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#25. Awakening
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「東條さん、点滴変えますからね~! 今日はとっても良い天気ですよ~!」
聞き慣れない朗らかな明るい声が耳に飛び込んできて、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。
目に飛び込んできたのは、全体的に白い空間で、明らかに私の部屋ではなかった。
どうやら私はベッドの上で寝かされているようだ。
……ここはどこだろう……?
きごちなく首を動かしたところで、ベッドのすぐ横に一人の女性が立っているのが分かった。
先程のあの声はこの女性だろう。
そう思っているとその女性と目が合い、女性は驚いたように目を見開く。
「東條さん……! 良かった! 気が付かれたんですね! すぐに先生を呼んできますからね!」
そして慌てたように小走りで部屋の外へ出て行ってしまった。
しばらくすると、慌ただしげな数人の足音が聞こえてくる。
その足音がこちらへ向かっているようだと思った刹那、部屋の扉が開けられた。
「香澄!」
口々に私の名前を呼ぶ人々が中へ入ってくる。
「お父様、お母様、おじい様……」
まず最初に私の側に近寄ってきたのは私服姿の父と母、そして白衣を着た祖父だった。
家族が勢揃いしている珍しい状況にやや頭が混乱する。
一体何事だろうかと緊張が走った。
「ああ、本当に良かった……! 私の可愛い娘が無事に目を覚まして」
「ええ、本当ですわ。わたくし達の愛娘がこのまま目を覚さないのではと心配で堪りませんでしたもの。ホッといたしましたわ」
父と母が盛大に仮面夫婦を演じていて、私のことをこれでもかと言わんばかりに二人して愛しそうな眼差しを向けてくる。
状況がよく分からないものの、他に人がいるから外向けの顔を作っているのだと察した私もとりあえず微笑みを浮かべた。
寝転んだままでいるのは無作法だと思った私は身体を起こそうと身じろぎする。
だが、そこで腹部の辺りに鋭い痛みが走った。
「……っ!」
あまりの痛さに声にならない声が漏れ、思わず顔を顰めてしまう。
「まだ起き上がらない方がいい。しばらく安静が必要だからな」
「ここは、どこなんでしょうか……? 自宅ではないようなんですけど……?」
知らない場所と謎の痛みに、私は疑問が募り、恐る恐るそう問いかけた。
それに答えてくれたのは父だった。
「東都大学病院だ。お前は刺されてここへ救急搬送されて来たんだ。緊急手術が行われて、一命を取り留めた。術後の経過は良好だからもう安心していい」
「さ、刺された……⁉︎」
父の口から飛び出した驚きの言葉に私は目を丸くする。
ではこの腹部の痛みはその傷口ということなのだろう。
……それにしても刺されたなんて。そんな物騒なことが私の身に起こったの……?
記憶を探るも全く心当たりがない。
父はこんな嘘は吐かないと思うのにおかしいなと内心首を傾げた。
「ほら、香澄。彼らも来てくれている。ずっとお前を心配してくれていたのだ。礼を言いなさい」
そう言って父が後ろを振り返る。
そこには白衣を着た二人の男性が立っていた。
父、母、祖父の後ろに控えて、家族のやりとりを邪魔しないよう遠巻きに眺めている。
二人のうち一人は私もよく知る人物だ。
「誠司くん」
私が呼びかけると、従兄弟の誠司くんは笑顔を浮かべる。
「香澄がうちの病院に運び込まれて来たって聞いた時は本当に驚いたよ。ともかく無事で良かった」
「心配かけたみたいでごめんね。ありがとう」
「俺のことはいいよ。それよりもっと心配をかけた人がいるでしょ? 恭吾先輩はこの2日、忙しい中可能な限り香澄に付き添ってたんだからね」
そう言って誠司くんは隣の男性に目を向けた。
メガネをかけた知的な顔立ちの男性だ。
恭吾先輩と呼ばれたその男性に私も視線を向けるが、全く記憶にない。
初めて会う男性だと思う。
「えっと……主治医の先生でしょうか……? はじめまして、東條香澄と申します。お世話になったようでありがとうございます」
誠司くんの言葉を不思議に思いながら、どうやら相当お世話になったらしいと判断した私はその男性にペコリと頭を下げた。
その瞬間、全員がぎょっとし、場の空気が凍りつく。
「……香澄、恭吾先輩のこと分からないの……?」
「……? 初対面だと思うけど?」
誠司くんからの問いかけにそう返すと、今度はその場にいた母以外の男性達がヒソヒソと何やら話し出す。
その結果、しばらくして心療内科の医師だという人がやって来て、私にあれこれと質問をし出した。
訳がわからないまま、それに次々答えていく。
そしてその医師は男性陣4人とヒソヒソ話をすると、部屋から去って行った。
その後に父が真剣な面持ちの医者の顔になって私に告げる。
「香澄、落ち着いて聞きなさい。どうやらお前は解離性健忘を発症しているようだ」
「解離性健忘、ですか……?」
聞き慣れない単語に私の頭に疑問符が浮かぶ。
その反応は予期していたようで、父は「そうだ」と一言肯定すると話を続けた。
「いわゆる記憶喪失というやつだ。香澄の場合、一定期間の出来事が思い出せなくなる局所性健忘だと思われる。自分自身のことや私たち家族のこと、生活に関わることなどは覚えているようだから大きな支障はないだろう。安心しなさい」
……私が記憶喪失……? じゃあ刺されたことを覚えていないのも、恭吾先輩と呼ばれる男性を初対面だと思うのも、そのせい……?
自分の中にぽっかりと空白ができたような不安を感じ、私は顔色を失った。
安心しなさいとは言われたものの、言葉では言い表せない感情が胸の内で渦巻く。
「香澄、大丈夫だよ! 清隆伯父さんが言うように生活に大きな支障はないだろうし、解離性健忘は時間の経過とともに記憶が戻るケースがほとんどだから! あまり思い詰めずにリラックスした方がいい」
そんな私の心の内を察したのか誠司くんが明るい声を出して私を励ましてくれた。
記憶が戻るケースがほとんどだと聞いて、少しホッとする。
「どのくらいの記憶がないんでしょうか……?」
「定かではないが、ここ2年くらいの記憶のようだな。香澄が大学を卒業して以降ということだ」
「大学を卒業してからの記憶……」
そう言われて記憶を辿ろうとしてみるが、恐ろしいことに全く思い出せなかった。
大学生の頃の記憶はすぐに思い浮かぶのに、最近の記憶が抜け落ちている。
「生活に大きな支障がないとはいえ、困ることもあるだろう。だから私たちが知る範囲で、お前が知っておいた方がいいことを話そうと思う」
そして父の口からまず語られたのは、私の今の暮らしだった。
大学を卒業後、私は都内のマンションで一人暮らしを始めたという。
そこでピアノ教室を営んでいるらしい。
自分が実家を出ている事実に少し驚くとともに、今でもピアノを続けていることを嬉しく思った。
「それと大学卒業後すぐにお見合いをして、お前は婚約が決まっていた。1年以上の交際を重ね、今は結婚準備を進めている。来年の4月には式を挙げる予定だ」
「えっ、結婚、ですか……?」
異性とお付き合いしたこともないのに、いきなり結婚という言葉が飛び出して私は目を瞬く。
でも父の話によると、交際期間は1年以上に及ぶようだから、特にいきなりというわけではないのだろう。
ただ私にその実感がないだけだ。
「その婚約者というのが彼だ。片桐恭吾くんと言って、この東都大学病院に勤める優秀な外科医だ」
改めてそう紹介されたのは、先程主治医だと勘違いした男性だった。
どうりであの時周囲が驚いて場が凍りついたわけだ。
私は自分の婚約者を覚えていなかったのだ。
「その、大変申し訳ありませんでした。婚約者なのに、先程は主治医だと口走ってしまって……」
「いや、君が気に病む必要はない。記憶を失っていたのだから仕方がないことだ」
私が謝ると、婚約者の男性は知的な外見通りのクールな口調でそう答えた。
記憶にないが、周囲からの情報によると私は彼のことを「恭吾さん」と呼んで仲良くしていたらしい。
……私はこの人のことを愛していたのかな?
記憶を失くす前の自分が恭吾さんのことをどう思っていたのかは全く分からない。
ただ一つ確実なのは、この結婚は父の意向が強く働いているものなのだろうということだ。
お見合いから始まっているようだし、おそらく双方にとって利のある政略結婚だと思われる。
……でも結婚の前に交際を1年以上って、それはつまり私が男性と……その、男女交際における色々もしてたってこと、だよね……?
私の肌感覚では、男女交際はおろか、ほとんど男性とまともに接したこともないのに。
どんな関係を恭吾さんと育んでいたのかにわかに気になるところだった。
「まあ、知っておいた方がいいことはこんなところだな。とりあえず目覚めたばかりでまだまだ安静にしていた方がいい。香澄はもうひと眠りしなさい」
父がそう締め括ると、その場にいる皆が部屋から出て行こうと動き出した。
その背中に向かって私は最後に一つだけ聞いた直後から気になっていたことを尋ねる。
「あの、私がここにいるのは刺されたからだと先程伺いましたが、誰に刺されたんですか……? 何があったんでしょうか……?」
その質問に再び場が固まり、沈黙が訪れる。
重苦しい空気の中、口火を切ったのは婚約者の恭吾さんだった。
「……君とは面識のないただの通り魔だ。もう捕まったから安心していい」
「そうですか。分かりました」
回答を得て納得した私は、皆が部屋を出ていくのを見送ると大きく息を吐き出す。
目を覚ましてから色々な情報が入ってきすぎてやや頭が混乱していた。
急にドッと疲れを感じる。
大人しく目を閉じると、身体は休養を要していたのか、私はそのまますぐに眠りに落ちて行った。
◇◇◇
それから入院生活がしばらく続いたのだが、非常にのんびりとした安寧の日々だった。
私の部屋はVIP専用個室だったため、医師と看護師の方々によるケアが隅々まで行き届いていて、とても快適に過ごさせてもらっている。
それは私がこの大学病院の理事である祖父の孫であり、医学界では権威のある東條家の娘だからだろう。
毎朝、担当看護師の女性の朗らかな明るい声で一日が始まり、日中には医師の回診と足腰を弱らせないためのリハビリがあるが、それ以外は自由だ。
家族はあれ以来面会に来ていない。
でもこの病院で勤務している誠司くんや、婚約者である恭吾さんは度々様子を見に来てくれる。
その際、ちょっと手持ち無沙汰になっている私のために差し入れとして小説やタブレットを持って来てくれたので、基本的に本を読んだり、タブレットで映画やドラマを観たり、クラッシックを聴いたりして過ごしている。
スマートフォンが手元にないことにふと気付き、恭吾さんに尋ねてみたら、通り魔事件の時に破損してしまったらしい。
退院したら新しい物を一緒に買いに行こうとのことだった。
今現状、特に不便を感じていないため私としては問題ない。
ただ気掛かりなこととして、ピアノ教室の生徒さんへの連絡の事と、眞帆と連絡が取れない事を伝えた。
前者について私には記憶がなくて実感がないが、父によるとピアノ教室を運営していたとのことだったため、入院による影響が気掛かりだったのだ。
だが、結果としてそんなことは杞憂に過ぎなかった。
というのも、そもそも生徒さんは親族の関係筋の人達ばかりだったようで、親族経由で無期限活動休止という私の状態が伝わっているらしい。
私本人がそう宣言したわけではないが、父と母でそう結論付けて根回ししたみたいだった。
無断で勝手に進んでいたことに多少悲しさを感じたものの、何も覚えていない私が口を挟めない。
記憶があれば……とつい焦りともどかしさが胸に広がった。
そして恭吾さんから連絡を受けた眞帆がお見舞いに来てくれたのは、ちょうどそんな頃のことだった。
聞き慣れない朗らかな明るい声が耳に飛び込んできて、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。
目に飛び込んできたのは、全体的に白い空間で、明らかに私の部屋ではなかった。
どうやら私はベッドの上で寝かされているようだ。
……ここはどこだろう……?
きごちなく首を動かしたところで、ベッドのすぐ横に一人の女性が立っているのが分かった。
先程のあの声はこの女性だろう。
そう思っているとその女性と目が合い、女性は驚いたように目を見開く。
「東條さん……! 良かった! 気が付かれたんですね! すぐに先生を呼んできますからね!」
そして慌てたように小走りで部屋の外へ出て行ってしまった。
しばらくすると、慌ただしげな数人の足音が聞こえてくる。
その足音がこちらへ向かっているようだと思った刹那、部屋の扉が開けられた。
「香澄!」
口々に私の名前を呼ぶ人々が中へ入ってくる。
「お父様、お母様、おじい様……」
まず最初に私の側に近寄ってきたのは私服姿の父と母、そして白衣を着た祖父だった。
家族が勢揃いしている珍しい状況にやや頭が混乱する。
一体何事だろうかと緊張が走った。
「ああ、本当に良かった……! 私の可愛い娘が無事に目を覚まして」
「ええ、本当ですわ。わたくし達の愛娘がこのまま目を覚さないのではと心配で堪りませんでしたもの。ホッといたしましたわ」
父と母が盛大に仮面夫婦を演じていて、私のことをこれでもかと言わんばかりに二人して愛しそうな眼差しを向けてくる。
状況がよく分からないものの、他に人がいるから外向けの顔を作っているのだと察した私もとりあえず微笑みを浮かべた。
寝転んだままでいるのは無作法だと思った私は身体を起こそうと身じろぎする。
だが、そこで腹部の辺りに鋭い痛みが走った。
「……っ!」
あまりの痛さに声にならない声が漏れ、思わず顔を顰めてしまう。
「まだ起き上がらない方がいい。しばらく安静が必要だからな」
「ここは、どこなんでしょうか……? 自宅ではないようなんですけど……?」
知らない場所と謎の痛みに、私は疑問が募り、恐る恐るそう問いかけた。
それに答えてくれたのは父だった。
「東都大学病院だ。お前は刺されてここへ救急搬送されて来たんだ。緊急手術が行われて、一命を取り留めた。術後の経過は良好だからもう安心していい」
「さ、刺された……⁉︎」
父の口から飛び出した驚きの言葉に私は目を丸くする。
ではこの腹部の痛みはその傷口ということなのだろう。
……それにしても刺されたなんて。そんな物騒なことが私の身に起こったの……?
記憶を探るも全く心当たりがない。
父はこんな嘘は吐かないと思うのにおかしいなと内心首を傾げた。
「ほら、香澄。彼らも来てくれている。ずっとお前を心配してくれていたのだ。礼を言いなさい」
そう言って父が後ろを振り返る。
そこには白衣を着た二人の男性が立っていた。
父、母、祖父の後ろに控えて、家族のやりとりを邪魔しないよう遠巻きに眺めている。
二人のうち一人は私もよく知る人物だ。
「誠司くん」
私が呼びかけると、従兄弟の誠司くんは笑顔を浮かべる。
「香澄がうちの病院に運び込まれて来たって聞いた時は本当に驚いたよ。ともかく無事で良かった」
「心配かけたみたいでごめんね。ありがとう」
「俺のことはいいよ。それよりもっと心配をかけた人がいるでしょ? 恭吾先輩はこの2日、忙しい中可能な限り香澄に付き添ってたんだからね」
そう言って誠司くんは隣の男性に目を向けた。
メガネをかけた知的な顔立ちの男性だ。
恭吾先輩と呼ばれたその男性に私も視線を向けるが、全く記憶にない。
初めて会う男性だと思う。
「えっと……主治医の先生でしょうか……? はじめまして、東條香澄と申します。お世話になったようでありがとうございます」
誠司くんの言葉を不思議に思いながら、どうやら相当お世話になったらしいと判断した私はその男性にペコリと頭を下げた。
その瞬間、全員がぎょっとし、場の空気が凍りつく。
「……香澄、恭吾先輩のこと分からないの……?」
「……? 初対面だと思うけど?」
誠司くんからの問いかけにそう返すと、今度はその場にいた母以外の男性達がヒソヒソと何やら話し出す。
その結果、しばらくして心療内科の医師だという人がやって来て、私にあれこれと質問をし出した。
訳がわからないまま、それに次々答えていく。
そしてその医師は男性陣4人とヒソヒソ話をすると、部屋から去って行った。
その後に父が真剣な面持ちの医者の顔になって私に告げる。
「香澄、落ち着いて聞きなさい。どうやらお前は解離性健忘を発症しているようだ」
「解離性健忘、ですか……?」
聞き慣れない単語に私の頭に疑問符が浮かぶ。
その反応は予期していたようで、父は「そうだ」と一言肯定すると話を続けた。
「いわゆる記憶喪失というやつだ。香澄の場合、一定期間の出来事が思い出せなくなる局所性健忘だと思われる。自分自身のことや私たち家族のこと、生活に関わることなどは覚えているようだから大きな支障はないだろう。安心しなさい」
……私が記憶喪失……? じゃあ刺されたことを覚えていないのも、恭吾先輩と呼ばれる男性を初対面だと思うのも、そのせい……?
自分の中にぽっかりと空白ができたような不安を感じ、私は顔色を失った。
安心しなさいとは言われたものの、言葉では言い表せない感情が胸の内で渦巻く。
「香澄、大丈夫だよ! 清隆伯父さんが言うように生活に大きな支障はないだろうし、解離性健忘は時間の経過とともに記憶が戻るケースがほとんどだから! あまり思い詰めずにリラックスした方がいい」
そんな私の心の内を察したのか誠司くんが明るい声を出して私を励ましてくれた。
記憶が戻るケースがほとんどだと聞いて、少しホッとする。
「どのくらいの記憶がないんでしょうか……?」
「定かではないが、ここ2年くらいの記憶のようだな。香澄が大学を卒業して以降ということだ」
「大学を卒業してからの記憶……」
そう言われて記憶を辿ろうとしてみるが、恐ろしいことに全く思い出せなかった。
大学生の頃の記憶はすぐに思い浮かぶのに、最近の記憶が抜け落ちている。
「生活に大きな支障がないとはいえ、困ることもあるだろう。だから私たちが知る範囲で、お前が知っておいた方がいいことを話そうと思う」
そして父の口からまず語られたのは、私の今の暮らしだった。
大学を卒業後、私は都内のマンションで一人暮らしを始めたという。
そこでピアノ教室を営んでいるらしい。
自分が実家を出ている事実に少し驚くとともに、今でもピアノを続けていることを嬉しく思った。
「それと大学卒業後すぐにお見合いをして、お前は婚約が決まっていた。1年以上の交際を重ね、今は結婚準備を進めている。来年の4月には式を挙げる予定だ」
「えっ、結婚、ですか……?」
異性とお付き合いしたこともないのに、いきなり結婚という言葉が飛び出して私は目を瞬く。
でも父の話によると、交際期間は1年以上に及ぶようだから、特にいきなりというわけではないのだろう。
ただ私にその実感がないだけだ。
「その婚約者というのが彼だ。片桐恭吾くんと言って、この東都大学病院に勤める優秀な外科医だ」
改めてそう紹介されたのは、先程主治医だと勘違いした男性だった。
どうりであの時周囲が驚いて場が凍りついたわけだ。
私は自分の婚約者を覚えていなかったのだ。
「その、大変申し訳ありませんでした。婚約者なのに、先程は主治医だと口走ってしまって……」
「いや、君が気に病む必要はない。記憶を失っていたのだから仕方がないことだ」
私が謝ると、婚約者の男性は知的な外見通りのクールな口調でそう答えた。
記憶にないが、周囲からの情報によると私は彼のことを「恭吾さん」と呼んで仲良くしていたらしい。
……私はこの人のことを愛していたのかな?
記憶を失くす前の自分が恭吾さんのことをどう思っていたのかは全く分からない。
ただ一つ確実なのは、この結婚は父の意向が強く働いているものなのだろうということだ。
お見合いから始まっているようだし、おそらく双方にとって利のある政略結婚だと思われる。
……でも結婚の前に交際を1年以上って、それはつまり私が男性と……その、男女交際における色々もしてたってこと、だよね……?
私の肌感覚では、男女交際はおろか、ほとんど男性とまともに接したこともないのに。
どんな関係を恭吾さんと育んでいたのかにわかに気になるところだった。
「まあ、知っておいた方がいいことはこんなところだな。とりあえず目覚めたばかりでまだまだ安静にしていた方がいい。香澄はもうひと眠りしなさい」
父がそう締め括ると、その場にいる皆が部屋から出て行こうと動き出した。
その背中に向かって私は最後に一つだけ聞いた直後から気になっていたことを尋ねる。
「あの、私がここにいるのは刺されたからだと先程伺いましたが、誰に刺されたんですか……? 何があったんでしょうか……?」
その質問に再び場が固まり、沈黙が訪れる。
重苦しい空気の中、口火を切ったのは婚約者の恭吾さんだった。
「……君とは面識のないただの通り魔だ。もう捕まったから安心していい」
「そうですか。分かりました」
回答を得て納得した私は、皆が部屋を出ていくのを見送ると大きく息を吐き出す。
目を覚ましてから色々な情報が入ってきすぎてやや頭が混乱していた。
急にドッと疲れを感じる。
大人しく目を閉じると、身体は休養を要していたのか、私はそのまますぐに眠りに落ちて行った。
◇◇◇
それから入院生活がしばらく続いたのだが、非常にのんびりとした安寧の日々だった。
私の部屋はVIP専用個室だったため、医師と看護師の方々によるケアが隅々まで行き届いていて、とても快適に過ごさせてもらっている。
それは私がこの大学病院の理事である祖父の孫であり、医学界では権威のある東條家の娘だからだろう。
毎朝、担当看護師の女性の朗らかな明るい声で一日が始まり、日中には医師の回診と足腰を弱らせないためのリハビリがあるが、それ以外は自由だ。
家族はあれ以来面会に来ていない。
でもこの病院で勤務している誠司くんや、婚約者である恭吾さんは度々様子を見に来てくれる。
その際、ちょっと手持ち無沙汰になっている私のために差し入れとして小説やタブレットを持って来てくれたので、基本的に本を読んだり、タブレットで映画やドラマを観たり、クラッシックを聴いたりして過ごしている。
スマートフォンが手元にないことにふと気付き、恭吾さんに尋ねてみたら、通り魔事件の時に破損してしまったらしい。
退院したら新しい物を一緒に買いに行こうとのことだった。
今現状、特に不便を感じていないため私としては問題ない。
ただ気掛かりなこととして、ピアノ教室の生徒さんへの連絡の事と、眞帆と連絡が取れない事を伝えた。
前者について私には記憶がなくて実感がないが、父によるとピアノ教室を運営していたとのことだったため、入院による影響が気掛かりだったのだ。
だが、結果としてそんなことは杞憂に過ぎなかった。
というのも、そもそも生徒さんは親族の関係筋の人達ばかりだったようで、親族経由で無期限活動休止という私の状態が伝わっているらしい。
私本人がそう宣言したわけではないが、父と母でそう結論付けて根回ししたみたいだった。
無断で勝手に進んでいたことに多少悲しさを感じたものの、何も覚えていない私が口を挟めない。
記憶があれば……とつい焦りともどかしさが胸に広がった。
そして恭吾さんから連絡を受けた眞帆がお見舞いに来てくれたのは、ちょうどそんな頃のことだった。
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