます。ですがご心配には及びません」
王太子殿下は相変わらずにこにこと親しげな笑みを向けてくる。
だから私はあえて殊更丁寧な態度を貫き、距離を置く。
たとえ困ったことがあっても絶対に王太子殿下には頼らないし、頼りたくない。
こんな雲の上のような存在の人とは、できるだけ関わり合いたくないのだから。
その時、校舎の方から予鈴が鳴り響く。
それにより私と王太子殿下の会話には終止符が打たれ、私は教室に戻るため歩みを速めた。
別れ際にまたしても王太子殿下から「またね」と告げられたことにより、私は心の内である決断を下す。
……お気に入りの場所だから残念ではあるけれど、王太子殿下が現れる以上、もう絶対にここには二度と来ない。今日みたいに王太子殿下に出くわしたくないもの。
ここにさえ来なければ大丈夫なはずだ。
独り言を聞かれていたことで、あのニコニコと笑顔を浮かべた掴みどころのない王太子殿下に私はますます苦手意識を募らせるのだった。
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