6 / 8
1章
5話
しおりを挟む
♦
「私はとっくに貴方の才能の虜です。」
先日、押しかけてきたシンエイの紡いだ言葉がイーヴェルの頭にこびりついていた。しかし、不思議と不快感はない。寧ろあれからイーヴェルの筆は乗りに乗っていた。
あの日、シンエイの提示した契約の返事は一旦保留となった。
「分け前・報酬ゼロ」「すべての決定権に対する侵害ゼロ」「絵の売買におけるサポート、場の提供等々」
といった条件は、イーヴェルになんら損害はなかった。寧ろ、シンエイの言う通りメリットしかない。イーヴェルは絵を描きたいだけであり、売るということに対しては仕方なくやっているところもある。売らないと生活できないが、画商に委託するのは嫌だ。そうなれば、自分で取引するしかなかった。
しかし、自分の絵を画商の肥やしに利用されることがない契約だなんて。そんなもの、好感度を上げるための慈善事業だとしても割に合わな過ぎて流行らないだろうに。そう思うと、シンエイのあの想いを嘘とは考え難くなっていた。
画商に声を掛けられたくないばかりに、いつもひっそりと絵を売っていた。郊外に別荘を持つ金持ちや、時には隣国まで出向いて売りさばきに行ったりすることもあった。
才能がある。
天才だ。
どれも聞き飽きるほど言われてきた。それでも、あそこまで情熱を注がれたことはあっただろうか。自分への見返りを考えず、ただ自分の絵を広めたいと言ってくれた真っ直ぐな気持ち。それは、確かにイーヴェルにひしひしと伝わっていた。
それを証明するかのように、あれからイーヴェルの筆の進みは凄かった。何かに強い刺激を与えられたかのように、次から次へと頭に色んなイメージが湧いて出てくる。丸3日。イーヴェルは湯浴びをすることも、食事を取ることも、眠ることすら忘れ、絵画に没頭していた。
自分の絵を評価されたいわけじゃない。
天才だなんだと持ち上げられたいわけでもない。
ましてや、金持ちになりたいわけでもない。
それでも、シンエイの言葉に気持ちが揺らいでいるのはどうしてだろうか。
イーヴェルは、まるでグルグルとした自分の感情のようにパレットの上で色を混ぜ合わせた。
♦︎
「で、答えはまとまりましたか?」
イーヴェルの家の花瓶に刺さっていた枯れた花を抜きながら、シンエイは意気揚々といった声色で尋ねた。いつ、誰からもらった花であったか家主でさえ忘れたようなものを、シンエイはまるで大事に大事に手入れしている。
「いや、まだ……というか、決まったらこちらから返事するから、別に通わなくたっていい。というか通うな。」
イーヴェルは筆をキャンパスに滑らせながら、不満気に答えた。いっぱしの商人というのは実は嘘でただの暇人無職なのではと思わせるほど、シンエイはイーヴェルの元へ通っていた。まるで返事を急かされているような気がして、イーヴェルは良い心地がしない。というから出会ってから今の今まで、イーヴェルの意見が彼の耳に届いたことなど無いのだが。
誇りの被った花瓶を丁寧に磨き上げられ、気付けば鮮やかで瑞々しい立派な花が差し替えられていた。
慣れというのは怖いもので、あんなに朽ち果てていた花も、鬱陶しくて仕方のなかったはずのシンエイも、いつしかイーヴェルの心を搔き乱すことはしなくなっていた。
もういっそのこと、彼の提案を受け入れてしまえばいいのに。
自分でもそう思う。けれど、そんな簡単な話ではないのだ。イーヴェルはこれまでの過去と、これからの未来に恐れを抱いていた。
新しい花で彩られた花瓶を満足げに見やったシンエイは、今日も熱心に作業に耽るイーヴェルを見た。あたり一面には、先日来た時からはまた様変わりした画が散乱している。彼はひとたび集中すると異様なスピードで絵を描き上げていくようだった。
動物をモチーフにすることもあれば、風景やどこか山奥の民族を描いていることも。一件モチーフに統一性はみられないものの、ここに通って行くうちにシンエイは気付いたことがあった。
ブロンドの髪をした、長髪の男。
イーヴェルが唯一、繰り返し繰り返し描いている人物である。何枚も、いや、何十枚もその人をモデルにした絵は散らばっていた。しかしどれも共通して、その人物の顔は描かれていなかった。ほとんどが後ろ姿や顔が見えないアングルからの描写で、時には表情が塗り潰されていることもあった。
それはまるで、顔を描きたくないのではなく、顔を”描くことができない”とでもいうように。
そのため、シンエイはその男の顔を一度も見たことは無かった。家族なのか、友人なのか。シンエイにはその絵に浮かび上がるその男性がイーヴェルにとってどんな存在なのか、知る由も無い。
けれど、わかる。彼にとってまるで特別な人であることくらい。あんなのは、詩人が愛おしい人に宛てたラブレターのようなものである。
シンエイは、自分が存外欲深い人間なのだなと再認識した。他人に興味など無かったはずなのに。貴方のこととなると、全て知りたくなってしまう。
陽が傾き始める午後2時。窓から日差しが差し込み、イーヴェルの白く靡いた髪を照らした。雪が乗っているような色をした睫毛も、雪光の様に光に反射して輝いている。気付けば、シンエイは絵ではなくイーヴェルばかりを見ていた。
「綺麗だ……」
誰にも聞こえないくらいの、水道からポタリと雫が垂れるような声で呟いた。見るな、と文句を言われそうだが、イーヴェルは集中しているのか、鬱陶しい程のシンエイの視線には気が付かないようだった。
虜になったのは、彼の才能のはずなのに。
この静かでゆっくりとした午後の時間が一生続けばいいのにと思いながら、キャンパスに向き合うイーヴェルの横顔を見つめていた。
「私はとっくに貴方の才能の虜です。」
先日、押しかけてきたシンエイの紡いだ言葉がイーヴェルの頭にこびりついていた。しかし、不思議と不快感はない。寧ろあれからイーヴェルの筆は乗りに乗っていた。
あの日、シンエイの提示した契約の返事は一旦保留となった。
「分け前・報酬ゼロ」「すべての決定権に対する侵害ゼロ」「絵の売買におけるサポート、場の提供等々」
といった条件は、イーヴェルになんら損害はなかった。寧ろ、シンエイの言う通りメリットしかない。イーヴェルは絵を描きたいだけであり、売るということに対しては仕方なくやっているところもある。売らないと生活できないが、画商に委託するのは嫌だ。そうなれば、自分で取引するしかなかった。
しかし、自分の絵を画商の肥やしに利用されることがない契約だなんて。そんなもの、好感度を上げるための慈善事業だとしても割に合わな過ぎて流行らないだろうに。そう思うと、シンエイのあの想いを嘘とは考え難くなっていた。
画商に声を掛けられたくないばかりに、いつもひっそりと絵を売っていた。郊外に別荘を持つ金持ちや、時には隣国まで出向いて売りさばきに行ったりすることもあった。
才能がある。
天才だ。
どれも聞き飽きるほど言われてきた。それでも、あそこまで情熱を注がれたことはあっただろうか。自分への見返りを考えず、ただ自分の絵を広めたいと言ってくれた真っ直ぐな気持ち。それは、確かにイーヴェルにひしひしと伝わっていた。
それを証明するかのように、あれからイーヴェルの筆の進みは凄かった。何かに強い刺激を与えられたかのように、次から次へと頭に色んなイメージが湧いて出てくる。丸3日。イーヴェルは湯浴びをすることも、食事を取ることも、眠ることすら忘れ、絵画に没頭していた。
自分の絵を評価されたいわけじゃない。
天才だなんだと持ち上げられたいわけでもない。
ましてや、金持ちになりたいわけでもない。
それでも、シンエイの言葉に気持ちが揺らいでいるのはどうしてだろうか。
イーヴェルは、まるでグルグルとした自分の感情のようにパレットの上で色を混ぜ合わせた。
♦︎
「で、答えはまとまりましたか?」
イーヴェルの家の花瓶に刺さっていた枯れた花を抜きながら、シンエイは意気揚々といった声色で尋ねた。いつ、誰からもらった花であったか家主でさえ忘れたようなものを、シンエイはまるで大事に大事に手入れしている。
「いや、まだ……というか、決まったらこちらから返事するから、別に通わなくたっていい。というか通うな。」
イーヴェルは筆をキャンパスに滑らせながら、不満気に答えた。いっぱしの商人というのは実は嘘でただの暇人無職なのではと思わせるほど、シンエイはイーヴェルの元へ通っていた。まるで返事を急かされているような気がして、イーヴェルは良い心地がしない。というから出会ってから今の今まで、イーヴェルの意見が彼の耳に届いたことなど無いのだが。
誇りの被った花瓶を丁寧に磨き上げられ、気付けば鮮やかで瑞々しい立派な花が差し替えられていた。
慣れというのは怖いもので、あんなに朽ち果てていた花も、鬱陶しくて仕方のなかったはずのシンエイも、いつしかイーヴェルの心を搔き乱すことはしなくなっていた。
もういっそのこと、彼の提案を受け入れてしまえばいいのに。
自分でもそう思う。けれど、そんな簡単な話ではないのだ。イーヴェルはこれまでの過去と、これからの未来に恐れを抱いていた。
新しい花で彩られた花瓶を満足げに見やったシンエイは、今日も熱心に作業に耽るイーヴェルを見た。あたり一面には、先日来た時からはまた様変わりした画が散乱している。彼はひとたび集中すると異様なスピードで絵を描き上げていくようだった。
動物をモチーフにすることもあれば、風景やどこか山奥の民族を描いていることも。一件モチーフに統一性はみられないものの、ここに通って行くうちにシンエイは気付いたことがあった。
ブロンドの髪をした、長髪の男。
イーヴェルが唯一、繰り返し繰り返し描いている人物である。何枚も、いや、何十枚もその人をモデルにした絵は散らばっていた。しかしどれも共通して、その人物の顔は描かれていなかった。ほとんどが後ろ姿や顔が見えないアングルからの描写で、時には表情が塗り潰されていることもあった。
それはまるで、顔を描きたくないのではなく、顔を”描くことができない”とでもいうように。
そのため、シンエイはその男の顔を一度も見たことは無かった。家族なのか、友人なのか。シンエイにはその絵に浮かび上がるその男性がイーヴェルにとってどんな存在なのか、知る由も無い。
けれど、わかる。彼にとってまるで特別な人であることくらい。あんなのは、詩人が愛おしい人に宛てたラブレターのようなものである。
シンエイは、自分が存外欲深い人間なのだなと再認識した。他人に興味など無かったはずなのに。貴方のこととなると、全て知りたくなってしまう。
陽が傾き始める午後2時。窓から日差しが差し込み、イーヴェルの白く靡いた髪を照らした。雪が乗っているような色をした睫毛も、雪光の様に光に反射して輝いている。気付けば、シンエイは絵ではなくイーヴェルばかりを見ていた。
「綺麗だ……」
誰にも聞こえないくらいの、水道からポタリと雫が垂れるような声で呟いた。見るな、と文句を言われそうだが、イーヴェルは集中しているのか、鬱陶しい程のシンエイの視線には気が付かないようだった。
虜になったのは、彼の才能のはずなのに。
この静かでゆっくりとした午後の時間が一生続けばいいのにと思いながら、キャンパスに向き合うイーヴェルの横顔を見つめていた。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
うちの拾い子が私のために惚れ薬を飲んだらしい
トウ子
BL
冷血大公と呼ばれる私は、とある目的のために孤児を拾って厳しく育てていた。
一世一代の計画を目前に控えたある夜、様子のおかしい養い子が私の寝室を訪ねてきた。どうやら養い子は、私のために惚れ薬を飲んだらしい。「計画の成功のために、閣下の恋人としてどう振る舞えばよいのか、教えて下さいませ」と迫られ……愚かな私は、華奢な体を寝台に押し倒した。
Twitter企画【#惚れ薬自飲BL】参加作品の短編でした。
ムーンライトノベルズにも掲載。
浮気をしたら、わんこ系彼氏に腹の中を散々洗われた話。
丹砂 (あかさ)
BL
ストーリーなしです!
エロ特化の短編としてお読み下さい…。
大切な事なのでもう一度。
エロ特化です!
****************************************
『腸内洗浄』『玩具責め』『お仕置き』
性欲に忠実でモラルが低い恋人に、浮気のお仕置きをするお話しです。
キャプションで危ないな、と思った方はそっと見なかった事にして下さい…。
潜入捜査でマフィアのドンの愛人になったのに、正体バレて溺愛監禁された話
あかさたな!
BL
潜入捜査官のユウジは
マフィアのボスの愛人まで潜入していた。
だがある日、それがボスにバレて、
執着監禁されちゃって、
幸せになっちゃう話
少し歪んだ愛だが、ルカという歳下に
メロメロに溺愛されちゃう。
そんなハッピー寄りなティーストです!
▶︎潜入捜査とかスパイとか設定がかなりゆるふわですが、
雰囲気だけ楽しんでいただけると幸いです!
_____
▶︎タイトルそのうち変えます
2022/05/16変更!
拘束(仮題名)→ 潜入捜査でマフィアのドンの愛人になったのに、正体バレて溺愛監禁された話
▶︎毎日18時更新頑張ります!一万字前後のお話に収める予定です
2022/05/24の更新は1日お休みします。すみません。
▶︎▶︎r18表現が含まれます※ ◀︎◀︎
_____
僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした
なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。
「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」
高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。
そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに…
その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。
ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。
かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで…
ハッピーエンドです。
R18の場面には※をつけます。
執事の嗜み
桃瀬わさび
BL
数奇な縁でヴィルフリートの執事となったケヴィンには、裏の顔がある。
当人が「執事の嗜み」とのたまうその手練手管を用いて、ヴィルフリートの異母兄・マティアスにお仕置きをしたのがきっかけで、ケヴィンとマティアスの運命の糸が絡まっていきーーー。
執事✕元王子。
転生したら精霊になったみたいです?のスピンオフです。前作をお読みいただいてからの方が楽しくお読み頂けると思います。
僕が玩具になった理由
Me-ya
BL
🈲R指定🈯
「俺のペットにしてやるよ」
眞司は僕を見下ろしながらそう言った。
🈲R指定🔞
※この作品はフィクションです。
実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※この小説は他の場所で書いていましたが、携帯が壊れてスマホに替えた時、小説を書いていた場所が分からなくなってしまいました😨
ので、ここで新しく書き直します…。
(他の場所でも、1カ所書いていますが…)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる