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#28. Flashback
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退院後の生活は、入院時以上に安穏とした日々だった。
身の回りのことは使用人さん達が助けてくれ不自由はなく、仕事もないので特にすることもない。
私が取り組んだことといえば、身体が鈍らないように定期的に歩くことと、結婚式の準備関連だけだった。
クリスマスや年末年始が過ぎ去っていき、気が付けばもう1月下旬。
病院へ入院した日から約2ヶ月が経っていた。
身体は順調に回復し、お腹に多少の傷痕が残ったことを除いてもう元通りだ。
一方、記憶の方は全く思い出す気配がなかった。
依然として大学卒業後から約2年程の記憶は失われたままだ。
だから恭吾さんを愛していたという記憶もない。
あれから恭吾さんは定期的に実家を訪ねてくれて、二人で食事に行ったり、映画に行ったり、初詣に行ったり、何度かデートを重ねた。
忙しい中時間を割いてくれているのが分かる。
だけど、残念ながら未だに以前のように彼に恋愛感情を抱けずにいた。
記憶をなくす前の私は恭吾さんのどこをどんなきっかけで好きになったのだろうか。
もちろん一緒に時を過ごす中で親しみは感じるようになったし、好感は持っている。
でもそれは好きという感情とは違うような気がしていた。
「香澄様、それでは私はマンションの駐車場で待機していますので、どうぞお気をつけて」
車の運転を務めてくれている使用人さんに声をかけられハッと意識を引き戻される。
窓から外を眺めると、立派な作りの低層マンションがすぐそこにあった。
どうやらここが私が一人暮らしをしていたマンションのようだ。
今日はマンションに置いてあると思われるピアノの楽譜を取りに来ていた。
退院してからマンションに足を踏み入れるのは初めてのことだ。
「ありがとう。行ってくるわね。それほど時間はかからないと思うから」
私は車を降り、マンションのエントランスから中へ入る。
コンシェルジュさんに挨拶をして、見慣れない建物内を歩き、自分の部屋だと聞いた部屋番号を探した。
……あ、ここね。
見つけた部屋の扉に持参した鍵を差し込めば、ガチャリと施錠が外れる。
つまり間違いなく、ここは私が以前住んでいた場所だということだ。
恐る恐る中に入ると、しばらく誰も足を踏み入れていなかったためか独特の静けさが漂う。
リビング、キッチン、寝室……と一つ一つ部屋を見て回った。
ここに住んでいた記憶がないから、まるで他人の家を物色している気分だ。
そして次にドアを開けた部屋に、ようやく大きなグランドピアノが置かれているのを発見した。
おそらくここがピアノ教室にしていた場所なのだろう。
私が探している楽譜もきっとここにあるはずだ。
視線を彷徨わせれば、部屋の中に収納ラックがあることに気が付いた。
収納ラックにはブックスタンドに立て掛けるようにして多数の楽譜が並んでいる。
……えーっと、音大の時によく使っていたあの楽譜はどこかな?
書き込みをたくさん入れた思い入れのある楽譜を手に取って探していく。
少し年季の入ったそれは他より目立っていて、割とすぐに見つけることができた。
お目当ての楽譜だけ抱えて部屋を出ようかと思ったところで、その収納ラックにいくつかの小物もディスプレイされていることに気がつく。
国の名前や地域の名前が記載されたものが多く、お土産品であることが窺えた。
……生徒さんから貰ったものなのかな? 私、ここで本当にピアノを教えていたんだ。
生徒さんとの関係が垣間見れ、抜け落ちた記憶の中にある自分の軌跡を僅かながらに感じる。
それがなんだかとても嬉しい。
喜びを感じた私は今度はそのお土産品の小物に一つ一つ目を通していく。
するとその中の一つに、イルカのオブジェが水晶玉の中に入ったスノードームを見つけた。
……わぁ、可愛い。どこかの水族館に行った時のお土産かな?
なにげなく手に取ると、スノードームにはオルゴールが備え付けられているようだった。
どんな曲かな?と思い、巻ネジを巻いて音を鳴らしてみる。
――♪♬~♪♬♪♬~♪♬
奏でられた曲は私の好きなドビュッシーの月の光だった。
そしてその瞬間――私に異変が起きた。
音楽とともに、突然私の頭の中に映像のようなものが次々流れ込んできたのだ。
――男性と満面の笑みを浮かべて水族館を楽しむ私。
――サプライズでこのスノードームをプレゼントされて喜ぶ私。
そんなスノードームに紐づく思い出から始まり、記憶はどんどん他にも溢れ出してくる。
――私の家庭環境を聞いて心の寂しさごと包み込むように抱きしめてくれた彼。
――一緒に料理を作って笑い合った彼。
――好きだという気持ちを心と身体で伝えてくれた彼。
――意地悪な言葉を投げかけながら何も考えられないくらい私を甘く乱れさせてくれる彼。
彼の声や眼差し、話し方、彼の腕の中にいる時の心地良さ、身体を重ねた時の満たされた気持ち……五感で感じた記憶が鮮明に蘇ってくる。
「春臣さん……」
彼の名前が口からこぼれ落ちた時には、失われていた記憶のすべてを私は思い出していた。
知らず知らずのうちに顔は涙でぐっしょりと濡れていた。
……退院の前日に来てくれたのは春臣さんだったんだ。
あの日、眠っている私に話しかけ去って行った男性が春臣さんだったと今なら分かる。
低く落ち着いた声が好きだなと思ったのは、きっと私の潜在意識が呼びかけていたのだ。
……でもなんで眠っている時に?
そう疑問に感じると同時に、春臣さんと最後に交わした会話の内容が脳裏に浮かんだ。
そう、春臣さんが意図的に近づいた事実を知り、すべてが嘘だったのかと私は彼を信じられなくなっていたのだ。
そして会ってきちんと説明したいという春臣さんとの待ち合わせ場所に行く途中で私は……。
……通り魔なんかじゃない。私を刺したのは春臣さんが同僚だと言っていた女性だ。
これらの事実を踏まえると、春臣さんは私に合わす顔がなかったのかもしれない。
だからあえて眠っている時に会いに来たのだろうか。
私はおもむろに鞄の中からスマートフォンを取り出す。
そして連絡先の中に春臣さんを探した。
だが、春臣さんの連絡先は見当たらなかった。
このスマートフォンは退院後に恭吾さんと一緒に買いに行ったものだ。
電話番号は変わったが、破損した以前のスマートフォンに入っていたデータは引継ぎされているはずだったから、春臣さんの連絡先が消えているのは不自然に感じる。
ワザと消したとしか思えない。
そもそも破損というのも本当かあやしい。
……もしかして恭吾さんが……?
春臣さんについて調べていた恭吾さんが、彼に良い印象を抱いていないのは確かだ。
だから私から遠ざけようとしたのだろうか。
……それになぜ私が恭吾さんを愛していたなんて嘘を……?
イルミネーションを見に行った日に恭吾さんが話してくれたことが事実ではないことが今なら分かる。
私たちの関係はあくまでも政略結婚上の相手であったし、最後は私から婚約の破棄を打診していたというのに。
失われていた記憶を取り戻したものの、今度は新たな疑問が次々に湧いてくる。
……まずはやっぱり春臣さんと一度話したい。春臣さんの言葉でちゃんとすべてを聞かせて欲しい……!
春臣さんの連絡先が分からなくなった今、会おうと思えば彼のマンションに行くしかない。
私は涙を拭って素早く立ち上がると、楽譜とスノードームを手に駐車場へ向かう。
使用人さんに一人で行きたいところができたからタクシーで移動すると伝えて帰ってもらい、自身は手配したタクシーに飛び乗った。
記憶を思い出した今、何度か訪れた春臣さんのマンションに辿り着くのは簡単だった。
マンションに着き、さっそくインターフォンを鳴らすも応答はない。
ただ不在であるだけなら良いが、なんだか私は嫌な予感がした。
もう彼はここにはいない、そんな気がしてならない。
それから数日、何度か訪れてみたけれどやっぱり全く応答はなかった。
そこで私は次なる手段としてある人物を訪れることにしたのだった。
◇◇◇
「ごめんね、急に。週末だからきっと彼氏さんと会う約束もあったよね?」
「大丈夫大丈夫! 今週末は彼も友達とどこか行くみたいだから。ちょうど良かった感じだよ。それにしても急に会いたいってどうしたの?」
「うん。どうしても眞帆に聞きたいことがあって……」
この日、私は真帆の家を訪ねていた。
一人暮らし用の1Kの部屋で、カーペットの上に腰を下ろし、テーブル越しに向かい合う。
私は前置きもそこそこに、さっそく本題を切り出した。
「……久坂春臣さんを知ってる?」
「……!!」
私の言葉に眞帆は驚いたように大きく目を見開く。
その反応から「ああ、知っているのだな」と私は感じ取った。
「香澄、記憶が戻ったの……?」
「うん。まだ誰にも言ってない。でも全部思い出したの」
「そう。それで何で私がその人を知ってると思ったの?」
「私が退院する前日、眠っている間に来てくれたみたいなの。眠る私に話しかけていて、ぼんやりしていたからあまり聞き取れなかったんだけど、その時“西織さん”って眞帆の名前を口にしてて。だから眞帆と面識があるかもと思ったの。……さっきの反応見て確信した。眞帆、春臣さんのこと知ってるんだよね?」
「……うん、知ってる。久坂先生のことも、香澄を刺したゆかりさんのことも」
そこから眞帆は自分が知っていることを教えてくれた。
春臣さんとあの女性と眞帆は同じ法律事務所に勤めている同僚だったそうだ。
あの女性――佐々木ゆかりさんは春臣さんを担当している専任パラリーガルだという。
春臣さんと佐々木さんは幼なじみだったが、長年会っていなかったそうで、春臣さんが今からちょうど1年前に帰国して法律事務所に転職して来た時に運命的に再会を果たしたらしい。
「じゃあ、前に眞帆が話していた運命の人に再会したっていう同僚の女性って……?」
「そう、ゆかりさんのこと。事情によって離ればなれになったけどずっと久坂先生のこと好きだったんだって。私もちょうど今の彼と出会ってガンガンにアプローチしてた頃で、お互い頑張ろって励まし合ってたんだよね……」
「そう、だったんだ……」
まさか友人である眞帆が、春臣さんとも、そして佐々木さんとも知り合いだとは思ってもみなかった。
……ううん、違う。私が春臣さんに一度でも勤務先を尋ねていれば分かったはずだ。もっと早く気が付けていたのかもしれない。
そう考えると、私は春臣さんのことを実はよく知らないという事実に思い当たる。
春臣さんの生い立ちや住んでいる場所などを知ったのもごく最近だ。
勤務先はおろか、彼の仕事内容や交友関係、休日の過ごし方、よく行くところなど、全然思いつかない。
……私、春臣さんのこと何も知らないんだ。
自分の視野の狭さが嫌になる。
ただ流されるがままに目の前のことしか見ていなかった。
もちろん春臣さんの場合、目的があって私に近づいたというのだから、意図的に隠していた可能性も否めない。
……やっぱりすべて嘘だったの? 私が知っている春臣さんは虚像……?
心臓を鷲掴みにされたように胸が苦しくなる。
やっぱり春臣さんの口から直接どう思っていたのか聞かせて欲しいと強く思った。
「眞帆、私どうしても春臣さんに会いたい。会って聞かなければいけないことがあるの。でもマンションに行っても会えなくて……。法律事務所に訪ねれば会える……?」
「……残念だけどそれは難しいと思うよ」
「えっ?」
「久坂先生、もう日本にはいないから」
「…………!」
眞帆の口から飛び出した言葉に息が詰まるほど驚く。
みぞおちを打たれたように声も立てられない。
……どういうこと? もう日本にいない……?
頭が言葉を咀嚼しようとするが、上手く飲み込むことができなくて混乱する。
すると、眞帆はその場を立ち上がり、キャビネットの引き出しの中から何かを手に取りこちらへ戻ってきた。
そしてそれをスッと私へ差し出す。
「これは……?」
「久坂先生から香澄に宛てた手紙。もし香澄の記憶が戻ったら渡して欲しいって頼まれてたの。今がその時かなって。もちろん中は見てないよ」
手渡されたのは飾り気のないシンプルな白色の封筒だった。
春臣さんが残した手紙なのだと思うと、緊張して手が震える。
封筒をゆっくり丁寧に開け、中身を取り出すと、2枚の便箋が入っていた。
便箋には万年筆で書かれたと分かる滑らかな文字が綴られている。
私はそっとその文字に触れ、春臣さんの存在を感じ取りながら手紙の内容に目を通し始めた――。
身の回りのことは使用人さん達が助けてくれ不自由はなく、仕事もないので特にすることもない。
私が取り組んだことといえば、身体が鈍らないように定期的に歩くことと、結婚式の準備関連だけだった。
クリスマスや年末年始が過ぎ去っていき、気が付けばもう1月下旬。
病院へ入院した日から約2ヶ月が経っていた。
身体は順調に回復し、お腹に多少の傷痕が残ったことを除いてもう元通りだ。
一方、記憶の方は全く思い出す気配がなかった。
依然として大学卒業後から約2年程の記憶は失われたままだ。
だから恭吾さんを愛していたという記憶もない。
あれから恭吾さんは定期的に実家を訪ねてくれて、二人で食事に行ったり、映画に行ったり、初詣に行ったり、何度かデートを重ねた。
忙しい中時間を割いてくれているのが分かる。
だけど、残念ながら未だに以前のように彼に恋愛感情を抱けずにいた。
記憶をなくす前の私は恭吾さんのどこをどんなきっかけで好きになったのだろうか。
もちろん一緒に時を過ごす中で親しみは感じるようになったし、好感は持っている。
でもそれは好きという感情とは違うような気がしていた。
「香澄様、それでは私はマンションの駐車場で待機していますので、どうぞお気をつけて」
車の運転を務めてくれている使用人さんに声をかけられハッと意識を引き戻される。
窓から外を眺めると、立派な作りの低層マンションがすぐそこにあった。
どうやらここが私が一人暮らしをしていたマンションのようだ。
今日はマンションに置いてあると思われるピアノの楽譜を取りに来ていた。
退院してからマンションに足を踏み入れるのは初めてのことだ。
「ありがとう。行ってくるわね。それほど時間はかからないと思うから」
私は車を降り、マンションのエントランスから中へ入る。
コンシェルジュさんに挨拶をして、見慣れない建物内を歩き、自分の部屋だと聞いた部屋番号を探した。
……あ、ここね。
見つけた部屋の扉に持参した鍵を差し込めば、ガチャリと施錠が外れる。
つまり間違いなく、ここは私が以前住んでいた場所だということだ。
恐る恐る中に入ると、しばらく誰も足を踏み入れていなかったためか独特の静けさが漂う。
リビング、キッチン、寝室……と一つ一つ部屋を見て回った。
ここに住んでいた記憶がないから、まるで他人の家を物色している気分だ。
そして次にドアを開けた部屋に、ようやく大きなグランドピアノが置かれているのを発見した。
おそらくここがピアノ教室にしていた場所なのだろう。
私が探している楽譜もきっとここにあるはずだ。
視線を彷徨わせれば、部屋の中に収納ラックがあることに気が付いた。
収納ラックにはブックスタンドに立て掛けるようにして多数の楽譜が並んでいる。
……えーっと、音大の時によく使っていたあの楽譜はどこかな?
書き込みをたくさん入れた思い入れのある楽譜を手に取って探していく。
少し年季の入ったそれは他より目立っていて、割とすぐに見つけることができた。
お目当ての楽譜だけ抱えて部屋を出ようかと思ったところで、その収納ラックにいくつかの小物もディスプレイされていることに気がつく。
国の名前や地域の名前が記載されたものが多く、お土産品であることが窺えた。
……生徒さんから貰ったものなのかな? 私、ここで本当にピアノを教えていたんだ。
生徒さんとの関係が垣間見れ、抜け落ちた記憶の中にある自分の軌跡を僅かながらに感じる。
それがなんだかとても嬉しい。
喜びを感じた私は今度はそのお土産品の小物に一つ一つ目を通していく。
するとその中の一つに、イルカのオブジェが水晶玉の中に入ったスノードームを見つけた。
……わぁ、可愛い。どこかの水族館に行った時のお土産かな?
なにげなく手に取ると、スノードームにはオルゴールが備え付けられているようだった。
どんな曲かな?と思い、巻ネジを巻いて音を鳴らしてみる。
――♪♬~♪♬♪♬~♪♬
奏でられた曲は私の好きなドビュッシーの月の光だった。
そしてその瞬間――私に異変が起きた。
音楽とともに、突然私の頭の中に映像のようなものが次々流れ込んできたのだ。
――男性と満面の笑みを浮かべて水族館を楽しむ私。
――サプライズでこのスノードームをプレゼントされて喜ぶ私。
そんなスノードームに紐づく思い出から始まり、記憶はどんどん他にも溢れ出してくる。
――私の家庭環境を聞いて心の寂しさごと包み込むように抱きしめてくれた彼。
――一緒に料理を作って笑い合った彼。
――好きだという気持ちを心と身体で伝えてくれた彼。
――意地悪な言葉を投げかけながら何も考えられないくらい私を甘く乱れさせてくれる彼。
彼の声や眼差し、話し方、彼の腕の中にいる時の心地良さ、身体を重ねた時の満たされた気持ち……五感で感じた記憶が鮮明に蘇ってくる。
「春臣さん……」
彼の名前が口からこぼれ落ちた時には、失われていた記憶のすべてを私は思い出していた。
知らず知らずのうちに顔は涙でぐっしょりと濡れていた。
……退院の前日に来てくれたのは春臣さんだったんだ。
あの日、眠っている私に話しかけ去って行った男性が春臣さんだったと今なら分かる。
低く落ち着いた声が好きだなと思ったのは、きっと私の潜在意識が呼びかけていたのだ。
……でもなんで眠っている時に?
そう疑問に感じると同時に、春臣さんと最後に交わした会話の内容が脳裏に浮かんだ。
そう、春臣さんが意図的に近づいた事実を知り、すべてが嘘だったのかと私は彼を信じられなくなっていたのだ。
そして会ってきちんと説明したいという春臣さんとの待ち合わせ場所に行く途中で私は……。
……通り魔なんかじゃない。私を刺したのは春臣さんが同僚だと言っていた女性だ。
これらの事実を踏まえると、春臣さんは私に合わす顔がなかったのかもしれない。
だからあえて眠っている時に会いに来たのだろうか。
私はおもむろに鞄の中からスマートフォンを取り出す。
そして連絡先の中に春臣さんを探した。
だが、春臣さんの連絡先は見当たらなかった。
このスマートフォンは退院後に恭吾さんと一緒に買いに行ったものだ。
電話番号は変わったが、破損した以前のスマートフォンに入っていたデータは引継ぎされているはずだったから、春臣さんの連絡先が消えているのは不自然に感じる。
ワザと消したとしか思えない。
そもそも破損というのも本当かあやしい。
……もしかして恭吾さんが……?
春臣さんについて調べていた恭吾さんが、彼に良い印象を抱いていないのは確かだ。
だから私から遠ざけようとしたのだろうか。
……それになぜ私が恭吾さんを愛していたなんて嘘を……?
イルミネーションを見に行った日に恭吾さんが話してくれたことが事実ではないことが今なら分かる。
私たちの関係はあくまでも政略結婚上の相手であったし、最後は私から婚約の破棄を打診していたというのに。
失われていた記憶を取り戻したものの、今度は新たな疑問が次々に湧いてくる。
……まずはやっぱり春臣さんと一度話したい。春臣さんの言葉でちゃんとすべてを聞かせて欲しい……!
春臣さんの連絡先が分からなくなった今、会おうと思えば彼のマンションに行くしかない。
私は涙を拭って素早く立ち上がると、楽譜とスノードームを手に駐車場へ向かう。
使用人さんに一人で行きたいところができたからタクシーで移動すると伝えて帰ってもらい、自身は手配したタクシーに飛び乗った。
記憶を思い出した今、何度か訪れた春臣さんのマンションに辿り着くのは簡単だった。
マンションに着き、さっそくインターフォンを鳴らすも応答はない。
ただ不在であるだけなら良いが、なんだか私は嫌な予感がした。
もう彼はここにはいない、そんな気がしてならない。
それから数日、何度か訪れてみたけれどやっぱり全く応答はなかった。
そこで私は次なる手段としてある人物を訪れることにしたのだった。
◇◇◇
「ごめんね、急に。週末だからきっと彼氏さんと会う約束もあったよね?」
「大丈夫大丈夫! 今週末は彼も友達とどこか行くみたいだから。ちょうど良かった感じだよ。それにしても急に会いたいってどうしたの?」
「うん。どうしても眞帆に聞きたいことがあって……」
この日、私は真帆の家を訪ねていた。
一人暮らし用の1Kの部屋で、カーペットの上に腰を下ろし、テーブル越しに向かい合う。
私は前置きもそこそこに、さっそく本題を切り出した。
「……久坂春臣さんを知ってる?」
「……!!」
私の言葉に眞帆は驚いたように大きく目を見開く。
その反応から「ああ、知っているのだな」と私は感じ取った。
「香澄、記憶が戻ったの……?」
「うん。まだ誰にも言ってない。でも全部思い出したの」
「そう。それで何で私がその人を知ってると思ったの?」
「私が退院する前日、眠っている間に来てくれたみたいなの。眠る私に話しかけていて、ぼんやりしていたからあまり聞き取れなかったんだけど、その時“西織さん”って眞帆の名前を口にしてて。だから眞帆と面識があるかもと思ったの。……さっきの反応見て確信した。眞帆、春臣さんのこと知ってるんだよね?」
「……うん、知ってる。久坂先生のことも、香澄を刺したゆかりさんのことも」
そこから眞帆は自分が知っていることを教えてくれた。
春臣さんとあの女性と眞帆は同じ法律事務所に勤めている同僚だったそうだ。
あの女性――佐々木ゆかりさんは春臣さんを担当している専任パラリーガルだという。
春臣さんと佐々木さんは幼なじみだったが、長年会っていなかったそうで、春臣さんが今からちょうど1年前に帰国して法律事務所に転職して来た時に運命的に再会を果たしたらしい。
「じゃあ、前に眞帆が話していた運命の人に再会したっていう同僚の女性って……?」
「そう、ゆかりさんのこと。事情によって離ればなれになったけどずっと久坂先生のこと好きだったんだって。私もちょうど今の彼と出会ってガンガンにアプローチしてた頃で、お互い頑張ろって励まし合ってたんだよね……」
「そう、だったんだ……」
まさか友人である眞帆が、春臣さんとも、そして佐々木さんとも知り合いだとは思ってもみなかった。
……ううん、違う。私が春臣さんに一度でも勤務先を尋ねていれば分かったはずだ。もっと早く気が付けていたのかもしれない。
そう考えると、私は春臣さんのことを実はよく知らないという事実に思い当たる。
春臣さんの生い立ちや住んでいる場所などを知ったのもごく最近だ。
勤務先はおろか、彼の仕事内容や交友関係、休日の過ごし方、よく行くところなど、全然思いつかない。
……私、春臣さんのこと何も知らないんだ。
自分の視野の狭さが嫌になる。
ただ流されるがままに目の前のことしか見ていなかった。
もちろん春臣さんの場合、目的があって私に近づいたというのだから、意図的に隠していた可能性も否めない。
……やっぱりすべて嘘だったの? 私が知っている春臣さんは虚像……?
心臓を鷲掴みにされたように胸が苦しくなる。
やっぱり春臣さんの口から直接どう思っていたのか聞かせて欲しいと強く思った。
「眞帆、私どうしても春臣さんに会いたい。会って聞かなければいけないことがあるの。でもマンションに行っても会えなくて……。法律事務所に訪ねれば会える……?」
「……残念だけどそれは難しいと思うよ」
「えっ?」
「久坂先生、もう日本にはいないから」
「…………!」
眞帆の口から飛び出した言葉に息が詰まるほど驚く。
みぞおちを打たれたように声も立てられない。
……どういうこと? もう日本にいない……?
頭が言葉を咀嚼しようとするが、上手く飲み込むことができなくて混乱する。
すると、眞帆はその場を立ち上がり、キャビネットの引き出しの中から何かを手に取りこちらへ戻ってきた。
そしてそれをスッと私へ差し出す。
「これは……?」
「久坂先生から香澄に宛てた手紙。もし香澄の記憶が戻ったら渡して欲しいって頼まれてたの。今がその時かなって。もちろん中は見てないよ」
手渡されたのは飾り気のないシンプルな白色の封筒だった。
春臣さんが残した手紙なのだと思うと、緊張して手が震える。
封筒をゆっくり丁寧に開け、中身を取り出すと、2枚の便箋が入っていた。
便箋には万年筆で書かれたと分かる滑らかな文字が綴られている。
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