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日常話
神薙安曇の受難 ~女装刑事の○○奇譚Ⅱ~ 〜Since 2002〜
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通勤時間帯と通学時間帯が重なった電車内。
特に学生が多い時間帯故に、明るい声がそこら中で響く。
そんなぎゅうぎゅうの車内は、彼にとっての天国だった。
今日の標的を探し、そして近くに立つ、一人の女に目を止める。
女子大生だろうか。
美しい顔。されど華やかさは控えめで、真面目そうで、それでいておとなしそうなところが気に入った。
手すりに右腕を回して体を支えつつ、その手一つで起用に本を読みながら、その女は通路側を背に立っていた。
位置取りは最高。
男は舌なめずりするよう、女の長い花柄のロングスカートに手を伸ばし、その上から女の尻を鷲掴むように触れた。
(ん……?)
びくりと震える女の肩。
しかし、その尻は意外と固く筋肉質で、思わず男の頭に疑問符が浮かぶ。
しかし――。
女の左手が、男の手を一気にねじり上げた。
「いででででででッ!」
思わず男が悲鳴をあげる。
何事かと、車内が一気にざわついた。
男の顔に、女が何かを押し付けるよう、何か冷たいモノが触れる。
それは黒い――手帳か、財布のような――。
近すぎてよく見えないその黒い物体の向こうに、涙目の、それでいて真っ赤に紅潮した頬の顔とぶつかる。
ねじり上げる腕にさらに力が入り、彼女が、口を開いた。
「現・行・犯だ! 逮捕する」
可憐な顔。しかしてその声は、女にしては、思った以上に低かった。
◆◇◆
「ちぇーッ。また神薙かよ」
頬を膨らませた少女――ではなく、先輩が頬を膨らませた。
「自信無くすなー。こんなに連続で検挙されちゃうと」
借り物の有名私立高校の本物の制服を身に纏い、微かにうっすらと化粧をした女子高生らしいその顔は、すれ違う程度であれば十分違和感なく、もうすぐ三十路までカウントダウンの男とは絶対に思わないだろう。
「先輩……オレたちは曲がりなりにも捜査一課ですよ?」
お手柄金星とは裏腹に、暗い表情で神薙安曇がじっとりと睨んだ。
犯人を鉄道警察と駅員に引き渡し、今は駅前のベンチで二人そろって休憩中。
「こんなの、鉄道警察や生活安全課の管轄じゃないですか……」
どうしてこうなった! と、安曇は盛大にため息を吐いた。
ことの発端は先輩こと、河田颪の同級生――地域課に所属する、ある女性警官からの相談という名の愚痴だった。
曰く、最近、痴漢被害の通報が多く、困っている――と。
被害者の証言により、犯人は複数だということはこの段階で判明していたのだが、よく被害が出るという時間帯の電車に女性警官が乗って何度も張り込みを行ってはいたものの、無意識に殺気でも発していたのか解決には至らず――白羽の矢が立ったのが、何故か捜査一課のこの二人。
小柄で小動物系の可愛らしさで評判の河田と、これまた小柄で、美少女のように可愛らしい神薙の相棒同士。
――一応、建前上は別の捜査のついで。という事になっている。
もっとも、女装させといてついでもクソもないだろう。と、終始ノリノリの上司はともかく、不満タラタラの安曇は内心思っていたが。
あぁ、誰かに見られたら、どうしよう――。
「よくお似合いですよ。お二人とも」
突然の落ち着いた声に、颪と安曇は、思わず振り返った。
そこに立っていたのは、品のある、和服姿の一人の美しい女性。
凛とした気品のある佇まいながら、その表情は柔らかく、穏やかに微笑んでいた。
見たことのない顔。
しかし、颪と安曇には、どうしてもこの声に聞き覚えがあって、思わずお互い、わなわなと肩を震わせた。
「お……お前……」
「あの……もしかして、石井、さん?」
ピンポーンと、女は満面の笑顔で笑った。
「けど、この姿の時はいつものように薫子って呼んで欲しいわ~。ね! 嵐子ちゃん!」
小柄な颪に、背の高い和服美女が抱きついた。
普段会う時はもっと濃く――黒や真紅を基調とした化粧をばっちりキメて、銀色の長いウィッグを合わせた、いわゆる『ゴシック』と呼ばれるジャンルの衣装を身に纏っているので、今日のナチュラル・メイクに落ち着いたパステル・カラーの訪問着姿は少々意外性もありつつ、しかしとても似合っている。
あまり着物に詳しくはないが、たぶん、そこそこ良い値段の、上等な物ではないか。と安曇は思った。
薫子こと石井薫は、颪が行きつけのバーで知り合った飲み友達だった。
――その、彼の正体を知るまでは。
「やめろー! 離せー!」
本気でジタバタと逃げようとする颪。
「おま、ちょ……あのなぁ!」
ワナワナと言葉を震わせながら――それでも、かろうじて声のトーンを落としつつ、颪は薫に抗議の声を上げた。
「自分の職業、少しは考えろよ! 警察官とヤクザが友達同士の仲良しこよしとか、洒落にならねーだろ!」
「あら。私は別段、気にしなくてよ?」
お願いそこは気にして! と、颪はがっくりと肩を落とした。
石井薫。彼は『玄任会』という任侠団体の若頭。
父親の再婚相手が、先代組長の愛娘だった。という少々変わった経緯ではあるものの、れっきとしたヤクザだった。
白のスーツをきっちりと着こなして、強面の面々を堂々と従える姿を安曇は見たことがあったが、まさかそんな彼に、こんな趣味があろうとは。
「楽しそうだねぇ」
「まったく……他人事だと思って……」
はぁ……とため息を吐く安曇だが、ん? と、思わず首を傾げる。
思わず、いつもの阿吽の呼吸で返事を返してしまったが――。
隣を見上げると、いつの間に現れたのか、眼鏡の奥の目を細め、にっこりと笑う幼なじみの顔があった。
「う、うわぁああぁあッ! と、十河!」
「おい。そんなに驚くなよ……傷つくぞ」
思わず後ずさって尻餅をついた安曇に、今度は十河が呆れたような表情でため息を吐く。
二人してワイワイ言ってた颪と薫も、安曇の声に思わずそっちを向いた。
「なんで此処に君が居るの!」
「なんでって……そりゃ大学」
普通に通学中に車内で見かけたらしく、十河はチョイチョイと自分の背負っているデイパックを指さした。
「もーッ! そのまま行こうよ! っていうか行ってよ! 学校、最寄り駅までまだ先だろ!」
「いやー、そりゃ、声かけなきゃ面白くな……痛てぇッ!」
ポコポコ安曇に叩かれて、十河は抗議の声をあげた。
不本意な女装姿を親友に見られて本気で恥ずかしかったのか、安曇の赤面した顔に、少し涙がにじんでいる。
「いやぁ、可愛いねぇ」
普段から、女の子のように可愛いとは思っていたが――。
「冗談でもやめろよ!」
ムキになるところがますます可愛い。と、十河が安曇の頭を撫でた、その時――。
「……何やってんのよ。アンタたち」
え? と、思わず声のしたほうを向いた。
「え?」
「あの方は……」
思わず颪が息をのみ、薫もハッと目を見開く。
仁王立ちのように四人の前に立って、声をかけたのは、一人の女性。
その表情は、げんなり――というか、げっそり――というか。
とにかく、颪と薫には目もくれず、ぱっと見恋人同士がじゃれついているような十河と安曇二人を見て、心底ドン引いているのは目に見えて解った。
が、問題はその彼女の顔。
表情ではなく、パーツそのもの。
「神薙が……二人?」
彼女は驚くほど、安曇にそっくりだった。
否。安曇が女装して薄化粧している分、鏡から出てきたように、そのものだった。
「あ、安姫……さん……?」
「な、なんで……なんで……?」
わなわなと震える十河と、言葉が出てこない安曇。
「それはこっちの台詞よ。お兄様」
ジト目で睨みつつ、まるで嫌味そのもののような言い方に、ぎょっと颪は目を見開いた。
「妹ぉ? 神薙、妹いたのかッ!」
「え、えぇ……まぁ……」
素直に驚く颪の言葉に、そのあたりの事情を知っているらしい薫が言葉を濁す。
「……席を、外しましょうか」
修羅場の気配をいち早く察知した薫は、颪の袖を引っ張って、そそくさと駅の人混みの方に向かおうとした。
「え? なんで」
よくわかっていないらしい颪に、薫は意味深に微笑んで、耳元で囁いた。
「いいんですか? 十河くん、三剣女史の実の息子さんですよ?」
「うげッ……」
颪は顔をしかめて、そそくさと薫を追い抜く勢いでその場から離れ始める。
「っていうかお前、相変わらずの情報通だな」
さすが、情報を資金源にしている玄任会の若頭――本当は褒めるべき話では無いし、立場的にも褒めたくないのだが、思わず颪は舌を巻いた。
一応直属の上司なので、今回の女装囮捜査の件は三剣の耳にも入っているだろうが――しかし、余計な自分の情報が上司の耳に入るのは、気分的にちょっと困る。
「とりあえず安曇君には気の毒ですが……」
「……あぁ、神薙に連絡しとく」
『なんだか事情が込み入ってそうだから、先に戻る』と、移動しながら颪は安曇にメールを送信。
一応詫びとして、囮捜査のアレコレ報告は、自分がまとめてしておこう。
そんなことを考えていたら、後ろから腕が絡んできた。
「うふふ……そうだ! 今日あたり、例のお店で如何です?」
「だーかーらーッ! 馴れ馴れしく誘うなよ」
にっこりとほほ笑む薫に対し、颪は露骨に顔を引きつらせた。
そんな態度に、薫は口を尖らせる。
「えー。薫子、嵐子ちゃんの為にレミーマルタン・ルイ13世、お取り寄せしてボトルキープしてたんだけどなー!」
思わずぶほッ……と、颪が真顔で普通に噴き出した。
「どう頑張っても一公務員が気軽に手出しできないウン十万する酒を、通販気分でキープするな!」
「うふふ……だから、薫子のお・ご・り!」
飲んでみたいでしょ? とにんまり笑う薫に、颪、あっさりホールドアップ。
「う……その、でも……あくまでプライベート! だからな! 買収じゃねーぞ!」
「やったぁ! 薫子、嬉しい!」
素直に喜ぶ薫に、颪はため息を吐いた。
職というか立場はアレだが、薫という人間自体は、そんなに悪い人間ではない。と思う。
――それでも。
(うぅ、なんとなく後が怖いな……)
まんまと薫の手に乗ってしまった気がしなくもない颪は、再度、大きなため息を吐いた。
◆◇◆
かくして、その晩颪は久しぶりに薫と一緒に例の店で酒と女装を楽しんだ。
対して安曇はというと、この後、妹に三カ月口を聞いてもらえなかった。という事を追記しておく。
――合掌。
「合掌じゃありません! 金輪際! 囮捜査は協力しませんから!」
なお、これは余談ではあるが、今後数回――というか数年間、彼らにはなんだかんだで女装の要請があったとのこと。
――うん、ドンマイ。
特に学生が多い時間帯故に、明るい声がそこら中で響く。
そんなぎゅうぎゅうの車内は、彼にとっての天国だった。
今日の標的を探し、そして近くに立つ、一人の女に目を止める。
女子大生だろうか。
美しい顔。されど華やかさは控えめで、真面目そうで、それでいておとなしそうなところが気に入った。
手すりに右腕を回して体を支えつつ、その手一つで起用に本を読みながら、その女は通路側を背に立っていた。
位置取りは最高。
男は舌なめずりするよう、女の長い花柄のロングスカートに手を伸ばし、その上から女の尻を鷲掴むように触れた。
(ん……?)
びくりと震える女の肩。
しかし、その尻は意外と固く筋肉質で、思わず男の頭に疑問符が浮かぶ。
しかし――。
女の左手が、男の手を一気にねじり上げた。
「いででででででッ!」
思わず男が悲鳴をあげる。
何事かと、車内が一気にざわついた。
男の顔に、女が何かを押し付けるよう、何か冷たいモノが触れる。
それは黒い――手帳か、財布のような――。
近すぎてよく見えないその黒い物体の向こうに、涙目の、それでいて真っ赤に紅潮した頬の顔とぶつかる。
ねじり上げる腕にさらに力が入り、彼女が、口を開いた。
「現・行・犯だ! 逮捕する」
可憐な顔。しかしてその声は、女にしては、思った以上に低かった。
◆◇◆
「ちぇーッ。また神薙かよ」
頬を膨らませた少女――ではなく、先輩が頬を膨らませた。
「自信無くすなー。こんなに連続で検挙されちゃうと」
借り物の有名私立高校の本物の制服を身に纏い、微かにうっすらと化粧をした女子高生らしいその顔は、すれ違う程度であれば十分違和感なく、もうすぐ三十路までカウントダウンの男とは絶対に思わないだろう。
「先輩……オレたちは曲がりなりにも捜査一課ですよ?」
お手柄金星とは裏腹に、暗い表情で神薙安曇がじっとりと睨んだ。
犯人を鉄道警察と駅員に引き渡し、今は駅前のベンチで二人そろって休憩中。
「こんなの、鉄道警察や生活安全課の管轄じゃないですか……」
どうしてこうなった! と、安曇は盛大にため息を吐いた。
ことの発端は先輩こと、河田颪の同級生――地域課に所属する、ある女性警官からの相談という名の愚痴だった。
曰く、最近、痴漢被害の通報が多く、困っている――と。
被害者の証言により、犯人は複数だということはこの段階で判明していたのだが、よく被害が出るという時間帯の電車に女性警官が乗って何度も張り込みを行ってはいたものの、無意識に殺気でも発していたのか解決には至らず――白羽の矢が立ったのが、何故か捜査一課のこの二人。
小柄で小動物系の可愛らしさで評判の河田と、これまた小柄で、美少女のように可愛らしい神薙の相棒同士。
――一応、建前上は別の捜査のついで。という事になっている。
もっとも、女装させといてついでもクソもないだろう。と、終始ノリノリの上司はともかく、不満タラタラの安曇は内心思っていたが。
あぁ、誰かに見られたら、どうしよう――。
「よくお似合いですよ。お二人とも」
突然の落ち着いた声に、颪と安曇は、思わず振り返った。
そこに立っていたのは、品のある、和服姿の一人の美しい女性。
凛とした気品のある佇まいながら、その表情は柔らかく、穏やかに微笑んでいた。
見たことのない顔。
しかし、颪と安曇には、どうしてもこの声に聞き覚えがあって、思わずお互い、わなわなと肩を震わせた。
「お……お前……」
「あの……もしかして、石井、さん?」
ピンポーンと、女は満面の笑顔で笑った。
「けど、この姿の時はいつものように薫子って呼んで欲しいわ~。ね! 嵐子ちゃん!」
小柄な颪に、背の高い和服美女が抱きついた。
普段会う時はもっと濃く――黒や真紅を基調とした化粧をばっちりキメて、銀色の長いウィッグを合わせた、いわゆる『ゴシック』と呼ばれるジャンルの衣装を身に纏っているので、今日のナチュラル・メイクに落ち着いたパステル・カラーの訪問着姿は少々意外性もありつつ、しかしとても似合っている。
あまり着物に詳しくはないが、たぶん、そこそこ良い値段の、上等な物ではないか。と安曇は思った。
薫子こと石井薫は、颪が行きつけのバーで知り合った飲み友達だった。
――その、彼の正体を知るまでは。
「やめろー! 離せー!」
本気でジタバタと逃げようとする颪。
「おま、ちょ……あのなぁ!」
ワナワナと言葉を震わせながら――それでも、かろうじて声のトーンを落としつつ、颪は薫に抗議の声を上げた。
「自分の職業、少しは考えろよ! 警察官とヤクザが友達同士の仲良しこよしとか、洒落にならねーだろ!」
「あら。私は別段、気にしなくてよ?」
お願いそこは気にして! と、颪はがっくりと肩を落とした。
石井薫。彼は『玄任会』という任侠団体の若頭。
父親の再婚相手が、先代組長の愛娘だった。という少々変わった経緯ではあるものの、れっきとしたヤクザだった。
白のスーツをきっちりと着こなして、強面の面々を堂々と従える姿を安曇は見たことがあったが、まさかそんな彼に、こんな趣味があろうとは。
「楽しそうだねぇ」
「まったく……他人事だと思って……」
はぁ……とため息を吐く安曇だが、ん? と、思わず首を傾げる。
思わず、いつもの阿吽の呼吸で返事を返してしまったが――。
隣を見上げると、いつの間に現れたのか、眼鏡の奥の目を細め、にっこりと笑う幼なじみの顔があった。
「う、うわぁああぁあッ! と、十河!」
「おい。そんなに驚くなよ……傷つくぞ」
思わず後ずさって尻餅をついた安曇に、今度は十河が呆れたような表情でため息を吐く。
二人してワイワイ言ってた颪と薫も、安曇の声に思わずそっちを向いた。
「なんで此処に君が居るの!」
「なんでって……そりゃ大学」
普通に通学中に車内で見かけたらしく、十河はチョイチョイと自分の背負っているデイパックを指さした。
「もーッ! そのまま行こうよ! っていうか行ってよ! 学校、最寄り駅までまだ先だろ!」
「いやー、そりゃ、声かけなきゃ面白くな……痛てぇッ!」
ポコポコ安曇に叩かれて、十河は抗議の声をあげた。
不本意な女装姿を親友に見られて本気で恥ずかしかったのか、安曇の赤面した顔に、少し涙がにじんでいる。
「いやぁ、可愛いねぇ」
普段から、女の子のように可愛いとは思っていたが――。
「冗談でもやめろよ!」
ムキになるところがますます可愛い。と、十河が安曇の頭を撫でた、その時――。
「……何やってんのよ。アンタたち」
え? と、思わず声のしたほうを向いた。
「え?」
「あの方は……」
思わず颪が息をのみ、薫もハッと目を見開く。
仁王立ちのように四人の前に立って、声をかけたのは、一人の女性。
その表情は、げんなり――というか、げっそり――というか。
とにかく、颪と薫には目もくれず、ぱっと見恋人同士がじゃれついているような十河と安曇二人を見て、心底ドン引いているのは目に見えて解った。
が、問題はその彼女の顔。
表情ではなく、パーツそのもの。
「神薙が……二人?」
彼女は驚くほど、安曇にそっくりだった。
否。安曇が女装して薄化粧している分、鏡から出てきたように、そのものだった。
「あ、安姫……さん……?」
「な、なんで……なんで……?」
わなわなと震える十河と、言葉が出てこない安曇。
「それはこっちの台詞よ。お兄様」
ジト目で睨みつつ、まるで嫌味そのもののような言い方に、ぎょっと颪は目を見開いた。
「妹ぉ? 神薙、妹いたのかッ!」
「え、えぇ……まぁ……」
素直に驚く颪の言葉に、そのあたりの事情を知っているらしい薫が言葉を濁す。
「……席を、外しましょうか」
修羅場の気配をいち早く察知した薫は、颪の袖を引っ張って、そそくさと駅の人混みの方に向かおうとした。
「え? なんで」
よくわかっていないらしい颪に、薫は意味深に微笑んで、耳元で囁いた。
「いいんですか? 十河くん、三剣女史の実の息子さんですよ?」
「うげッ……」
颪は顔をしかめて、そそくさと薫を追い抜く勢いでその場から離れ始める。
「っていうかお前、相変わらずの情報通だな」
さすが、情報を資金源にしている玄任会の若頭――本当は褒めるべき話では無いし、立場的にも褒めたくないのだが、思わず颪は舌を巻いた。
一応直属の上司なので、今回の女装囮捜査の件は三剣の耳にも入っているだろうが――しかし、余計な自分の情報が上司の耳に入るのは、気分的にちょっと困る。
「とりあえず安曇君には気の毒ですが……」
「……あぁ、神薙に連絡しとく」
『なんだか事情が込み入ってそうだから、先に戻る』と、移動しながら颪は安曇にメールを送信。
一応詫びとして、囮捜査のアレコレ報告は、自分がまとめてしておこう。
そんなことを考えていたら、後ろから腕が絡んできた。
「うふふ……そうだ! 今日あたり、例のお店で如何です?」
「だーかーらーッ! 馴れ馴れしく誘うなよ」
にっこりとほほ笑む薫に対し、颪は露骨に顔を引きつらせた。
そんな態度に、薫は口を尖らせる。
「えー。薫子、嵐子ちゃんの為にレミーマルタン・ルイ13世、お取り寄せしてボトルキープしてたんだけどなー!」
思わずぶほッ……と、颪が真顔で普通に噴き出した。
「どう頑張っても一公務員が気軽に手出しできないウン十万する酒を、通販気分でキープするな!」
「うふふ……だから、薫子のお・ご・り!」
飲んでみたいでしょ? とにんまり笑う薫に、颪、あっさりホールドアップ。
「う……その、でも……あくまでプライベート! だからな! 買収じゃねーぞ!」
「やったぁ! 薫子、嬉しい!」
素直に喜ぶ薫に、颪はため息を吐いた。
職というか立場はアレだが、薫という人間自体は、そんなに悪い人間ではない。と思う。
――それでも。
(うぅ、なんとなく後が怖いな……)
まんまと薫の手に乗ってしまった気がしなくもない颪は、再度、大きなため息を吐いた。
◆◇◆
かくして、その晩颪は久しぶりに薫と一緒に例の店で酒と女装を楽しんだ。
対して安曇はというと、この後、妹に三カ月口を聞いてもらえなかった。という事を追記しておく。
――合掌。
「合掌じゃありません! 金輪際! 囮捜査は協力しませんから!」
なお、これは余談ではあるが、今後数回――というか数年間、彼らにはなんだかんだで女装の要請があったとのこと。
――うん、ドンマイ。
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