運命的に出会ったエリート弁護士に身も心も甘く深く堕とされました

美並ナナ

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#34. Start Over

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「……はじめましてって?」

春臣さんはやはりまずその言葉に引っ掛かりを覚えたようだ。

記憶が戻ったと聞いた直後だから余計にそう思うのだろう。

これは第一声にとあらかじめ決めておいた言葉だったから、私はその理由を明かす。

「手紙で綴っていたじゃないですか。……時間が巻き戻せるなら、普通に出会って、普通に好きになって、普通に恋人になりたかったって」

私は2年前に春臣さんが日本を発つ前に眞帆に預けていた手紙の一部を引用して口にした。

書いた本人である春臣さんにも心当たりがあったようでハッとした表情が窺える。

「残念ながら時間は巻き戻せません。それに私は運に委ねた偶然の出会いも待てません。だけど、普通に出会った時のように、最初から始め直すことはできると思うんです」

「香澄……」

私が言わんとすることを理解したのか春臣さんは表情を緩めた。

口元には小さな笑みが浮かんでいる。

緊張を孕んでいた空気が散り、月の光のゆったりした旋律のような心地良い空気が私たちを取り巻く。

私はカウンター越しにいるオーナーに、自分の分のホーセズネックも注文して、そのグラスを傾けながら春臣さんに問いかけた。


「はじめまして。私は香澄と言います。お名前を伺ってもいいですか?」

「久坂春臣。この近くにあるローファームで弁護士をしていて、今日はその仕事終わりだよ。……好きな曲はドビュッシーの月の光かな」

「私もその曲が大好きなんです。気が合いますね」

まるでこのバーで出会い意気投合した初対面の男女のように、私たちは名前を名乗り合う。

そして“運命”の言葉を持つカクテルのグラスを乾杯させた。


「香澄はサンフランシスコにはいつから?」

「実は一昨日着いたばかりです。だからこの辺りのことは全然知らなくて。良かったら、春臣さんのサンフランシスコでの生活を聞かせてくれませんか?」

そこから私たちは本当に初対面かのようにお互いについての質問をし合った。

どんな仕事をしているのか、休日は何をしているのか、何が好きで何が苦手なのか……そんなお互いを知る会話を重ねる。

私が今はYouTubeでピアノを披露していることを話すと春臣さんはとても驚いていたけど、「確かに香澄のピアノは披露しないともったいないからね」とすぐに納得して、さっそくスマートフォンを取り出しチャンネル登録をしてくれた。

そんなふうに交わされる会話は、私たちの本当の初対面の時のそれとは全く違うものだった。

あの時は、復讐のために私に近づいた春臣さんはたぶん話しながら私を探っていたし、私は私で婚約者がいたから春臣さんに興味を持つことはなくただ質問に答えていただけだ。

今はお互いへの興味と好意があり、相手のことを知りたい、自分のことを知って欲しいという気持ちが溢れる会話が繰り広げられている。

これがきっと本来の形なのだ。

今さらながら、私たちは2年の時を経て、ようやく普通のことをしていた。

ただ、もちろん私たちは本当の意味で初対面ではない。

おのずと会話は核心に迫る話になってくる。

「……記憶はいつ頃戻ったの?」

「あの事件があってから約2ヶ月後です。ある日突然すべての思い出が脳内に映像で流れ込んでくるような感じになったんです」

「そうなんだ。じゃあ記憶が戻ってもうずいぶん経つんだね……」

春臣さんは「良かった」と言うべきなのか分からないというような複雑そうな表情を浮かべた。

忘れていた方が幸せだったのではないかと春臣さんが考えているのが分かる。

私は誤解されたくなくて即座に言葉を重ねた。

「私は記憶が戻って嬉しかったです。春臣さんへの気持ちを思い出せて良かったって思っています。……本当はもっと早く春臣さんを追いかけてここへ来たかったんですよ?」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど……ここに来て良かったの? もう香澄は彼と結婚しただろう?」

「いいえ。結婚はしていません。私、記憶を思い出した後すぐに婚約を破棄して、東條家からは勘当されて家を出たんです」

「なっ………!」

春臣さんは驚愕に言葉詰まらせ、目を見開いた。

あまりにも予想外の言葉だったらしい。

「春臣さんが私に復讐のために意図的に近づいたことも手紙を読んできちんと理解しています。でも、それでも、私の春臣さんを好きだという気持ちは変わりませんでした。だから、そんな気持ちのまま結婚はできないと思ったんです」

私は婚約を破棄した経緯、父を脅して自分の望みを押し通したこと、そしてそれ以来東條家と縁を切っている事実を打ち明けた。

春臣さんは信じられないと瞠目し、聞かされた内容を咀嚼するのに精一杯で言葉が出てこないようだ。

「家を出た後はさすがに少々大変でした……。人と社会と関わることで色々学び、私も少しは強くなったと思っています。流されるのではなく自分で自分の人生を切り開けるようにもなれました。今ならそう自信を持って言える、そう思ったから春臣さんに会いに来たんです」

「香澄……」

「きっと春臣さんは自分さえ私に近づかなければあんなことなはならなかった、私を不幸にしてしまったって後悔していると思いました。だから幸せな私の姿を見せたかったんです」

私はなぜ会いに来たのが今なのかを続けて語った。

春臣さんは言葉一つ一つをすべて受け止めるように真剣に耳を澄ませてくれている。

そして私は今回一番伝えたかったことを届けるため、改めて春臣さんの目をまっすぐ見つめた。

「春臣さん、私、今の自分が好きです。春臣さんと出会う前よりも今の方がずっと幸せです。意図的なものであってもなんでも春臣さんと出会えて本当に良かったって心から思っています……!」

溢れ出してくる気持ちを全部乗せて、2年分の想いを込めて言葉にする。

それが伝わったのだろう。

春臣さんは心を打たれたようにわずかに身体を震わせた。

「私の気持ちは今も変わっていません。春臣さんが好きです。…………春臣さんはどうですか? 2年も経ってやっぱりもう変わってしまいましたか……?」

すべての想いを伝え切った私は、今度は反応を窺うように核心に迫った直球の質問を投げかける。

春臣さんは数々の衝撃の話に心を整理するように一度軽くまぶたを閉じると、私をまっすぐに見据えた。

「香澄とはもう二度と会えないと思っていたけど、忘れられなかったし、忘れたくなかったよ。だからここのバーに通って思い出に浸ってた。2年経っても俺も気持ちは変わってない」

「本当、ですか……?」

「本当だよ。今香澄が目の前にいることが信じられない奇跡だと思ってる。しかも俺のことを好きだと言ってくれるんだから、すべてが上手くいきすぎていてちょっと怖いくらいだ」

春臣さんは私の存在を確認するように、カウンターの上に乗せていた私の手に自身の手を重ねた。

触れた部分からは春臣さんの温もりがじんわりと伝わってきて、それだけで言いようのない満たされた気持ちが身体中を駆け巡る。

ずっとずっと待ち焦がれていた温もりに、私はなんだか胸が詰まって泣きそうになった。

「春臣さんには今恋人がいないと聞きました。……その、もし嫌でなければ、私ともう一度……ううん、私と新たに恋人として始めてくれませんか?」

「……俺なんかで香澄は本当にいいの?」

「春臣さんがいいんです。すべてを知った上で私は私の意思で春臣さんとずっと一緒にいたい、もう離れたくないって思っています……!」

そう、これは誰かに強制されたり、導かれたわけではない。

私が私を幸せにするために望んだことなのだ。

「香澄……。香澄は本当に強くなったね。しっかり自分を持ってる。その心の在り方が外見にも滲み出ていて、本当に綺麗になったなって思うよ。改めて惚れ直した気がする。……俺ももう離れたくない。隣で笑っていて欲しい。香澄、愛してるよ」

春臣さんはそう言って、触れていた私の手をギュッと強く握りしめた。  

 ……どうしよう。すごく嬉しい。すごく幸せ。

春臣さんの言葉にまるで花が咲き誇るような喜びが身体中を駆け巡り、私は目頭が熱くなる。

泣きそうな衝動が喉元からせり上がってくるが、店内で取り乱すわけにはいかない。

必死にそれを押し留め、代わりにカクテルグラスに手を伸ばして口の中に流し込んだ。


その時ふと春臣さんが腕時計に目を落とす。

それにつられて私も時計を確認すれば、時刻は22時過ぎになっていた。

月の光はとっくに終わっていて、今はドビュッシーの他の曲がゆるやかに流れている。

「……もう少し春臣さんと一緒にいたいです。できれば二人きりで。ダメですか……?」


仕草から何か春臣さんにこの後予定があるのかと思った私は、おずおずとそう望みを口にした。

もう誰かの存在を気にして気持ちを押し殺す必要はない。

だから私は今の率直な気持ちを言葉にし、座っていてもなお私より顔の位置が高い春臣さんを見上げた。


「……そんな台詞を男に言ったらどうなるか分かってる?」

「後にも先にも春臣さんにしか言いません。……それに春臣さんになら何をされてもいいです」


心の内をそのまま伝えると春臣さんは私から視線を逸らし、その場にスッと立ち上がった。

そして二人分の会計を済ませて私の手を引く。


「行こう」

「どこへですか?」

「俺の家」


プライベートに他人を踏み込ませたがらない春臣さんが、家に招いてくれることが嬉しくて胸がときめく。

バーを出ると外は夜の闇に覆われ、空にはまんまるな月が浮かび、辺りを照らしていた。

私は春臣さんの大きな手に包まれて安心感を覚えながら、月の光に導かれるようにサンフランシスコの街を彼と並んで歩き出した――。
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