狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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7章

116話 俺がお前を愛してやろうか

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晴柊が琳太郎の元を去って1か月が過ぎようとしていた。1ヶ月前、誰もが予想していないことが起きた。晴柊が自ら琳太郎の元を離れたのである。最初は全員が八城空弧の脅迫を疑った。何かあるのはわかっている。だけれど、晴柊が自ら選択して琳太郎のそばを離れることを決めたことは本当だと、琳太郎は思っていた。


もしかしたら本当に晴柊は自分のことを嫌いになり、離れたくなったのかもしれない。そう思ったあのとき、琳太郎は晴柊を引き留めることができなかった。力づくでも奪いたい衝動を必死に抑えたそんな琳太郎の様子に、他の人が口を挟むことなどできなかった。


まるで晴柊の存在を忘れるように、琳太郎は仕事に明け暮れた。八城との大きい取引を終え、先代派閥だった組員たちも何も文句は言えなくなった。皮肉なことにも、晴柊が姿を消したこともまた琳太郎の株を上げることに繋がった。


しかし、琳太郎は晴柊の自室を片付けることができずにいた。晴柊にとって自分は用済みだとわかっていても、そう簡単に諦められるはずがなかった。


今の琳太郎に掛ける言葉も見当たらない、側近たちの誰もがそう思っていた。


「組長、シルバの散歩行ってきます。」

「……」


篠ケ谷が書斎で籠る琳太郎に声を掛ける。返事は帰ってこない。シルバも晴柊の残した1つである。切ない思いになるのだろう。今のところ仕事に影響は出ていないが、いつまでもつだろうか。


シルバはどう思っているのか。犬相手では感情を読み取ることは不可能ではあるが、どことなく元気は無さそうである。それもまた自分の先入観だろうか。篠ケ谷は内心ため息を付きそうになる。自分さえ、晴柊が居なくなったことへの心の穴があることに。


引っ越しても散歩コースはほとんど変わらなかった。いつもの公園もルート内である。篠ケ谷はシルバを散歩させながら、ここで嬉しそうな笑顔を浮かべながら琳太郎と歩く晴柊の姿を思い出していた。


そんな物思いに耽っている篠ケ谷に男の声が掛かる。


「篠ケ谷さん!」

「お前…」


そこにいたのは生駒であった。生駒もまた、犬の散歩に来ている様だった。遠くからシルバと篠ケ谷の姿を見かけて駆けてきたのだろう、息が上がっている。


晴柊がいないことを些か不審に思い、訳を聞いてくるだろう。面倒なことになったと思ったときだった。


「お久しぶりです、聞きましたよ。晴柊……琳太郎さんの元離れたって…」

「おい、待て。お前何でそれ知ってる。」


篠ケ谷がギロリと生駒を警戒心から睨む。生駒は背筋をピンと伸ばし答える。


「落ち着いて、落ち着いて。この間…っていっても2週間前くらいかな。晴柊にばったり会ったんですよ。1人で街歩いてたから珍しいって思って、話聞いてみたら……」

「おい!アイツ、何て言ってた。脅されているとか、無理矢理一緒にいさせられてるとか、酷いことされてるとか…!!」


篠ケ谷は生駒の胸元に飛び掛かった。僅かに篠ケ谷より高い位置にある生駒の顔に、自らの顔を近づける。その気迫は白昼の公園で醸し出していいものではない。足元でシルバが慌てたように吠えていた。


「いや、そんなことは言っていなかったですって!」

「本当か?嘘ついたらただじゃおかねえぞテメエ。」

「嘘つく訳ないでしょう!でも……あの晴柊が琳太郎さんに別れ切り出すなんて、普通じゃない。様子もいつもと違って変だった。何かあったんですか?」

「それが分かってればこっちも苦労してねえんだよ。なんでよりにもよってあんな胡散臭い奴………」


篠ケ谷はため息をついて生駒から手を離した。コイツは嘘をついていない。結局本当に晴柊は八城空弧のこと――


「待って待って、晴柊は誰かを追って出て行ったんすか?」

「は?お前聞いてないのか?アイツはどこぞの会社の社長に入れ込んで……」

「え?晴柊、そんなことは一言も言ってなかったっすよ。なんなら、「フリーになった」って。」

「フリー?そんなわけ………わかった。何か進展あったらすぐ教えろ、いいな。」


篠ケ谷は生駒の話から違和感を覚えた。やはり、何かある。晴柊が琳太郎の元を離れようと思った原因が。琳太郎に先ずは報告だと、篠ケ谷は足早に屋敷へと戻った。  



「ただいま。」

「おかえり。」


ソファで一人本を読んでいた晴柊に、仕事を終え帰宅した八城が声を掛ける。よくここまでリラックスできるものだと八城は感心する。


「何か困ったことはありませんでしたか?」

「無いよ。お小遣いのお陰で好きなもの買えるし、自由に出歩けるから不便もない。」

「それは何よりです。さあ、もう夜も遅いですよ。寝ましょう。」


晴柊は大人しく本を閉じる。なぜか、毎晩2人で寝ているのだ。最初の内はソファで寝ていたのだが、いつの日か目が覚めるとベッドに置かれていた。勿論隣には八城がいる。ある意味警戒心が無い奴だ。


「私の家にいる君を見ると安心するよ。今頃彼は悲しみに打ちひしがれているのだろうと思えるから。嬉しくてたまらない。」

「狂ってるよ。アンタの琳太郎への執着心は。」


晴柊はベッドに腰掛けていた。八城はネクタイを外し、スーツのジャケットを脱いでいる背中に向けて喋っていた。


「その理由は君もよく理解しているでしょう?」

「そうだな、理解もしているし同情もしている。でも、賛同はできない。アンタは卑怯で姑息だ。琳太郎は自分の境遇を呪ったりしなかった。向き合って、今も闘ってる。それなのにアンタは憎んで恨んで、人を貶めるための人生を歩んできた。優秀だかやり手社長だかなんだか知らないが、結局は琳太郎から何一つ奪えてないよ、アンタは。」

「うるさい、黙れ!」


八城は見たことのない形相を浮かべ晴柊をベッドに強く押し倒した。いつもの穏やかな口調と表情からは似つきもしない。しかし、晴柊は驚くこともせず、ただじっと、八城を見つめ返す。


「碌な人生歩んでこなかったお前が…!身体を売ることぐらいしか価値のないお前が、俺を分かった気になるな!」

「わかる訳ないだろ、アンタのことなんて。ああ、でも……アンタが琳太郎を羨ましがってるのは知ってる。」

「は……?」

「アンタは琳太郎が羨ましくて仕方が無い。自分を差し置いて、幸せになるなんて許せない。愛し合える人が傍にいてくれることが、唯一アンタには成し遂げられなかったことだから。そうだろ?」

「うるさい……うるさい……」

「可哀想に。」

「やめろ!!」


八城が感情的になる。図星を付かれ、らしくもなく取り乱した。すると、八城は晴柊の首に手を掛けた。しかし、晴柊は逃げようとも、暴れようともしない。ただじっと、その黒い瞳で八城を静かに射貫く。


「今殺して、永遠に琳太郎から俺を奪う?」

「………」

「それとも……俺がお前を愛してやろうか。」

「は……?」


晴柊は八城の手首に触れ、自分の首を今にでも絞めようとしている腕を外させる。意図もたやすく離れたその腕を取り、晴柊は顔をぐいっと近づけた。


「アンタはいつも寂しそうだ。」

「作戦変更ですか?今更、絆されるとでも?」

「まさか。アンタは卑怯だが馬鹿ではない。言ったろ、同情はするって。それは本心だよ。世の中の不条理さは俺もよく理解しているつもりだし、慰めてやるって言ってんの。」

「呆れた。あなた、自分の立場わかってます?それが本心ならあまりにお人好しが過ぎるでしょう。」

「生憎、アンタのお陰で人たらしを発揮する場所無くなっちゃったからね。飢えてるのかも、誰かを甘やかすことに。」

「……馬鹿馬鹿しい。」

「じゃあ今すぐ振りほどきなよ、空弧。」


2人の視線が至近距離で再び交わる。八城は晴柊の引き寄せる腕を振り解こうとしない。シンとした空気の中、晴柊は八城をそのまま抱き寄せ、ゆっくりと口づけした。決して晴柊の情が移ったのではない。ただ、全てを知る、晴柊なりの慈悲だった。


晴柊が唇をゆっくりと離す。真っ暗で物音ひとつしない寝室。月明りだけが、大きな窓から差し込んでいる。離れる晴柊の唇を追いかけるように、今度は八城がキスをした。晴柊は拒絶しない。八城は、晴柊の無抵抗が自分の為でないと分かっていても、不思議と心地が良かった。
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