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1章
5話
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♦
「私はとっくに貴方の才能の虜です。」
先日、押しかけてきたシンエイの紡いだ言葉がイーヴェルの頭にこびりついていた。しかし、不思議と不快感はない。寧ろあれからイーヴェルの筆は乗りに乗っていた。
あの日、シンエイの提示した契約の返事は一旦保留となった。
「分け前・報酬ゼロ」「すべての決定権に対する侵害ゼロ」「絵の売買におけるサポート、場の提供等々」
といった条件は、イーヴェルになんら損害はなかった。寧ろ、シンエイの言う通りメリットしかない。イーヴェルは絵を描きたいだけであり、売るということに対しては仕方なくやっているところもある。売らないと生活できないが、画商に委託するのは嫌だ。そうなれば、自分で取引するしかなかった。
しかし、自分の絵を画商の肥やしに利用されることがない契約だなんて。そんなもの、好感度を上げるための慈善事業だとしても割に合わな過ぎて流行らないだろうに。そう思うと、シンエイのあの想いを嘘とは考え難くなっていた。
画商に声を掛けられたくないばかりに、いつもひっそりと絵を売っていた。郊外に別荘を持つ金持ちや、時には隣国まで出向いて売りさばきに行ったりすることもあった。
才能がある。
天才だ。
どれも聞き飽きるほど言われてきた。それでも、あそこまで情熱を注がれたことはあっただろうか。自分への見返りを考えず、ただ自分の絵を広めたいと言ってくれた真っ直ぐな気持ち。それは、確かにイーヴェルにひしひしと伝わっていた。
それを証明するかのように、あれからイーヴェルの筆の進みは凄かった。何かに強い刺激を与えられたかのように、次から次へと頭に色んなイメージが湧いて出てくる。丸3日。イーヴェルは湯浴びをすることも、食事を取ることも、眠ることすら忘れ、絵画に没頭していた。
自分の絵を評価されたいわけじゃない。
天才だなんだと持ち上げられたいわけでもない。
ましてや、金持ちになりたいわけでもない。
それでも、シンエイの言葉に気持ちが揺らいでいるのはどうしてだろうか。
イーヴェルは、まるでグルグルとした自分の感情のようにパレットの上で色を混ぜ合わせた。
♦︎
「で、答えはまとまりましたか?」
イーヴェルの家の花瓶に刺さっていた枯れた花を抜きながら、シンエイは意気揚々といった声色で尋ねた。いつ、誰からもらった花であったか家主でさえ忘れたようなものを、シンエイはまるで大事に大事に手入れしている。
「いや、まだ……というか、決まったらこちらから返事するから、別に通わなくたっていい。というか通うな。」
イーヴェルは筆をキャンパスに滑らせながら、不満気に答えた。いっぱしの商人というのは実は嘘でただの暇人無職なのではと思わせるほど、シンエイはイーヴェルの元へ通っていた。まるで返事を急かされているような気がして、イーヴェルは良い心地がしない。というから出会ってから今の今まで、イーヴェルの意見が彼の耳に届いたことなど無いのだが。
誇りの被った花瓶を丁寧に磨き上げられ、気付けば鮮やかで瑞々しい立派な花が差し替えられていた。
慣れというのは怖いもので、あんなに朽ち果てていた花も、鬱陶しくて仕方のなかったはずのシンエイも、いつしかイーヴェルの心を搔き乱すことはしなくなっていた。
もういっそのこと、彼の提案を受け入れてしまえばいいのに。
自分でもそう思う。けれど、そんな簡単な話ではないのだ。イーヴェルはこれまでの過去と、これからの未来に恐れを抱いていた。
新しい花で彩られた花瓶を満足げに見やったシンエイは、今日も熱心に作業に耽るイーヴェルを見た。あたり一面には、先日来た時からはまた様変わりした画が散乱している。彼はひとたび集中すると異様なスピードで絵を描き上げていくようだった。
動物をモチーフにすることもあれば、風景やどこか山奥の民族を描いていることも。一件モチーフに統一性はみられないものの、ここに通って行くうちにシンエイは気付いたことがあった。
ブロンドの髪をした、長髪の男。
イーヴェルが唯一、繰り返し繰り返し描いている人物である。何枚も、いや、何十枚もその人をモデルにした絵は散らばっていた。しかしどれも共通して、その人物の顔は描かれていなかった。ほとんどが後ろ姿や顔が見えないアングルからの描写で、時には表情が塗り潰されていることもあった。
それはまるで、顔を描きたくないのではなく、顔を”描くことができない”とでもいうように。
そのため、シンエイはその男の顔を一度も見たことは無かった。家族なのか、友人なのか。シンエイにはその絵に浮かび上がるその男性がイーヴェルにとってどんな存在なのか、知る由も無い。
けれど、わかる。彼にとってまるで特別な人であることくらい。あんなのは、詩人が愛おしい人に宛てたラブレターのようなものである。
シンエイは、自分が存外欲深い人間なのだなと再認識した。他人に興味など無かったはずなのに。貴方のこととなると、全て知りたくなってしまう。
陽が傾き始める午後2時。窓から日差しが差し込み、イーヴェルの白く靡いた髪を照らした。雪が乗っているような色をした睫毛も、雪光の様に光に反射して輝いている。気付けば、シンエイは絵ではなくイーヴェルばかりを見ていた。
「綺麗だ……」
誰にも聞こえないくらいの、水道からポタリと雫が垂れるような声で呟いた。見るな、と文句を言われそうだが、イーヴェルは集中しているのか、鬱陶しい程のシンエイの視線には気が付かないようだった。
虜になったのは、彼の才能のはずなのに。
この静かでゆっくりとした午後の時間が一生続けばいいのにと思いながら、キャンパスに向き合うイーヴェルの横顔を見つめていた。
「私はとっくに貴方の才能の虜です。」
先日、押しかけてきたシンエイの紡いだ言葉がイーヴェルの頭にこびりついていた。しかし、不思議と不快感はない。寧ろあれからイーヴェルの筆は乗りに乗っていた。
あの日、シンエイの提示した契約の返事は一旦保留となった。
「分け前・報酬ゼロ」「すべての決定権に対する侵害ゼロ」「絵の売買におけるサポート、場の提供等々」
といった条件は、イーヴェルになんら損害はなかった。寧ろ、シンエイの言う通りメリットしかない。イーヴェルは絵を描きたいだけであり、売るということに対しては仕方なくやっているところもある。売らないと生活できないが、画商に委託するのは嫌だ。そうなれば、自分で取引するしかなかった。
しかし、自分の絵を画商の肥やしに利用されることがない契約だなんて。そんなもの、好感度を上げるための慈善事業だとしても割に合わな過ぎて流行らないだろうに。そう思うと、シンエイのあの想いを嘘とは考え難くなっていた。
画商に声を掛けられたくないばかりに、いつもひっそりと絵を売っていた。郊外に別荘を持つ金持ちや、時には隣国まで出向いて売りさばきに行ったりすることもあった。
才能がある。
天才だ。
どれも聞き飽きるほど言われてきた。それでも、あそこまで情熱を注がれたことはあっただろうか。自分への見返りを考えず、ただ自分の絵を広めたいと言ってくれた真っ直ぐな気持ち。それは、確かにイーヴェルにひしひしと伝わっていた。
それを証明するかのように、あれからイーヴェルの筆の進みは凄かった。何かに強い刺激を与えられたかのように、次から次へと頭に色んなイメージが湧いて出てくる。丸3日。イーヴェルは湯浴びをすることも、食事を取ることも、眠ることすら忘れ、絵画に没頭していた。
自分の絵を評価されたいわけじゃない。
天才だなんだと持ち上げられたいわけでもない。
ましてや、金持ちになりたいわけでもない。
それでも、シンエイの言葉に気持ちが揺らいでいるのはどうしてだろうか。
イーヴェルは、まるでグルグルとした自分の感情のようにパレットの上で色を混ぜ合わせた。
♦︎
「で、答えはまとまりましたか?」
イーヴェルの家の花瓶に刺さっていた枯れた花を抜きながら、シンエイは意気揚々といった声色で尋ねた。いつ、誰からもらった花であったか家主でさえ忘れたようなものを、シンエイはまるで大事に大事に手入れしている。
「いや、まだ……というか、決まったらこちらから返事するから、別に通わなくたっていい。というか通うな。」
イーヴェルは筆をキャンパスに滑らせながら、不満気に答えた。いっぱしの商人というのは実は嘘でただの暇人無職なのではと思わせるほど、シンエイはイーヴェルの元へ通っていた。まるで返事を急かされているような気がして、イーヴェルは良い心地がしない。というから出会ってから今の今まで、イーヴェルの意見が彼の耳に届いたことなど無いのだが。
誇りの被った花瓶を丁寧に磨き上げられ、気付けば鮮やかで瑞々しい立派な花が差し替えられていた。
慣れというのは怖いもので、あんなに朽ち果てていた花も、鬱陶しくて仕方のなかったはずのシンエイも、いつしかイーヴェルの心を搔き乱すことはしなくなっていた。
もういっそのこと、彼の提案を受け入れてしまえばいいのに。
自分でもそう思う。けれど、そんな簡単な話ではないのだ。イーヴェルはこれまでの過去と、これからの未来に恐れを抱いていた。
新しい花で彩られた花瓶を満足げに見やったシンエイは、今日も熱心に作業に耽るイーヴェルを見た。あたり一面には、先日来た時からはまた様変わりした画が散乱している。彼はひとたび集中すると異様なスピードで絵を描き上げていくようだった。
動物をモチーフにすることもあれば、風景やどこか山奥の民族を描いていることも。一件モチーフに統一性はみられないものの、ここに通って行くうちにシンエイは気付いたことがあった。
ブロンドの髪をした、長髪の男。
イーヴェルが唯一、繰り返し繰り返し描いている人物である。何枚も、いや、何十枚もその人をモデルにした絵は散らばっていた。しかしどれも共通して、その人物の顔は描かれていなかった。ほとんどが後ろ姿や顔が見えないアングルからの描写で、時には表情が塗り潰されていることもあった。
それはまるで、顔を描きたくないのではなく、顔を”描くことができない”とでもいうように。
そのため、シンエイはその男の顔を一度も見たことは無かった。家族なのか、友人なのか。シンエイにはその絵に浮かび上がるその男性がイーヴェルにとってどんな存在なのか、知る由も無い。
けれど、わかる。彼にとってまるで特別な人であることくらい。あんなのは、詩人が愛おしい人に宛てたラブレターのようなものである。
シンエイは、自分が存外欲深い人間なのだなと再認識した。他人に興味など無かったはずなのに。貴方のこととなると、全て知りたくなってしまう。
陽が傾き始める午後2時。窓から日差しが差し込み、イーヴェルの白く靡いた髪を照らした。雪が乗っているような色をした睫毛も、雪光の様に光に反射して輝いている。気付けば、シンエイは絵ではなくイーヴェルばかりを見ていた。
「綺麗だ……」
誰にも聞こえないくらいの、水道からポタリと雫が垂れるような声で呟いた。見るな、と文句を言われそうだが、イーヴェルは集中しているのか、鬱陶しい程のシンエイの視線には気が付かないようだった。
虜になったのは、彼の才能のはずなのに。
この静かでゆっくりとした午後の時間が一生続けばいいのにと思いながら、キャンパスに向き合うイーヴェルの横顔を見つめていた。
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