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午後5時頃に会社に到着すると、社用車を返却して能勢さんと藤沢くんとはそこで別れた。
一度オフィスに戻り、システム不具合に関する対応がまとめてある資料だけを手に取って、私はその足で今度は美容外科クリニックに向かう。
会社から30分もかからないはずなので、約束通りの時間には到着できそうだ。
見込み通り5時25分には到着し受付で名乗ると、すぐに応接室へと案内された。
中津さんに同行して初めて来た時と同じ場所だ。
ソファーに掛けて待っていれば、ほどなくして倉林院長がパソコンを抱えながら中へ入って来て向かい側のソファーへ座った。
「神崎さん、遅くに悪いね。千葉から戻って来たばかりなんだよね?」
「大丈夫です。システムに不具合が発生していると業務に支障をきたすでしょうから。それではさっそく拝見させて頂けますか?」
テーブルの上にあるパソコンを受け取って画面を拝見しようと手を伸ばす。
すると、なぜかそのタイミングで倉林院長がパソコンを持って突然立ち上がった。
不思議に思ってポカンとしていると、そのまま倉林院長はこちらにやってきて、いきなり私と並ぶようにソファーの隣に腰掛けた。
……え? なんで?
「これが実際の画面でね、こんな感じで何度ログインしようとしても弾かれてしまって使えなくなってしまってるんだよ」
そう言って倉林院長はパソコンの画面を私へと向けて見せてくる。
横並びで一緒に画面を覗き込むような感じだ。
……ちょっと近い気もするけど、でもただ画面を見せようとしてるだけだよね……?
距離感に少々違和感を覚えながらも、ログインできないという画面を示されたら確認しないわけにもいかない。
私はマウスを操作して状況を確認する。
確かにログインしようとするとできない状態になっていた。
……でもこれってまた初歩的なヤツじゃないかな……?
一目見ただけで私にはこの状況に心当たりがあった。
使い方マニュアルの最初でも書き示しているような内容のことだ。
「あの、もしかして今5人以上が同時にこのシステムを使われていませんか? マニュアルでも載せております通り、こちらのシステムは同時に5人までしかログインできませんので、6人目以降の方がログインしようとするとこのように弾かれてしまうんです。確かシステム導入時に仕様検討した際、それほど同時に使うことはないからとこの人数に設定したと聞き及んでおります」
「ああ、そういえばそうだったね。そうか、人数の問題だったのか。いやぁ、僕としたことが。うっかりしてたなぁ」
「念のため、今ログインされている方の1人にログアウトして頂き、こちらのパソコンできちんとログインできるか確認して頂けますか?」
これは不具合ではないということを目の前で確認してもらうため依頼すると、倉林院長はどこかへ電話をかけてログアウトするよう指示を出した。
たぶん院内にいる他のスタッフに伝えたのだろう。
その電話から少しだけ時間を空けて、再び目の前のパソコンを操作しログインを試みてもらう。
システムの操作は倉林院長自らにしてもらっているのだが、横並びに座る真ん中あたりの位置にパソコンがあるため、身を寄せるようにしてきてさっきよりもさらに距離が近くなる。
パーソナルスペースに侵入される感じがして、どうにも居心地が悪い。
「えーっと、ログインはここのボタンをクリックして、IDとパスワードを入力して……と」
その時、つぶやきながらマウスを動かす倉林院長の肘が私の胸にあたった。
一瞬だったが弾力を確認するようにぐにっと押された気がした。
……えっ、これ、ワザと⁉︎ まさかこのために隣に座ったの⁉︎
ほんの一瞬の出来事だったので故意ではないかもしれないし、私の勘違いかもしれない。
でも一気に不信感が増してくる。
「あ、ログインできたね。やっぱり神崎さんの言う通りだった。人数のせいだったというのがよく分かったよ。いやぁ、助かった。神崎さんのおかげだよ」
倉林院長の態度に変化はなく、問題が解決したと喜んでいるようだった。
その様子からやはりただのハプニング的な接触だった可能性も捨てきれない。
痴漢のように故意に触られたという明確な証拠も根拠もなく、しかも相手は先輩の顧客であるため、私は何も言うことができずとりあえず平然を装い微笑むしかなかった。
ただたとえ気のせいだったとしても不信感や嫌悪感が芽吹いてしまい、一刻も早くこの場から離れたい衝動に駆られた。
「では、システムは大丈夫そうですので、私はこれで失礼いたします」
「神崎さん、忙しいところ本当にありがとう。そうだ、お礼に良かったらこの後食事でもどうかな? わざわざ来てもらったのに、こちらのミスだったのだから申し訳ない。ご馳走させてもらえると嬉しいのだけど」
「いえ、お気遣いなく」
「そう言わず、お詫びの意味も込めてぜひご馳走させて欲しいな」
「本当に大丈夫です。それに予定がありますので」
あくまでお詫びをしたいと食い下がるように誘われたが、失礼にならない程度に私はキッパリ断る。
薄手のコートを手に取って立ち上がり、「失礼します」と挨拶をして逃げ出すように素早く応接室をあとにした。
倉林院長が意図的に胸にあたったり、食事に誘ってきたのかは分からないが、少なくとも今回のことで私は苦手意識を感じてしまった。
できればあまり関わりたくない。
一方で先輩の大切な顧客であり、期待されて引き継ぎを進めているところだから、そうも言っていられない現実がある。
自分の気持ちと状況の狭間で悶々として、モヤモヤが胸の内に広がっていく。
そんな状態だったからだろう。
速水さんの家に着いて、玄関で迎え入れられるなり、私は靴も脱がずに速水さんの胸に飛び込んだ。
「……神崎?」
「ちょっとチャージさせてください」
速水さんの広い胸に顔を埋めてスリスリする。
やや困惑気味ながらも速水さんは何も言わずに腕を私の背に回して抱きしめ返してくれた。
服越しに感じる体温がささくれ立つ気持ちを宥めてくれるような気がする。
少し気分が落ち着いてくると、香辛料が効いたカレーのいい匂いが鼻を掠めた。
途端に空腹を感じてきて、ぐぅと小さくお腹が鳴ってしまう。
我ながらなんとも素直すぎる。
「神崎は腹の虫まで正直だな」
速水さんは笑いを噛み殺すように手で口を覆いくつくつと笑い出した。
体が触れているから笑っている振動が伝わってくる。
「だってすごくいい匂いがするので思わず……」
「もう出来てるから食べようか? 手洗ってきたら?」
「なんか来て早々くっつかせてもらって、その上、夜ゴハンまで用意してもらってて、すみません! 至れり尽くせりです」
「上げ膳据え膳じゃなく、食べた後は片付けるの手伝ってもらうけどね」
「全然、むしろそれくらいさせてください!」
抱きついていた体を離し、玄関先で靴を脱ぐと、リビングで一度荷物を置いた後に私は洗面所で手を洗わせてもらう。
その際、鏡で自分の顔を見れば、さっきまでの悶々とした感じは消えていて穏やかな表情に戻っていた。
さすがは即効性の高い速水さんのハグ効果である。
リビングに戻ると、ダイニングテーブルの上にはお皿に盛られたカレーがすでにセッティングされていた。
「「いただきます」」
二人でテーブルを囲み、速水さんの手作りカレーをさっそく味わう。
ごろごろしたジャガイモがたっぷり入っていて、隠し味にヨーグルトが加えられたカレーは辛味が抑えられマイルドな口当たりだ。
「美味しいです! このまろやかな味わいが癖になりますね」
「まだおかわりあるから」
「食べたいですけど1杯でお腹いっぱいになりそうです。残った分は明日カレーうどんやカレードリアにしてみませんか?」
「それもいいかもね」
美味しく一皿完食し終え、速水さんの分も含めて食器を持ってキッチンの流し台に持って行く。
食事を作ってもらったから、食器洗いは私がさせてもらうことにし、お皿や調理の時に使った道具を洗い始めた。
洗い物を済ませると、私たちは順番にシャワーを浴びて早々と寝支度を整え、それぞれ寝室へと移動する。
私が寝室に入った時には、先にシャワーを終えた速水さんがベッドの上で仰向けに寝転んでタブレットを操作しているところだった。
メガネ姿の速水さんが私の気配に気づき問いかけてくる。
「今日って何話からだっけ?」
「えーっと、確か12話だったはずです。前回主人公がゾンビに襲われかけて脱出したところで終わってました」
私は先週の記憶を遡って答えた。
何のことを話しているのかと言えば、私たちが毎週末家で過ごす時に一緒に観ている海外ドラマのことだ。
金曜の夜は早めに寝る準備をして、ベッドの上でのんびりしながら毎週数話ずつドラマ鑑賞するのがここ最近の定番になっている。
今観ているのは速水さんも私も好きなジャンルであるサバイバル系のドラマだ。
もちろん観る時はくっつかせてもらっているので、癒しのイチャイチャタイムでもある。
私がベッドの方へ近づいていくと、ドラマの再生の準備をしていた速水さんが、またふと思い出したように言葉を続けた。
「そういえば急遽訪問することになった顧客のシステム不具合は大丈夫だった?」
「え、ああ、そのことですね……」
ハグして美味しいカレーを食べて、すっかり記憶から葬っていた夕方の出来事が蘇ってくる。
途端にまたちょっと気分が重くなった。
質問されたので答えるしかないのだが、勘違いかもしれないことを明言するのは避け、私は事実だけをサラッと報告することにした。
「大丈夫でした。不具合というか先方の操作ミスだったので、改めてきちんと使い方を説明してきたという感じです」
「不具合じゃなくて良かったけど、ミスで呼び出されたのは災難だったな。お疲れ」
ちょうどベッドの上に乗り上げた私を、速水さんは労うように頭をポンポンと撫でてくれた。
……本当に速水さんはすごい。私が欲しいタイミングで優しくしてくれるから参っちゃうなぁ。
この手で頭を撫でられると気持ちが軽くなるから不思議だ。
人を眠くさせる魔法はなくても、癒しの魔法は使えるんじゃないだろうかと思わずにはいられない。
急にくっつきたい気持ちが押し寄せてきて、私はその感情のままに仰向けになっている速水さんの上に覆い被さってギュッとしがみついた。
いつもベッドの上でドラマ鑑賞する時はうつ伏せで横並びになって観ているため、体勢を変えようとしていた速水さんは私の予想外の行動に少し目を見張っている。
「……どうかした?」
「ちょっとどうしようもなくくっつきたい気分になっただけです」
そう言ってその体勢のまま顔だけ上げると、すぐ目の前には速水さんの顔があった。
あまりの近さにメガネのレンズに反射して自分の顔が写って見えそうだ。
「これじゃ、なんだか私が速水さんを襲ってるみたいですね」
「俺だからいいけど、こんなこと男にしたら普通は襲われ返すよ。この体勢でもひっくり返せば神崎のこと簡単に押し倒せるし」
「速水さんにしかしないから大丈夫です」
……あ~こうしてると本当に癒される! 思い出してちょっと嫌な気分になってた出来事も一瞬でどっかに飛んで行っちゃった。
速水さんの体の上で完全に身を委ねて癒しを貪っていた私の頭に速水さんの片手が伸びてくる。
いつものように頭を撫でてもらえるのかなと思っていたら、その手は予想外の動きをした。
私の後頭部に沿えられて、そのままぐっと引き寄せられたのだ。
えっ?と目を瞬いた刹那、おでこにフニっと何か柔らかいものが触れるのを感じる。
それは速水さんの唇だった。
おでこから唇が離れた直後、驚いて速水さんを見れば彼は少しイタズラっぽく笑っている。
「速水さん……⁉︎」
「あまりにも神崎が隙だらけで油断していたから、ちょっとからかってみたくなって。嫌だった?」
「えっ、いえ、嫌ではないです」
全然嫌ではない、ただ驚いただけだ。
なにしろ今までのイチャイチャにキスは含まれていなかったから。
不意打ちのスキンシップだということもあって、唐突にとてつもなく照れが襲ってくる。
恥ずかしさで自分の顔が赤くなるのを感じた。
「……神崎?」
「お願いですから、ちょっと、今顔見ないでください……!」
赤くなるのを見られていると思うとそれもまた恥ずかしさに輪をかけ、ますます紅潮してしまい堂々巡りだ。
私は速水さんの胸に顔を押し付けるように下を向き、顔を隠した。
「意外な反応だな。自分から積極的にくっついてくるのに、これは照れるんだ?」
「不意打ちだったから驚いたんです!」
「恥ずかしがってる神崎も新鮮で可愛いけど?」
このタイミングで可愛いなんて言われたら嫌でもドキッとしてしまう。
……ダメダメ! 速水さんは上司であり、ただの割り切ったハフレ&ソフレ相手なんだから、必要以上に心を持って行かれたら破綻しちゃう!
お互いにとって人肌に癒されるだけの都合の良い関係であることが大切なのだ。
必死に心を鎮める私に対し、速水さんはなんだか楽しそうだ。
今度は自ら私の方へ顔を寄せてきて、頬にチュッと口づけを落とした。
「…………!!」
「今日からこれもイチャイチャに入れようか? 口にしなければスキンシップの範囲だろうし」
いつの間にかハフレとソフレにオプションが加わることになり、癒し以上の効力に私の心臓は激しく脈打つ。
モヤモヤや憂鬱さなんてすっかり吹き飛び、今や私の心を占めるのは速水さんによってもらたされるドキドキだけだった。
一度オフィスに戻り、システム不具合に関する対応がまとめてある資料だけを手に取って、私はその足で今度は美容外科クリニックに向かう。
会社から30分もかからないはずなので、約束通りの時間には到着できそうだ。
見込み通り5時25分には到着し受付で名乗ると、すぐに応接室へと案内された。
中津さんに同行して初めて来た時と同じ場所だ。
ソファーに掛けて待っていれば、ほどなくして倉林院長がパソコンを抱えながら中へ入って来て向かい側のソファーへ座った。
「神崎さん、遅くに悪いね。千葉から戻って来たばかりなんだよね?」
「大丈夫です。システムに不具合が発生していると業務に支障をきたすでしょうから。それではさっそく拝見させて頂けますか?」
テーブルの上にあるパソコンを受け取って画面を拝見しようと手を伸ばす。
すると、なぜかそのタイミングで倉林院長がパソコンを持って突然立ち上がった。
不思議に思ってポカンとしていると、そのまま倉林院長はこちらにやってきて、いきなり私と並ぶようにソファーの隣に腰掛けた。
……え? なんで?
「これが実際の画面でね、こんな感じで何度ログインしようとしても弾かれてしまって使えなくなってしまってるんだよ」
そう言って倉林院長はパソコンの画面を私へと向けて見せてくる。
横並びで一緒に画面を覗き込むような感じだ。
……ちょっと近い気もするけど、でもただ画面を見せようとしてるだけだよね……?
距離感に少々違和感を覚えながらも、ログインできないという画面を示されたら確認しないわけにもいかない。
私はマウスを操作して状況を確認する。
確かにログインしようとするとできない状態になっていた。
……でもこれってまた初歩的なヤツじゃないかな……?
一目見ただけで私にはこの状況に心当たりがあった。
使い方マニュアルの最初でも書き示しているような内容のことだ。
「あの、もしかして今5人以上が同時にこのシステムを使われていませんか? マニュアルでも載せております通り、こちらのシステムは同時に5人までしかログインできませんので、6人目以降の方がログインしようとするとこのように弾かれてしまうんです。確かシステム導入時に仕様検討した際、それほど同時に使うことはないからとこの人数に設定したと聞き及んでおります」
「ああ、そういえばそうだったね。そうか、人数の問題だったのか。いやぁ、僕としたことが。うっかりしてたなぁ」
「念のため、今ログインされている方の1人にログアウトして頂き、こちらのパソコンできちんとログインできるか確認して頂けますか?」
これは不具合ではないということを目の前で確認してもらうため依頼すると、倉林院長はどこかへ電話をかけてログアウトするよう指示を出した。
たぶん院内にいる他のスタッフに伝えたのだろう。
その電話から少しだけ時間を空けて、再び目の前のパソコンを操作しログインを試みてもらう。
システムの操作は倉林院長自らにしてもらっているのだが、横並びに座る真ん中あたりの位置にパソコンがあるため、身を寄せるようにしてきてさっきよりもさらに距離が近くなる。
パーソナルスペースに侵入される感じがして、どうにも居心地が悪い。
「えーっと、ログインはここのボタンをクリックして、IDとパスワードを入力して……と」
その時、つぶやきながらマウスを動かす倉林院長の肘が私の胸にあたった。
一瞬だったが弾力を確認するようにぐにっと押された気がした。
……えっ、これ、ワザと⁉︎ まさかこのために隣に座ったの⁉︎
ほんの一瞬の出来事だったので故意ではないかもしれないし、私の勘違いかもしれない。
でも一気に不信感が増してくる。
「あ、ログインできたね。やっぱり神崎さんの言う通りだった。人数のせいだったというのがよく分かったよ。いやぁ、助かった。神崎さんのおかげだよ」
倉林院長の態度に変化はなく、問題が解決したと喜んでいるようだった。
その様子からやはりただのハプニング的な接触だった可能性も捨てきれない。
痴漢のように故意に触られたという明確な証拠も根拠もなく、しかも相手は先輩の顧客であるため、私は何も言うことができずとりあえず平然を装い微笑むしかなかった。
ただたとえ気のせいだったとしても不信感や嫌悪感が芽吹いてしまい、一刻も早くこの場から離れたい衝動に駆られた。
「では、システムは大丈夫そうですので、私はこれで失礼いたします」
「神崎さん、忙しいところ本当にありがとう。そうだ、お礼に良かったらこの後食事でもどうかな? わざわざ来てもらったのに、こちらのミスだったのだから申し訳ない。ご馳走させてもらえると嬉しいのだけど」
「いえ、お気遣いなく」
「そう言わず、お詫びの意味も込めてぜひご馳走させて欲しいな」
「本当に大丈夫です。それに予定がありますので」
あくまでお詫びをしたいと食い下がるように誘われたが、失礼にならない程度に私はキッパリ断る。
薄手のコートを手に取って立ち上がり、「失礼します」と挨拶をして逃げ出すように素早く応接室をあとにした。
倉林院長が意図的に胸にあたったり、食事に誘ってきたのかは分からないが、少なくとも今回のことで私は苦手意識を感じてしまった。
できればあまり関わりたくない。
一方で先輩の大切な顧客であり、期待されて引き継ぎを進めているところだから、そうも言っていられない現実がある。
自分の気持ちと状況の狭間で悶々として、モヤモヤが胸の内に広がっていく。
そんな状態だったからだろう。
速水さんの家に着いて、玄関で迎え入れられるなり、私は靴も脱がずに速水さんの胸に飛び込んだ。
「……神崎?」
「ちょっとチャージさせてください」
速水さんの広い胸に顔を埋めてスリスリする。
やや困惑気味ながらも速水さんは何も言わずに腕を私の背に回して抱きしめ返してくれた。
服越しに感じる体温がささくれ立つ気持ちを宥めてくれるような気がする。
少し気分が落ち着いてくると、香辛料が効いたカレーのいい匂いが鼻を掠めた。
途端に空腹を感じてきて、ぐぅと小さくお腹が鳴ってしまう。
我ながらなんとも素直すぎる。
「神崎は腹の虫まで正直だな」
速水さんは笑いを噛み殺すように手で口を覆いくつくつと笑い出した。
体が触れているから笑っている振動が伝わってくる。
「だってすごくいい匂いがするので思わず……」
「もう出来てるから食べようか? 手洗ってきたら?」
「なんか来て早々くっつかせてもらって、その上、夜ゴハンまで用意してもらってて、すみません! 至れり尽くせりです」
「上げ膳据え膳じゃなく、食べた後は片付けるの手伝ってもらうけどね」
「全然、むしろそれくらいさせてください!」
抱きついていた体を離し、玄関先で靴を脱ぐと、リビングで一度荷物を置いた後に私は洗面所で手を洗わせてもらう。
その際、鏡で自分の顔を見れば、さっきまでの悶々とした感じは消えていて穏やかな表情に戻っていた。
さすがは即効性の高い速水さんのハグ効果である。
リビングに戻ると、ダイニングテーブルの上にはお皿に盛られたカレーがすでにセッティングされていた。
「「いただきます」」
二人でテーブルを囲み、速水さんの手作りカレーをさっそく味わう。
ごろごろしたジャガイモがたっぷり入っていて、隠し味にヨーグルトが加えられたカレーは辛味が抑えられマイルドな口当たりだ。
「美味しいです! このまろやかな味わいが癖になりますね」
「まだおかわりあるから」
「食べたいですけど1杯でお腹いっぱいになりそうです。残った分は明日カレーうどんやカレードリアにしてみませんか?」
「それもいいかもね」
美味しく一皿完食し終え、速水さんの分も含めて食器を持ってキッチンの流し台に持って行く。
食事を作ってもらったから、食器洗いは私がさせてもらうことにし、お皿や調理の時に使った道具を洗い始めた。
洗い物を済ませると、私たちは順番にシャワーを浴びて早々と寝支度を整え、それぞれ寝室へと移動する。
私が寝室に入った時には、先にシャワーを終えた速水さんがベッドの上で仰向けに寝転んでタブレットを操作しているところだった。
メガネ姿の速水さんが私の気配に気づき問いかけてくる。
「今日って何話からだっけ?」
「えーっと、確か12話だったはずです。前回主人公がゾンビに襲われかけて脱出したところで終わってました」
私は先週の記憶を遡って答えた。
何のことを話しているのかと言えば、私たちが毎週末家で過ごす時に一緒に観ている海外ドラマのことだ。
金曜の夜は早めに寝る準備をして、ベッドの上でのんびりしながら毎週数話ずつドラマ鑑賞するのがここ最近の定番になっている。
今観ているのは速水さんも私も好きなジャンルであるサバイバル系のドラマだ。
もちろん観る時はくっつかせてもらっているので、癒しのイチャイチャタイムでもある。
私がベッドの方へ近づいていくと、ドラマの再生の準備をしていた速水さんが、またふと思い出したように言葉を続けた。
「そういえば急遽訪問することになった顧客のシステム不具合は大丈夫だった?」
「え、ああ、そのことですね……」
ハグして美味しいカレーを食べて、すっかり記憶から葬っていた夕方の出来事が蘇ってくる。
途端にまたちょっと気分が重くなった。
質問されたので答えるしかないのだが、勘違いかもしれないことを明言するのは避け、私は事実だけをサラッと報告することにした。
「大丈夫でした。不具合というか先方の操作ミスだったので、改めてきちんと使い方を説明してきたという感じです」
「不具合じゃなくて良かったけど、ミスで呼び出されたのは災難だったな。お疲れ」
ちょうどベッドの上に乗り上げた私を、速水さんは労うように頭をポンポンと撫でてくれた。
……本当に速水さんはすごい。私が欲しいタイミングで優しくしてくれるから参っちゃうなぁ。
この手で頭を撫でられると気持ちが軽くなるから不思議だ。
人を眠くさせる魔法はなくても、癒しの魔法は使えるんじゃないだろうかと思わずにはいられない。
急にくっつきたい気持ちが押し寄せてきて、私はその感情のままに仰向けになっている速水さんの上に覆い被さってギュッとしがみついた。
いつもベッドの上でドラマ鑑賞する時はうつ伏せで横並びになって観ているため、体勢を変えようとしていた速水さんは私の予想外の行動に少し目を見張っている。
「……どうかした?」
「ちょっとどうしようもなくくっつきたい気分になっただけです」
そう言ってその体勢のまま顔だけ上げると、すぐ目の前には速水さんの顔があった。
あまりの近さにメガネのレンズに反射して自分の顔が写って見えそうだ。
「これじゃ、なんだか私が速水さんを襲ってるみたいですね」
「俺だからいいけど、こんなこと男にしたら普通は襲われ返すよ。この体勢でもひっくり返せば神崎のこと簡単に押し倒せるし」
「速水さんにしかしないから大丈夫です」
……あ~こうしてると本当に癒される! 思い出してちょっと嫌な気分になってた出来事も一瞬でどっかに飛んで行っちゃった。
速水さんの体の上で完全に身を委ねて癒しを貪っていた私の頭に速水さんの片手が伸びてくる。
いつものように頭を撫でてもらえるのかなと思っていたら、その手は予想外の動きをした。
私の後頭部に沿えられて、そのままぐっと引き寄せられたのだ。
えっ?と目を瞬いた刹那、おでこにフニっと何か柔らかいものが触れるのを感じる。
それは速水さんの唇だった。
おでこから唇が離れた直後、驚いて速水さんを見れば彼は少しイタズラっぽく笑っている。
「速水さん……⁉︎」
「あまりにも神崎が隙だらけで油断していたから、ちょっとからかってみたくなって。嫌だった?」
「えっ、いえ、嫌ではないです」
全然嫌ではない、ただ驚いただけだ。
なにしろ今までのイチャイチャにキスは含まれていなかったから。
不意打ちのスキンシップだということもあって、唐突にとてつもなく照れが襲ってくる。
恥ずかしさで自分の顔が赤くなるのを感じた。
「……神崎?」
「お願いですから、ちょっと、今顔見ないでください……!」
赤くなるのを見られていると思うとそれもまた恥ずかしさに輪をかけ、ますます紅潮してしまい堂々巡りだ。
私は速水さんの胸に顔を押し付けるように下を向き、顔を隠した。
「意外な反応だな。自分から積極的にくっついてくるのに、これは照れるんだ?」
「不意打ちだったから驚いたんです!」
「恥ずかしがってる神崎も新鮮で可愛いけど?」
このタイミングで可愛いなんて言われたら嫌でもドキッとしてしまう。
……ダメダメ! 速水さんは上司であり、ただの割り切ったハフレ&ソフレ相手なんだから、必要以上に心を持って行かれたら破綻しちゃう!
お互いにとって人肌に癒されるだけの都合の良い関係であることが大切なのだ。
必死に心を鎮める私に対し、速水さんはなんだか楽しそうだ。
今度は自ら私の方へ顔を寄せてきて、頬にチュッと口づけを落とした。
「…………!!」
「今日からこれもイチャイチャに入れようか? 口にしなければスキンシップの範囲だろうし」
いつの間にかハフレとソフレにオプションが加わることになり、癒し以上の効力に私の心臓は激しく脈打つ。
モヤモヤや憂鬱さなんてすっかり吹き飛び、今や私の心を占めるのは速水さんによってもらたされるドキドキだけだった。
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そんな切ない気持ちを抱えていた。
プロジェクトがはじまり、ひと月が過ぎた。
書店の仕事と〈リインカネーション〉の施術という二重生活に慣れてきた矢先、大問題が発生する。
突然、編集部に上層部から横やりが入り、優紀は「シンデレラ・プロジェクト」のモデルを下ろされることになった。
残念に思いながらも、やはり夢でしかなかったのだとあきらめる優紀だったが、そんなとき、玲伊から呼び出しを受けて……
恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~
泉南佳那
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元気いっぱい、はりきりガール花梨と
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