ティヤムの肖像

伊藤納豆

文字の大きさ
上 下
6 / 8
1章

5話

しおりを挟む

「私はとっくに貴方の才能の虜です。」


先日、押しかけてきたシンエイの紡いだ言葉がイーヴェルの頭にこびりついていた。しかし、不思議と不快感はない。寧ろあれからイーヴェルの筆は乗りに乗っていた。


あの日、シンエイの提示した契約の返事は一旦保留となった。


「分け前・報酬ゼロ」「すべての決定権に対する侵害ゼロ」「絵の売買におけるサポート、場の提供等々」
といった条件は、イーヴェルになんら損害はなかった。寧ろ、シンエイの言う通りメリットしかない。イーヴェルは絵を描きたいだけであり、売るということに対しては仕方なくやっているところもある。売らないと生活できないが、画商に委託するのは嫌だ。そうなれば、自分で取引するしかなかった。


しかし、自分の絵を画商の肥やしに利用されることがない契約だなんて。そんなもの、好感度を上げるための慈善事業だとしても割に合わな過ぎて流行らないだろうに。そう思うと、シンエイのあの想いを嘘とは考え難くなっていた。


画商に声を掛けられたくないばかりに、いつもひっそりと絵を売っていた。郊外に別荘を持つ金持ちや、時には隣国まで出向いて売りさばきに行ったりすることもあった。


才能がある。
天才だ。


どれも聞き飽きるほど言われてきた。それでも、あそこまで情熱を注がれたことはあっただろうか。自分への見返りを考えず、ただ自分の絵を広めたいと言ってくれた真っ直ぐな気持ち。それは、確かにイーヴェルにひしひしと伝わっていた。


それを証明するかのように、あれからイーヴェルの筆の進みは凄かった。何かに強い刺激を与えられたかのように、次から次へと頭に色んなイメージが湧いて出てくる。丸3日。イーヴェルは湯浴びをすることも、食事を取ることも、眠ることすら忘れ、絵画に没頭していた。


自分の絵を評価されたいわけじゃない。
天才だなんだと持ち上げられたいわけでもない。
ましてや、金持ちになりたいわけでもない。


それでも、シンエイの言葉に気持ちが揺らいでいるのはどうしてだろうか。


イーヴェルは、まるでグルグルとした自分の感情のようにパレットの上で色を混ぜ合わせた。


♦︎
「で、答えはまとまりましたか?」


イーヴェルの家の花瓶に刺さっていた枯れた花を抜きながら、シンエイは意気揚々といった声色で尋ねた。いつ、誰からもらった花であったか家主でさえ忘れたようなものを、シンエイはまるで大事に大事に手入れしている。


「いや、まだ……というか、決まったらこちらから返事するから、別に通わなくたっていい。というか通うな。」


イーヴェルは筆をキャンパスに滑らせながら、不満気に答えた。いっぱしの商人というのは実は嘘でただの暇人無職なのではと思わせるほど、シンエイはイーヴェルの元へ通っていた。まるで返事を急かされているような気がして、イーヴェルは良い心地がしない。というから出会ってから今の今まで、イーヴェルの意見が彼の耳に届いたことなど無いのだが。


誇りの被った花瓶を丁寧に磨き上げられ、気付けば鮮やかで瑞々しい立派な花が差し替えられていた。


慣れというのは怖いもので、あんなに朽ち果てていた花も、鬱陶しくて仕方のなかったはずのシンエイも、いつしかイーヴェルの心を搔き乱すことはしなくなっていた。


もういっそのこと、彼の提案を受け入れてしまえばいいのに。


自分でもそう思う。けれど、そんな簡単な話ではないのだ。イーヴェルはこれまでの過去と、これからの未来に恐れを抱いていた。


新しい花で彩られた花瓶を満足げに見やったシンエイは、今日も熱心に作業に耽るイーヴェルを見た。あたり一面には、先日来た時からはまた様変わりした画が散乱している。彼はひとたび集中すると異様なスピードで絵を描き上げていくようだった。


動物をモチーフにすることもあれば、風景やどこか山奥の民族を描いていることも。一件モチーフに統一性はみられないものの、ここに通って行くうちにシンエイは気付いたことがあった。


ブロンドの髪をした、長髪の男。


イーヴェルが唯一、繰り返し繰り返し描いている人物である。何枚も、いや、何十枚もその人をモデルにした絵は散らばっていた。しかしどれも共通して、その人物の顔は描かれていなかった。ほとんどが後ろ姿や顔が見えないアングルからの描写で、時には表情が塗り潰されていることもあった。


それはまるで、顔を描きたくないのではなく、顔を”描くことができない”とでもいうように。


そのため、シンエイはその男の顔を一度も見たことは無かった。家族なのか、友人なのか。シンエイにはその絵に浮かび上がるその男性がイーヴェルにとってどんな存在なのか、知る由も無い。


けれど、わかる。彼にとってまるで特別な人であることくらい。あんなのは、詩人が愛おしい人に宛てたラブレターのようなものである。


シンエイは、自分が存外欲深い人間なのだなと再認識した。他人に興味など無かったはずなのに。貴方のこととなると、全て知りたくなってしまう。


陽が傾き始める午後2時。窓から日差しが差し込み、イーヴェルの白く靡いた髪を照らした。雪が乗っているような色をした睫毛も、雪光の様に光に反射して輝いている。気付けば、シンエイは絵ではなくイーヴェルばかりを見ていた。


「綺麗だ……」


誰にも聞こえないくらいの、水道からポタリと雫が垂れるような声で呟いた。見るな、と文句を言われそうだが、イーヴェルは集中しているのか、鬱陶しい程のシンエイの視線には気が付かないようだった。


虜になったのは、彼の才能のはずなのに。


この静かでゆっくりとした午後の時間が一生続けばいいのにと思いながら、キャンパスに向き合うイーヴェルの横顔を見つめていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

ヤクザと捨て子

幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子 ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。 ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。

ポンコツアルファを拾いました。

おもちDX
BL
オメガのほうが優秀な世界。会社を立ち上げたばかりの渚は、しくしく泣いているアルファを拾った。すぐにラットを起こす梨杜は、社員に馬鹿にされながらも渚のそばで一生懸命働く。渚はそんな梨杜が可愛くなってきて…… ポンコツアルファをエリートオメガがヨシヨシする話です。 オメガバースのアルファが『優秀』という部分を、オメガにあげたい!と思いついた世界観。 ※特殊設定の現代オメガバースです

愛人は嫌だったので別れることにしました。

伊吹咲夜
BL
会社の先輩である健二と達哉は、先輩・後輩の間柄であり、身体の関係も持っていた。そんな健二のことを達哉は自分を愛してくれている恋人だとずっと思っていた。 しかし健二との関係は身体だけで、それ以上のことはない。疑問に思っていた日、健二が結婚したと朝礼で報告が。健二は達哉のことを愛してはいなかったのか?

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

【完結】相談する相手を、間違えました

ryon*
BL
長い間片想いしていた幼なじみの結婚を知らされ、30歳の誕生日前日に失恋した大晴。 自棄になり訪れた結婚相談所で、高校時代の同級生にして学内のカースト最上位に君臨していた男、早乙女 遼河と再会して・・・ *** 執着系美形攻めに、あっさりカラダから堕とされる自称平凡地味陰キャ受けを書きたかった。 ただ、それだけです。 *** 他サイトにも、掲載しています。 てんぱる1様の、フリー素材を表紙にお借りしています。 *** エブリスタで2022/5/6~5/11、BLトレンドランキング1位を獲得しました。 ありがとうございました。 *** 閲覧への感謝の気持ちをこめて、5/8 遼河視点のSSを追加しました。 ちょっと闇深い感じですが、楽しんで頂けたら幸いです(*´ω`*) *** 2022/5/14 エブリスタで保存したデータが飛ぶという不具合が出ているみたいで、ちょっとこわいのであちらに置いていたSSを念のためこちらにも転載しておきます。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

傷だらけの僕は空をみる

猫谷 一禾
BL
傷を負った少年は日々をただ淡々と暮らしていく。 生を終えるまで、時を過ぎるのを暗い瞳で過ごす。 諦めた雰囲気の少年に声をかける男は軽い雰囲気の騎士団副団長。 身体と心に傷を負った少年が愛を知り、愛に満たされた幸せを掴むまでの物語。 ハッピーエンドです。 若干の胸くそが出てきます。 ちょっと痛い表現出てくるかもです。

処理中です...