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#05. Fateful Reunion
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行為を終え、それぞれ外に出掛ける準備を整えた恭吾さんと私は、予定通りに夕食は鮨屋に足を運んでいた。
カウンター席しかないこじんまりとした店内はとても趣のある雰囲気だ。
カウンターで隣に並び、目の前で握られるお鮨に舌鼓を打つ。
「美味しいですね」
「そうだな」
新鮮な旬のネタを使ったお鮨はどれも絶品で、いくらでも食べられそうだ。
笑顔が素敵な大将が握ってくれる一品に大満足をしていると、ふいにスマートフォンのバイブ音がかすかに耳に飛び込んできた。
どうやら恭吾さんのスマートフォンのようだ。
恭吾さんは画面にチラリと視線を向け、一瞬だけ苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「……病院からだ」
「あ、はい。私のことは気になさらず出てください」
「すまない」
恭吾さんはカウンター席を立ち、スマートフォンを片手に足早に店の外へ向かった。
しばらくして戻ってくると、ひどく苦々しい表情を浮かべている。
「……患者の容態が急変してすぐに病院へ戻らなければならなくなった」
「そうですか。分かりました。私は大丈夫ですから行ってください」
「本当にすまない。今日は君とゆっくりできるはずだったんだが」
「恭吾さんの手で救われる命があるんです。そちらを優先するのは当然のことです」
「会計は済ませておくから君はこのままゆっくりしていてくれていい」
「いえ、ちょうどコースの最後の一品を食べ終えたところですし、私も一緒にお店を出ます」
「分かった」
私たちは慌ただしくタクシーの手配と会計を済ませて店の外に出る。
店の前にはすでに予約したタクシーが到着しており、それに一緒に乗り込んだ。
恭吾さんの勤務先である大学病院にまず向かい、そこで彼が降りると、そのまま私のマンションへと進路を変える。
家に着いてドサリとソファーに腰を下ろした私は「ふぅ」と息を吐き出した。
なんだか今日は慌ただしい一日だった。
眞帆と会った後に恭吾さんが急遽来ることになって、珍しく夕方に身体を重ね、外食して、そして今だ。
シンと静まり返った家に一人になり、なんだか寂しさが私を襲う。
ピアノ教室を兼ねているこの家は一人暮らしにしては無駄に広く、時にとても寒々しい。
でも別に私は恭吾さんが仕事に行ってしまったことを不満に思っているわけではない。
親族のほとんどが医師だから、良くも悪くも慣れている。
ただ、時々ふと思うのだ。
このまま恭吾さんと結婚したら、自分の両親みたいになってしまうのかな、と。
私と同じようにお見合いを経て政略結婚した両親みたいに、冷え切った家庭を私も築くことになる未来がチラつく。
……家に利をもたらすだけの愛のない結婚だもの。そうなるよね、きっと。
恭吾さんは忙しい中でも私を大切にしてくれているが、そこに普通の恋人たちのような愛はない。
私が東條家の一人娘だから丁重に扱ってくれているだけに過ぎない。
それは私の側も同じで、愛情はないけど好意と敬意を持って接している。
政略結婚による相手との関係性としてはとても良好だ。
……なのに、時々無性に心が寂しくなるのはなぜだろう。いよいよ結婚が具現化してきて過敏になっているのかな? マリッジブルー?
そもそも愛なんて私には分からない。
傍目には家庭円満で父に溺愛されている一人娘として見られているが、実態は実にシビアだ。
私の幼い頃から父も母もそれぞれ不倫しており、家庭を顧みない仮面夫婦だった。
娘の面倒は使用人に任せきりで、両親からの愛情など感じたことがない。
父は”大切な一人娘”としての私の価値を上げるために対外的には溺愛しているフリをしているだけだ。
裕福な家庭で生活に何不自由なく育ててもらったことには感謝している。
幼少期からの各種習い事や私立のお嬢様学校、音大、ピアノ教室の開業資金などお金もかけてもらった。
父による将来への先行投資みたいなものだが、だからこそ私は父の意のままに、敷かれたレールをこれまで歩んできたのだ。
あの一夜以外は……。
あの日のことを思い出すと今でも自然と身体がムズムズとして火照ってしまう。
人生で一度きりの私にしては大胆な冒険だった。
信じられないくらい乱れた自分を思い出すとどうしようもなく恥ずかしい。
あの行為に愛はなかったけど、少なくとも身体は満たされたのは間違いない。
……もう考えるのはやめよう。今日は眞帆と会ったり賑やかだったからその反動で、きっとちょっと寂しくなって心が不安定になっているだけね。
私は自分の思考を振り切るように軽く首を振る。
そして気分転換をするべく、お気に入りのアロマを焚き、メイクを落とした後いつもよりゆっくり丁寧にスキンケアタイムを楽しんだ。
◇◇◇
それから数日後。
私は両親の代理で親族の法要に出席するため、鎌倉に来ていた。
都内から電車で約1時間の道のりだ。
実家の使用人が車を出してくれると申し出てくれたが、一人暮らしを始めて少しは自立心が芽生えた私はそれを断り、ここまで一人でやって来た。
住職よる読経が終わり、仏壇のある広間から場所を移して今度は昼食が振る舞われる。
「香澄ちゃん、久しぶりだねぇ」
「子供の頃から別嬪さんだったけど、これまたどえらい美人になって!」
「こりゃ、清隆のやつも溺愛するわけだ」
主に年配の親族に囲まれ、次々に声を掛けられる。
矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、私は笑顔を浮かべて、当たり障りなく受け答えていた。
失礼にならない程度に会食に顔を出し、「そろそろいいかな?」という頃合いに私は席を立つ。
施主に挨拶をして、場を辞すために玄関先で靴を履く。
せっかく鎌倉まで来たから少しどこかに寄って行こうかなと思っていたところ、ふいに背後からトントンと肩を叩かれた。
「香澄、久しぶり。元気そうだね」
「誠司くん! 誠司くんも来てたの? 全然気付かなかった」
そこにいたのは父の弟の息子で、私にとっては従兄弟にあたる誠司くんだった。
幼少期から親族の集まりでは必ず顔を合わせるため旧知の仲だ。
私より6歳年上で、面倒見の良い性格から妹みたいに可愛がってくれて、兄みたいな存在に感じている。
親族ということは、例に違わずもちろん誠司くんも医師だ。
誠司くんは内科、恭吾さんは外科で科は異なるが二人は同じ大学病院に勤務している。
ちなみにその大学病院は誠司くんと私の祖父が理事を務めていると言えば、医者一族ということが明白だろう。
「香澄は親族の長老たちに囲まれていたもんね。俺は端っこの方でこっそり隠れてたから」
「隠れていたの? なんで?」
「だって結婚、結婚ってうるさいからさ。30になったんだから早く~って寄ってたかって言われるんだから参るよ」
「そうなんだ。それは大変そうだね」
「香澄は恭吾先輩がいるから余裕だろうけど。そろそろ結婚準備始めるんでしょ?」
誠司くんと恭吾さんは学生の頃の先輩後輩だったらしく親交がある。
外科の恭吾さんがものすごく忙しいと教えてくれたのは誠司くんだった。
「うん。そういう話になってるよ」
「恭吾先輩、きっと浮かれてるんだろなぁ」
「………? 浮かれてる?」
「そりゃだって――――」
誠司くんの不可解な言葉に引っ掛かりを覚え、私は眉を寄せる。
それに応えるように誠司くんが何かを口にし始めたちょうどその時だ。
「あ、いたいた! 誠司くん、ちょっとこっちに来なさい」
「誠司、逃げ回っとらんと、こっちに来い」
誠司くんの姿を探していたらしい親族の長老たちの声で会話が遮られる。
ゲッという顔をした誠司くんは「じゃあまたね」と私に言い残し、親族から逃げるように足早に去って行った。
代わりに私が長老たちに捕まりそうになったため、私も慌てて玄関から外に出る。
昼過ぎの時間帯である外はまだ明るく、今日は天候も良い。
恵まれた天候にも背を押され、私はこのまますぐ都内に戻るのではなく、鎌倉の観光名所として人気の鶴岡八幡宮に寄って参拝して行くことにした。
◇◇◇
……わぁ、人でいっぱい。さすが人気の観光名所なだけあるなぁ。
鶴岡八幡宮のすぐ近くでタクシーを降りた私は、まずその人の多さに驚いた。
ゴールデンウィーク明けでピークは超えたものの、新緑の季節の土曜日である今日はやはり混む日だったようだ。
だが、長い歴史を持つ神社はその場に足を踏み入れるだけで厳かな雰囲気が感じられる。
人が多くとも、それが気にならないほどの神聖さがあった。
私は参道を通って最初に本宮でお詣りをする。
願うのは「無病息災」だ。
病気をせず、心身ともに健康に過ごせますように……と手を合わせる。
お詣りのあとは、ゆっくり境内を散策してみることにした。
自然が溢れる景色は、なんだかとても心が和む。
辺りを見回しながら歩いていると、すっかり周囲に気を配るのを怠ってしまっていたようだ。
近くにいた人と肩がぶつかってしまった。
「申し訳ありません……!」
ハッとした私は、慌ててぶつかった人の方へ頭を下げて謝罪を述べる。
完全に私の不注意だ。
「こちらこそすみません。……あれ? 香澄さん?」
相手から返ってきたのは予想外な言葉だった。
なぜか名前を呼ばれたのだ。
しかもいつぞやに耳にしたあの低く落ち着いた声で。
……もしかして……? ううん、そんなのありえない。
一瞬思い浮かんだ顔を即座に私は否定した。
なにしろここは鎌倉だ。
都内ならまだしも、こんなところで偶然会うなんてすごい確率に違いない。
私は気を取り直してからゆっくり頭を上げる。
すると目の前には、私の予想に反して、まさに頭に思い浮かべた人物が立っていた。
スラリと長身で、見惚れるくらい端正な顔立ちに洗練された雰囲気を纏うその人は、にこりと私に笑顔を向ける。
口元のホクロが今日も相変わらず色っぽい。
「ああ、やっぱり香澄さんだ」
「…………久坂さん」
一夜限りでもう二度と顔を合わすつもりのなかった人と予想外の場所で、予想外に再会した事実に私は息が止まるほど驚いていた。
「まさかこんなところで偶然会うなんてね。俺も驚いたよ」
「はい。本当に驚きました」
「香澄さんはなんでここに?」
「親族の法事で鎌倉に来ていて、せっかくなので少し寄り道して帰ろうかなと思いまして。あの、久坂さんこそどうしてこちらに?」
「俺は仕事の一環。こっちの方に顧問をしている企業があってね。土曜日なのにどうしても相談したいことがあるって言われて。あとは香澄さんと同じ。思ったより早く終わったから天気も良いし気分転換にね」
「そうなんですね」
言われてみれば、確かに久坂さんは今日はスーツを着ている。
ただでさえ目立つ容姿だが、休日の観光名所においてはラフな格好の人が多いため、彼は少し周囲から浮いていた。
かくいう私も喪服を着ているので同じく多少浮いているとは思う。
……それにしてもまさか久坂さんともう一度顔を合わすことになるなんて。
同じ日の同じ時間にたまたま鎌倉にいて、たまたまこの鶴岡八幡宮に立ち寄り、この人混みの中たまたま出会したということだ。
ものすごく奇跡的な巡り合わせではないだろうか。
「法事は終わったみたいだけど、この後も何か予定あるの?」
「いえ、もう都内に帰るだけです」
「そう。それならちょうど良かった」
そう言ってまたにこりと笑った久坂さんは、少し腰を折ると顔を私の方へ寄せる。
そして耳元でこう囁いた。
「またぐちゃぐちゃに乱されたくない?」
瞬時にカッと頬が熱くなる。
色を含んだ艶っぽいその声に嫌でも先日の情交を思い出さされ、条件反射的に身体までじわりと熱を持ったのが分かった。
カウンター席しかないこじんまりとした店内はとても趣のある雰囲気だ。
カウンターで隣に並び、目の前で握られるお鮨に舌鼓を打つ。
「美味しいですね」
「そうだな」
新鮮な旬のネタを使ったお鮨はどれも絶品で、いくらでも食べられそうだ。
笑顔が素敵な大将が握ってくれる一品に大満足をしていると、ふいにスマートフォンのバイブ音がかすかに耳に飛び込んできた。
どうやら恭吾さんのスマートフォンのようだ。
恭吾さんは画面にチラリと視線を向け、一瞬だけ苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「……病院からだ」
「あ、はい。私のことは気になさらず出てください」
「すまない」
恭吾さんはカウンター席を立ち、スマートフォンを片手に足早に店の外へ向かった。
しばらくして戻ってくると、ひどく苦々しい表情を浮かべている。
「……患者の容態が急変してすぐに病院へ戻らなければならなくなった」
「そうですか。分かりました。私は大丈夫ですから行ってください」
「本当にすまない。今日は君とゆっくりできるはずだったんだが」
「恭吾さんの手で救われる命があるんです。そちらを優先するのは当然のことです」
「会計は済ませておくから君はこのままゆっくりしていてくれていい」
「いえ、ちょうどコースの最後の一品を食べ終えたところですし、私も一緒にお店を出ます」
「分かった」
私たちは慌ただしくタクシーの手配と会計を済ませて店の外に出る。
店の前にはすでに予約したタクシーが到着しており、それに一緒に乗り込んだ。
恭吾さんの勤務先である大学病院にまず向かい、そこで彼が降りると、そのまま私のマンションへと進路を変える。
家に着いてドサリとソファーに腰を下ろした私は「ふぅ」と息を吐き出した。
なんだか今日は慌ただしい一日だった。
眞帆と会った後に恭吾さんが急遽来ることになって、珍しく夕方に身体を重ね、外食して、そして今だ。
シンと静まり返った家に一人になり、なんだか寂しさが私を襲う。
ピアノ教室を兼ねているこの家は一人暮らしにしては無駄に広く、時にとても寒々しい。
でも別に私は恭吾さんが仕事に行ってしまったことを不満に思っているわけではない。
親族のほとんどが医師だから、良くも悪くも慣れている。
ただ、時々ふと思うのだ。
このまま恭吾さんと結婚したら、自分の両親みたいになってしまうのかな、と。
私と同じようにお見合いを経て政略結婚した両親みたいに、冷え切った家庭を私も築くことになる未来がチラつく。
……家に利をもたらすだけの愛のない結婚だもの。そうなるよね、きっと。
恭吾さんは忙しい中でも私を大切にしてくれているが、そこに普通の恋人たちのような愛はない。
私が東條家の一人娘だから丁重に扱ってくれているだけに過ぎない。
それは私の側も同じで、愛情はないけど好意と敬意を持って接している。
政略結婚による相手との関係性としてはとても良好だ。
……なのに、時々無性に心が寂しくなるのはなぜだろう。いよいよ結婚が具現化してきて過敏になっているのかな? マリッジブルー?
そもそも愛なんて私には分からない。
傍目には家庭円満で父に溺愛されている一人娘として見られているが、実態は実にシビアだ。
私の幼い頃から父も母もそれぞれ不倫しており、家庭を顧みない仮面夫婦だった。
娘の面倒は使用人に任せきりで、両親からの愛情など感じたことがない。
父は”大切な一人娘”としての私の価値を上げるために対外的には溺愛しているフリをしているだけだ。
裕福な家庭で生活に何不自由なく育ててもらったことには感謝している。
幼少期からの各種習い事や私立のお嬢様学校、音大、ピアノ教室の開業資金などお金もかけてもらった。
父による将来への先行投資みたいなものだが、だからこそ私は父の意のままに、敷かれたレールをこれまで歩んできたのだ。
あの一夜以外は……。
あの日のことを思い出すと今でも自然と身体がムズムズとして火照ってしまう。
人生で一度きりの私にしては大胆な冒険だった。
信じられないくらい乱れた自分を思い出すとどうしようもなく恥ずかしい。
あの行為に愛はなかったけど、少なくとも身体は満たされたのは間違いない。
……もう考えるのはやめよう。今日は眞帆と会ったり賑やかだったからその反動で、きっとちょっと寂しくなって心が不安定になっているだけね。
私は自分の思考を振り切るように軽く首を振る。
そして気分転換をするべく、お気に入りのアロマを焚き、メイクを落とした後いつもよりゆっくり丁寧にスキンケアタイムを楽しんだ。
◇◇◇
それから数日後。
私は両親の代理で親族の法要に出席するため、鎌倉に来ていた。
都内から電車で約1時間の道のりだ。
実家の使用人が車を出してくれると申し出てくれたが、一人暮らしを始めて少しは自立心が芽生えた私はそれを断り、ここまで一人でやって来た。
住職よる読経が終わり、仏壇のある広間から場所を移して今度は昼食が振る舞われる。
「香澄ちゃん、久しぶりだねぇ」
「子供の頃から別嬪さんだったけど、これまたどえらい美人になって!」
「こりゃ、清隆のやつも溺愛するわけだ」
主に年配の親族に囲まれ、次々に声を掛けられる。
矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、私は笑顔を浮かべて、当たり障りなく受け答えていた。
失礼にならない程度に会食に顔を出し、「そろそろいいかな?」という頃合いに私は席を立つ。
施主に挨拶をして、場を辞すために玄関先で靴を履く。
せっかく鎌倉まで来たから少しどこかに寄って行こうかなと思っていたところ、ふいに背後からトントンと肩を叩かれた。
「香澄、久しぶり。元気そうだね」
「誠司くん! 誠司くんも来てたの? 全然気付かなかった」
そこにいたのは父の弟の息子で、私にとっては従兄弟にあたる誠司くんだった。
幼少期から親族の集まりでは必ず顔を合わせるため旧知の仲だ。
私より6歳年上で、面倒見の良い性格から妹みたいに可愛がってくれて、兄みたいな存在に感じている。
親族ということは、例に違わずもちろん誠司くんも医師だ。
誠司くんは内科、恭吾さんは外科で科は異なるが二人は同じ大学病院に勤務している。
ちなみにその大学病院は誠司くんと私の祖父が理事を務めていると言えば、医者一族ということが明白だろう。
「香澄は親族の長老たちに囲まれていたもんね。俺は端っこの方でこっそり隠れてたから」
「隠れていたの? なんで?」
「だって結婚、結婚ってうるさいからさ。30になったんだから早く~って寄ってたかって言われるんだから参るよ」
「そうなんだ。それは大変そうだね」
「香澄は恭吾先輩がいるから余裕だろうけど。そろそろ結婚準備始めるんでしょ?」
誠司くんと恭吾さんは学生の頃の先輩後輩だったらしく親交がある。
外科の恭吾さんがものすごく忙しいと教えてくれたのは誠司くんだった。
「うん。そういう話になってるよ」
「恭吾先輩、きっと浮かれてるんだろなぁ」
「………? 浮かれてる?」
「そりゃだって――――」
誠司くんの不可解な言葉に引っ掛かりを覚え、私は眉を寄せる。
それに応えるように誠司くんが何かを口にし始めたちょうどその時だ。
「あ、いたいた! 誠司くん、ちょっとこっちに来なさい」
「誠司、逃げ回っとらんと、こっちに来い」
誠司くんの姿を探していたらしい親族の長老たちの声で会話が遮られる。
ゲッという顔をした誠司くんは「じゃあまたね」と私に言い残し、親族から逃げるように足早に去って行った。
代わりに私が長老たちに捕まりそうになったため、私も慌てて玄関から外に出る。
昼過ぎの時間帯である外はまだ明るく、今日は天候も良い。
恵まれた天候にも背を押され、私はこのまますぐ都内に戻るのではなく、鎌倉の観光名所として人気の鶴岡八幡宮に寄って参拝して行くことにした。
◇◇◇
……わぁ、人でいっぱい。さすが人気の観光名所なだけあるなぁ。
鶴岡八幡宮のすぐ近くでタクシーを降りた私は、まずその人の多さに驚いた。
ゴールデンウィーク明けでピークは超えたものの、新緑の季節の土曜日である今日はやはり混む日だったようだ。
だが、長い歴史を持つ神社はその場に足を踏み入れるだけで厳かな雰囲気が感じられる。
人が多くとも、それが気にならないほどの神聖さがあった。
私は参道を通って最初に本宮でお詣りをする。
願うのは「無病息災」だ。
病気をせず、心身ともに健康に過ごせますように……と手を合わせる。
お詣りのあとは、ゆっくり境内を散策してみることにした。
自然が溢れる景色は、なんだかとても心が和む。
辺りを見回しながら歩いていると、すっかり周囲に気を配るのを怠ってしまっていたようだ。
近くにいた人と肩がぶつかってしまった。
「申し訳ありません……!」
ハッとした私は、慌ててぶつかった人の方へ頭を下げて謝罪を述べる。
完全に私の不注意だ。
「こちらこそすみません。……あれ? 香澄さん?」
相手から返ってきたのは予想外な言葉だった。
なぜか名前を呼ばれたのだ。
しかもいつぞやに耳にしたあの低く落ち着いた声で。
……もしかして……? ううん、そんなのありえない。
一瞬思い浮かんだ顔を即座に私は否定した。
なにしろここは鎌倉だ。
都内ならまだしも、こんなところで偶然会うなんてすごい確率に違いない。
私は気を取り直してからゆっくり頭を上げる。
すると目の前には、私の予想に反して、まさに頭に思い浮かべた人物が立っていた。
スラリと長身で、見惚れるくらい端正な顔立ちに洗練された雰囲気を纏うその人は、にこりと私に笑顔を向ける。
口元のホクロが今日も相変わらず色っぽい。
「ああ、やっぱり香澄さんだ」
「…………久坂さん」
一夜限りでもう二度と顔を合わすつもりのなかった人と予想外の場所で、予想外に再会した事実に私は息が止まるほど驚いていた。
「まさかこんなところで偶然会うなんてね。俺も驚いたよ」
「はい。本当に驚きました」
「香澄さんはなんでここに?」
「親族の法事で鎌倉に来ていて、せっかくなので少し寄り道して帰ろうかなと思いまして。あの、久坂さんこそどうしてこちらに?」
「俺は仕事の一環。こっちの方に顧問をしている企業があってね。土曜日なのにどうしても相談したいことがあるって言われて。あとは香澄さんと同じ。思ったより早く終わったから天気も良いし気分転換にね」
「そうなんですね」
言われてみれば、確かに久坂さんは今日はスーツを着ている。
ただでさえ目立つ容姿だが、休日の観光名所においてはラフな格好の人が多いため、彼は少し周囲から浮いていた。
かくいう私も喪服を着ているので同じく多少浮いているとは思う。
……それにしてもまさか久坂さんともう一度顔を合わすことになるなんて。
同じ日の同じ時間にたまたま鎌倉にいて、たまたまこの鶴岡八幡宮に立ち寄り、この人混みの中たまたま出会したということだ。
ものすごく奇跡的な巡り合わせではないだろうか。
「法事は終わったみたいだけど、この後も何か予定あるの?」
「いえ、もう都内に帰るだけです」
「そう。それならちょうど良かった」
そう言ってまたにこりと笑った久坂さんは、少し腰を折ると顔を私の方へ寄せる。
そして耳元でこう囁いた。
「またぐちゃぐちゃに乱されたくない?」
瞬時にカッと頬が熱くなる。
色を含んだ艶っぽいその声に嫌でも先日の情交を思い出さされ、条件反射的に身体までじわりと熱を持ったのが分かった。
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