狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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5章 洗礼

74話 弱さとは

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琳太郎が晴柊の元に帰ってきたのは明け方であった。例の男を「軽く」痛めつけ、一旦部下に渡し、一人戻ってきたのだった。できるだけ、晴柊の傍にいたかった。晴柊のケアをしたい、というのは恋人の表向きな感情であり、実際のところは琳太郎が晴柊の傍にいたかったのである。自分の目で晴柊を見ているときくらいしか、琳太郎は最早安心できなくなっていたのだった。


マンションに付き、朝方ということもあり静かなエントランスを抜けエレベーターに乗った。自分の部屋にカードをかざし中に入ると、物音ひとつしないようだった。篠ケ谷がいるはずだが、寝ているのだろうか。琳太郎は迷わずリビングに向かい、その先にある寝室に入った。そこには、篠ケ谷の腕の中で眠る晴柊がいた。


「おい、…」

「しっ。やっと寝たんです、起こさないでください。」


篠ケ谷が小さな声で、今にでも布団を引きはがしてきそうな勢いの琳太郎を制止した。晴柊はすやすやと寝息を立て、穏やかな表情で眠っていた。自分のベッドで、部下と晴柊が共に身を寄せ合って寝ている。篠ケ谷だとしても、琳太郎は面白くないのだった。篠ケ谷はそんな琳太郎に、訳を説明するように小さな声で喋りはじめた。


「やっぱり、あの後混乱して睡眠薬大量に飲もうとしてました。まぁ、未遂で終わりましたけど。これは致し方ない処置です。大人気(おとなげ)ないですよ。」


篠ケ谷の言葉に多少イラついたものの、晴柊の気持ちよさそうな寝顔を見れば下手に手出しはできなかった。ただでさえ憔悴しきっているのである。今はゆっくり眠ってほしいというのも琳太郎の本音である。しかし、やはり面白くはない。


「チッ。…起きたら速攻離れろよ。」


琳太郎は舌打ちし篠ケ谷に言い放つと寝室を出て行った。客間にでも行って眠るのだろうか。篠ケ谷は自分ももうひと眠りしようかと、目を閉じた。久々の人の体温は、驚くほど暖かかった。



晴柊が目を覚ましたのは昼過ぎであった。隣には、自分の顔をじっと見つめる篠ケ谷の姿があった。晴柊にとって、この寝室で琳太郎以外と過ごすことは初めてだったので、予想外の人の顔に驚き思わず身体をがばっと起こした。


「やっと起きたかよ。身体の具合は?」

「だ、大丈夫……あ、お、俺、昨日…」


晴柊は昨日自分が取り乱したことを思い出した。篠ケ谷に止められ、一緒に眠ってくれたのだ。晴柊が何か言いかけたが、篠ケ谷はそれを遮るように身体を起こしながら答えた。


「組長は帰ってきてるぞ。お前と俺が一緒に寝てることにヘソ曲げて大変だ。おら、起きたんなら組長の機嫌取りして来い。」


篠ケ谷はそう言うと、ベッドから出て寝室から出て行ってしまった。昨日のあの状態で篠ケ谷が傍にいてくれたのは心強かったのは確かだ。しかし、自分が眠った後もずっと傍にいてくれたことに、晴柊は驚いていた。お礼を言う間もなく、篠ケ谷はいなくなってしまったのだった。晴柊は篠ケ谷の言う通り、琳太郎に会いに行こうと続いて寝室を出た。リビングのソファには、琳太郎が座って何やら仕事らしき作業をしていた。


「おはよう、琳太郎。」


晴柊が、ソファの後ろに立ち、後ろから琳太郎に声をかけた。琳太郎は晴柊の方は向かないまま、ぽんぽんと自分の横のところを叩く。座れ、と言われている様だ。晴柊は大人しくちょこんと座った。


「体調は?」

「もう平気だ。大したことない。」

「昨日の夜は、不安になったか?」

「………うん。でも、シノちゃんがいてくれたから。」


琳太郎はそうか、と返事をすると晴柊の腰を引き寄せちゅっと額にキスを落とした。晴柊の顔色は大分良くなっている。体調には問題は無さそうなのは、晴柊の言葉からも確証が得られた。しかし、問題は晴柊のメンタルである。心の傷は、琳太郎でも計り知れない。しかし、晴柊はそれを見せようとしない。病院では思ったことを口に出してくれていたが、あれから弱音一つはかない。それどころか、不自然な程以前と変わらないのである。篠ケ谷には見せたのに―――。


「俺は頼りないか?」

「え?」

「俺は――」

「組長!」


天童が、リビングに勢いよく入ってきた。琳太郎の言葉が遮られる。天童は口角を上げながら、琳太郎に近づき報告した。


「琉生が、意識戻しました!」

「琉生くんが?本当に!?」

「ああ!今、先生に色々検査してもらってる。問題はないだろうって。」


天童の報告に、晴柊が一番安堵の表情を浮かべていた。琳太郎も、自分が今さっきまで晴柊にモヤモヤとした感情をぶつけようとしていたことを忘れ、肩の力を抜かしていた。


「わかった。すぐに向かおう。」

「琳太郎、俺もっ…」

「お前はここで待ってろ。まだ体調も万全じゃない。遊馬もきっとすぐに退院できる。また、すぐに会えるから。」


晴柊も付いていこうとソファから立ち上がったが、琳太郎は晴柊の願いを受け入れなかった。遊馬に会って、お礼とごめんねを言いたい。晴柊はその思いでいっぱいだったのだ。


天童が、肩を落とす晴柊の頭をぽんぽんと撫でた。そして、そのまま篠ケ谷を連れ琳太郎は遊馬のいる病院へと向かって行った。残された晴柊の浮かない顔を見て、天童はわざといつも以上に明るく接した。


「組長の言う通り、琉生にはすぐ会えるよ。晴柊の元気な姿見た方が、琉生だって喜ぶだろ?ほら、そうと決まれば飯だ!」


天童は晴柊の目の前にずいッと大きな袋を差し出した。焼きたてパンの良い香りがする。晴柊はうん、と小さく笑って頷いてみせた。天童の言う通りである。いつまでも、うじうじしていられない。


これ以上、琳太郎に迷惑を掛けたくない――。晴柊は、自分が嫌な思いをした、苦しい思いをしたということよりも、琳太郎を傷つけてしまった、という罪悪感に飲まれそうになっていたのだった。


自分の存在が、薊琳太郎という人間を弱くしてしまう。


晴柊にとっては、それが何より恐ろしかった。そして、その思いは、琳太郎のもっともっと自分を頼ってほしいという思いとすれ違っていくのだった。



その後、琳太郎は夜にもう一度晴柊の元へやってきた。シルバと天童と共にテレビを見ていたのだが、気付けば晴柊はうつらうつらしていた。

「晴柊。」

「あ、…おかえり、りんたろう……琉生くんはどうだった?」

「今すぐ退院してお前に会いに行くって言って大変だった。撃たれたとは思えねぇほどぴんぴんしてたよ。今にでも脱走しそうな勢いだから、2日後には退院させてくれるってよ。」


琳太郎の声で、晴柊は目をぱちりと開けた。そして、遊馬の様子を聞いて、ほっとしたのだった。天童は、空気を読んだようにそっとリビングを後にした。琳太郎は、昼間の話の続きがしたい、というように晴柊の隣に座った。


「眠いのか?」

「うん……ちょっと。」


でも、平気、と晴柊は目じりを下げ優しい笑顔を琳太郎に向ける。その表情ですら、今の琳太郎にとってはもどかしいのである。あんな目にあって、平気なはずがないのだ。なのに、晴柊はいつも通り振舞おうとする。それも、自分の前でだけ。琳太郎は心が締め付けられるような思いになった。


「もう寝よう。今日は一緒に寝る。」


琳太郎は晴柊を抱き上げると、そのままリビングへ行った。晴柊をそっとベッドに降ろし、瞼に口付けすると、何をするでもなく晴柊を布団の中に入れた。そして、自分も横になる。


「どうした?琳太郎。何かあったか?」


琳太郎の何か思う様子を見透かし、晴柊が気遣うような声をかけてきた。晴柊はあいも変わらず人のことばかり気にかけている。自分のことは蔑ろにするくせに。


「それ、やめろ。」

「え?」

「どうして、俺の前で取り繕う。俺は、お前を大切にしないお前が嫌いだ。」

「……なんだそれ。取り繕ってなんかないよ。」


バツが悪そうな表情になった晴柊を見て、琳太郎は自分の中で大きくなる感情を抑えることができず、思わず晴柊を押し倒すような姿勢で上に乗った。


「篠ケ谷にあって俺に無いものはなんだ?あいつは、お前の弱いところを知ってる。でも俺は知らない。」


琳太郎は言いたくはないことを言ってしまったと思った。晴柊のメンタルを心配しているはずなのに、まるで自分が追い詰めてしまっているのではないか。琳太郎は自己嫌悪していく。


「そんなのない。昨日は思わず取り乱しちゃったけど、俺は、隠してもないし、我慢もしてないよ。」

「じゃぁ、今俺とセックスできるか?」

「えっ…?」


琳太郎は、晴柊の首元に噛みつくようにして痕を残した。晴柊の身体がわかりやすく強張る。まるで、警戒しているように。しかし、琳太郎は焦りを感じていた。自分晴柊の為に何もできていないのではないか、と。

琳太郎は、晴柊の服の下にするすると手を忍ばせた。晴柊の温かい肌に、琳太郎の冷たい手が触れる。


怖いんだろ。嫌なんだろ。そう言え。俺の前で取り繕うとするな。こんなことしたくない、大事にしたい、けれど、今すぐに確証が欲しい。俺は、お前の為になれているということを。


「……ぅ、っ………お、おれ……怖くない。だって、琳太郎だからっ…」


晴柊の言葉を聞いて、琳太郎は服の下に這わせていた手を、ゆっくりと抜いた。晴柊の目に映った琳太郎は、どこか悲しそうに見えた。晴柊は、琳太郎の頬に手を伸ばす。


「なんだよその顔…らしくない。いつもみたいに、俺のこと抱いてくれよっ…。」

「少し触れただけで体ガチガチに固まらせてるやつが何言ってるんだ。今日はもう寝よう。変なことして悪かった。」


琳太郎はそう言うと、晴柊の上から退き、横に寝転がろうとした。思わず晴柊は身体を起こした。今度は晴柊が、琳太郎を押し倒すようにして上に乗った。少し前の琳太郎なら、俺のことを無理にでも抱いてるだろ。俺の意思なんて関係ないって。


「俺は……俺のせいでアンタが弱くなるのが嫌だ。弱点にはなりたくない。だから、迷惑かけたくないし、困らせたくない。」


晴柊は、思っていたことを素直に言った。晴柊が琳太郎の前で強がる理由のすべてだった。晴柊の言葉を、琳太郎は受け取った。ああ、そうか、篠ケ谷が持っていて、自分が持っていなかったのではない。自分が晴柊にとって「特別」だったからなのか。琳太郎は妙に腑に落ちた。そして、身体を起こし、膝に晴柊を乗せ向かい合うような形を取る。


「俺は、お前が愛おしい。好きで好きでたまらないんだ。わかるか?」

「な、なんだよ急にっ…。」

「お前がいなくなれば何もできなくなる。でも、お前がいたら俺は何だってできる。それは、お前が俺の弱点になるってことなのか?違うだろ。それとも、お前は俺が優しくすることを「弱くなった」とでも思うのか?それは心外だ。恋人を恋人扱いして何が悪い。好きでたまらないやつが、酷い目に合わされたんだ。怖いと思うことも、無理させたくない、大事にしたいと思うことも当たり前だろ。それともなんだ。お前はやっぱり俺の恋人なんかになるのは嫌で、また犬だの家畜だのに――」

「す、ストップストップ!」


晴柊は思わず止まらない琳太郎の口を両手で塞いだ。その顔は真っ赤である。琳太郎の言うことは全てわかった。琳太郎と付き合い始めてから大分時間が経ったと言えど、やはり晴柊にはどこか実感が湧かなかった節があった。恋愛経験もなければ、誰かから愛されることすら無いような人生だったのである。だからこそ、琳太郎から与えられる愛情を失うことに酷く臆病になっていたのだった。ずっとこのままでいたい、嫌われたくない、迷惑をかけたくない、弱点になりたくない――。晴柊が今まで思っていた言葉を、琳太郎はつらつらと塗り替えていく。


「人から、優しさとか…す、好かれるとか…そういうの……あんまり慣れてなかったから…」

「お前が篠ケ谷にだけ心を開いているように思えて、気に食わなかった。でも、お前のその面倒くさい考えもお前が俺を「愛してる」が故ってことだよな?」

「さっきからよくそんなホイホイと恥ずかしい言葉を言えるな…」

「まあいい。お前が考えていたことはわかった。嫉妬心でもなんでも、我慢するな。俺はもうお前のことが例え嫌いになっても離してやれないんだ。我儘言って迷惑かけて俺を困らせてみろ、晴柊。」


琳太郎が晴柊の目を見て、嘘偽りない言葉を述べた。晴柊の頭はショート寸前である。今まで無意識に蓋をしていたところをこじ開けられた気分であった。しかし、不思議と気持ちが軽くなるのがわかった。晴柊はこくっと頷くと、琳太郎の手を握った。指同士を絡めるようにして、時折琳太郎の指をなぞるようにして触れる。


「……さっきは、嘘ついた。本当は…セックスするのはまだ怖い。あの時と違うってわかってるけど、身体が嫌でも思い出す。自分の声とか、あの時の光景がまるで第3者視点で見てたかのように、フラッシュバックするんだ。お、俺、琳太郎を拒みたくないのにっ…」

「わかってる。昨日今日のことなんだ。焦らなくていい。病院でも言ったが、お前の身体は何一つ汚されてなんていない。変わってないんだ。それだけ、今はわかっていればいい。」


琳太郎は晴柊の頬にちゅっとキスすると、そのまま抱きしめて晴柊ごと布団に身を沈めた。琳太郎の言葉は、いつも晴柊に真っ直ぐと入ってくる。この人が言うことだから、間違いないのだ。琳太郎の発する言葉には、そう思わせる魔法がかかっていると思った。


「ありがとう、琳太郎。」

「少しずつで良い。俺がずっと傍にいる。」


琳太郎は晴柊のチョーカーに触れた。晴柊もまた、琳太郎のその手に手を重ねる。不思議と心が落ち着いていった。愛情を貰えることが、こんなにも自分を臆病にさせるとは思わなかった。でも、晴柊は確信した。琳太郎は自分を想い続けてくれるし、自分も、琳太郎を想い続けるのだろうと。そう思うと、今まで自分を塞いでいた気持ちが少し、薄れていくような気がした。
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