狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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1章 はじまり

1話 出会いの春

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桜が咲き、春が訪れた頃。からっと晴れた空に、まだ冷たさが残る風。義父の運転する車に揺られ、窓の外を眺めながら、晴柊(はるひ)は10年前のちょうど今頃のことを思い出していた。ちょうどあの日も、こんな天気だった。


母が姿を消したのは、晴柊が5歳の時だった。既に両親は離婚済みで、晴柊は父親の姿を見たことがない。気づけば知らない大人にどこか遠くに連れてかれ、着いた先には年老いた女性がいた。母方の祖母だった。祖母は優しくて、幼かった晴柊に初めて愛情をくれた人だった。


「晴柊、おまえは何も悪くないよ。晴柊は優しい子。ちゃあんと幸せになれる。神様は見てるからねえ。」


しわしわだけど温かく、小さな手がそれよりも更に小さな小さな手を包んだ。晴柊にとってその言葉は、祖母が他界してから今日に至るまで、生き続けることができた理由そのものだった。新たな引き取り先での暴力や育児放棄、大人たちから向けられた敵意のなかで。


今日の天気はそんな祖母との出会いの日とそっくりだ。思い出に耽っていると、車が停まり、義父がぶっきらぼうに「降りろ」と言った。気づけば大通りを外れ、人通りは少ない通りに来ていた。


見慣れない雑居ビルの中に入り、階段を登る。嫌な予感がした。晴柊は先日無事卒業式を終えたばかりの18歳。高校を卒業したら就職して、1人で暮らしていこう。誰にも頼らないで、大人に搾取されることなく生きていくんだ。そう思い、義父母に見つからないように一人暮らしの物件を探していた。しかし、そんなのはすぐに無意味だったと気づくのだった。


雑居ビルの一室に入ると、そこには大勢のスーツをきた大人たちが、部屋の真ん中に置かれたソファとテーブルを囲うようにして立っていた。これまで晴柊に敵意を向けてきた大人たちはたくさんいた。でもそこにいる人たちの視線は、まったく違う「敵意」だった。


大人の一人と義父がなにやら話をしているが全く話が入ってこない。いや、できるだけ聞かないようにとわざと意識を逸らした。嫌な予感ばかりが頭に廻ったからだ。一目で堅気じゃないとわかる人たちの舐めるような視線から避けるように、地面を見つめ続けた。


「ええ、じゃあ話通りで構いませんので。」

「じゃあ、ここにサインを。」


頭の中にぐるぐると過去の似たような場面が回る。今日のような春を迎えた頃、急に知らない大人達に囲まれて、晴柊をよそに話が進む。そして、その日を境に帰って眠る場所が変わってきたのだ。「どういうこと」なんてここにいる義父に聞かなくても、晴柊には痛いほどわかっていた。そして、ここは今までの大人たちとは違うことも。


春が来たばかりでまだ肌寒いというのに、晴柊の身体からはじんわりと汗が滲み始めていた。ものの数分、話し終えた義父は、晴柊に訳を話すでも声をかけるでもなく、その場を後にした。


晴柊は止めなかった。止めることができなかった。自分の人権が、また別の大人に渡ったことをわかっていたからだ。それも今度は、血縁なんていう僅かな繋がりもない大人たちに。こうなればもう、どうにもならないことを嫌というほど経験で理解していた。もう、俺は一生誰かに飼われ続けて――。


「おい。」


顔を上げられないまま、頭の中でぐるぐると考えていた晴柊に、冷たく棘のような声が刺さった。晴柊の思考が停止する。


「顔を上げろ。」


この部屋には5.6人の大人がいたのを、入った時に確認した。その中でも、とびきりの威圧感を静かに放つ人物が、中央奥、一番窓際のデスクに腰掛けているのも確認していた。一段と低い声は、その方向からする。


晴柊は、それでも顔を上げることができなかった。恐怖心からではない。目に込み上げてきて、まだかろうじで流れることを留まっている、涙を見られたくなかったからだ。


18歳になって高校を卒業して、やっと人らしい人になれる、悪意のある大人から解放される、そうどこか信じていた。祖母が言っていたような、「幸せ」を掴むことができる、と。しかし、蓋を開ければこの有り様だ。次は、悪意のある大人どころか、悪意しかない大人達だ。いわゆるこの人達は「ヤクザ」ってやつで、俺は今「売られた」。ばあちゃん、俺、本当に幸せになれるのかな…。そう考えていたら、鼻がツンとして、涙が溜まっていくのがわかった。いやだ、泣きそうなところなんて見られたくない、その一心で晴柊はタイルの溝を一心に見つめていた。


周りの誰かが、「言われた通りにしろ」と言わんばかりに動こうとした時、それを遮るように声の主と思われる人物が晴柊の前まで歩みを進めた。動きはじめようとしていた空気がまた、ピンと張り詰めたものに変わる。


次の瞬間、晴柊の両頬を、大きな手が掴みそのまま上に向けた。晴柊の大きく淀みがない目と対照的な、切れ長で冥闇な目が合う。その目は晴柊を捉えると、一瞬動揺したように揺らめいた。そこには、晴柊より頭一つ分背の高い、端正な顔立ちをした男が立っていた。30代くらいにみえるその人物は、一見周りの大人たちとは違ってヤクザには見えない出で立ちだが、あまりに闇を抱えた目が、この人はその筋だと物語っている。それも、人を従える、上に立つタイプの人間だ。


「名前は?」

「……。」


返事もできないのか、と言いたげな表情で男は晴柊を見つめる。最後の悪あがきだとわかっているけれど、素直に従いたくない意地が晴柊の邪魔をした。すると、男は晴柊を見つめたまま口を開く。


「野瀬晴柊(のせはるひ)。18歳。5日前に〇〇高校を卒業。生まれてすぐ両親は離婚。5歳のとき、母親のネグレクトによって長野に住む母方の祖母に引き取られる。祖母は非常に献身的かつ穏健な人物で、対象との関係は至って良好。が、約3年後脳梗塞により死亡。その後は自治体の補助金目当てで親戚中をたらい回し、10歳の頃には東京に住む遠い親戚夫婦のもとに引き取られ現在までに至るが、アルコール依存症、ギャンブル依存症を持つ義父から長年虐待を受ける。義母は対象に無関心、寧ろ邪険に扱うようで、ほぼネグレクト状態。児童相談所や学校の指導が幾度と入るが、根本的解決には至らず。中・高と、成績は並。家庭環境の噂が影響し、友人間でも腫れもの扱い。そして今日、高校卒業と共に、義父母の借金を肩代わりする形で身柄を売られる。」


男は事前に情報屋を雇い、晴柊の生い立ちから育った環境、学校でのことまで調べ尽くしていた。晴柊に限ったことではなく、身売りを受けるときは警察が絡むと厄介なので、慎重に調べる必要があった。



男は一通り調べ上げていた内容を告げた後、晴柊を見る目を憐みの視線に変え、更に言葉を続けた。


「……惨めだなぁ、お前の人生。生まれてから今の今まで、僅かな金を呼ぶ存在として搾取されてきたうえに、理不尽な暴力にも耐えてきたのに、卒業して補助金が途絶えれば用済み扱い。そして次は底辺な世界に捨てられたわけだ。お前、なーんにもしてないのにな。」


この男の言うことは、どれも正確で、何一つ間違えてなんていなかった。それが余計に晴柊を憐れにさせた。でも、お前になんでそんなことを言われなきゃいけないんだ。そこまで沈黙を貫いていた晴柊は、なにかが吹っ切れたかのように、頬を掴んでいる男を睨みつけ固く閉ざしていた口をあけた。


「お前みたいなクズにそんなこと言われる筋合いなんてない!人を騙して傷つけて利用してお前の言う底辺な世界で商売しているようなお前の方がよっぽど惨めだ犯罪者!俺は今まで1回も負けたことなんかない!勝手に知ったような気になるな、このゴミ野郎!!」


静まり返った室内に、晴柊の少し上ずった声が響く。思わず一息で文句が出た。普段、暴力を振るわれても何をしても、反抗なんてしなかった。何故このタイミングで普段しなかったことをしてしまったのか、晴柊が一番よくわかっていなかった。こんなに暴言を吐いたのは人生初めてではないだろうか、と思ったと同時に、人生が終わりそうであることを悟る。頬を掴んでいた手が離れたと思えば、次の瞬間、今度は胸倉を掴まれ、そのまま足のつま先がすれすれになるまで片手で持ち上げられる。首が締まり、息が細くなる。


「やっと喋ったと思えば、とんだじゃじゃ馬姫だな。いや、駄犬か?躾がまるでなってない。いいか、世間知らずの犬に教えてやる。お前が言う底辺な俺たちがいないと今頃死んでいるようなゴミ共かごまんといるから、俺たちの商売は成り立ってる。わかるか?餓鬼。そして今日、お前もそのゴミ共の一人になったということを忘れるな。これから自由になれると思ったか?一人で生きていけると思ったか?残念。お前は今までもこれからも、真っ当な人間として生きていくことなんできない。そこにお前の意志なんて関係ない。それがお前の人生だよ。」


男の言葉が晴柊の脳に貫くようにして入ってくる。どんなに辛くても、祖母の言葉を胸に前を向き続けた晴柊にとって、その残酷な現実を突きつける言葉は、あまりに受け止め切れるものではなかった。もはや涙は出ず、絶望感だけが晴柊を襲った。


胸倉を掴まれ持ち上げられていた体が、解放されたと思えばそのまま力なく床に座りこむ。息を整えようと必死で呼吸するが、息を吸おうと思えば思うほど、吐くことを忘れてしまう。いつか、俺は自由になれると思ってた。ばあちゃんが言うように、幸せになれるって。だから、どんなに辛くたって、その人を憎もうとも思わなかった。でも、いつかって、いつ?コイツが言うように、そのいつかなんてもう来なくて――。晴柊はまた俯き、必死に息をしようと肩を上下させている晴柊に目線を合わせるように、男がしゃがみ込む。


「お前はツラがいいからな。風俗に沈めて変態金持ち相手に稼いでもらおうと思ってたんだが、どうもその性格じゃあ店ごとぐちゃぐちゃにされて潰されそうだ。そうなれば俺としてもたまったもんじゃない。となると、あとはこれとかこれを売ることになるんだが……。」


男は、目の前で座り込む晴柊の心臓あたりを人差し指で触れる。そして、そのまま手を滑らせ瞼の上から晴柊眼球の形を確かめるようになぞる。要は、晴柊に残されたのは、その生意気な性格もプライドも捨てて、風俗に一生身を沈め続けて組に搾取され続けるか、内臓を売り捌く――死かの二択ということだ。


絶望的であるこの状況。大抵は命乞いをして、おとなしく風俗に身を沈めることを自ら決める。この外見を持ってるならどう考えても風俗行きを決めるだろうが、自分の発した言葉で自暴自棄になって死を選ぶことも考えられるな、と男は想像する。そろそろ決断を催促しようと晴柊の前髪を掴み顔を上げさせた。


晴柊の表情は、最初に泣きそうになっていた表情でも、暴言を吐いた時の苛立った表情でもない、挑発的に笑った顔だった。想定外のことに男も一瞬目を見開くと、晴柊が声を発した。先ほどの上ずった声とは違う、凛とした声だった。


「殺したいなら殺せ。内臓でもなんでもやるよ。でも、勘違いするなよ。俺はアンタに負けたわけじゃない。地獄からアンタの不幸を願い続けてやる。バーカ!」


その場にいた全員が、晴柊の負けず嫌いを超えたその反応に驚いた。目の前の男も例外じゃない。晴柊は、一度「もう死んでもいいかもしれないと」考えた。今まで死にたいなんて考えてこなかったけれど、もう祖母のいう「いつか」が来ないなら、生きている意味がない、と。……でも、死にたいなんて思うものか。死にたいと思って、コイツに殺されれば、それこそコイツに屈したことになる。負けることになる。そうなってたまるか。どうせ殺されるのなら、最後までコイツを嘲笑ってやる。俺は負けない。そう決意した晴柊は、半ばヤケクソ気味ではあったが、先ほどの様にまっすぐ目の前の男を捉えると、無意識に口角があがったのだった。



ああ、終わったな。晴柊を含む誰もがそう思った。 



しかしあろうことか、男はその晴柊の発言に対し、笑みを浮かべた。晴柊も周りの男たちも、予想外の男の反応に困惑し、異様な空間ができあがった。


「ハハッ、いいじゃないか。口だけ達者な駄犬だと思ったがそうではなさそうだ。殺すには惜しい。ただ、躾は必要だな。よし、決めた。お前の飼い主は今日から俺だ。生きるも死ぬも、俺の手中にある。勝手は許さない。」


話がトントンと進む。晴柊は最早ついていけていない。もうすっかり、年齢制限がかかるような映画とかでみるような惨い殺され方をして、臓器が売られるんだろうな…という気でいたからである。困惑する晴柊の頭上で、大人たちの会話が始まる。デジャブを感じながらも、やはり見た目からして今までの大人とは明らかに違う風貌から、どこか現実味を帯びていない感覚だった。
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