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15. 越えた一線
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あの日から1週間少々が経った。
倉林院長からの電話はあれ以降、ピタリと来なくなっていた。
それが逆になんとも薄気味悪く不気味に感じる。
自分の思い通りにできるとナメていた相手が意外と反抗してきたことで諦めてくれたかも……と思うのは希望的観測すぎるだろう。
「神崎さん、年賀状を出す顧客のリストアップってどうなってる?」
「それなら終わりました。取りまとめをしている総務部に提出してあるので、近日中に社内便で届くと思います。届いたら手書きでメッセージ書きしなきゃですね」
デスクでパソコンに向かっていた私は、ふいに中津さんに問いかけられ、進捗を報告する。
12月に入り、私たち営業は年末年始に向けた準備を進めていた。
顧客に年末年始休業のお知らせをメールしたり、年賀状を準備したり、だ。
この時期はどこの会社も忙しく、アポも取りにくいため、外回りは減ってデスクでの仕事の時間が増えていた。
ちなみに働き方改革やテレワークの浸透のおかげか、この時期にありがちな取引先との忘年会も今年はほとんど入っていない。
新年に向けて粛々と仕事納めを進めているという穏やかな日々を送っていた。
「1年なんて本当にあっという間だよね。年末年始はどこか行くの?」
「実家に帰ろうかなと思ってるくらいです。中津さんはどうされる予定なんですか?」
「今年は家でゆっくりかな。実は妻が懐妊したんだよ。だから休みの時くらい僕が家事全般を担って妻を休ませてあげようと思ってね」
「えっ! おめでとうございます!」
結婚して丸5年が経つ中津さん夫婦が子供を熱望していることは以前にチラリと聞いていたため、自分ごとのように嬉しくなった。
素敵な夫婦の話を聞いて、思いがけず心がホッコリする。
ブーブーブーブー……
デスクの上に置いておいた社用携帯が鳴り出したのはそんな時だった。
手に取り着信元を確認した私は、体が固まるのを感じる。
なぜならば、それは倉林院長だったからだ。
やはり諦めてくれたわけではなかったようだ。
あの日以来ぶりの連絡に嫌な予感を感じずにはいられない。
このまま他の人が周囲にいるオフィス内で電話に出るのは避けたくて、私はスマホを手に握りしめ、そっと席を立つと、近くの空いている会議室へと駆け込んだ。
「……もしもし、フィックスの神崎です」
「ああ、神崎さん。この前はどうもね。突き飛ばした挙句、僕を置き去りにして帰るなんて酷いじゃない」
恐る恐る電話に出た私に、今日は端から取り繕う様子がない倉林院長がいきなり先日のことを口にしてきた。
その口調からあのいやらしい目つきが脳裏に蘇ってきて鳥肌が立ってくる。
「お言葉ですが、あれは完全にセクハラでした。私はそれに抵抗しただけです」
「美容外科医の僕が特別に診療してあげただけだって言ったよね? それをあんなふうに足を踏み付けて突き飛ばすなんて暴行じゃないかな?」
まったく自分の非を認めない倉林院長はなんとも自分勝手な主張を言い出してきた。
不快さと怒りと悔しさで身震いしてくる。
スマホを握りしめる手にも力がこもった。
その時だった。
いきなりガチャリと会議室のドアが開く音がした。
スマホを耳に押し付けていた私はその姿勢のまま驚いてドアの方を振り向く。
空室だと思っていたが会議室を予約していた人が来たのかもしれないと一瞬慌てたのだが、そこにいたのは速水さんだった。
しかもパソコンや資料など何も持っておらず手ぶらの状態で、会議に来た様子ではない。
ビクッとした私は目線だけを速水さんに向け、ペコリと軽くお辞儀し、電話中であることを示した。
話を聞かれたくなかったので、そのまま出て行ってくれないかなと思ったゆえの仕草だったのだが、逆に速水さんはツカツカとこちらに歩み寄ってくる。
そして何を思ったのか唐突に無言で私からサラリとスマホを奪い取ると、勝手に操作してスピーカーフォンにしてしまった。
一連の行動にビックリして私は何も言えずただ目を丸くして速水さんを凝視する。
そんな事態になっているとは露知らず、電話の向こうの相手はさっきの調子で言葉を続けた。
「神崎さんに暴行を受けたせいでね、僕は怪我をしてしまったんだよ。この1週間近く不便していて、ほとほと困っているんだ。責任取って、手取り足取りサポートしてくれるよね? ああ、もちろん仕事のサポートじゃないよ? 君のそのいやらしい体で奉仕してくれればいいから」
無音の会議室に、倉林院長の発言が響き渡る。
もちろん速水さんも耳にしてしまったわけで、彼はこれで大体何があったのか察してしまった様子だ。
なんだか隣にいる速水さんから、速水さんらしからぬ怒りの波動が伝わってくる。
「……神崎の上司の速水と申しますが、今の発言はどういう意味でしょう? うちの神崎が何かご迷惑をおかけしたのでしたら、上司である私が対応させて頂きたいのですが」
「じ、上司っ⁉︎」
私と話しているつもりだった倉林院長は、電話口に突然速水さんが出たことに驚き、声を裏返らせた。
その声には先程までの尊大な態度とは一転して動揺が伺える。
「暴行を受けて怪我をしたとのこと、どのようなことがあったのか詳細をお教え願えますか? ……あと、体で奉仕とはどういうことでしょう?」
「いや、その……」
「倉林美容外科クリニックの倉林院長でいらっしゃいますよね? まさかそんなお方が、うちの神崎にセクハラしていたとかではありませんよね?」
「そ、そんなわけがない。だいたいそんな証拠がどこにあるというのかな? 言い掛かりはやめてほしいなぁ」
淡々とした無機質な口調で倉林院長を問い詰める速水さんだったが、逆にそれがとても怒っている時の態度なのだと感じた。
普段穏やかな人ほど怖いというが、まさにそんな感じだった。
「先程の発言は録音させて頂きましたよ。それに暴行を受けたとおっしゃる時のことも実は神崎が密かに録音していたんです。それらを聞いて言い掛かりだと周囲は納得しますかね?」
私はあの日録音なんてしていないので、実際は速水さんのはったりだったのだが、そこは口をつぐんでおくことにした。
急所を突かれグッと言葉を詰まらせた倉林院長に、さらに速水さんは畳み掛ける。
「こちらはそのような証拠をもとに刑事告訴もできる状態ですので。聞いたところによると、そちらの元スタッフの方にも訴えられているそうですね? ますます信憑性が増すことかと思います」
「……ッ」
「また当社もそちらのクリニックとの契約は見直しさせて頂きます。とりあえず契約破棄までの間は私自らが担当させて頂きましょう。神崎には二度と連絡しないでください」
「わ、分かった! 約束するから録音データは破棄して欲しい」
「それはできかねます。一応保険として保持しておきます。約束が履行されなければ、申し上げましたように刑事告訴するか、あとはマスコミにでも流しますかね。そういうことですのでご了承ください。では失礼いたします」
脅すような言葉を最後に、速水さんは一方的に電話を切った。
さっきまでスピーカーフォンによって部屋中に響いていた声が消え、急にその場には静寂が訪れる。
「「…………」」
お互いに黙りこくっていて、妙に空気が重い。
速水さんが怒っているのはヒシヒシと感じたから、どうしたらいいのか困って私は視線を彷徨わせた。
先に沈黙に耐えられなくなったのは私だ。
恐る恐る「あの……」と口火を切った。
その言葉とほぼ同時に、それまで怒りの感情を潜ませながら静かに佇んでいた速水さんも体を動かす。
そして次の瞬間、私は速水さんの腕の中にいた。
包み込むように抱きしめられていたのだ。
「えっ……」
驚いた私は小さく声を上げる。
抱きしめられたこと自体に驚いたのではない。
会社の会議室なのに、ということに驚いたのだ。
上司と部下を徹底することをこの関係の条件の一つに挙げていた速水さんは、決して会社では私にスキンシップを今までしてこなかったからだ。
「あの、ここ会社……」
「なんで俺に言わなかった?」
私が発した言葉は途中で速水さんの言葉が重なり掻き消されてしまう。
ここが会社だとかそんなことはどうでもいいと言わんばかりだ。
「……あの感じだと、ずいぶん前から嫌な思いをしていたんじゃない?」
「それは……」
「暴行を受けたって向こうが言い張っていたのは、もしかしてこの前俺の家に夜来た時? なにがあったの? 碌なことじゃないのは想像できるけど……」
事情を問われ、この後に及んで迷惑をかけたくないからと隠すことは違うと思い、私は素直に口を開くことにした。
自分で対処したかったのに、結局速水さんに助けてもらうことになったことが口惜しい。
「……あの日は、どうしても断れなくて食事に行くことになりました。それまで頻繁に電話がかかってきたりで憂鬱さは感じていたんですけど特に具体的に明らかな故意のセクハラはなかったんです。私の気のせいかなって思う程度で……」
「でもその日は違った?」
「はい……。その、ハッキリと触られました。だから思いっきり足を踏み付けて、隙を見て突き飛ばして逃げたんです。それを暴行と言われたわけですが……」
「酷いな。神崎が無事で良かったよ」
速水さんの腕に力がこもり、さらにギュッと抱きしめられた。
本当に心から私を心配してくれていることが伝わってくる。
「それで話戻るけど、神崎はなんで俺に何も言ってくれなかったの? せめて家に来た時に話してくれたら良かったのに。そんなに頼りにならなかった?」
「まさか……! そんなはずないじゃないですか!」
「じゃあなんで?」
「……言えなかったんです。せっかく任せてもらえている仕事ですし、頑張って自分でなんとか対処したいなって。速水さんに迷惑もかけたくなかったですし」
言い訳をするようにボソボソとそう話せば、速水さんからは「はぁ……」というため息が聞こえた。
少し体を離すと正面から私を見据え、速水さんは私の頭を撫でる。
「頑張るのは神崎らしいけど、そこは頼って欲しかった。上司としても、男としても、頼ってもらえなくて悔しいよ」
てっきり呆れたゆえのため息かと思ったが、速水さんの表情はひどく悲しげだ。
どうやら私が自分でなんとかしようと頼らなかったことで速水さんを無意識に傷つけてしまったようだ。
「……違います! 頼ってます! むしろめちゃくちゃ頼りまくってます!」
私は慌てて言い募り、語気を強める。
ここはどれだけ私が速水さんを頼りにしているのかをきちんと伝えなければと思った。
「その、正直ちょっと憂鬱で電話がかかってくるたびに辛いなって思う時もありました。それに先日もがっつり触られて、すごく不快でした。でも、そんな時にいつも心の支えになってくれたのは速水さんです! 速水さんの存在に救われました! だからすっごく頼りにしてます! それこそ居なくなったら嫌だし、頼りすぎててこのままじゃ自分がダメになりそうで……!」
必死に思っていることを口にしたら、頭を撫でていた速水さんの手がピタリと止まった。
少しは私の言葉が届いたのだろうか。
すると頭にあった速水さんの手はスルスルとそのまま下に降りてきて、私の頬に添えられる。
もう片方の手も頬に伸びてきて、両頬を手で包み込まれるような状態になった。
自然と視線が速水さんの方を向く。
端正な顔にじっと見つめられた上に、思いの外その瞳には熱が籠っており、ここが会社だということもすっかり忘れてドキドキしてくる。
「は、速水さん……?」
「大丈夫。俺は居なくならないから」
そう言われた直後、速水さんの顔が近づいてきて唇を塞がれた。
触れた唇は柔らかく、途端にそこから痺れるような甘さが全身に広がっていく。
ハグとも、おでこや頬へのキスとも違う、その幸せな感覚に思わず力が抜けて、もっとこの甘さに身を委ねたくなった。
無意識に私は唇を開けていて、その隙間から速水さんの舌が侵入してくる。
両頬を手で挟まれてキスしているため、触れ合った唇はピタリと密着するよう重なり合い、より一層舌が深く絡み合った。
「んぅ……」
息継ぎの合間につい甘い声が漏れ出してしまう。
……すっごく気持ちいい。このままもっとこうしていたい。
本能的にそう思ったけど、一方で頭の片隅の冷静な部分は警鐘を鳴らす。
ここは会社で、今は仕事中なのだ――と。
また同時に私はこうも思った。
……ああ、速水さんと一線越えちゃったな。
世間一般的には「一線を越える」と言えば、体の関係を持ってしまった時のこと指す。
でもデキナイ私たちにとっては、キスこそがそれにあたるものだった。
キスは明らかにハフレやソフレの域を超えていると言える。
この不思議な関係に終止符が打たれてしまうことになるのだろうか。
速水さんは居なくならないと言ってくれたけど、じゃあ私たちの関係はどうなってしまうのか。
そんなことをうっすら考えながらも、今はただもう少しだけこのままこの甘さに溺れていたい。
私は一旦思考を手放し、欲求のままに速水さんの口づけに応えてうっとりと目を瞑った。
倉林院長からの電話はあれ以降、ピタリと来なくなっていた。
それが逆になんとも薄気味悪く不気味に感じる。
自分の思い通りにできるとナメていた相手が意外と反抗してきたことで諦めてくれたかも……と思うのは希望的観測すぎるだろう。
「神崎さん、年賀状を出す顧客のリストアップってどうなってる?」
「それなら終わりました。取りまとめをしている総務部に提出してあるので、近日中に社内便で届くと思います。届いたら手書きでメッセージ書きしなきゃですね」
デスクでパソコンに向かっていた私は、ふいに中津さんに問いかけられ、進捗を報告する。
12月に入り、私たち営業は年末年始に向けた準備を進めていた。
顧客に年末年始休業のお知らせをメールしたり、年賀状を準備したり、だ。
この時期はどこの会社も忙しく、アポも取りにくいため、外回りは減ってデスクでの仕事の時間が増えていた。
ちなみに働き方改革やテレワークの浸透のおかげか、この時期にありがちな取引先との忘年会も今年はほとんど入っていない。
新年に向けて粛々と仕事納めを進めているという穏やかな日々を送っていた。
「1年なんて本当にあっという間だよね。年末年始はどこか行くの?」
「実家に帰ろうかなと思ってるくらいです。中津さんはどうされる予定なんですか?」
「今年は家でゆっくりかな。実は妻が懐妊したんだよ。だから休みの時くらい僕が家事全般を担って妻を休ませてあげようと思ってね」
「えっ! おめでとうございます!」
結婚して丸5年が経つ中津さん夫婦が子供を熱望していることは以前にチラリと聞いていたため、自分ごとのように嬉しくなった。
素敵な夫婦の話を聞いて、思いがけず心がホッコリする。
ブーブーブーブー……
デスクの上に置いておいた社用携帯が鳴り出したのはそんな時だった。
手に取り着信元を確認した私は、体が固まるのを感じる。
なぜならば、それは倉林院長だったからだ。
やはり諦めてくれたわけではなかったようだ。
あの日以来ぶりの連絡に嫌な予感を感じずにはいられない。
このまま他の人が周囲にいるオフィス内で電話に出るのは避けたくて、私はスマホを手に握りしめ、そっと席を立つと、近くの空いている会議室へと駆け込んだ。
「……もしもし、フィックスの神崎です」
「ああ、神崎さん。この前はどうもね。突き飛ばした挙句、僕を置き去りにして帰るなんて酷いじゃない」
恐る恐る電話に出た私に、今日は端から取り繕う様子がない倉林院長がいきなり先日のことを口にしてきた。
その口調からあのいやらしい目つきが脳裏に蘇ってきて鳥肌が立ってくる。
「お言葉ですが、あれは完全にセクハラでした。私はそれに抵抗しただけです」
「美容外科医の僕が特別に診療してあげただけだって言ったよね? それをあんなふうに足を踏み付けて突き飛ばすなんて暴行じゃないかな?」
まったく自分の非を認めない倉林院長はなんとも自分勝手な主張を言い出してきた。
不快さと怒りと悔しさで身震いしてくる。
スマホを握りしめる手にも力がこもった。
その時だった。
いきなりガチャリと会議室のドアが開く音がした。
スマホを耳に押し付けていた私はその姿勢のまま驚いてドアの方を振り向く。
空室だと思っていたが会議室を予約していた人が来たのかもしれないと一瞬慌てたのだが、そこにいたのは速水さんだった。
しかもパソコンや資料など何も持っておらず手ぶらの状態で、会議に来た様子ではない。
ビクッとした私は目線だけを速水さんに向け、ペコリと軽くお辞儀し、電話中であることを示した。
話を聞かれたくなかったので、そのまま出て行ってくれないかなと思ったゆえの仕草だったのだが、逆に速水さんはツカツカとこちらに歩み寄ってくる。
そして何を思ったのか唐突に無言で私からサラリとスマホを奪い取ると、勝手に操作してスピーカーフォンにしてしまった。
一連の行動にビックリして私は何も言えずただ目を丸くして速水さんを凝視する。
そんな事態になっているとは露知らず、電話の向こうの相手はさっきの調子で言葉を続けた。
「神崎さんに暴行を受けたせいでね、僕は怪我をしてしまったんだよ。この1週間近く不便していて、ほとほと困っているんだ。責任取って、手取り足取りサポートしてくれるよね? ああ、もちろん仕事のサポートじゃないよ? 君のそのいやらしい体で奉仕してくれればいいから」
無音の会議室に、倉林院長の発言が響き渡る。
もちろん速水さんも耳にしてしまったわけで、彼はこれで大体何があったのか察してしまった様子だ。
なんだか隣にいる速水さんから、速水さんらしからぬ怒りの波動が伝わってくる。
「……神崎の上司の速水と申しますが、今の発言はどういう意味でしょう? うちの神崎が何かご迷惑をおかけしたのでしたら、上司である私が対応させて頂きたいのですが」
「じ、上司っ⁉︎」
私と話しているつもりだった倉林院長は、電話口に突然速水さんが出たことに驚き、声を裏返らせた。
その声には先程までの尊大な態度とは一転して動揺が伺える。
「暴行を受けて怪我をしたとのこと、どのようなことがあったのか詳細をお教え願えますか? ……あと、体で奉仕とはどういうことでしょう?」
「いや、その……」
「倉林美容外科クリニックの倉林院長でいらっしゃいますよね? まさかそんなお方が、うちの神崎にセクハラしていたとかではありませんよね?」
「そ、そんなわけがない。だいたいそんな証拠がどこにあるというのかな? 言い掛かりはやめてほしいなぁ」
淡々とした無機質な口調で倉林院長を問い詰める速水さんだったが、逆にそれがとても怒っている時の態度なのだと感じた。
普段穏やかな人ほど怖いというが、まさにそんな感じだった。
「先程の発言は録音させて頂きましたよ。それに暴行を受けたとおっしゃる時のことも実は神崎が密かに録音していたんです。それらを聞いて言い掛かりだと周囲は納得しますかね?」
私はあの日録音なんてしていないので、実際は速水さんのはったりだったのだが、そこは口をつぐんでおくことにした。
急所を突かれグッと言葉を詰まらせた倉林院長に、さらに速水さんは畳み掛ける。
「こちらはそのような証拠をもとに刑事告訴もできる状態ですので。聞いたところによると、そちらの元スタッフの方にも訴えられているそうですね? ますます信憑性が増すことかと思います」
「……ッ」
「また当社もそちらのクリニックとの契約は見直しさせて頂きます。とりあえず契約破棄までの間は私自らが担当させて頂きましょう。神崎には二度と連絡しないでください」
「わ、分かった! 約束するから録音データは破棄して欲しい」
「それはできかねます。一応保険として保持しておきます。約束が履行されなければ、申し上げましたように刑事告訴するか、あとはマスコミにでも流しますかね。そういうことですのでご了承ください。では失礼いたします」
脅すような言葉を最後に、速水さんは一方的に電話を切った。
さっきまでスピーカーフォンによって部屋中に響いていた声が消え、急にその場には静寂が訪れる。
「「…………」」
お互いに黙りこくっていて、妙に空気が重い。
速水さんが怒っているのはヒシヒシと感じたから、どうしたらいいのか困って私は視線を彷徨わせた。
先に沈黙に耐えられなくなったのは私だ。
恐る恐る「あの……」と口火を切った。
その言葉とほぼ同時に、それまで怒りの感情を潜ませながら静かに佇んでいた速水さんも体を動かす。
そして次の瞬間、私は速水さんの腕の中にいた。
包み込むように抱きしめられていたのだ。
「えっ……」
驚いた私は小さく声を上げる。
抱きしめられたこと自体に驚いたのではない。
会社の会議室なのに、ということに驚いたのだ。
上司と部下を徹底することをこの関係の条件の一つに挙げていた速水さんは、決して会社では私にスキンシップを今までしてこなかったからだ。
「あの、ここ会社……」
「なんで俺に言わなかった?」
私が発した言葉は途中で速水さんの言葉が重なり掻き消されてしまう。
ここが会社だとかそんなことはどうでもいいと言わんばかりだ。
「……あの感じだと、ずいぶん前から嫌な思いをしていたんじゃない?」
「それは……」
「暴行を受けたって向こうが言い張っていたのは、もしかしてこの前俺の家に夜来た時? なにがあったの? 碌なことじゃないのは想像できるけど……」
事情を問われ、この後に及んで迷惑をかけたくないからと隠すことは違うと思い、私は素直に口を開くことにした。
自分で対処したかったのに、結局速水さんに助けてもらうことになったことが口惜しい。
「……あの日は、どうしても断れなくて食事に行くことになりました。それまで頻繁に電話がかかってきたりで憂鬱さは感じていたんですけど特に具体的に明らかな故意のセクハラはなかったんです。私の気のせいかなって思う程度で……」
「でもその日は違った?」
「はい……。その、ハッキリと触られました。だから思いっきり足を踏み付けて、隙を見て突き飛ばして逃げたんです。それを暴行と言われたわけですが……」
「酷いな。神崎が無事で良かったよ」
速水さんの腕に力がこもり、さらにギュッと抱きしめられた。
本当に心から私を心配してくれていることが伝わってくる。
「それで話戻るけど、神崎はなんで俺に何も言ってくれなかったの? せめて家に来た時に話してくれたら良かったのに。そんなに頼りにならなかった?」
「まさか……! そんなはずないじゃないですか!」
「じゃあなんで?」
「……言えなかったんです。せっかく任せてもらえている仕事ですし、頑張って自分でなんとか対処したいなって。速水さんに迷惑もかけたくなかったですし」
言い訳をするようにボソボソとそう話せば、速水さんからは「はぁ……」というため息が聞こえた。
少し体を離すと正面から私を見据え、速水さんは私の頭を撫でる。
「頑張るのは神崎らしいけど、そこは頼って欲しかった。上司としても、男としても、頼ってもらえなくて悔しいよ」
てっきり呆れたゆえのため息かと思ったが、速水さんの表情はひどく悲しげだ。
どうやら私が自分でなんとかしようと頼らなかったことで速水さんを無意識に傷つけてしまったようだ。
「……違います! 頼ってます! むしろめちゃくちゃ頼りまくってます!」
私は慌てて言い募り、語気を強める。
ここはどれだけ私が速水さんを頼りにしているのかをきちんと伝えなければと思った。
「その、正直ちょっと憂鬱で電話がかかってくるたびに辛いなって思う時もありました。それに先日もがっつり触られて、すごく不快でした。でも、そんな時にいつも心の支えになってくれたのは速水さんです! 速水さんの存在に救われました! だからすっごく頼りにしてます! それこそ居なくなったら嫌だし、頼りすぎててこのままじゃ自分がダメになりそうで……!」
必死に思っていることを口にしたら、頭を撫でていた速水さんの手がピタリと止まった。
少しは私の言葉が届いたのだろうか。
すると頭にあった速水さんの手はスルスルとそのまま下に降りてきて、私の頬に添えられる。
もう片方の手も頬に伸びてきて、両頬を手で包み込まれるような状態になった。
自然と視線が速水さんの方を向く。
端正な顔にじっと見つめられた上に、思いの外その瞳には熱が籠っており、ここが会社だということもすっかり忘れてドキドキしてくる。
「は、速水さん……?」
「大丈夫。俺は居なくならないから」
そう言われた直後、速水さんの顔が近づいてきて唇を塞がれた。
触れた唇は柔らかく、途端にそこから痺れるような甘さが全身に広がっていく。
ハグとも、おでこや頬へのキスとも違う、その幸せな感覚に思わず力が抜けて、もっとこの甘さに身を委ねたくなった。
無意識に私は唇を開けていて、その隙間から速水さんの舌が侵入してくる。
両頬を手で挟まれてキスしているため、触れ合った唇はピタリと密着するよう重なり合い、より一層舌が深く絡み合った。
「んぅ……」
息継ぎの合間につい甘い声が漏れ出してしまう。
……すっごく気持ちいい。このままもっとこうしていたい。
本能的にそう思ったけど、一方で頭の片隅の冷静な部分は警鐘を鳴らす。
ここは会社で、今は仕事中なのだ――と。
また同時に私はこうも思った。
……ああ、速水さんと一線越えちゃったな。
世間一般的には「一線を越える」と言えば、体の関係を持ってしまった時のこと指す。
でもデキナイ私たちにとっては、キスこそがそれにあたるものだった。
キスは明らかにハフレやソフレの域を超えていると言える。
この不思議な関係に終止符が打たれてしまうことになるのだろうか。
速水さんは居なくならないと言ってくれたけど、じゃあ私たちの関係はどうなってしまうのか。
そんなことをうっすら考えながらも、今はただもう少しだけこのままこの甘さに溺れていたい。
私は一旦思考を手放し、欲求のままに速水さんの口づけに応えてうっとりと目を瞑った。
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