狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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9章

156話 ストレス

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晴柊は榊に背中を摩られながらトイレに座り込み便座に顔を向けていた。何もしていないのにずっと気持ちが悪い。吐き疲れで晴柊は大分体力を消耗しているみたいだった。そんな2人の元に、帰宅した琳太郎が現れた。


「榊。」

「あ、組長!お疲れ様……」

「寝室に洗面器とビニール袋、それから水も用意しといてくれ。」

「うん……!」


名犬榊はご主人の言いつけ通りすぐに準備に取り掛かった。琳太郎がしゃがみ、晴柊の背中をトントンと軽く叩く。


「吐けるもんは全部吐いちまえ。今日はもう休もう。」


優しく、それでも冷静な声が晴柊を落ち着かせる。晴柊は首を縦に振ると、琳太郎に抱えられ寝室のベッドへと運ばれる。あんなに好きなご飯も、気にしたことが無い匂いも、全てが敏感になっている。琳太郎に抱きかかえられているとき、晴柊は好きなはずの琳太郎の香水の匂いが香るなり、また吐き気を催してしまった。


「う゛、お˝ぇっ……」


琳太郎が手渡してくれていたビニール袋に嘔吐する。琳太郎は寝室に着くなり晴柊を直ぐに横に寝かせた。


「悪い……香水、気が回らなくて。もう暫く付けない。」

「ううん………俺、この香り、大好きなのになぁ………」

「無事に出産したら、また戻る。大丈夫だから。」


自分の身体がまるで今まで好きだったもの、琳太郎でさえ拒絶しようとしていることに晴柊は悲しそうな顔を浮かべた。そんなのは、誰が悪い訳でもないのだ。これもまた、元気な赤ちゃんに会うための一歩。そうわかってはいるものの、どこか切ない気持ちになる。琳太郎が晴柊の様子を傍で見守った。


琳太郎は琳太郎で、まだまだ不甲斐ないなと思うのであった。妊婦の傍にいたことは無いし、勉強不足を補おうと必死に晴柊のサポートをどうしたらいいか調べてはいたものの、結局至らないところだらけであった。そんな琳太郎の様子を察したかのように、晴柊は小さく笑いかけた。


「琳太郎、禁煙してるだろ。俺が妊娠してから、タバコの匂いがしなくなった。今までも俺の前では吸わないようにしてくれてたけど、今は裏でも禁煙してくれてるんだろ。別に、妊娠中でも俺がいないところでなら吸ったっていいのに……」

「お前だけ頑張るのはフェアじゃないから。」

「そっか。琳太郎も頑張ってくれてること、俺は知ってるよ。ありがとな…俺も、頑張らないと。」


晴柊は琳太郎の手をぎゅっと握る。晴柊は、強いやつだ。喧嘩がではない。誰よりも心が、メンタルが強い。その安心感が、自分含め周りを引き込んでいく。安心させられることに、快感を覚えて離れ難くさせる。



次の日。晴柊はまともに食事が摂れなかった。


「晴柊、ゼリーとかなら食えるか?」

「いい、いらない……」


食欲旺盛な晴柊がここまでダウンするとは。琳太郎達は困り果てていた。何より、食べたいはずなのに何も受け付けられなくなった晴柊が一番ストレスを抱えている。


「でも、何か食べねえと。何なら食べられそうだ?一緒に少しでも食べられそうなもの探そうぜ?」


そう声を掛けたのは天童だった。晴柊はうんとも嫌だとも言わない。赤ちゃんのためにも栄養は摂らないと。けれど、何も食べられる気がしないのだ。匂いも、食べ物を見るだけでも、吐き気を催す。


琳太郎がベッドで横になる晴柊の隣でフルーツの盛り合わせを差し出す。


「これは?」


晴柊は首を横に振る。


「じゃあ、これ。」


アイスを差し出してみる。これもNOだ。


「粥とかは――」

「無理、無理……全部食べられないから、放っておいて……」


晴柊は布団にもぐるようにして気持ちの悪さと闘っている様だった。天童も琳太郎も、自分に意地悪しているわけではない。晴柊はそれをわかっているからこそ、こんな冷たい態度をとってしまう自分が情けなく、申し訳なかった。


困ったなと、琳太郎はまるでミノムシの様な格好で布団の中に隠れてしまった晴柊の頭をポンポンと撫でる。


「食べられそうなものあったら何でも言えよ。」


そういうと、2人は晴柊を一旦一人にしてあげようと寝室から出た。ストレスを与えてしまうことが晴柊にとっても、お腹の子にとっても一番良くない。


晴柊は自分を気遣って寝室を後にした2人に、申し訳なさで目に涙を溜めた。あれ、自分はこんなに涙脆かっただろうか。ダメだ、情緒までおかしくなっている。晴柊は鼻を啜りながら静かに泣いた。全然上手いこといかない。身体も、心も。こんな余裕のない母親なんて、きっとこの子も嫌に決まって――


「おーい何ベソかいてんだお前。」


バッと晴柊が包まっていた布団を引きはがしたのは、篠ケ谷だった。たまたま廊下を通りかかった際に晴柊のすすり泣く音が聞こえたのだった。晴柊が泣いている。きっと、ホルモンバランスの乱れから情緒が安定しないのだろう。晴柊はすぐに泣く様な奴ではないということを、篠ケ谷は知っている。


「み、見るなよ……どっかいって……」


晴柊が篠ケ谷が引きはがした布団を取り返そうとグイグイ引っ張るが、篠ケ谷は中々離さない。晴柊はそのことに苛立ちを隠せず、思わず声を張り上げた。


「もう、一人にしてよ!空気読めって!」


大きな声を出せば、自然とぽろぽろと涙が零れてくる。


「はは、なんだ。いつものお前じゃん。」


篠ケ谷が悪戯気に笑ってみせた。晴柊は思わずポカンとする。こんな涙でぼろぼろな自分が、いつも通りな訳ないじゃないか。


「変に気負いすぎんなよ。母親だからって完璧に、立派にならなきゃいけないなんて誰が決めたよ。お前はそーやってギャーギャー喧しく騒いでればいい。辛いなら泣けばいいし、腹が立つなら当たり散らかせ。我慢する必要なんてない。そんなお前を見て嫌いになる奴はここには誰一人としていないぞ。」


晴柊の心をガチガチに固めていた何かが解かれていく。琳太郎に、嫌われるかもなんてどこかで思ってた。あんな面倒くさい自分、自分が一番嫌いだったから。琳太郎に愛想つかれても仕方が無いって。いつもならこんなこと思わないのに。何にもうまくいかない。心の整理さえ。そんな重圧と混乱を、篠ケ谷が解放してくれる。


篠ケ谷が泣いている晴柊の目を雑に拭う。丁度、寝室に琳太郎が入ってきた。両手には晴柊が食べられそうなもの第二段と言わんばかりの様々な食事を抱えて。


「お前、何泣かせてんだよ。」

「ち、違いますって!」


琳太郎が一瞬凄んだのを、篠ケ谷は急いで誤解を解こうと慌て始める。晴柊はその2人のやり取りに思わずクスリと笑いを零した。
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