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《SS》Side Kyogo
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カフェの個室を出て行く彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は「行かないでくれ」と呼び止めたい衝動を必死で抑えた。
もう心を決めてしまった彼女に自分が今更何を言おうとも無駄だということは分かっている。
それくらい今日の彼女の瞳には強い光が宿っていて一切の迷いがない。
お父上にも自ら立ち向かうつもりでいるらしく、並々ならぬ覚悟であることは、ものの数分で伝わってきた。
約2年婚約者として共に過ごしてきたが、こんな彼女の様子を見るのは初めてのことだ。
彼女をそうさせているのが久坂春臣の存在なのだと思うと、無性に悔しさが募る。
……もう一度最初からやり直したい。そうすれば今度こそ彼女を手放しはしないのに。
彼女との出会いは、今でも鮮明に思い出すことができる。
あれは彼女がまだ大学4年生の頃だ。
院内を歩いている時に、大学の後輩である東條誠司が若い女性と親しげに話している姿を見かけた。
その女性が視界に入った瞬間、自分でも信じられないくらい目が釘付けになった。
やけにその女性だけが輝いていて、周囲からくっきり浮いている。
心臓が大きく脈打ち、急いでいるのにどうしてもその女性から目が離せない。
こんな経験は初めてだったのだが、なぜか「ああ、これが俗に言う一目惚れというやつか」とピンときた。
その女性こそが東條香澄、彼女だ。
彼女のどこに惹かれたのか、正直それを具体的に言葉で表現するのは非常に難しい。
容姿はもちろんのこと、佇まいや雰囲気など彼女を構成するすべてに本能的に惹かれたというべきだろう。
その時すでに30歳を過ぎていた僕だったが、こんなにも女性に惹かれるのは初めてのことだった。
というのも、そもそも自分から女性を好きになったことなど今までなかったからだ。
幸運なことに後輩である東條誠司によって彼女が誰なのかはすぐ知ることができた。
驚いたことに彼女は医学界では知らぬ者がいない東條家本家の一人娘だった。
しかも東條家は大学卒業の頃合いに彼女を見合い結婚をさせるつもりでいるらしいと知った。
それも東條総合病院を婿として継げる医師を相手に考えていると聞いて、これはチャンスだと思った。
なにしろ自分はその条件に当てはまる。
だから、年の離れた名家の一人娘である彼女を手に入れるためには、見合い結婚として外堀から埋めて近づいた方がいいと判断した。
その戦略は功を奏し、彼女のお父上である東條先生には気に入られ、無事に婚約者のポジションを得ることができた。
お見合いの時に初めて彼女を目の前にして言葉を交わした時は、冷静なふりを取り繕いながらも内心は歓喜に湧いて騒がしいものだった。
冷静さを失って大人気ない姿を彼女には晒せない。
婚約者として交際するようになってからも、彼女が隣にいるだけで浮かれてしまうかっこ悪い自分が露呈しないよう、必死で冷静なふりを装った。
ただでさえ自分は彼女より9歳も年上だ。
大人の余裕を見せなければと思っていた。
だから心とは裏腹につい素っ気ない態度を取ってしまっていたが、それが自分の敗因だろう。
先程の会話で、彼女にはまるで自分の気持ちが伝わっていなかったことがよく分かった。
彼女は僕が政略結婚の相手として彼女を望んでいたとずっと思っていたのだ。
確かに「好きだ」「愛している」など具体的な言葉を口にしたことはない。
一方で、彼女と結婚するために会う時間も削って論文執筆に励み、僕は僕なりに努力をしてきたつもりだったから、それでいかに彼女と結婚したいと思っているかを行動で示しているつもりだった。
それに彼女が記憶を失う前に婚約破棄を申し出てした時も、彼女を責めずに聞かなかったことにしたのはひとえに彼女と結婚したいがためだ。
だが、そういった行動はすべてお父上の後継者になることが目的だと彼女は認識していたようだ。
彼女にかっこ悪い姿を見せまいとあまりにも自分を律しすぎて、僕は決定的に言葉が足りていなかったのだ。
しかも彼女は僕以前に男性との交際経験がない。
つまり彼女にとって男性との関わりは慣れぬことであり、行動で気持ちを察してくれというのは酷なことだったのだ。
もっと言葉で分かりやすく伝えるべきだったのだと今なら分かる。
……やり直せたら今度は上手くやれるはずだ。次こそ久坂春臣になんて彼女を渡さないのだが。
とはいえ、「次」はない。
小説や漫画のようにタイムスリップなんて起こるはずもなく、彼女を失った現実は続いていく。
果たして自分はこの現実を乗り越えられるだろうか。
この喪失感はしばらく拭えそうもない。
……いっそ彼女がお父上の説得に失敗すればいい。そうすれば僕はまだ婚約者でいられるはずだ。
未練がましくもそんなことを願ってしまう。
愛する人の失敗を願うなんて最低だとは分かっているが、どうしても願わずにはいられなかった。
もう心を決めてしまった彼女に自分が今更何を言おうとも無駄だということは分かっている。
それくらい今日の彼女の瞳には強い光が宿っていて一切の迷いがない。
お父上にも自ら立ち向かうつもりでいるらしく、並々ならぬ覚悟であることは、ものの数分で伝わってきた。
約2年婚約者として共に過ごしてきたが、こんな彼女の様子を見るのは初めてのことだ。
彼女をそうさせているのが久坂春臣の存在なのだと思うと、無性に悔しさが募る。
……もう一度最初からやり直したい。そうすれば今度こそ彼女を手放しはしないのに。
彼女との出会いは、今でも鮮明に思い出すことができる。
あれは彼女がまだ大学4年生の頃だ。
院内を歩いている時に、大学の後輩である東條誠司が若い女性と親しげに話している姿を見かけた。
その女性が視界に入った瞬間、自分でも信じられないくらい目が釘付けになった。
やけにその女性だけが輝いていて、周囲からくっきり浮いている。
心臓が大きく脈打ち、急いでいるのにどうしてもその女性から目が離せない。
こんな経験は初めてだったのだが、なぜか「ああ、これが俗に言う一目惚れというやつか」とピンときた。
その女性こそが東條香澄、彼女だ。
彼女のどこに惹かれたのか、正直それを具体的に言葉で表現するのは非常に難しい。
容姿はもちろんのこと、佇まいや雰囲気など彼女を構成するすべてに本能的に惹かれたというべきだろう。
その時すでに30歳を過ぎていた僕だったが、こんなにも女性に惹かれるのは初めてのことだった。
というのも、そもそも自分から女性を好きになったことなど今までなかったからだ。
幸運なことに後輩である東條誠司によって彼女が誰なのかはすぐ知ることができた。
驚いたことに彼女は医学界では知らぬ者がいない東條家本家の一人娘だった。
しかも東條家は大学卒業の頃合いに彼女を見合い結婚をさせるつもりでいるらしいと知った。
それも東條総合病院を婿として継げる医師を相手に考えていると聞いて、これはチャンスだと思った。
なにしろ自分はその条件に当てはまる。
だから、年の離れた名家の一人娘である彼女を手に入れるためには、見合い結婚として外堀から埋めて近づいた方がいいと判断した。
その戦略は功を奏し、彼女のお父上である東條先生には気に入られ、無事に婚約者のポジションを得ることができた。
お見合いの時に初めて彼女を目の前にして言葉を交わした時は、冷静なふりを取り繕いながらも内心は歓喜に湧いて騒がしいものだった。
冷静さを失って大人気ない姿を彼女には晒せない。
婚約者として交際するようになってからも、彼女が隣にいるだけで浮かれてしまうかっこ悪い自分が露呈しないよう、必死で冷静なふりを装った。
ただでさえ自分は彼女より9歳も年上だ。
大人の余裕を見せなければと思っていた。
だから心とは裏腹につい素っ気ない態度を取ってしまっていたが、それが自分の敗因だろう。
先程の会話で、彼女にはまるで自分の気持ちが伝わっていなかったことがよく分かった。
彼女は僕が政略結婚の相手として彼女を望んでいたとずっと思っていたのだ。
確かに「好きだ」「愛している」など具体的な言葉を口にしたことはない。
一方で、彼女と結婚するために会う時間も削って論文執筆に励み、僕は僕なりに努力をしてきたつもりだったから、それでいかに彼女と結婚したいと思っているかを行動で示しているつもりだった。
それに彼女が記憶を失う前に婚約破棄を申し出てした時も、彼女を責めずに聞かなかったことにしたのはひとえに彼女と結婚したいがためだ。
だが、そういった行動はすべてお父上の後継者になることが目的だと彼女は認識していたようだ。
彼女にかっこ悪い姿を見せまいとあまりにも自分を律しすぎて、僕は決定的に言葉が足りていなかったのだ。
しかも彼女は僕以前に男性との交際経験がない。
つまり彼女にとって男性との関わりは慣れぬことであり、行動で気持ちを察してくれというのは酷なことだったのだ。
もっと言葉で分かりやすく伝えるべきだったのだと今なら分かる。
……やり直せたら今度は上手くやれるはずだ。次こそ久坂春臣になんて彼女を渡さないのだが。
とはいえ、「次」はない。
小説や漫画のようにタイムスリップなんて起こるはずもなく、彼女を失った現実は続いていく。
果たして自分はこの現実を乗り越えられるだろうか。
この喪失感はしばらく拭えそうもない。
……いっそ彼女がお父上の説得に失敗すればいい。そうすれば僕はまだ婚約者でいられるはずだ。
未練がましくもそんなことを願ってしまう。
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