狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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9章

148話 巣窟

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晴柊は風呂を済ませると、ある部屋へと案内される。母屋からはたった1本の廊下で繋がり、大きな庭の隅に佇む、木造建ての離れ。陸の孤島ともいえるそこを、晴柊は今まで物置だと思っていた。しかし、どうやらここはただの物置ではないらしい。


この離れは、いわば明楼会の愛人たちが囲われていた部屋である。戦前までは、本家に本妻を、この離れに愛人を住まわせることが主流であったらしい。花街があったころに、身請けした花魁を囲っていたことが始まりという話である。一夫多妻制は古代の日本でもみられた制度ではあるが、現代においてまで引き継いでいたことはまさに明楼会の、裏社会の闇の一つである。


琳太郎の母親である、先代の愛人もまた、琳太郎が次期当主に任命されるまではここに囲われていたらしい。詳しいことは晴柊にはわからなかったが、この離れは琳太郎にとっては忌み嫌うものなのであろう。彼がこの組の呪いとも称した闇の巣窟なのだから。


そんな場所に晴柊が案内されたのは、今日の性行為がいつもとは異なるからであった。今日用いる性欲促進剤の効果は、半日から1日近くかかることもあるらしい。日中には組員の出入りが多くなるため、できるだけ2人の気を散らさず行為を進める目的があった。


外部のホテルや以前のマンションに移動することも考えたが、琳太郎にとって晴柊との子を宿そうとしていることは、無事に出産するまで限りなく外部に漏らしたくは無かった。情報を聞きつけた敵対組織が晴柊を、この組を攻撃してくる可能性が0ではない。晴柊の安全のためにも、できるだけこの本家でことを進めたいと考え、琳太郎はこの離れを使うことを決めた。


普段は固く施錠されている離れの内部を知らなかった晴柊は、篠ケ谷に案内され恐る恐る中に入る。


「意外と綺麗……」

「まぁ、こまめに掃除はしてるからな。お前に言ってなかっただけで。」


物が乱雑していると思っていた内部は寧ろ物という物はなく、簡素であった。窓は手の届かない高いところに小窓が一つ。月明りがともっている。部屋にどしりと構えられたダブルサイズほどのベッド。ベッドサイドにある背の高い間接照明のスイッチを篠ケ谷がいれると、オレンジ色の証明が微かに部屋を照らす。


10畳ほどの室内。唯一の小窓についた鉄格子が、この離れの存在の意味を物語っている様だった。


「座れ。」


晴柊は篠ケ谷の言う通り、大人しくベッドに腰掛けた。晴柊に薬を入れる役割は篠ケ谷に任命された。琳太郎自身がやればいいのではと篠ケ谷は聞いたのだが、「こういう仕事はお前の方が向いている。」と、琳太郎は篠ケ谷に託したのだった。


晴柊は琳太郎の前では恐怖心や不安を押し殺そうとする癖がある。愛が邪魔するその行動を、琳太郎は懸念していた。晴柊が弱音を吐きやすいのは篠ケ谷だろうと、琳太郎は自分が情けなくなりつつも、理解していた。


しっかりとした材質のケースの金具を外し、蓋を開く。そこには液体の入った1本の注射器。


「あ……」


篠ケ谷の手に乗ったそれを見ていた晴柊の身体が、思わず硬直する。フラッシュバックしたのだ。若狭によって攫われ、薬物を注射されたことを。晴柊はあの時、多量の薬物接種で中毒一歩手前であった。琳太郎はこのことを危惧していたのだ。


「あの時の薬とはちげーよ。これは九条が処方したちゃんとした医療薬。」


篠ケ谷が晴柊の腕を取り、アルコールのついたガーゼで二の腕あたりを拭う。篠ケ谷の言葉飲み込んでしても、晴柊は恐怖心に捉われたように汗を滲ませる。言葉ではわかっているのに、あの時の記憶が晴柊の身体を締め付ける。


「晴柊、晴柊。ちゃんとこっち見ろ。」


篠ケ谷が手に持っていた注射器ばかりに視線を寄こしていた晴柊に、こちらを視認させる。


「シノちゃん……。」

「そう、俺。ここにはお前の味方しかいない。大丈夫だから。」


篠ケ谷が晴柊の顔を自分の胸元に押し当てる。篠ケ谷の心音が、晴柊の心を穏やかにしていく。彼のサラサラとした細く指通りの良い髪の毛が、晴柊の耳に僅かに当たり、擽った。


「打つぞ。」


晴柊がゆっくり頷く。じわりと目から涙が滲みそうになった時、晴柊の腕につぷりと、針が刺さった。液体が晴柊の体内へと注がれる。とくり、とくり。晴柊の耳元で鳴る彼の鼓動が不思議と、晴柊の緊張を解いていった。



数分後。晴柊の身体が徐々に熱を帯びていく。篠ケ谷と同じリズムだった心拍数は速度を速め、肌からじんわりと汗が滲む。大分息が上がり始めた頃、抱き留めていた晴柊の様子を篠ケ谷は伺う。瞳が今にでも涙を零しそうなほど熱っぽく潤み、閉じていられないのか、浅い呼吸を繰り返す口からは赤い舌が覗いている。大分効き目が回ってきたのだろう。



「組長呼んでくるぞ。」

「い、いかないで……。」


晴柊が傍を離れようとする篠ケ谷の服をぎゅっと掴む。その手は僅かに震えている。


「晴柊。誰もお前を一人にしないぞ。怖くない、怖くない。いい子で待ってられるか?」


篠ケ谷が、晴柊の額に口付けする。まるで、親が愛しい我が子に落とす様な、優しいキス。



晴柊を離れに残し、篠ケ谷は琳太郎がいる書斎へ向かった。琳太郎は自分で薬を服用したところであろう。


「組長、準備できました。」


書斎の扉をノックし、声を掛ける。


「ああ、今行く。」


直ぐに扉を開け現れた琳太郎は、息こそ僅かに上がってはいるものの、至って冷静であった。屈強な精神力で乗り切っているのであろう。


「晴柊の様子は。怖がっていたか。」

「まあ、多少。でも頑張ってましたよ。何かあったらすぐに呼んでください。」


篠ケ谷はそういうと、待機場所へと去って行く。琳太郎は廊下を歩き、晴柊のいる離れへと向かった。ここへは、幼い頃以来近寄ろうとはしなかった。琳太郎にとっては、いい思い出も、良いものでもないのだ。


しかし、今は不思議と嫌悪感はない。ただただ、この先にいる晴柊に会いたい。琳太郎は引き戸の扉をノックする。


「晴柊、俺だ。入っても良いか?」


琳太郎が声を掛ける。しかし、反応はない。心配になり、開けようと扉に手を掛けた時、戸がゆっくりと横へと移動し開き始める。そこには、既に立っているのも精いっぱいと言わんばかりの晴柊が立っていた。身体が火照り煩わしくなったのか、既にズボンを脱ぎ捨てており、体温が上がり耳と頬を赤くさせながら琳太郎を見上げた。晴柊は琳太郎の姿を確認するなり、彼の手首を掴み中へと誘導しようとする。


「琳太郎、はやく……ぎゅって、……」


篠ケ谷が離れた僅かな時間でも心細かったのであろう。琳太郎はすぐに中に入り、扉の施錠をすると、晴柊をベッドの上に座らせる。自分も上に乗り、力いっぱい晴柊を抱きしめた。晴柊は、自分と同じくらい心臓を躍らせている琳太郎に安心感を覚える。2人の息遣いが狭い離れに木霊する。


「晴柊。別に今日じゃなくたっていいんだぞ。焦る必要は無い。お前の心の準備がしっかりできたときにしよう。」


夕食の時から、どこか不安気な様子だった晴柊が気がかりだった。きっと、薬だけじゃない。子供を作るというという事実が晴柊の重荷になっている。それはそうだ。ただでさえ身体が変化し、何が起こるかわからないようなことが始まろうとしているのだ。覚悟したってしきれないであろう。


身籠るのが晴柊な以上、琳太郎は晴柊を一番に尊重したかった。


「大丈夫。へへ、琳太郎の顔みた瞬間、怖くなくなった。俺親になるんだもん。これぐらいヘッチャラだよ。」


晴柊が眉を下げ、呼吸を辛そうにしながらも琳太郎に笑顔を見せる。無理はしないで欲しい。そう思っているのに、この笑顔を見た瞬間、彼の覚悟を無下にはしたくないと琳太郎は晴柊を優しくベッドに押し倒した。
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