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13. Side航 〜過去&自覚〜
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……明らかにもうただの部下には見えないよな。
新規の顧客開拓のためアポの取れた企業を訪問する合間、休憩がてらカフェに立ち寄り、俺はホットコーヒーを啜る。
タブレットでメールを確認しながらも、頭の中に浮かんでくるのはここ最近の出来事だ。
早いもので神崎と不思議なあの関係になって3ヶ月が経とうとしていた。
初めは完全に成り行きで、ただ都合の良い関係だったはずなのに、俺は自分が彼女を特別に感じ始めていることを薄々勘づき始めていた。
EDゆえに女性とセックスできない俺は人肌に飢えていたから、神崎とああやって抱き合ったり、添い寝したりするのは心地良い。
それに相変わらず思ったことを率直に口にする神崎は可愛いと思う。
これらは関係を始めた当初から感じていたことだが、最近はこれに加えて、俺は彼女のことを気に掛けている。
神崎が傷ついていたり、辛そうにしているのは見ていられない。
つい何かしてあげたいと思ってしまう。
部下を労わりたいから、という建前を口にしているが明らかに部下に対するもの以上だという自覚はあった。
……どさくさに紛れて口以外へのキスもイチャイチャの範囲にねじ込んだしな。
あれは完全に俺がしたかったからであり、口以外なら大丈夫だというのは屁理屈みたいなものだ。
無邪気に抱きついてくる神崎に思わずしてしまったというのが実際のところだった。
あの時、ともすれば、唇を奪っていたと思う。
勃たないからと油断しまくって寛ぐ神崎に、一応俺も男だということを知らしめたくなった。
なけなしの理性で押し留め、唇ではなくおでこに切り替えたのだが、その判断は正解だった。
あのまま唇を塞いでいたら、たぶん神崎からは距離を置かれていたのではないかと感じる。
なにしろおでこや頬にキスしただけで、顔を真っ赤にして照れていたのだ。
神崎が想定するイチャイチャの中にキスが含まれていなかったのは明白だろう。
……それにしても普段あれだけ自分からくっついてくるくせにあの反応は反則じゃないか?
顔を赤くして照れるあの可愛い様子を思い出すと、一体神崎は過去の彼氏をどれほど沼に落としてきたのだろうと思わずにはいられなかった。
過去に色々あってセックスが苦手になったと前に本人が話していたが、それはつまり過去には彼氏がいたということだ。
本人にその意識はないかもしれないが、彼女が以前から今のこの感じなのであれば、付き合った男は今の俺のように知れば知るほど、彼女に翻弄されていったのではないかと思う。
……今の神崎は彼氏はいらないと断言しているけど何があったのかやっぱり気になるな。まあ、誰しも過去はあるから、必要以上に探る気はないけど。
以前さりげなく聞いてみて、誤魔化すように濁されたのも記憶に新しい。
ただでさえ、俺は別に神崎の彼氏でもなんでもなく、ただの上司であり都合の良い関係の相手というだけだ。
パーソナルな部分に踏み込む権利はないだろう。
それに気になることは他にもある。
神崎がここ最近やたらとすがるように抱きついてくることだ。
もともと自分からくっついてくるタイプだが、なんとなく今までよりも切実な感じがするのは気のせいだろうか。
……こうやって神崎の細かな言動が気になるのも部下を越えて特別に感じ始めている証拠だよな。
だが、その特別というのは一体どういう感情なのか。
果たして俺は神崎を異性として好きなのだろうか。
あんな特殊な関係ゆえに特別に感じているだけではないか。
そのあたりが自分でもまだよく分からなかった。
「すみません、この席空いていますか?」
その時、カフェのカウンター席でタブレットを手に物思いに耽っていた俺の背後に女性の声が掛かる。
来た時には店内が空いていたため、隣の空席に鞄を置いていたのだが、午後3時頃になり混み合ってきたようだ。
それを察した俺は鞄を退けながら、声を掛けてきた女性の方へ振り返った。
「どうぞ空いてま……」
空いていると告げる声は途中で止まってしまった。
なぜならその女性が知り合いだったため、思わぬ遭遇に驚いてしまったからだ。
相手も俺に気付き、目を見開いている。
「航くん……!」
「亜佐美……」
それは3年前に別れた元カノだった。
後ろ姿では俺だと分からなかったらしい亜佐美は驚いてその場に立ち尽くしている。
決して円満な別れではなかったから亜佐美は気まずさを感じているようだった。
「……久しぶり。とりあえず座ったら?」
「え? あ、うん。そうだね」
浮気を疑われ、激しく束縛され、限界を感じて別れる――というあまり良い別れ方ではなかったとはいえ、あれからもう3年も経っている。
特に何の感傷もなかった俺は普通に亜佐美に席を勧めた。
「……航くん、結婚したの?」
亜佐美は椅子に座るなり、俺の左手にはまる指輪を見て、やや複雑そうな表情でつぶやいた。
別れの経緯を考えると、確かに亜佐美にとっては微妙な気持ちになるのも分かる。
あれだけ結婚に興味がなかった元カレが、数年後に再会したら結婚しているわけなのだから。
まぁ、実際はこの指輪はフェイクで独身のままなのだが、もう何の関係もない亜佐美にわざわざそれを説明する必要もないだろう。
「亜佐美こそ結婚したんだな」
俺は自分への質問はサラリと受け流し、逆に亜佐美の左手にはまる指輪を見てそう答えた。
亜佐美は柔らかく微笑むと指輪をなぞるように指で触る。
その表情には3年前の束縛や干渉が酷かった頃の面影はなかった。
「うん。航くんと別れた後、すごく落ち込んで一時期ひどい状態だったんだけど、そんな時に側にいて支えてくれたのが今の夫で、去年結婚したの」
「そう。おめでとう」
「ありがとう」
そこで一度会話が途切れ、沈黙が訪れる。
再会したからといって特に話したいこともない。
次のアポまで少し早いがもう店を出ようかと考え、俺は席を立とうとした。
すると、沈黙を破るように亜佐美が「あの……」と口火を切った。
「今更なんだけど、私、航くんに謝りたくって……」
「なにを?」
「あの頃の私はどうかしてた。不安でいっぱいで、航くんのこと常に疑ってたし、行動も縛ってたし、酷かったと思うの。今更だけど嫌な思いをさせてしまってごめんね……」
いつか機会があったら謝りたかったと言う亜佐美は、きっと本心で言っているのだろう。
あの頃のヒステリックな感じは一切なく、まるで付き合い始めた当時のような穏やかさがあった。
つまり、付き合っているうちに、亜佐美を酷かったと評する状態にしてしまったのは俺にも原因があるのかもしれない。
ふとそんなふうに思った俺は、参考までに尋ねてみることにした。
「ちなみに、今後の参考までに聞きたいんだけど、何がそんなに不安だったの?」
「当時言ってなかったけど、昔から私すごく結婚願望が強かったの。だから航くんとも付き合って1年が経った頃から自然と結婚を意識してて。20代後半になって友達も結婚する人が多くなってきてたからよりその気持ちも強くなってた。だけど航くんは全然結婚は考えてなかったでしょ?」
「正直言うと、考えてなかった。それは亜佐美に対して気持ちがなかったとかではなく、単純に結婚そのものをしたいと思ってなかった」
「うん、それは知ってる。今思えば、お互いの結婚に対する考え方やタイミングが合わなかったんだろうなぁって思うもの。でも当時の私はなんで航くんは私との将来を意識してくれないんだろう? 私のことそんなに好きじゃないの?って考えちゃったんだよね……。航くんっていつも落ち着いていて余裕があって、全然感情的にならないし、私ばっかり好きみたいって、元々そう思ってたのもあってどんどん不安で苦しくなってきちゃって」
「…………」
「そしたら航くんの行動を全部把握したくなって、なんとか繋ぎ止めておきたい衝動に駆られちゃってた。すっごい束縛女だったと思う。本当にごめんね」
当時はただ亜佐美に辟易するだけだったが、話を聞いて、俺にもやはり不安にさせるような要素があったのだなと感じた。
アッサリし過ぎているから不安になるというのは、過去に他の彼女からも言われたことがある言葉だった。
「俺も悪いところがあったんだと思うから、謝るのはなしにしよう。もう過去のことだし。でもあの当時、家の前でいきなり待ち伏せされたのとか、スマホを勝手に見られたのとかは結構堪えたなぁ。旦那さんにはしない方がいいよ?」
重くなった空気を和らげるため、俺は冗談っぽい口調でワザと過去の話を持ち出し、笑顔を見せる。
それに釣られて亜佐美も表情を緩めた。
「夫にはしないよ! 彼は側にいてくれるだけで安心するような人だから。航くんこそ、奥さんを不安にさせないように気をつけた方がいいよ? たまには感情的になったり、余裕がない姿も見せてあげてね。じゃないと、昔の私みたいに不安になっちゃうかもよ?」
過去の自分を乗り越え、幸せそうな今の亜佐美に言われる言葉は、なんだか心に刺さった。
実は独身で、しかもあれ以来EDになっているという状態だからだろうか。
亜佐美のことを引きずっているわけでは決してないが、あの頃から前に進んでいない自分の成長の無さに少し複雑な気持ちになった。
そのあとはお互いの簡単な近況を話し合う何気ない会話をした。
亜佐美は昨年結婚して、今は第一子を妊娠中だそうで、先月から産休に入っているのだという。
今日は定期検診の帰りでたまたまカフェに寄ったと、まだ目立っていないお腹を撫でながら幸せそうに話してくれた。
そんな会話からも3年という月日の流れを感じた。
ふと時計を見れば、そろそろ次のアポに向けて移動すべき時間だった。
俺はタブレットを鞄に片付け、マグカップを手に持って席を立ち上がる。
「久しぶりに話せて良かったよ。元気で」
「うん、私も会って謝れて良かった。航くんも元気でね」
連絡先を交換することはもちろんなく、俺たちはそのまま別れの言葉を交わす。
たぶんもう会うこともないだろう。
……偶然とはいえ、時を経て亜佐美と会えて良かったかもな。
カフェをあとにし、営業先への道を歩きながら俺は思う。
少なくともあまり良い思い出ではなかった過去の出来事が浄化された気がするし、俺にも非があったのだと認識することができた。
それになにより、幸せそうな亜佐美を目にして、俺も前に進まなければなと感じさせられた。
脳裏によぎるのは神崎の顔だ。
俺ももう30歳なのだから、都合の良い関係なんていつまでもダラダラ続けているのは良くないだろう。
異性として神崎に好意があるのか、特殊な関係ゆえに特別に感じているのか、自分の気持ちをハッキリさせるべきだ。
……だが、ハッキリさせるとは言ってもどうすればいいのやら。
仕事と違って、気持ちという不安定で答えのないものに対して手をこまねく。
今までこんなことをまともに考えたことがなかった。
というのも、最初からきちんと付き合うか、割り切って遊び相手として寝るだけかの2択だったからだ。
一方で神崎とは割り切った都合の良い関係だけど一線は越えておらず、まるで恋人のように定期的に会ってイチャイチャするだけ。
この関係はまさに2択の中間みたいな感覚だった。
良い解決策が全く思い浮かばない俺だったが、その転機は早々に訪れることになる。
それはその日仕事を終えて家に帰った時のことだった。
「神崎……?」
営業先からオフィスに戻り、書類仕事で残業をしていた俺は、夜22時過ぎに家に着いたのだが、そこで見知った姿を見つけて驚いて声を掛けた。
神崎がマンションのエントランスの前で佇んでいたのだ。
まるで俺を待ち伏せするように。
今日は平日で神崎が来る予定はなかったし、特にそういったメッセージも受け取っていなかったはずだ。
「……速水さん、いきなり来てすみません」
「いや、まぁ驚いたけど……。何かあった?」
「いえ、ちょっと急にどうしても速水さんに会いたくなって」
「とりあえず、中入ろう」
「はい」
いつからあそこにいたのか分からないが、まもなく12月というこの季節、夜はとても冷える。
俺はエントランスのオートロックを解除して、神崎とともに部屋へと向かった。
神崎とは今朝オフィスで顔を合わせたが、その後はお互い外回りだったためそれ以来ぶりだ。
今朝と同じスーツ姿のままだから、おそらく家にも帰っていないのではないかと思う。
玄関の鍵を開け家の中に入ると、さっそくと言うように神崎は俺の背中に腕を回して抱きついてきた。
触れた体は冬の外気にさらされてやはり冷たくなっている。
「本当にすみません。速水さんが干渉や束縛が嫌いなの知ってるのに。こうしていきなり押しかけてプライベートを邪魔するようなことして申し訳なく思ってます」
絞り出すようなか細い声で謝られて、今の自分は特にそう感じていない事実に気づいた。
元カノにされて、予告のない訪問や待ち伏せはあんなに嫌だと思ったはずなのに。
そんなことよりも、俺は別のことに意識が向いていた。
抱きしめ返した神崎からいつもと違う匂いがする気がしたのだ。
タバコのようなスモーキーな渋い香りで、明らかに神崎には似合わない、男物の香水のような香りだ。
彼女から漂ってくるこの匂いが不快でたまらなく感じる。
「……もしかしてここ来る前に誰かと会ってた?」
「えっ? いえ、外出先で仕事してました……」
思わず問い詰めるように聞いてしまい、口にしてからはたと我にかえる。
……これじゃ俺が干渉しているようじゃないか。
自分の知らないところで知らない男と会っていたかもと思うと、つい聞かずにはいられなかった。
こんなふうに無駄に嫉妬されていちいち聞かれるのも嫌だったはずなのに。
自分自身がされて嫌なことを、神崎にしてしまっている。
……つまり、見えない相手に嫉妬して無意識に束縛と干渉をしようとしてしまうほど、俺は神崎のことを特別に思ってるんだな。
それは明らかに神崎を他の男に取られたくない、自分のモノにしたいという感情だ。
異性として好きだという紛れもない証だろう。
昼間に考えていた問いは、神崎の予想外で突然の来訪により、アッサリ答えが導き出されたのだった。
新規の顧客開拓のためアポの取れた企業を訪問する合間、休憩がてらカフェに立ち寄り、俺はホットコーヒーを啜る。
タブレットでメールを確認しながらも、頭の中に浮かんでくるのはここ最近の出来事だ。
早いもので神崎と不思議なあの関係になって3ヶ月が経とうとしていた。
初めは完全に成り行きで、ただ都合の良い関係だったはずなのに、俺は自分が彼女を特別に感じ始めていることを薄々勘づき始めていた。
EDゆえに女性とセックスできない俺は人肌に飢えていたから、神崎とああやって抱き合ったり、添い寝したりするのは心地良い。
それに相変わらず思ったことを率直に口にする神崎は可愛いと思う。
これらは関係を始めた当初から感じていたことだが、最近はこれに加えて、俺は彼女のことを気に掛けている。
神崎が傷ついていたり、辛そうにしているのは見ていられない。
つい何かしてあげたいと思ってしまう。
部下を労わりたいから、という建前を口にしているが明らかに部下に対するもの以上だという自覚はあった。
……どさくさに紛れて口以外へのキスもイチャイチャの範囲にねじ込んだしな。
あれは完全に俺がしたかったからであり、口以外なら大丈夫だというのは屁理屈みたいなものだ。
無邪気に抱きついてくる神崎に思わずしてしまったというのが実際のところだった。
あの時、ともすれば、唇を奪っていたと思う。
勃たないからと油断しまくって寛ぐ神崎に、一応俺も男だということを知らしめたくなった。
なけなしの理性で押し留め、唇ではなくおでこに切り替えたのだが、その判断は正解だった。
あのまま唇を塞いでいたら、たぶん神崎からは距離を置かれていたのではないかと感じる。
なにしろおでこや頬にキスしただけで、顔を真っ赤にして照れていたのだ。
神崎が想定するイチャイチャの中にキスが含まれていなかったのは明白だろう。
……それにしても普段あれだけ自分からくっついてくるくせにあの反応は反則じゃないか?
顔を赤くして照れるあの可愛い様子を思い出すと、一体神崎は過去の彼氏をどれほど沼に落としてきたのだろうと思わずにはいられなかった。
過去に色々あってセックスが苦手になったと前に本人が話していたが、それはつまり過去には彼氏がいたということだ。
本人にその意識はないかもしれないが、彼女が以前から今のこの感じなのであれば、付き合った男は今の俺のように知れば知るほど、彼女に翻弄されていったのではないかと思う。
……今の神崎は彼氏はいらないと断言しているけど何があったのかやっぱり気になるな。まあ、誰しも過去はあるから、必要以上に探る気はないけど。
以前さりげなく聞いてみて、誤魔化すように濁されたのも記憶に新しい。
ただでさえ、俺は別に神崎の彼氏でもなんでもなく、ただの上司であり都合の良い関係の相手というだけだ。
パーソナルな部分に踏み込む権利はないだろう。
それに気になることは他にもある。
神崎がここ最近やたらとすがるように抱きついてくることだ。
もともと自分からくっついてくるタイプだが、なんとなく今までよりも切実な感じがするのは気のせいだろうか。
……こうやって神崎の細かな言動が気になるのも部下を越えて特別に感じ始めている証拠だよな。
だが、その特別というのは一体どういう感情なのか。
果たして俺は神崎を異性として好きなのだろうか。
あんな特殊な関係ゆえに特別に感じているだけではないか。
そのあたりが自分でもまだよく分からなかった。
「すみません、この席空いていますか?」
その時、カフェのカウンター席でタブレットを手に物思いに耽っていた俺の背後に女性の声が掛かる。
来た時には店内が空いていたため、隣の空席に鞄を置いていたのだが、午後3時頃になり混み合ってきたようだ。
それを察した俺は鞄を退けながら、声を掛けてきた女性の方へ振り返った。
「どうぞ空いてま……」
空いていると告げる声は途中で止まってしまった。
なぜならその女性が知り合いだったため、思わぬ遭遇に驚いてしまったからだ。
相手も俺に気付き、目を見開いている。
「航くん……!」
「亜佐美……」
それは3年前に別れた元カノだった。
後ろ姿では俺だと分からなかったらしい亜佐美は驚いてその場に立ち尽くしている。
決して円満な別れではなかったから亜佐美は気まずさを感じているようだった。
「……久しぶり。とりあえず座ったら?」
「え? あ、うん。そうだね」
浮気を疑われ、激しく束縛され、限界を感じて別れる――というあまり良い別れ方ではなかったとはいえ、あれからもう3年も経っている。
特に何の感傷もなかった俺は普通に亜佐美に席を勧めた。
「……航くん、結婚したの?」
亜佐美は椅子に座るなり、俺の左手にはまる指輪を見て、やや複雑そうな表情でつぶやいた。
別れの経緯を考えると、確かに亜佐美にとっては微妙な気持ちになるのも分かる。
あれだけ結婚に興味がなかった元カレが、数年後に再会したら結婚しているわけなのだから。
まぁ、実際はこの指輪はフェイクで独身のままなのだが、もう何の関係もない亜佐美にわざわざそれを説明する必要もないだろう。
「亜佐美こそ結婚したんだな」
俺は自分への質問はサラリと受け流し、逆に亜佐美の左手にはまる指輪を見てそう答えた。
亜佐美は柔らかく微笑むと指輪をなぞるように指で触る。
その表情には3年前の束縛や干渉が酷かった頃の面影はなかった。
「うん。航くんと別れた後、すごく落ち込んで一時期ひどい状態だったんだけど、そんな時に側にいて支えてくれたのが今の夫で、去年結婚したの」
「そう。おめでとう」
「ありがとう」
そこで一度会話が途切れ、沈黙が訪れる。
再会したからといって特に話したいこともない。
次のアポまで少し早いがもう店を出ようかと考え、俺は席を立とうとした。
すると、沈黙を破るように亜佐美が「あの……」と口火を切った。
「今更なんだけど、私、航くんに謝りたくって……」
「なにを?」
「あの頃の私はどうかしてた。不安でいっぱいで、航くんのこと常に疑ってたし、行動も縛ってたし、酷かったと思うの。今更だけど嫌な思いをさせてしまってごめんね……」
いつか機会があったら謝りたかったと言う亜佐美は、きっと本心で言っているのだろう。
あの頃のヒステリックな感じは一切なく、まるで付き合い始めた当時のような穏やかさがあった。
つまり、付き合っているうちに、亜佐美を酷かったと評する状態にしてしまったのは俺にも原因があるのかもしれない。
ふとそんなふうに思った俺は、参考までに尋ねてみることにした。
「ちなみに、今後の参考までに聞きたいんだけど、何がそんなに不安だったの?」
「当時言ってなかったけど、昔から私すごく結婚願望が強かったの。だから航くんとも付き合って1年が経った頃から自然と結婚を意識してて。20代後半になって友達も結婚する人が多くなってきてたからよりその気持ちも強くなってた。だけど航くんは全然結婚は考えてなかったでしょ?」
「正直言うと、考えてなかった。それは亜佐美に対して気持ちがなかったとかではなく、単純に結婚そのものをしたいと思ってなかった」
「うん、それは知ってる。今思えば、お互いの結婚に対する考え方やタイミングが合わなかったんだろうなぁって思うもの。でも当時の私はなんで航くんは私との将来を意識してくれないんだろう? 私のことそんなに好きじゃないの?って考えちゃったんだよね……。航くんっていつも落ち着いていて余裕があって、全然感情的にならないし、私ばっかり好きみたいって、元々そう思ってたのもあってどんどん不安で苦しくなってきちゃって」
「…………」
「そしたら航くんの行動を全部把握したくなって、なんとか繋ぎ止めておきたい衝動に駆られちゃってた。すっごい束縛女だったと思う。本当にごめんね」
当時はただ亜佐美に辟易するだけだったが、話を聞いて、俺にもやはり不安にさせるような要素があったのだなと感じた。
アッサリし過ぎているから不安になるというのは、過去に他の彼女からも言われたことがある言葉だった。
「俺も悪いところがあったんだと思うから、謝るのはなしにしよう。もう過去のことだし。でもあの当時、家の前でいきなり待ち伏せされたのとか、スマホを勝手に見られたのとかは結構堪えたなぁ。旦那さんにはしない方がいいよ?」
重くなった空気を和らげるため、俺は冗談っぽい口調でワザと過去の話を持ち出し、笑顔を見せる。
それに釣られて亜佐美も表情を緩めた。
「夫にはしないよ! 彼は側にいてくれるだけで安心するような人だから。航くんこそ、奥さんを不安にさせないように気をつけた方がいいよ? たまには感情的になったり、余裕がない姿も見せてあげてね。じゃないと、昔の私みたいに不安になっちゃうかもよ?」
過去の自分を乗り越え、幸せそうな今の亜佐美に言われる言葉は、なんだか心に刺さった。
実は独身で、しかもあれ以来EDになっているという状態だからだろうか。
亜佐美のことを引きずっているわけでは決してないが、あの頃から前に進んでいない自分の成長の無さに少し複雑な気持ちになった。
そのあとはお互いの簡単な近況を話し合う何気ない会話をした。
亜佐美は昨年結婚して、今は第一子を妊娠中だそうで、先月から産休に入っているのだという。
今日は定期検診の帰りでたまたまカフェに寄ったと、まだ目立っていないお腹を撫でながら幸せそうに話してくれた。
そんな会話からも3年という月日の流れを感じた。
ふと時計を見れば、そろそろ次のアポに向けて移動すべき時間だった。
俺はタブレットを鞄に片付け、マグカップを手に持って席を立ち上がる。
「久しぶりに話せて良かったよ。元気で」
「うん、私も会って謝れて良かった。航くんも元気でね」
連絡先を交換することはもちろんなく、俺たちはそのまま別れの言葉を交わす。
たぶんもう会うこともないだろう。
……偶然とはいえ、時を経て亜佐美と会えて良かったかもな。
カフェをあとにし、営業先への道を歩きながら俺は思う。
少なくともあまり良い思い出ではなかった過去の出来事が浄化された気がするし、俺にも非があったのだと認識することができた。
それになにより、幸せそうな亜佐美を目にして、俺も前に進まなければなと感じさせられた。
脳裏によぎるのは神崎の顔だ。
俺ももう30歳なのだから、都合の良い関係なんていつまでもダラダラ続けているのは良くないだろう。
異性として神崎に好意があるのか、特殊な関係ゆえに特別に感じているのか、自分の気持ちをハッキリさせるべきだ。
……だが、ハッキリさせるとは言ってもどうすればいいのやら。
仕事と違って、気持ちという不安定で答えのないものに対して手をこまねく。
今までこんなことをまともに考えたことがなかった。
というのも、最初からきちんと付き合うか、割り切って遊び相手として寝るだけかの2択だったからだ。
一方で神崎とは割り切った都合の良い関係だけど一線は越えておらず、まるで恋人のように定期的に会ってイチャイチャするだけ。
この関係はまさに2択の中間みたいな感覚だった。
良い解決策が全く思い浮かばない俺だったが、その転機は早々に訪れることになる。
それはその日仕事を終えて家に帰った時のことだった。
「神崎……?」
営業先からオフィスに戻り、書類仕事で残業をしていた俺は、夜22時過ぎに家に着いたのだが、そこで見知った姿を見つけて驚いて声を掛けた。
神崎がマンションのエントランスの前で佇んでいたのだ。
まるで俺を待ち伏せするように。
今日は平日で神崎が来る予定はなかったし、特にそういったメッセージも受け取っていなかったはずだ。
「……速水さん、いきなり来てすみません」
「いや、まぁ驚いたけど……。何かあった?」
「いえ、ちょっと急にどうしても速水さんに会いたくなって」
「とりあえず、中入ろう」
「はい」
いつからあそこにいたのか分からないが、まもなく12月というこの季節、夜はとても冷える。
俺はエントランスのオートロックを解除して、神崎とともに部屋へと向かった。
神崎とは今朝オフィスで顔を合わせたが、その後はお互い外回りだったためそれ以来ぶりだ。
今朝と同じスーツ姿のままだから、おそらく家にも帰っていないのではないかと思う。
玄関の鍵を開け家の中に入ると、さっそくと言うように神崎は俺の背中に腕を回して抱きついてきた。
触れた体は冬の外気にさらされてやはり冷たくなっている。
「本当にすみません。速水さんが干渉や束縛が嫌いなの知ってるのに。こうしていきなり押しかけてプライベートを邪魔するようなことして申し訳なく思ってます」
絞り出すようなか細い声で謝られて、今の自分は特にそう感じていない事実に気づいた。
元カノにされて、予告のない訪問や待ち伏せはあんなに嫌だと思ったはずなのに。
そんなことよりも、俺は別のことに意識が向いていた。
抱きしめ返した神崎からいつもと違う匂いがする気がしたのだ。
タバコのようなスモーキーな渋い香りで、明らかに神崎には似合わない、男物の香水のような香りだ。
彼女から漂ってくるこの匂いが不快でたまらなく感じる。
「……もしかしてここ来る前に誰かと会ってた?」
「えっ? いえ、外出先で仕事してました……」
思わず問い詰めるように聞いてしまい、口にしてからはたと我にかえる。
……これじゃ俺が干渉しているようじゃないか。
自分の知らないところで知らない男と会っていたかもと思うと、つい聞かずにはいられなかった。
こんなふうに無駄に嫉妬されていちいち聞かれるのも嫌だったはずなのに。
自分自身がされて嫌なことを、神崎にしてしまっている。
……つまり、見えない相手に嫉妬して無意識に束縛と干渉をしようとしてしまうほど、俺は神崎のことを特別に思ってるんだな。
それは明らかに神崎を他の男に取られたくない、自分のモノにしたいという感情だ。
異性として好きだという紛れもない証だろう。
昼間に考えていた問いは、神崎の予想外で突然の来訪により、アッサリ答えが導き出されたのだった。
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でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
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