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#02. First Encounter
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スマートフォンの落とし主である久坂さんという男性との待ち合せ場所は、表参道にあるオシャレなカフェだった。
大通りに面したテラス席は開放感がある。
春の暖かな陽射しが心地良い。
初対面の人と会うにあたって、個室などの密室ではなく人目がある場所だったことに私は内心安堵していた。
電話で昨日少し話した限り、変な人ではなさそうだが、自衛のために警戒するに越したことはない。
テラス席に座り、落ち着かない気持ちでソワソワしなが待っていると、預かっているスマートフォンが着信音を奏でだす。
画面には昨日同様、電話番号のみが表示されていた。
タイミング的におそらく落とし主の久坂さんだろうと察しをつけた私はその着信を受ける。
「もしもし」
「香澄さんですか? もうすぐカフェに到着しそうなんですが、今どちらにいらっしゃいますか?」
「あ、私はもう着いていてテラス席に座っています」
「テラス席……ああ」
何かに気付いたような声がした次の瞬間に電話は切れ、代わりになんとなく視線を感じた私はそちらを振り向く。
そこにはスマートフォンを片手に持ったスラリと背の高い男性がちょうど大通りからテラス席へ近付いてくるところだった。
こちらを向いていたその男性と目が合う。
そのまま真っ直ぐに私のいる席へ歩みを進めてきた男性が目の前までやってきて驚いた。
ビックリするくらい容姿が整っていたからだ。
実際、男性は周囲にいる女性の視線を一身に集めており、皆がうっとりした表情になっている。
そんな見惚れるくらい端正な顔立ちに、洗練された雰囲気を纏う男性は、他の女性に目をくれることもなく、ただ私だけを見つめ口を開いた。
「香澄さん?」
その声は先程まで電話越しに耳にしていた低く落ち着いたものと同じだった。
つまり、この男性こそがスマートフォンの落とし主の久坂さんなのだろう。
彼の圧倒的な容姿に一瞬呆気に取られていた私は、名前を呼びかけられてハッとする。
慌てて肯定するため首を縦に振った。
「良かった。本当に来てくれたんですね。落とし物を受け渡すなんて面倒だと約束を反故にされたらどうしようかと思いました」
「そんな、約束は守ります。スマートフォンを落とされて不便されていたでしょうから」
「ええ、こうして拾ってくださって本当に助かりました」
話しながら久坂さんは私の向かいの席に腰を下ろす。
彼が座るのを見届けると、私はさっそく預かっていたスマートフォンを返却すべく差し出した。
「本当にありがとうございました。御礼にお茶をご馳走させてください」
久坂さんはそう言うと、近くの店員を呼び、メニューも見ずにサクッとオーダーを済ませる。
しばらくして私の目の前に運ばれてきたのは、華やかな3段スタンドに盛りつけられたアフターヌーンティーセットだ。
てっきり紅茶かコーヒーを注文してくれたのだと思っていた私は目を瞬く。
「あの、飲み物をご馳走してくださるってお話だったのでは……? これは……?」
「ここのアフターヌーンティーは絶品なんですよ。せっかくですから、紅茶と合わせてぜひ召し上がってください。それともこの後ご予定があったりで時間がまずいですか?」
「いえ、予定はないので時間は大丈夫なんですけど……。ただ、スマートフォンを拾っただけなのに、ここまでご馳走して頂くのは申し訳なくて」
「気にしないでください。こちらがそうさせて頂きたいだけですから」
にこりと笑顔で返され、それ以上何も言えなくなってしまった私は、ご厚意に甘え、この美味しそうなスイーツを堪能させてもらうことした。
彩とりどりに盛り付けられたスイーツの中から一つをお皿に取り、フォークを使って口に運ぶ。
一口食べた瞬間、口の中はとろけるような幸せが広がった。
ここのアフターヌーンティーが絶品だと言うのは間違いない。
高級ホテルのアフターヌーンティーにも引けを取らないクオリティだった。
甘いものが大好きな私は、遠慮していたことも忘れ、次々にスイーツを口にし自然と笑顔を綻ばせる。
「香澄さんのお口に合ったようで良かった。甘いものがお好きなんですね」
どうやら私がスイーツを頬張る様子を見ていたらしい久坂さんは、そう言ってクスリと笑った。
笑うと弧を描く唇の下にあるホクロに目が行く。
こんな絵になる美形に見られて笑顔を向けられていると思うと、男性にほとんど免疫のない私は恥ずかしくてたまらない。
じんわり頬が熱くなるのを感じた。
ただ、こんな私でも久坂さんとは沈黙で気まずくなることなく、自然と会話は弾んだ。
なぜなら久坂さんが会話を主導してくれたからだ。
穏やかで人当たりの良い話し方をする彼は、聞き上手でもあり、私から言葉をするすると引き出していく。
いつの間にか初対面の男性であることにも関わらず、私はずいぶんとリラックスしていた。
「じゃあ、この落とされたスマートフォンはプライベート用の方だったんですね」
「ええ。仕事用の方は手元にあったのでなんとかなりましたが、やはりないと困りますね。落としたと気付いた時は盗まれてしまった可能性も考えましたけど、拾ってくださったのが香澄さんで良かったですよ」
「ずっと着信音が鳴っていたのが気になったんです。あれは仕事用の方から掛けてらしたんですか? 番号が登録されていないようでしたけど」
「最近買い替えたばかりで登録を忘れていたんです。番号を手帳に控えていたのでなんとかなりました」
久坂さんはやはり昨日私と同じくあのホテルのラウンジで朝食ビュッフェを食べていたらしい。
その時に落としてしまったそうだ。
おそらく少しは滞在時間が重なっていると思うのだが、こんな目立つ人が近くにいたなんて全然気付かなかった。
「香澄さんは昨日あのラウンジにいらっしゃったということは平日がお休みの仕事をされているんですか?」
「いえ、平日が休みというより、生徒さんのレッスンに合わせてなので流動的なスケジュールです。昨日今日は特にレッスンが入っていないので休みなんです」
「生徒さんのレッスン、ですか?」
「はい。ピアノ教師をやっています」
「へえ、ピアノ教師ですか。ぜひ一度香澄さんのピアノを聞いてみたいですね」
「そんな、お聞かせするほどのものでは。教えられる程度にできるってだけで……」
一応音大を卒業しているが、自信を持って人に披露できるほどの実力ではない。
それに仕事と言っても、バリバリ働いている同世代の人達から見れば、私は腰掛け程度に思われていると思う。
父の資金で開業した自宅にあるピアノ教室で、知り合いのお子さんを中心とした数人の生徒さんを教えているだけだ。
家が裕福だからそれでも生活していけているに過ぎない。
「……久坂さんはお仕事何されているんですか?」
なんとなくこれ以上私の仕事について話を広げて欲しくなくて、私は話を変えるように今度は自分から彼に質問を投げかけた。
「私は弁護士をしています。と言っても実は長年海外で暮らしていて、日本で弁護士として活動し出したのは割と最近なんですけどね」
「海外暮らしが長いんですね。あ、どうりで……!」
私はあることに納得して思わず口しそうになり、途中で思いとどまった。
「どうりで、何です? 途中で口ごもられると気になりますね」
「いえ、大したことではないんです。海外が長いと伺ってちょっと納得したというか」
「納得? 何をですか?」
「その……久坂さん、私のこと初めから下の名前で呼ばれるので。海外だとファーストネームを気軽に呼ぶことが多いですよね。だからかと思ったんです」
そう、実は気になっていた。
彼は最初に電話で話した時から私を「東條さん」ではなく「香澄さん」と口にしていた。
初対面の男性にいきなり名前で呼ばれてドキッとさせられていたから、海外が長いと聞いて妙に納得したのだ。
「ああ、すみません。馴れ馴れしかったですね。不快でしたか?」
「あ、いえ、不快とかではなく。ただ、男性に下の名前で呼ばれることに慣れていなくて。お気になさらないでください……!」
婚約者である恭吾さんも一応私のことを下の名前で呼ぶが、実は「君」と言われることの方が多い。
恭吾さん以前に男性との交際経験がなく、小学校から高校まで女子校な上に音大も女性が多く、親族以外の男性と接する機会が極端になかった私は下の名前で呼ばれることに慣れていなかった。
「不快でないなら、これまで通りに香澄さんと呼ばせてもらいますね?」
「あ、はい」
「ところで、香澄さんは今日この後特に予定はないと言っていましたよね。もし良かったらちょっと付き合ってくれませんか?」
そう言うと久坂さんはふところから2枚の細長い紙を取り出して私に見せた。
視線を向ければ、それは何かのチケットのようだった。
「これは……?」
「映画のプレミアム試写会の招待券です。実は今日この後19時からなんですよ。知人から譲り受けたんですが、2枚あるのに一緒に行く相手がいなくて。映画はお嫌いですか?」
「いえ、好きな方ですけど」
「それならぜひ。人助けだと思って付き合ってもらえると嬉しいです」
またしてもにこりと笑顔で押し切られる。
この後予定がなく、映画は嫌いではないと言ってしまった手前、断りづらい。
それに内心、なぜかもう少し彼と話していたい気持ちもあった。
結局了承した私は、アフターヌーンティーを食べ終えると、久坂さんと一緒にカフェを出る。
ご馳走するという言葉通り、すべて久坂さんがクレジットカードで支払いをしてくれた。
その後、タクシーを拾い、試写会会場の映画館へ向かった。
映画館は大型商業施設内にあるところだった。
試写会の開場時間まで、商業施設のお店を久坂さんと一緒に少し見て回る。
雑貨や本屋を覗き、自分の気になるものを手に取ったり、久坂さんのおすすめを教えてもらったりした。
会話をしながらのウインドウショッピングは思いの外楽しく、不思議なことに初対面なのにだんだんと久坂さんと一緒にいることに馴染んでくる。
話す口調は徐々にお互いくだけたものになってきていた。
「へえ、音大卒業してるんだ。卒業して1年ということは香澄さんは24歳? 俺より7歳年下だね」
「久坂さんの方が年上だとは思っていましたけど、もっと上かと思いました」
「ん? それって俺が老けて見えるって言いたいの?」
「えっ。いえ、違います! その、すごく大人っぽくて素敵だという意味で……!」
「本当に? でもまあ、褒め言葉だと解釈しておくよ。ありがとう」
そんな会話をしているうちに開場時間になり、私たちは映画館に向かい、横並びの指定席に座った。
腰を下ろして隣を見れば、今日会ったばかりの男性がいて不思議な気分になる。
こんな展開、家を出た時には想像もしていなかった。
……それになんだかデートみたい。
カフェでお茶して、ウインドショッピングをして、映画館で映画鑑賞して。
まさに恋人同士の休日デートみたいなことをしている気がする。
「気がする」というのは、私がこういうデートらしいデートをした経験がないから憶測だ。
恭吾さんとは、レストランで食事か、ホテルや私の家で夜を過ごすかのどれかが定番だ。
いつも忙しい恭吾さんだから、その過ごし方に不満があるわけではない。
とはいえ、少しこういうデートらしいデートにも憧れがあったから、今のこの状態は新鮮だった。
いや、正確にはこれはデートではない。
ただの人助けだ。
その人助けの一環である映画の試写会もとても楽しく大満足のうちに閉会となった。
明かりが落ちていた会場が明るくなると、少しずつ人々が退場していく。
私と久坂さんも人の流れが落ち着いた頃合いに立ち上がり、会場を後にした。
商業施設から外に出ると、辺りはすっかり暗くなっており夜になっていた。
時刻は夜の21時過ぎだ。
夕方前にアフターヌーンティーを食べたものの、それ以降何も食べていなかったから少し小腹がすいている。
「香澄さん、まだ時間ある? 小腹も空いたし、さっきの映画の感想でも話しながら食事はどう?」
ここからタクシーで帰ろうと思っていた私だったが、そのお誘いは非常に魅力的だった。
少し何か食べたいのは私も同じ。
それに何より私も映画の感想を誰かと共有したい気持ちでいっぱいだった。
様々な伏線が張り巡らされたミステリー作品だったため、答え合わせがしたい気分なのだ。
「はい。私も感想を共有したいと思っていたのでぜひ」
「良かった。ちなみに香澄さんはお酒は飲める人?」
「それほど量は飲めないですけど1~2杯なら大丈夫です」
「分かった。それならお酒を飲みつつ軽食がつまめるところがいいね。お店は俺が選んでしまって大丈夫?」
「あ、はい。もちろんです。ありがとうございます」
流れるようなスムーズな会話で食事に行くことが決まった。
ここからまたタクシーで移動することになったため、私はその前にお手洗いに行かせてもらう。
その間に久坂はお店に予約を入れてくれたようだった。
タクシーに乗り込み、しばらくののちに着いた場所は私もよく知る場所。
なにしろ昨日来たばかりだ。
「香澄さんと食事するならここが最適かなと思って。なにしろ俺がスマホを落として、香澄さんが拾ってくれた場所だからね」
このホテルの最上階にあるバーを予約してくれたらしい。
久坂さんはにこりと笑い、タクシーを降りようとする私に手を差し出す。
海外が長いというだけあって女性のエスコートをし慣れた振る舞いだ。
見目が良い久坂さんがすると非常に絵になるし、まるで自分がお姫様にでもなったかのような錯覚に陥ってしまいそうだ。
マナーとしてこうしてくれているのだろうから断るのは失礼だろう。
私は差し出された手にそっと自分の手を重ね、彼の手を借りてタクシーから降りる。
「じゃあ行こうか?」
促されて一緒にエレベーターの方へ向かうのだが、私はこの時非常に混乱していた。
なぜなら先程重ねた手が未だに離れていないからだ。
むしろ握り込まれている。
何食わぬ顔をした久坂さんは繋いだ手を引くようにして歩き出したのだ。
……えっ、これエスコートじゃないよね……? どちらかと言えば手を繋いでいる状態?
困惑と恥ずかしさで、心臓がドキドキドキとうるさい音を鳴らし出す。
すっかり気を許し、映画の感想を語りたいからと気軽に食事に応じてしまったが、今更ながらに男性と二人きりなのだという事実を私は思い出した。
大通りに面したテラス席は開放感がある。
春の暖かな陽射しが心地良い。
初対面の人と会うにあたって、個室などの密室ではなく人目がある場所だったことに私は内心安堵していた。
電話で昨日少し話した限り、変な人ではなさそうだが、自衛のために警戒するに越したことはない。
テラス席に座り、落ち着かない気持ちでソワソワしなが待っていると、預かっているスマートフォンが着信音を奏でだす。
画面には昨日同様、電話番号のみが表示されていた。
タイミング的におそらく落とし主の久坂さんだろうと察しをつけた私はその着信を受ける。
「もしもし」
「香澄さんですか? もうすぐカフェに到着しそうなんですが、今どちらにいらっしゃいますか?」
「あ、私はもう着いていてテラス席に座っています」
「テラス席……ああ」
何かに気付いたような声がした次の瞬間に電話は切れ、代わりになんとなく視線を感じた私はそちらを振り向く。
そこにはスマートフォンを片手に持ったスラリと背の高い男性がちょうど大通りからテラス席へ近付いてくるところだった。
こちらを向いていたその男性と目が合う。
そのまま真っ直ぐに私のいる席へ歩みを進めてきた男性が目の前までやってきて驚いた。
ビックリするくらい容姿が整っていたからだ。
実際、男性は周囲にいる女性の視線を一身に集めており、皆がうっとりした表情になっている。
そんな見惚れるくらい端正な顔立ちに、洗練された雰囲気を纏う男性は、他の女性に目をくれることもなく、ただ私だけを見つめ口を開いた。
「香澄さん?」
その声は先程まで電話越しに耳にしていた低く落ち着いたものと同じだった。
つまり、この男性こそがスマートフォンの落とし主の久坂さんなのだろう。
彼の圧倒的な容姿に一瞬呆気に取られていた私は、名前を呼びかけられてハッとする。
慌てて肯定するため首を縦に振った。
「良かった。本当に来てくれたんですね。落とし物を受け渡すなんて面倒だと約束を反故にされたらどうしようかと思いました」
「そんな、約束は守ります。スマートフォンを落とされて不便されていたでしょうから」
「ええ、こうして拾ってくださって本当に助かりました」
話しながら久坂さんは私の向かいの席に腰を下ろす。
彼が座るのを見届けると、私はさっそく預かっていたスマートフォンを返却すべく差し出した。
「本当にありがとうございました。御礼にお茶をご馳走させてください」
久坂さんはそう言うと、近くの店員を呼び、メニューも見ずにサクッとオーダーを済ませる。
しばらくして私の目の前に運ばれてきたのは、華やかな3段スタンドに盛りつけられたアフターヌーンティーセットだ。
てっきり紅茶かコーヒーを注文してくれたのだと思っていた私は目を瞬く。
「あの、飲み物をご馳走してくださるってお話だったのでは……? これは……?」
「ここのアフターヌーンティーは絶品なんですよ。せっかくですから、紅茶と合わせてぜひ召し上がってください。それともこの後ご予定があったりで時間がまずいですか?」
「いえ、予定はないので時間は大丈夫なんですけど……。ただ、スマートフォンを拾っただけなのに、ここまでご馳走して頂くのは申し訳なくて」
「気にしないでください。こちらがそうさせて頂きたいだけですから」
にこりと笑顔で返され、それ以上何も言えなくなってしまった私は、ご厚意に甘え、この美味しそうなスイーツを堪能させてもらうことした。
彩とりどりに盛り付けられたスイーツの中から一つをお皿に取り、フォークを使って口に運ぶ。
一口食べた瞬間、口の中はとろけるような幸せが広がった。
ここのアフターヌーンティーが絶品だと言うのは間違いない。
高級ホテルのアフターヌーンティーにも引けを取らないクオリティだった。
甘いものが大好きな私は、遠慮していたことも忘れ、次々にスイーツを口にし自然と笑顔を綻ばせる。
「香澄さんのお口に合ったようで良かった。甘いものがお好きなんですね」
どうやら私がスイーツを頬張る様子を見ていたらしい久坂さんは、そう言ってクスリと笑った。
笑うと弧を描く唇の下にあるホクロに目が行く。
こんな絵になる美形に見られて笑顔を向けられていると思うと、男性にほとんど免疫のない私は恥ずかしくてたまらない。
じんわり頬が熱くなるのを感じた。
ただ、こんな私でも久坂さんとは沈黙で気まずくなることなく、自然と会話は弾んだ。
なぜなら久坂さんが会話を主導してくれたからだ。
穏やかで人当たりの良い話し方をする彼は、聞き上手でもあり、私から言葉をするすると引き出していく。
いつの間にか初対面の男性であることにも関わらず、私はずいぶんとリラックスしていた。
「じゃあ、この落とされたスマートフォンはプライベート用の方だったんですね」
「ええ。仕事用の方は手元にあったのでなんとかなりましたが、やはりないと困りますね。落としたと気付いた時は盗まれてしまった可能性も考えましたけど、拾ってくださったのが香澄さんで良かったですよ」
「ずっと着信音が鳴っていたのが気になったんです。あれは仕事用の方から掛けてらしたんですか? 番号が登録されていないようでしたけど」
「最近買い替えたばかりで登録を忘れていたんです。番号を手帳に控えていたのでなんとかなりました」
久坂さんはやはり昨日私と同じくあのホテルのラウンジで朝食ビュッフェを食べていたらしい。
その時に落としてしまったそうだ。
おそらく少しは滞在時間が重なっていると思うのだが、こんな目立つ人が近くにいたなんて全然気付かなかった。
「香澄さんは昨日あのラウンジにいらっしゃったということは平日がお休みの仕事をされているんですか?」
「いえ、平日が休みというより、生徒さんのレッスンに合わせてなので流動的なスケジュールです。昨日今日は特にレッスンが入っていないので休みなんです」
「生徒さんのレッスン、ですか?」
「はい。ピアノ教師をやっています」
「へえ、ピアノ教師ですか。ぜひ一度香澄さんのピアノを聞いてみたいですね」
「そんな、お聞かせするほどのものでは。教えられる程度にできるってだけで……」
一応音大を卒業しているが、自信を持って人に披露できるほどの実力ではない。
それに仕事と言っても、バリバリ働いている同世代の人達から見れば、私は腰掛け程度に思われていると思う。
父の資金で開業した自宅にあるピアノ教室で、知り合いのお子さんを中心とした数人の生徒さんを教えているだけだ。
家が裕福だからそれでも生活していけているに過ぎない。
「……久坂さんはお仕事何されているんですか?」
なんとなくこれ以上私の仕事について話を広げて欲しくなくて、私は話を変えるように今度は自分から彼に質問を投げかけた。
「私は弁護士をしています。と言っても実は長年海外で暮らしていて、日本で弁護士として活動し出したのは割と最近なんですけどね」
「海外暮らしが長いんですね。あ、どうりで……!」
私はあることに納得して思わず口しそうになり、途中で思いとどまった。
「どうりで、何です? 途中で口ごもられると気になりますね」
「いえ、大したことではないんです。海外が長いと伺ってちょっと納得したというか」
「納得? 何をですか?」
「その……久坂さん、私のこと初めから下の名前で呼ばれるので。海外だとファーストネームを気軽に呼ぶことが多いですよね。だからかと思ったんです」
そう、実は気になっていた。
彼は最初に電話で話した時から私を「東條さん」ではなく「香澄さん」と口にしていた。
初対面の男性にいきなり名前で呼ばれてドキッとさせられていたから、海外が長いと聞いて妙に納得したのだ。
「ああ、すみません。馴れ馴れしかったですね。不快でしたか?」
「あ、いえ、不快とかではなく。ただ、男性に下の名前で呼ばれることに慣れていなくて。お気になさらないでください……!」
婚約者である恭吾さんも一応私のことを下の名前で呼ぶが、実は「君」と言われることの方が多い。
恭吾さん以前に男性との交際経験がなく、小学校から高校まで女子校な上に音大も女性が多く、親族以外の男性と接する機会が極端になかった私は下の名前で呼ばれることに慣れていなかった。
「不快でないなら、これまで通りに香澄さんと呼ばせてもらいますね?」
「あ、はい」
「ところで、香澄さんは今日この後特に予定はないと言っていましたよね。もし良かったらちょっと付き合ってくれませんか?」
そう言うと久坂さんはふところから2枚の細長い紙を取り出して私に見せた。
視線を向ければ、それは何かのチケットのようだった。
「これは……?」
「映画のプレミアム試写会の招待券です。実は今日この後19時からなんですよ。知人から譲り受けたんですが、2枚あるのに一緒に行く相手がいなくて。映画はお嫌いですか?」
「いえ、好きな方ですけど」
「それならぜひ。人助けだと思って付き合ってもらえると嬉しいです」
またしてもにこりと笑顔で押し切られる。
この後予定がなく、映画は嫌いではないと言ってしまった手前、断りづらい。
それに内心、なぜかもう少し彼と話していたい気持ちもあった。
結局了承した私は、アフターヌーンティーを食べ終えると、久坂さんと一緒にカフェを出る。
ご馳走するという言葉通り、すべて久坂さんがクレジットカードで支払いをしてくれた。
その後、タクシーを拾い、試写会会場の映画館へ向かった。
映画館は大型商業施設内にあるところだった。
試写会の開場時間まで、商業施設のお店を久坂さんと一緒に少し見て回る。
雑貨や本屋を覗き、自分の気になるものを手に取ったり、久坂さんのおすすめを教えてもらったりした。
会話をしながらのウインドウショッピングは思いの外楽しく、不思議なことに初対面なのにだんだんと久坂さんと一緒にいることに馴染んでくる。
話す口調は徐々にお互いくだけたものになってきていた。
「へえ、音大卒業してるんだ。卒業して1年ということは香澄さんは24歳? 俺より7歳年下だね」
「久坂さんの方が年上だとは思っていましたけど、もっと上かと思いました」
「ん? それって俺が老けて見えるって言いたいの?」
「えっ。いえ、違います! その、すごく大人っぽくて素敵だという意味で……!」
「本当に? でもまあ、褒め言葉だと解釈しておくよ。ありがとう」
そんな会話をしているうちに開場時間になり、私たちは映画館に向かい、横並びの指定席に座った。
腰を下ろして隣を見れば、今日会ったばかりの男性がいて不思議な気分になる。
こんな展開、家を出た時には想像もしていなかった。
……それになんだかデートみたい。
カフェでお茶して、ウインドショッピングをして、映画館で映画鑑賞して。
まさに恋人同士の休日デートみたいなことをしている気がする。
「気がする」というのは、私がこういうデートらしいデートをした経験がないから憶測だ。
恭吾さんとは、レストランで食事か、ホテルや私の家で夜を過ごすかのどれかが定番だ。
いつも忙しい恭吾さんだから、その過ごし方に不満があるわけではない。
とはいえ、少しこういうデートらしいデートにも憧れがあったから、今のこの状態は新鮮だった。
いや、正確にはこれはデートではない。
ただの人助けだ。
その人助けの一環である映画の試写会もとても楽しく大満足のうちに閉会となった。
明かりが落ちていた会場が明るくなると、少しずつ人々が退場していく。
私と久坂さんも人の流れが落ち着いた頃合いに立ち上がり、会場を後にした。
商業施設から外に出ると、辺りはすっかり暗くなっており夜になっていた。
時刻は夜の21時過ぎだ。
夕方前にアフターヌーンティーを食べたものの、それ以降何も食べていなかったから少し小腹がすいている。
「香澄さん、まだ時間ある? 小腹も空いたし、さっきの映画の感想でも話しながら食事はどう?」
ここからタクシーで帰ろうと思っていた私だったが、そのお誘いは非常に魅力的だった。
少し何か食べたいのは私も同じ。
それに何より私も映画の感想を誰かと共有したい気持ちでいっぱいだった。
様々な伏線が張り巡らされたミステリー作品だったため、答え合わせがしたい気分なのだ。
「はい。私も感想を共有したいと思っていたのでぜひ」
「良かった。ちなみに香澄さんはお酒は飲める人?」
「それほど量は飲めないですけど1~2杯なら大丈夫です」
「分かった。それならお酒を飲みつつ軽食がつまめるところがいいね。お店は俺が選んでしまって大丈夫?」
「あ、はい。もちろんです。ありがとうございます」
流れるようなスムーズな会話で食事に行くことが決まった。
ここからまたタクシーで移動することになったため、私はその前にお手洗いに行かせてもらう。
その間に久坂はお店に予約を入れてくれたようだった。
タクシーに乗り込み、しばらくののちに着いた場所は私もよく知る場所。
なにしろ昨日来たばかりだ。
「香澄さんと食事するならここが最適かなと思って。なにしろ俺がスマホを落として、香澄さんが拾ってくれた場所だからね」
このホテルの最上階にあるバーを予約してくれたらしい。
久坂さんはにこりと笑い、タクシーを降りようとする私に手を差し出す。
海外が長いというだけあって女性のエスコートをし慣れた振る舞いだ。
見目が良い久坂さんがすると非常に絵になるし、まるで自分がお姫様にでもなったかのような錯覚に陥ってしまいそうだ。
マナーとしてこうしてくれているのだろうから断るのは失礼だろう。
私は差し出された手にそっと自分の手を重ね、彼の手を借りてタクシーから降りる。
「じゃあ行こうか?」
促されて一緒にエレベーターの方へ向かうのだが、私はこの時非常に混乱していた。
なぜなら先程重ねた手が未だに離れていないからだ。
むしろ握り込まれている。
何食わぬ顔をした久坂さんは繋いだ手を引くようにして歩き出したのだ。
……えっ、これエスコートじゃないよね……? どちらかと言えば手を繋いでいる状態?
困惑と恥ずかしさで、心臓がドキドキドキとうるさい音を鳴らし出す。
すっかり気を許し、映画の感想を語りたいからと気軽に食事に応じてしまったが、今更ながらに男性と二人きりなのだという事実を私は思い出した。
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悲しみを忘れたい一心で、
詩織は“あの人”と同い年のカレと一夜を共にし、
”初めて”を捧げてしまう。
きっと楽になれる、そう思ったはずだったのに、
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その場をそっと立ち去った。
帰国後、知人の紹介で転職した詩織は、
新しい職場で一夜を共にしたカレと再会することに。
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叶わぬ恋を拗らせた主人公の
一夜の過ちから始まるラブストーリー。
※この作品はエブリスタ様、ムーンライトノベルズ様でも掲載しています。
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