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16. Side航 〜前進〜

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「航さん、ちょっと相談したいことがあるんですけど、時間もらえませんか?」

神崎が突然家にやって来た日から約1週間が経った頃、朝一に俺のデスクにやって来た中津が少し声を潜めてそう言った。

その様子から人に聞かれたくない話なのだろうと察して俺は頷く。

すでに会議室を押さえているというので、課内での朝礼を終えると、俺たちは会議室へと移動した。

4人用の狭めの会議室で椅子に腰を下ろし、中津と向かい合う。

相談は2つあって……と中津は話を切り出し始めた。

「まず1つ目なんですけど、実はついに妻が懐妊しまして安定期に入りました。来年には僕も父親になることになりました!」

「へぇ、そうなんだ。おめでとう!」

以前降谷さんも交えて飲みに行った時に中津が妊活中だと溢していたのを知っているので、待ち望んだ瞬間だというのが分かる。

親しくしている後輩の喜ばしい報告に俺も笑顔になっていた。

「ありがとうございます! それでもしかすると今後育休を取らせてもらうかもしれません。まだ少し先の話ではありますが、報告しておこうかと思いまして」

うちの会社は福利厚生が割と盤石で、男性の育児休業も認められていた。

多くはないが実際に過去にも取得した社員はいると聞いている。

愛妻家の中津らしい申し出に、俺はすぐさま受け入れ、詳しい時期や期間などは後日また擦り合わせることとなった。

「そして2つ目の件なんですけど……実は気になっていることがあってですね……」

次の話に移った中津は、今度は一転表情を曇らせ浮かない顔になる。

神崎さんのことなんですけど、と切り出した中津の言葉を耳にし、嫌な予感を感じながら俺は先を促した。

「ここ最近様子がおかしい気がするんですよ。一見普通なんですけど、なにかにうっすら怯えている感じっていうんですかね。やたら社用携帯を気にしている感じもして」

それには俺も中津と同じことを感じていた。

あの突然家に来たことも含めてなんだかおかしいとは感じていたのだ。

「それでですね、実は神崎さんに引き継ぎをしている顧客の中で、1箇所だけ不自然なところがあるんです。倉林美容外科クリニックなんですけど、一度一緒に訪問して以来、全く僕に連絡が入らなくなったんですよ」

「確かに少し不自然かもな。普通は引き継ぎは1回で終わらず、何度か一緒に訪問して信頼関係築いていくもんだしね」

「ですよね。担当が正式に変わった後ですら元の営業担当に電話をかけてくる方も多いですから。でも、その倉林院長からはそれ以来パタっと連絡が来なくなったんですよ。まぁそんなこともあるかなぁと最近までは思ってたんですけどね」

「ということは、何かおかしいと思うことが?」

だんだん不穏な空気が漂ってきた話に、俺は眉をひそめて中津を見た。

中津は肯定するように軽く頷き、さらに話を続ける。

「はい。ちょうど昨日、倉林美容外科クリニックと同業者の他の顧客を訪問した時に倉林院長の良からぬ噂を耳にしまして。あまり表沙汰になっていないそうなんですが、院長のセクハラが酷いらしくてスタッフがよく辞めるそうなんですよ。中には訴えている元スタッフもいるらしいです」

「セクハラか……」

「ええ。しかもそのスタッフに共通しているのが胸の大きい女性らしくて。それを聞いてもしかして神崎さんも目をつけられたんじゃないか……と嫌な予感がした次第なんです。航さん、どう思います?」

問われて脳裏に浮かんだのは、以前に社内の休憩スペースで男性社員からセクハラを受けていた神崎の姿だ。

よくあることなんでと目を伏せていた表情を鮮明に思い出す。

「あり得そうな話だと思う。一度神崎に聞いてみた方がいいな。事実だったら担当を変えた方がいいだろうし」

「ですね。僕が知る限りだと院長はとても感じの良い方なんでまさかとは思うものの、同業者の方からの話なんで簡単に切り捨てるわけにもいかずだったので、航さんに相談させてもらって良かったです」

「神崎には折を見て俺から聞いてみるから、中津はとりあえず静観でよろしく」

「分かりました。よろしくお願いします」

それで話は終わり、中津とともに執務室に戻った俺は、自分のデスクから神崎の様子をチラリと盗み見る。

パソコンに向かって真剣な眼差しで作業に集中しているようだった。

ふいに声を掛けられた中津に対して笑顔で応対していて、その様子からはおかしさは感じられない。

なんとなくホッと胸を撫で下ろしたのだが、それも束の間だった。

デスクの上に置いてあった社用携帯のバイブ音が鳴り出した瞬間、神崎の顔色が変わる。

硬く強張った顔つきになり、素早くスマホを手に取ると、その場を立ち上がってどこかへ消えて行く。

明らかに様子がおかしいのを目の当たりにし、俺は咄嗟に後を追うことにした。

神崎は周囲をキョロキョロと見渡すと、空室になっていた会議室へと飛び込み扉を閉めた。

その会議室に近寄ってみれば、ハッキリは分からないが中からは話し声がぼんやり聞こえてくる。

俺はノックをして断りを入れることなくドアを開け、会議室の中へと足を踏み入れた。

驚いたように目を丸くする神崎に構わず、そのまま彼女の方へ近寄り、スマホを取り上げてスピーカーフォンに切り替えた。

社用携帯に掛かってきた電話、つまり仕事の電話なわけで、上司である俺に聞かれて困ることがあるはずがない。

だが、聞こえてきたのは耳を疑うような男の台詞だった。

「神崎さんに暴行を受けたせいでね、僕は怪我をしてしまったんだよ。この1週間近く不便してて、ほとほと困ってるんだ。責任取って、手取り足取りサポートしてくるよね? ああ、もちろん仕事のサポートじゃないよ。君のそのいやらしい体で奉仕してくれればいいから」

 ……は? 体で奉仕? なんだこれは?

それが仕事の話ではないことは明白だ。

そしてこれがさっき中津が報告してくれた例の顧客なのだろうとピンと来た。

いつからこんなことになっているのか定かではないが、なんで自分に相談してくれなかったのかと悔しくなる。

上司として、そして身近にいた男として、どちらの意味においてもだ。

だが、今はこの男に応対するのが先だと判断した俺は自分が神崎の上司であることを名乗り、動揺する相手に一つずつ問いかける。

やはりこの男は美容外科クリニックの院長だったようだ。

それが分かると、会話を録音した等のハッタリを織り交ぜて追い詰め、最終的に神崎に二度と連絡して来ないことを約束させた。

話している最中、本当に相手に腹が立ち、電話を切った後も苛々する感情が支配していたため、一旦口をつぐんだ。

神崎も何も言わず、その場には静寂が訪れる。

ようやく自分の感情が少し落ち着いてきたところで神崎の方を向くと、彼女は眉を下げ困ったような顔をして少し潤んだ瞳で俺を見た。

神崎が何か口を開こうとしていたのは分かったが、なかば衝動的にそのまま彼女を抱きすくめてしまった。

ここが会社だということは意識のどこかにあったが、今はどうでもいいと思った。

「なんで俺に言わなかった?」

小さな体を腕の中で囲いながら、俺はこの話を知ってからずっと気になっていたことを口にした。

責めるつもりはなかったが、ただ頼られなかったことが悔しくて、悲しかったのだ。

神崎は少し言いづらそうにしながら、ポツリポツリと言葉を漏らすようにこれまでの経緯を打ち明けてくれた。

やはり家に来たあの日、神崎は酷い目に遭っていたのだ。

男物の香水の匂いが染みつくくらい近い距離でセクハラをされたのは想像に難くない。

隙を見て逃げたという神崎がその後俺の家に来たのなら、少しは頼ってもらえていたのだろうか。

でも結局その時にも話してもらえなかったわけで、その事実が悲しく感じる。

そんなに頼りなかったかと思わず本音をポロリと漏らしてしまった。

すると神崎は「まさか!」と激しく否定し、ボソボソと囁くような声で言わなかった理由を話し出した。

「……言えなかったんです。せっかく任せてもらえている仕事ですし、頑張って自分でなんとか対処したいなって。速水さんに迷惑もかけたくなかったですし」

それを聞いて、なんて神崎らしいと思ってしまい、思わず気の抜けたため息が漏れた。

神崎はたまにとても変な方向に結論を持っていき突拍子もない行動をする気がする。

セックスしたくないからと言って勃たない俺にこの関係を持ち掛けてきたのもその一つだろう。

今回も迷惑とか考えずに素直に頼ってくれればいいのに、自分で頑張るという結論を導き出し行動してしまったようだ。

見た目の印象以上に気が強く、思い立ったら突き進むところがあると思う。

 ……だから目が離せないんだろうけど。

なんとなく頭を撫でてしまい、それでもやっぱり頼って欲しかったと吐露すれば、そんな俺の様子に神崎は目を見開く。

「……違います! 頼ってます! むしろめちゃくちゃ頼りまくってます!」

そして慌てたように声を上げた。

さらに勢い良く、こちらを見上げて必死な様子で言い募る。

「その、正直ちょっと憂鬱で電話がかかってくるたびに辛いなって思う時もありました。それに先日もがっつり触られて、すごく不快でした。でも、そんな時にいつも心の支えになったのは速水さんです! 速水さんの存在に救われました! だからすっごく頼りにしてます! それこそ居なくなったら嫌だし、頼りすぎててこのままじゃ自分がダメになりそうで……!」

神崎らしい、取り繕うことなく思ったことをそのまま口にしているような言葉だった。

だからこそ、それを耳にした俺は思わず動きを止めて固まってしまった。

 ……ダメだ、可愛すぎる。居なくなったら嫌だとかこんな表情で言われたら堪らない。

ただでさえ、つい最近神崎を異性として好きだと認識したばかりなのだ。

その相手にこんなふうに自分の存在を求められたら嬉しくないわけがない。

もうここが会社だということはすっかり頭の片隅に追いやられ、気づけば俺は神崎の唇を塞いでいた。

3ヶ月近くイチャイチャするだけの関係を結んできたが、唇へのキスは初めてだった。

俺を迎え入れるように小さく開けた神崎の口の中に舌を割入れ、どんどんキスは深く絡まるものになっていく。

彼女の頬に手をあてがい、決して離さないというように何度も唇を求めた。

うっすら開けた瞳からは神崎のとろけたような表情が目に入り、触れた頬や唇、体からは彼女の柔らかさを感じる。

そんなキスを交わしていたその時だ。

驚いたことに、突然俺のある部分がわずかに反応したのを感じた。

この3年もの間、女性に対して一切反応せず沈黙を守っていたアソコがだ。

 ……神崎に対してもこれまで反応してなかったのに。キスがきっかけか? いや、彼女を女性として好きだと自覚したからか?

いずれにしても心因的な原因だったため、それが自分の中で溶きほぐされたのだろう。

もしかするとこの前最初の原因だった亜佐美と会ってわだかまりがなくなっていたのも良かったのかもしれない。

おそらくそれら複合的な要素が重なり、EDが改善したのではないかと思う。

思わぬ出来事に頭の中が少し冷静になってきたそのタイミングで、俺の耳は会議室の外の声を拾った。

瞬時に「そうだ、ここは会社だった」と思い出した俺は、理性を取り戻して神崎から体を離す。

「いきなりごめん」

「あ、いえ」

「さっきの美容外科クリニックの件はもう俺が預かるから神崎はもし電話がかかってきても無視していい。まだしつこく言い寄られるようだったら教えてほしい」

「はい、分かりました」

「とりあえず仕事に戻ろうか」

そう告げたのと同時に、会議室のドアがノックされる音が鳴り響いた。

ビクッと一瞬体を震わせた神崎だったが、次の瞬間には何事もなかったように平然とした態度を取り繕っていた。

お互い何食わぬ顔をしてドアを開け、次に会議室を予約していた人達に部屋を明け渡した。

そのまま執務室に戻り、それぞれデスクで仕事を再開する。

さっきのあのキスは夢だったんじゃないかと思うくらい、俺たちはスッと上司と部下に戻り、いつもの日常が繰り広げられていた。

 ……もう都合の良いだけのあの関係は終わらせよう。幸いにも自分の抱えていた問題も解決したことだし、前に進む機会だ。ちゃんと彼女として神崎を大切にしたい。

そう決意を固める俺だったが、一方で気掛かりなこともあった。

果たしてあれほど彼氏はいらないとハッキリ言っていた神崎はそれを受け入れてくれるだろうか――ということである。

一抹の不安を感じながらも、近いうちにちゃんとしようと心に誓ったのだった。
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