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#01. First Contact
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「……恭吾さん、もう行くんですか?」
「ああ、今日は昼前にオペが入ってる。一度家に寄って病院へ向かう予定だ。君はチェックアウトまで寝ていて構わない」
「分かりました。お気をつけて」
「また連絡する。そろそろ結婚式について話し合わないといけないからな。お父上の東條先生にもよろしく伝えておいてくれ」
「はい」
私はベッドの上に起き上がり、婚約者である恭吾さんが昨日着ていた服に着替えている様子をぼんやり見つめる。
時刻は朝の6時。
昨夜ここのホテルの最上階にあるレストランで遅めのディナーを食べ、この部屋に来てまだ数時間しか経っていない。
一緒にいたのは半日にも満たない時間だ。
それでも今回はいつもと比べると長い方。
大学病院で外科医を務める恭吾さんは常に多忙で生活も不規則だ。
そんな恭吾さんにとって空き時間は貴重なものであり、それを彼は私と会うために充ててくれているのだから私は感謝している。
「じゃあまた」
身支度を整えた恭吾さんが入り口のドアへ向かったのを見て、慌ててベッドから抜け出し私も後を追う。
彼が部屋から出ていくのを入り口まで見送り、一人になった途端、「はぁ」と小さなため息をこっそり漏らした。
……結婚式について話し合う、か。このまま恭吾さんと半年後くらいには結婚しているんだろうなぁ。
トントン拍子に話が進み、気付けば人妻になっている自分がありありと想像できる。
実際、恭吾さんとは大学を卒業してすぐ、1年前の4月に父の紹介でお見合いをして出会ったのだが、その後今日に至るまでまさに流れるような早さで進んでいる。
たった一度お見合いで顔を合わせただけだったのに、その直後に婚約が決まった。
なんだったらすぐにでも結婚をという話になっていたのを、私が「1年は交際をさせて欲しい」と願い出たから婚約で落ち着いた形だ。
病院経営をする父が持ってきたお見合いであり、相手が医師&婿入りであることから、将来的に彼を後継者に見込んでいるのだと思う。
それは言われずとも私にも分かった。
となると、相手が私で良いと言うのなら、私に断るという選択肢はない。
父の求める通りに父が決めた相手と結婚するのが家のため。
ただ、それまで男性経験が皆無だった私はどうしてもいきなり結婚するということが不安でたまらなかった。
だから交際から始めたいと猶予をもぎ取った。
普段親の決めた事には意を唱えない私が珍しく自分の意思を口にしたため、結果的にそれが認められて今に至っている。
……あれからもう1年。本当にあっという間だったな。
私は入り口からベッドルームに戻る。
すっかり目が覚めてしまって、とても二度寝する気分にはならなかった。
しょうがないので眠るのは諦め、バスタブにお湯をはって湯船に浸かることにする。
高級ホテルのスイートルームなだけあって、パウダールームには有名ブランドのバスグッズが揃っていた。
お湯がたまったところで、私はそのアメニティの中からローズの香りのバスソルトを手に取り、バスローブを脱ぎ捨てて浴室へ。
エレガントで華やかな香りが広がる中、肩までお湯につかり身体を温める。
ホッとした心地で一息つくと、今度はぼーっとしてきて、ついあれやこれやと物思いに耽ってしまう。
なんとはなしにお湯の中で身体を自分でマッサージしつつ、考えるのはやはりこれからのことだ。
……このまま恭吾さんと結婚。つまり恭吾さんが私の旦那様になるわけで、これからも今の延長線上の生活が続くのね。
今は別々のところに住んでいるが、結婚すれば一緒に暮らすことになる。
正直、今との変化といえばそれくらいだろう。
きっと恭吾さんは変わらず忙しくほとんど家にいないだろうし、顔を合わせた時には食事を一緒にとって、身体を重ねて――そうして日々が過ぎていくに違いない。
そのうち子供ができて、私は仕事を辞めて専業主婦として子育て中心の生活になるのだろう。
父は昔気質な考え方の持ち主で、女は仕事なんかせずに夫を支え家を守るものだと思っているから、むしろ私が仕事をするのもよく思っていない。
きっと家のために早く子供を産んでくれることを期待している。
これまでも父の望んだ通りの道を歩んできた。
東條家に生まれたからには、そういうものだと思っていたし、それに抗うつもりは全くない。
だから、恭吾さんとの結婚だって全然嫌ではない。
恭吾さんとの1年で、男女交際というものを身を持って知り、結婚への不安も薄らいだ。
残念ながら恋情というものは分からなかったけど、恭吾さんのことは好意的に感じている。
仕事に真面目で、人となりも誠実だ。
9歳年上だから頼りにもなる。
外見も、チタンフレームのハーフリム眼鏡をかけた知的でクールな顔立ちで、一般的にルックスが良いと言われる男性だ。
欠点らしい欠点もなく、政略結婚の相手として非の打ち所がない。
人によっては、忙しすぎて構ってもらえない男性は嫌だと思うかもしれないが、私は医者家系で生まれ育ったのでそれも当たり前のことと感じている。
だから、繰り返すが、恭吾さんと結婚するのは全然嫌ではないのだ。
ただ……
……一度くらいハメを外してみたい。
結婚を前にして私の心の奥底にそこはかとなく漂うのは、そんな少しの好奇心だ。
これまで品行方正に父の言う通りに生きてきたから、少し道を踏み外してみたい気持ちが燻っている。
特にその想いが大きくなってしまったのは、この前偶然見てしまったアレのせいだ。
アレとはなにか?
――ティーンズラブ漫画である。
◇◇◇
それは先日、学生時代からの友人に会った時の出来事だ。
友人は弁護士事務所でパラリーガルをしていて、担当している事件の情報収集の一環で、その日彼女はたまたまティーンズラブ漫画を持参していた。
それがどんな漫画なのか全く知らず、パラパラっとページをめくった私は思わず目を見開いて固まってしまうほど驚いた。
なにしろ漫画の中であられもない姿の男女が絡み合っているのだ。
男性向けにそういった漫画や小説があることは知識として知っていたけど、これは女性向けだと友人から聞いてまたしてもビックリした。
言われてみれば、全体的に絵が綺麗な上に、視点は女性であり、男性キャラクターは容姿が良くカッコよく描かれている。
乱れる男女の描写を目にして、恥ずかしくて思わず赤面してしまうのと同時に、私の心臓はドキドキと脈打つ。
なぜか漫画から目が離せず、私が目をパチパチしながら見入ってしまっていると、「お嬢様育ちの香澄はTL漫画なんて読んだことないよね」と友人は楽しそうに笑った。
初めて目にしたティーンズラブ漫画は、それ自体が私とって衝撃だった。
だが、それを上回る衝撃はその中身だ。
紙面の中の女性キャラクターは甘くとろけた顔をしていて、あまりにも気持ち良さそうで。
見ているだけで私もなんだか妙な気分になってくる。
そして女性キャラクターは何度も何度も「イっちゃうっ……!」と過ぎた快感に涙を流して叫ぶのだ。
……なにこれ。
それが私の率直な感想だった。
だってこんなの私が知っている行為じゃない。
気持ち良さに乱れ狂うなんて、一度だって経験したことはない。
知識として女性にも絶頂は起こりうるとは認識していたけど、おとぎ話かなにかだと思っていた。
恐る恐る友人に「これって完全なるフィクションだよね……?」と問いかけてみれば、私の質問の意図を察した友人はこう答えた。
「ストーリー自体はフィクションだし、描写は多少盛ってるだろうけど、行為自体は普通なヤツだよ」と。
聞けばティーンズラブ漫画によっては、こんなのリアルではありえないとツッコミたくなるものや、ごく一部の人しかしない行為を描いたものもあるらしい。
でも私が読んだ作品は現実的なものだという。
つまり、世の男女の営みでは、この漫画のようなことが実際に繰り広げられているのだ。
驚愕だった。
私も恭吾さんと交際するようになって、彼と身体の関係を持つようになったけど、一度もこの漫画の女性キャラクターのようになったことはない。
それなりに気持ち良くはあるが、私にとってその行為はどちらかと言えば義務みたいなものだ。
相手が求めて来たらそれに応え、彼が満足して果てるまで付き合う感覚でいた。
……なのに、女性側もこんなふうになるなんて。
そう、これがキッカケだった。
これ以来、つい考えてしまうようになったのだ。
あんなふうに男性に導かれて絶頂するってどんな感じなんだろう……?
泣き叫ぶくらい気持ち良いのかな……?
考え出すと止まらない。
一度でいいから自分も経験してみたいという欲求がむくむくと顔を出す。
だけど、婚約者である恭吾さんとの行為ではそれは叶わない気がしていた。
他の男性を知らないから断言できないが、彼は割と淡白な方なのだと思う。
甘い言葉や言動はなく、欲を吐き出すように淡々と私を抱く。
このまま恭吾さんと結婚すれば、当たり前のことだが、私は彼以外に抱かれることはない。
そんなことをすれば不倫になってしまうし、周囲にも迷惑が及ぶ。
でも、もし今ならば?
結婚する前なら法に触れることはない。
恭吾さんには少し申し訳なく思うけど、たった一度きりだ。
知られないように自分の胸の内に秘めて墓場まで持っていく心づもりなら、許してもらえないだろうか。
結婚したら、そのぶん彼に尽くすと誓ってもいい。
つまり、「一度くらいハメを外してみたい」という私の想いは、言い換えると、「一度だけでいいから他の男性に抱かれて乱れてみたい」というものだった。
◇◇◇
ふと気が付けば、お湯につかっている私の手足の指がシワシワにふやけている。
すっかり物思いに耽っていてずいぶん長風呂をしてしまっていたようだ。
私は手早く髪や身体を洗い、バスルームから出て身支度を始める。
お風呂に入ったせいか、先程以上に目が冴えてしまっていたため、もう一度ベッドに潜り込むという選択肢はなしだ。
ちょうど朝食に良い時間だったこともあり、着替えてホテルのラウンジに行くことにした。
ルームサービスを頼む手もあったけど、なんとなくこの広い部屋で一人で食べるのは寂しかったからだ。
ラウンジは平日の朝ということもあり、スーツに身を包んだ人が多い。
席に案内され、朝の日差しが差し込む明るい店内で、ホテルご自慢の和洋食ビュッフェをいただく。
ここのホテルのこのふわとろオムレツと焼きたてパンは相変わらず最高に美味しい。
人の話し声や食事の音が混ざり合ったザワザワとした騒めきも程よく、ゆったり流れるBGMと合わさり心地良い空間だ。
美食に舌鼓を打ちつつ、のんびりとした心地で朝食を楽しんでいたその時だ。
その爽快な朝の空間を遮る電子音が私の耳に飛び込んできた。
スマートフォンの着信音だ。
確認したが私のものではない。
他の誰かのものだ。
着信音なんて今の世の中聞き慣れたものだから私も普段なら気に留めない。
だけど、一向に鳴り止まないというのなら別だ。
その音は誰かが止めることもなく、私の近くでずっと鳴り続いていた。
さすがに途中から気になって、つい辺りをキョロキョロと見回してしまう。
そうして気付いた。
私の隣の席の椅子の下にスマートフォンが落ちていて、それが鳴っているのだ。
たぶんホテルスタッフも落ちていることに気が付かなかったのだろう。
今も辺りの騒めきに紛れて、私以外の人は特に気付いていない様子だった。
このまま鳴り続けているのも気になるし、もしかしたら落とし主がかけてきているのかもしれないと思った私はそのスマートフォンを拾い上げる。
画面を見ると、スマートフォンには登録されていないのか、番号だけが表示されていた。
「……もしもし」
画面をタップして耳にスマートフォンをあてる。
人の電話に無断で出るという行動に私は少し緊張しながら小さな声を絞り出した。
「もしもし。もしかしてこのスマホを拾ってくださった方ですか?」
聞こえてきたのは、よく通る低く落ち着いた男性の声だった。
相手が男性だったことに一瞬ビクッとしてしまった私だったが、どことなく安心感を与えるような低音ボイスにホッとする。
拾ったという言葉が出るくらいだから、おそらく落とし主だろうことも安堵に繋がった。
「はい。ホテルのラウンジで見つけました。ずっと着信音が鳴っていたので勝手に出てしまったのですが……」
「いえ、むしろ出てくださってありがとうございます。職場についた今、落としたことに気が付いて、困っていたところなんですよ」
「そうなんですね。見つかったようで良かったです」
電話の男性は、先程ここのラウンジで朝食を食べ、職場に移動したらしい。
そして着いてからスマートフォンを無くしたことに気が付いて、慌てて自分の電話番号にかけてみたそうだ。
あまり周囲を気にしていなかったので記憶は不確かだが、私がこの席に座った時、なんとなく隣の席に男性がいたような気もする。
「この後予定が詰まっていてラウンジに取りに戻る時間がなさそうなんです。大変申し訳ないのですが、しばらくそのスマホを預かっていてもらえないでしょうか?」
「えっ、預かる、ですか……?」
「ええ、不躾ですみませんが、お願いできると大変助かります。あなたのご都合の良い時に取りに伺い、拾って頂いた御礼もさせてください」
「分かりました。預かるのは構いませんが、御礼して頂く程のことではないので、そのお気遣いは結構です」
「それではこちらの気が済みません。大事なデータも入っているスマホなので、拾ってくださって本当に感謝しているのですから」
結局、明日土曜日の昼間にカフェで会い、スマートフォンを受け渡すとともに、一杯だけ飲み物をご馳走頂くという話になった。
知らない人と会うことに多少不安はあるが、昼間のカフェだという点が私の気を軽くさせる。
それによく考えれば男性と二人で会うことになるのに、この時の私は「人助け」としか認識しておらず、そのことに気付いていなかった。
「ああ、そういえば名乗っていませんでしたね。私は久坂春臣と申します。あなたの名前も伺っても?」
「あ、そうですね。私は東條香澄です」
「……香澄さん、ですか。可愛い名前ですね」
「えっ」
「では、明日15時に」
男性から可愛いと褒める言葉をサラリと述べられ、慣れないことに動揺する私を他所に、通話が終了する。
それと同時に、今更ながら自分が男性と二人で会う約束をしてしまったのだということに思い至った。
途端になぜか胸がドキドキし出す。
これが、のちに私の人生を大きく翻弄することになる彼・久坂春臣とのファーストコンタクトだった――。
「ああ、今日は昼前にオペが入ってる。一度家に寄って病院へ向かう予定だ。君はチェックアウトまで寝ていて構わない」
「分かりました。お気をつけて」
「また連絡する。そろそろ結婚式について話し合わないといけないからな。お父上の東條先生にもよろしく伝えておいてくれ」
「はい」
私はベッドの上に起き上がり、婚約者である恭吾さんが昨日着ていた服に着替えている様子をぼんやり見つめる。
時刻は朝の6時。
昨夜ここのホテルの最上階にあるレストランで遅めのディナーを食べ、この部屋に来てまだ数時間しか経っていない。
一緒にいたのは半日にも満たない時間だ。
それでも今回はいつもと比べると長い方。
大学病院で外科医を務める恭吾さんは常に多忙で生活も不規則だ。
そんな恭吾さんにとって空き時間は貴重なものであり、それを彼は私と会うために充ててくれているのだから私は感謝している。
「じゃあまた」
身支度を整えた恭吾さんが入り口のドアへ向かったのを見て、慌ててベッドから抜け出し私も後を追う。
彼が部屋から出ていくのを入り口まで見送り、一人になった途端、「はぁ」と小さなため息をこっそり漏らした。
……結婚式について話し合う、か。このまま恭吾さんと半年後くらいには結婚しているんだろうなぁ。
トントン拍子に話が進み、気付けば人妻になっている自分がありありと想像できる。
実際、恭吾さんとは大学を卒業してすぐ、1年前の4月に父の紹介でお見合いをして出会ったのだが、その後今日に至るまでまさに流れるような早さで進んでいる。
たった一度お見合いで顔を合わせただけだったのに、その直後に婚約が決まった。
なんだったらすぐにでも結婚をという話になっていたのを、私が「1年は交際をさせて欲しい」と願い出たから婚約で落ち着いた形だ。
病院経営をする父が持ってきたお見合いであり、相手が医師&婿入りであることから、将来的に彼を後継者に見込んでいるのだと思う。
それは言われずとも私にも分かった。
となると、相手が私で良いと言うのなら、私に断るという選択肢はない。
父の求める通りに父が決めた相手と結婚するのが家のため。
ただ、それまで男性経験が皆無だった私はどうしてもいきなり結婚するということが不安でたまらなかった。
だから交際から始めたいと猶予をもぎ取った。
普段親の決めた事には意を唱えない私が珍しく自分の意思を口にしたため、結果的にそれが認められて今に至っている。
……あれからもう1年。本当にあっという間だったな。
私は入り口からベッドルームに戻る。
すっかり目が覚めてしまって、とても二度寝する気分にはならなかった。
しょうがないので眠るのは諦め、バスタブにお湯をはって湯船に浸かることにする。
高級ホテルのスイートルームなだけあって、パウダールームには有名ブランドのバスグッズが揃っていた。
お湯がたまったところで、私はそのアメニティの中からローズの香りのバスソルトを手に取り、バスローブを脱ぎ捨てて浴室へ。
エレガントで華やかな香りが広がる中、肩までお湯につかり身体を温める。
ホッとした心地で一息つくと、今度はぼーっとしてきて、ついあれやこれやと物思いに耽ってしまう。
なんとはなしにお湯の中で身体を自分でマッサージしつつ、考えるのはやはりこれからのことだ。
……このまま恭吾さんと結婚。つまり恭吾さんが私の旦那様になるわけで、これからも今の延長線上の生活が続くのね。
今は別々のところに住んでいるが、結婚すれば一緒に暮らすことになる。
正直、今との変化といえばそれくらいだろう。
きっと恭吾さんは変わらず忙しくほとんど家にいないだろうし、顔を合わせた時には食事を一緒にとって、身体を重ねて――そうして日々が過ぎていくに違いない。
そのうち子供ができて、私は仕事を辞めて専業主婦として子育て中心の生活になるのだろう。
父は昔気質な考え方の持ち主で、女は仕事なんかせずに夫を支え家を守るものだと思っているから、むしろ私が仕事をするのもよく思っていない。
きっと家のために早く子供を産んでくれることを期待している。
これまでも父の望んだ通りの道を歩んできた。
東條家に生まれたからには、そういうものだと思っていたし、それに抗うつもりは全くない。
だから、恭吾さんとの結婚だって全然嫌ではない。
恭吾さんとの1年で、男女交際というものを身を持って知り、結婚への不安も薄らいだ。
残念ながら恋情というものは分からなかったけど、恭吾さんのことは好意的に感じている。
仕事に真面目で、人となりも誠実だ。
9歳年上だから頼りにもなる。
外見も、チタンフレームのハーフリム眼鏡をかけた知的でクールな顔立ちで、一般的にルックスが良いと言われる男性だ。
欠点らしい欠点もなく、政略結婚の相手として非の打ち所がない。
人によっては、忙しすぎて構ってもらえない男性は嫌だと思うかもしれないが、私は医者家系で生まれ育ったのでそれも当たり前のことと感じている。
だから、繰り返すが、恭吾さんと結婚するのは全然嫌ではないのだ。
ただ……
……一度くらいハメを外してみたい。
結婚を前にして私の心の奥底にそこはかとなく漂うのは、そんな少しの好奇心だ。
これまで品行方正に父の言う通りに生きてきたから、少し道を踏み外してみたい気持ちが燻っている。
特にその想いが大きくなってしまったのは、この前偶然見てしまったアレのせいだ。
アレとはなにか?
――ティーンズラブ漫画である。
◇◇◇
それは先日、学生時代からの友人に会った時の出来事だ。
友人は弁護士事務所でパラリーガルをしていて、担当している事件の情報収集の一環で、その日彼女はたまたまティーンズラブ漫画を持参していた。
それがどんな漫画なのか全く知らず、パラパラっとページをめくった私は思わず目を見開いて固まってしまうほど驚いた。
なにしろ漫画の中であられもない姿の男女が絡み合っているのだ。
男性向けにそういった漫画や小説があることは知識として知っていたけど、これは女性向けだと友人から聞いてまたしてもビックリした。
言われてみれば、全体的に絵が綺麗な上に、視点は女性であり、男性キャラクターは容姿が良くカッコよく描かれている。
乱れる男女の描写を目にして、恥ずかしくて思わず赤面してしまうのと同時に、私の心臓はドキドキと脈打つ。
なぜか漫画から目が離せず、私が目をパチパチしながら見入ってしまっていると、「お嬢様育ちの香澄はTL漫画なんて読んだことないよね」と友人は楽しそうに笑った。
初めて目にしたティーンズラブ漫画は、それ自体が私とって衝撃だった。
だが、それを上回る衝撃はその中身だ。
紙面の中の女性キャラクターは甘くとろけた顔をしていて、あまりにも気持ち良さそうで。
見ているだけで私もなんだか妙な気分になってくる。
そして女性キャラクターは何度も何度も「イっちゃうっ……!」と過ぎた快感に涙を流して叫ぶのだ。
……なにこれ。
それが私の率直な感想だった。
だってこんなの私が知っている行為じゃない。
気持ち良さに乱れ狂うなんて、一度だって経験したことはない。
知識として女性にも絶頂は起こりうるとは認識していたけど、おとぎ話かなにかだと思っていた。
恐る恐る友人に「これって完全なるフィクションだよね……?」と問いかけてみれば、私の質問の意図を察した友人はこう答えた。
「ストーリー自体はフィクションだし、描写は多少盛ってるだろうけど、行為自体は普通なヤツだよ」と。
聞けばティーンズラブ漫画によっては、こんなのリアルではありえないとツッコミたくなるものや、ごく一部の人しかしない行為を描いたものもあるらしい。
でも私が読んだ作品は現実的なものだという。
つまり、世の男女の営みでは、この漫画のようなことが実際に繰り広げられているのだ。
驚愕だった。
私も恭吾さんと交際するようになって、彼と身体の関係を持つようになったけど、一度もこの漫画の女性キャラクターのようになったことはない。
それなりに気持ち良くはあるが、私にとってその行為はどちらかと言えば義務みたいなものだ。
相手が求めて来たらそれに応え、彼が満足して果てるまで付き合う感覚でいた。
……なのに、女性側もこんなふうになるなんて。
そう、これがキッカケだった。
これ以来、つい考えてしまうようになったのだ。
あんなふうに男性に導かれて絶頂するってどんな感じなんだろう……?
泣き叫ぶくらい気持ち良いのかな……?
考え出すと止まらない。
一度でいいから自分も経験してみたいという欲求がむくむくと顔を出す。
だけど、婚約者である恭吾さんとの行為ではそれは叶わない気がしていた。
他の男性を知らないから断言できないが、彼は割と淡白な方なのだと思う。
甘い言葉や言動はなく、欲を吐き出すように淡々と私を抱く。
このまま恭吾さんと結婚すれば、当たり前のことだが、私は彼以外に抱かれることはない。
そんなことをすれば不倫になってしまうし、周囲にも迷惑が及ぶ。
でも、もし今ならば?
結婚する前なら法に触れることはない。
恭吾さんには少し申し訳なく思うけど、たった一度きりだ。
知られないように自分の胸の内に秘めて墓場まで持っていく心づもりなら、許してもらえないだろうか。
結婚したら、そのぶん彼に尽くすと誓ってもいい。
つまり、「一度くらいハメを外してみたい」という私の想いは、言い換えると、「一度だけでいいから他の男性に抱かれて乱れてみたい」というものだった。
◇◇◇
ふと気が付けば、お湯につかっている私の手足の指がシワシワにふやけている。
すっかり物思いに耽っていてずいぶん長風呂をしてしまっていたようだ。
私は手早く髪や身体を洗い、バスルームから出て身支度を始める。
お風呂に入ったせいか、先程以上に目が冴えてしまっていたため、もう一度ベッドに潜り込むという選択肢はなしだ。
ちょうど朝食に良い時間だったこともあり、着替えてホテルのラウンジに行くことにした。
ルームサービスを頼む手もあったけど、なんとなくこの広い部屋で一人で食べるのは寂しかったからだ。
ラウンジは平日の朝ということもあり、スーツに身を包んだ人が多い。
席に案内され、朝の日差しが差し込む明るい店内で、ホテルご自慢の和洋食ビュッフェをいただく。
ここのホテルのこのふわとろオムレツと焼きたてパンは相変わらず最高に美味しい。
人の話し声や食事の音が混ざり合ったザワザワとした騒めきも程よく、ゆったり流れるBGMと合わさり心地良い空間だ。
美食に舌鼓を打ちつつ、のんびりとした心地で朝食を楽しんでいたその時だ。
その爽快な朝の空間を遮る電子音が私の耳に飛び込んできた。
スマートフォンの着信音だ。
確認したが私のものではない。
他の誰かのものだ。
着信音なんて今の世の中聞き慣れたものだから私も普段なら気に留めない。
だけど、一向に鳴り止まないというのなら別だ。
その音は誰かが止めることもなく、私の近くでずっと鳴り続いていた。
さすがに途中から気になって、つい辺りをキョロキョロと見回してしまう。
そうして気付いた。
私の隣の席の椅子の下にスマートフォンが落ちていて、それが鳴っているのだ。
たぶんホテルスタッフも落ちていることに気が付かなかったのだろう。
今も辺りの騒めきに紛れて、私以外の人は特に気付いていない様子だった。
このまま鳴り続けているのも気になるし、もしかしたら落とし主がかけてきているのかもしれないと思った私はそのスマートフォンを拾い上げる。
画面を見ると、スマートフォンには登録されていないのか、番号だけが表示されていた。
「……もしもし」
画面をタップして耳にスマートフォンをあてる。
人の電話に無断で出るという行動に私は少し緊張しながら小さな声を絞り出した。
「もしもし。もしかしてこのスマホを拾ってくださった方ですか?」
聞こえてきたのは、よく通る低く落ち着いた男性の声だった。
相手が男性だったことに一瞬ビクッとしてしまった私だったが、どことなく安心感を与えるような低音ボイスにホッとする。
拾ったという言葉が出るくらいだから、おそらく落とし主だろうことも安堵に繋がった。
「はい。ホテルのラウンジで見つけました。ずっと着信音が鳴っていたので勝手に出てしまったのですが……」
「いえ、むしろ出てくださってありがとうございます。職場についた今、落としたことに気が付いて、困っていたところなんですよ」
「そうなんですね。見つかったようで良かったです」
電話の男性は、先程ここのラウンジで朝食を食べ、職場に移動したらしい。
そして着いてからスマートフォンを無くしたことに気が付いて、慌てて自分の電話番号にかけてみたそうだ。
あまり周囲を気にしていなかったので記憶は不確かだが、私がこの席に座った時、なんとなく隣の席に男性がいたような気もする。
「この後予定が詰まっていてラウンジに取りに戻る時間がなさそうなんです。大変申し訳ないのですが、しばらくそのスマホを預かっていてもらえないでしょうか?」
「えっ、預かる、ですか……?」
「ええ、不躾ですみませんが、お願いできると大変助かります。あなたのご都合の良い時に取りに伺い、拾って頂いた御礼もさせてください」
「分かりました。預かるのは構いませんが、御礼して頂く程のことではないので、そのお気遣いは結構です」
「それではこちらの気が済みません。大事なデータも入っているスマホなので、拾ってくださって本当に感謝しているのですから」
結局、明日土曜日の昼間にカフェで会い、スマートフォンを受け渡すとともに、一杯だけ飲み物をご馳走頂くという話になった。
知らない人と会うことに多少不安はあるが、昼間のカフェだという点が私の気を軽くさせる。
それによく考えれば男性と二人で会うことになるのに、この時の私は「人助け」としか認識しておらず、そのことに気付いていなかった。
「ああ、そういえば名乗っていませんでしたね。私は久坂春臣と申します。あなたの名前も伺っても?」
「あ、そうですね。私は東條香澄です」
「……香澄さん、ですか。可愛い名前ですね」
「えっ」
「では、明日15時に」
男性から可愛いと褒める言葉をサラリと述べられ、慣れないことに動揺する私を他所に、通話が終了する。
それと同時に、今更ながら自分が男性と二人で会う約束をしてしまったのだということに思い至った。
途端になぜか胸がドキドキし出す。
これが、のちに私の人生を大きく翻弄することになる彼・久坂春臣とのファーストコンタクトだった――。
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